許されるポエム、許されないポエム
「マンションポエム」ということばがある。マンション広告によくある、妙に情緒的でおおげさなコピーを指して揶揄するものだろう。「ポエマー」という和製英語もあって、マンションに限らず、情緒的な表現にひたってる人を嘲笑するときに使う。私もそういう流れに乗るときがないではないが、いつでもというわけではない。
基本的には、いいじゃん別にポエムでも、と思う。マンションだって料理だって、人はそれ自体よりもそれにまつわる「物語」を消費している。マンションを買うという大きな決断には、単なる利便性や機能だけでは足りない。伊勢エビの料理は「伊勢エビ」といわれるからおいしいのであって、ただの「エビ」と書かれていたらおいしさは半減する。美術館で作品より解説を一生懸命見ている人が、その作品自体よりもそれにまつわる「物語」を楽しんでいるのと同じだ。
問題があるとすれば、事実とロジックで語るべきときにポエム的表現を持ち出す場合だ。そういうときは、何かが隠されている。「祖国を護る為尊い命を捧げられた」とか「国民の生命財産を守る」とかは、最近の使われ方に関していうならまぎれもなくポエムだ。かつてその種のポエムは、使った側は方便のつもりだったのだろうがやがてひとり歩きを始め、この国を滅亡寸前にまで陥れた。最近のあれこれが即戦前に酷似とかいうつもりはないが、ものごとが大きく動くときというのはいろいろな部分が予想を越えて一度に動き出し、止めようとしても止められなくなるということぐらいは意識しておいていいように思う。
人は歴史から学ばないというのは人が歴史から学ぶべき最大のことではあるけれども。