大学院を蹴ってまで始めた深セン生活をたった1ヶ月で切り上げて帰国した理由
大学院を入学辞退してまで始めた念願の深圳生活を1ヶ月そこそこで切り上げて日本に帰ってきた。渡航前の計算でスズメの涙のような予算でも7月中旬までは滞在できる予定だったし、実際に財布がすっからかんになったわけでもなかった。深センにいることもできたが日本に帰ってきた。
1ヶ月。
思い返せば一瞬の滞在だったような気もするが、自分なりに最善を尽くした1ヶ月だった。現地生活序盤は頼れる友人もおらず、漠然とした将来への不安と南国的猛暑で日中、何もする気になれずダラダラとしていたのも事実だが。
でも、その時間に「自分がいったい何をしたいのか」をじっくり考えることができたし、深圳に行って一人にならなければ考えもしなかったようなことを考えることもできた。
そして自分がいかに社会をナメくさっていたかも今回の超短期滞在の内に気づいた。情報収集の重要さや自分にその努力が欠けていたことも痛感した。
本noteでは帰国に至るまでの経緯・理由を備忘的にまとめた。また僕の渡航を応援してくださったみなさんへの取り急ぎの近況報告も兼ねている。
▼深セン渡航を決めた時に書いたnote
僕が深センにあると思っていたけど無かったモノ
(1)日本の新卒水準の給与で働けるポジション
深センは中国内でも栄えている都市(GDPは香港を超えている)だが、4年制大学新卒で初任給90,000円とかザラ。2、3年勤めると給料はグッと上がるようだがそれでも日本の大卒初任給すら到達しない。
友達と部屋をシェアして住んでも3万円くらい飛んでいくのも当たり前だし、小綺麗なレストランでご飯を食べると3,000円くらい余裕で掛かる。一方でエアコンもかかっていない街の小さいお店だと200円以下でそこそこの量のファストフード系中華料理が1品食べられる。地下鉄やバスは初乗り30円程度、地下鉄に1時間乗っても100円程度だから交通費は安い。深セン生活ではエンゲル係数が高くなるのは必然である。
そもそも大学を卒業したばかりのペーペーに20万円くらいくれてやるよ!という企業は深センにはほぼないことがわかった。
それに加えて、中国政府の「大卒、就業経験無し外国人」に対してのビザ発給がここ数年で急激に渋くなっていることも僕の仕事探しをほぼ不可能にした。中国での就労ビザについてわかりやすくまとまったJETROの資料があるのでそちらを参考にしてもらう中国の就労ビザについてはよくわかる。
所属・経歴からクラス分けする【分類基準】と個人の能力で点数付けしてクラス分けする【ポイント制】の2種類の判定基準がある。【分類基準】では僕はビザ発給される最低クラスのB類にすら所属できていないので【ポイント制】に期待するしかない。
【ポイント制】の判断基準は下の通り。各項目ごとに基準に従ってポイントが割り当てられる。()内は現時点での僕のポイントである。
・給与(5)
・学歴(10)
・実務経験年数(0)
・中国国内での年間勤務月数(15)
・中国語の能力(8)
・勤務地域(0)
・年齢(10)
・世界的に著名な大学での卒業(5)
・地方政府の奨励加点(?、多分ゼロ)
現時点で53点だ。60点以上でB類なので【ポイント制】でも無理だ。これは深センで就業することを想定しているので勤務地域のポイントが0になっている。中国西部地域や東北地区の旧工業地区などなど発展が遅れている地方にいくと10点がもらえる。現時点で中国で仕事したけりゃ田舎に行けばいいということだ。
「中国で働くという貴重な経験が詰めるのであれば薄給ぐらい我慢しろ!元々それぐらいの覚悟はしていたんじゃないのか?」
そんな声がどこからか聞こえてくるような気がするのだが、僕は現時点でお金に苦労したくなかったので薄給はごめんだ。
例えば、友達が「Oculus Go買った!」とか「1週間の休みで海外旅行楽しみ!」とかSNSで発信しているのに、自分は年1回日本に会社負担で帰るのがやっとで、日頃は蚊が飛び回っているようなやっすい店でお腹を満たさなきゃいけない倹約生活をしなくちゃいけないなんてイヤだ。
自分で貿易関係で儲けるという選択肢もあるが(実際、やってる日本人もいると聞いた)、貿易のプロになりたいわけではなかったので却下。
(2)広東語を話せる中国人友人
これは完全自己責任。仲良くなった人たちが大体広東省外から深圳に出てきている人で広東語母語者がほとんどいなかった。ある友人が「広東省の人間は地元愛が強い人が多いから地元から出たがらない」とか何とか言っていたのを思い出した。地元が深圳の人は土地金持ちが多いので庶民の僕とは接点がないのは仕方がないことだ。
香港中文大学で芸術を専攻している香港人の友達ができたのは印象に残っている。旅をしないとこういう全く違う世界を生きている人には会えない。今後も時々連絡をとりたい。広東語のスピーキングも簡単なものぐらいはマスターしたいし。
(3)深圳在住日本人若者
20代の人とはほぼ知り合わなかった。ってか一人も知り合っていない。香港在住で深圳に仕事でよく来る20代の方とは知り合ったが、20代は彼一人だけだ。東洋のシリコンバレーだが、日本人が住み着いてバンバン起業するみたいな状況にはないようだ。実はあるけど見えていないだけかもしれないが。
深圳滞在で得たもの
深圳の生活習慣への適応
深圳は5月から猛暑だ。日本の真夏と同じかもっと暑いと思ってもらって間違いない。そんなあっつい場所での生活に順応した。
5月初旬の日本はまだまだ涼しい季節なので、深圳に着いたばかりの頃は体が馴染むのに一苦労した。深圳では男性でも日傘(雨傘と兼用のような気もするが)で日差しを避けている人もいた。あまりに日差しが強いので外で立っているだけでも体力がどんどん奪われて行くので太陽の光をいかに受けないようにするかが死活問題らしい。
土地勘
深圳の土地勘もかなり身についた。できるだけバスを利用するようにしたので街の景色もだいぶ見慣れた。美味しいご飯屋さんもいくつかわかる。余談にはなるが、深圳滞在後半で日本から深圳を見に来た同年代の人たちとお会いした。彼らを沙县小吃に連れて行ったことは後悔している。もっとちゃんとした美味しいお店に連れて行くべきだった。ローカルっぽいのがいいかなと思って選んだのが失敗だった。お三方、すいませんでした。中国で食べる中華、もっと美味しいのいっぱいあるんです。
深圳在住の友達
今回の深圳滞在まで、深圳に友達は一人もいなかった。深圳という街は僕にとって全く拠り所がなかった。しかし、友達ができてからは深圳という街が親近感を感じる第2の地元になった。台湾留学を経て台湾を身近に感じるようになったのと同じだ。
人との繋がりが想い出を作って、その想い出が街へのイメージを決める。深圳は僕にとって大切な場所になった。一年後くらいに自分も友人も、仕事に慣れて落ち着いてきた頃にまた会いたい。
結局、日本に帰りたかった
中国での1ヶ月での生活にそこまでの不満はなかった。てか楽しかった。
極端に出費を抑えておらず、食べたいものを食べて、行きたいところに行っていたからだ。硬いすのこの上やグラグラ揺れる二段ベッドの上で寝るのも、愉快な友達とくだらない冗談を言ったり、少し真剣に将来について語ったりしながらならむしろ楽しかった。
でもずっとそんな生活を続けるわけにもいかない。
夢を語るだけでは夢は叶わないし、将来の不安を愚痴っても不安はなくならない。仕事もせずに、人に会ってキャリア相談に乗ってもらっているだけで何かを成し遂げたような気持ちになるのも違う。
中国で仕事するのは今じゃないな、焦る必要も無いなとだんだんと思い始めた。日本で就業経験を2年積めば中国でビザを取るのも簡単になる(類似職種のポジションが中国にあれば、の話だが)。
要は日本に帰る方に気持ちが向き始めた。長期滞在可能なビザ無しで中国に滞在するには2週間ごとに一度中国から香港やその他の国に出る必要がある。到着ビザが15日間で切れてしまうからだ。何度も香港と内地(いわゆる中国大陸)のイミグレを往復した。毎回「運び屋に疑われて強制帰国ないしは当局に拘束されるかもしれない」という不安はどこかしかにあった。実際は何十回と往復しても問題は無いようだが。
うだうだと言い訳臭いことを言ったが、要は日本に帰りたかったのだ。松屋の牛丼が恋しかった。新宿の大江戸寿司に行きたかった。鳥貴族でやげん軟骨串を食べたかった。とにかく日本に帰りたかった。
しばらくは東京にいるだろう。今回の中国滞在の経験もどんな形かは想像が至らないけども、何らかの形で活かせればと思う。
努力し、実行する。