働きながら情報系の大学院を修了した
2022年9月末で北陸先端科学技術大学院大学の博士前期課程を修了し、修士(情報科学)が授与された。働きながら通い始めて丸3年かかった。
とても大変だったので学位記が届いたときは万感の思いだった。ただ、このエントリを書いたのは「すげえだろ」とかそういうのとはどちらかと言えば真逆の感情で、僕の修士課程がどのくらい低空飛行でどのくらい誰にでもできることなのかを詳らかにして同じような境遇の人を鼓舞することが目的だ。そのために敢えてみっともない、見栄を張りたいなら書く必要のない恥まで含めてある。学位というものに一抹の未練がある人は是非読んで欲しい。
筆者について
進学時36歳、修了時39歳。
職業はソフトウェアエンジニア。2児の父。4流大の文学部卒。
暇な人は過去のエントリに詳しいが、別に読まなくても構わない。
入学まで
僕が大学院進学を決意したのは元同僚で友人のさのたけと氏の影響が非常に大きい。彼は数学の博士を目指すために当時勤めていた会社を辞め、大学院に進学した。「あ、そんな思い切ったことしてもいいのか…」というのが正直な感想だった。ソフトウェア技術者として禄を食む身でありながら情報系どころか理系出身ですらないことに引け目を感じていた僕は、今からでも挽回のチャンスがあるかも知れないと思うと居ても立っても居られなくなった。早速彼に面談してもらって目からウロコだった。
そうか…僕もまだ遅くはないのか…
そう思うが早いか、僕は働きながら進学可能な大学院を調べ始めていた。
なお、さの氏は今年ついに目標を果たし、博士号を取って研究者としてのキャリアをスタートされた。彼はいまなお僕の目標であり、キャリアの行く先を示す水先案内人であり続けている。
大学院選び
家庭の事情で仕事を辞めて進学することはできないので、次の条件を満たす大学院を探すことになった。
情報学、情報科学、情報理工学などの情報系学位が取得できる
夜間・休日に授業を提供するなど、労働者に何らかの便宜がある
学費の負担を考えると国公立が望ましい
当時の自分に見つけることが出来たのが次の大学院であった。
産業技術大学院大学
東京都立大学と同じ大学法人が運営する専門職大学院。通称AIIT。
日本の大学院が研究者を育成する場所だとすれば、専門職大学院は高度専門職者(つまり産業界における即戦力者)の育成を目的としており、教員にも産業界出身者が多く、提供される講義もそれに即しているとのこと。
資料請求し、説明会にも参加した感じでは次の通り。
取得できる学位は情報システム学修士(専門職)
授業は平日夜間・土曜日昼間開講
修士論文がない代わりにPBL(Project Based Learning)というものがあり、複数人による簡易な研究活動を行う
長期履修制度あり
専門実践教育訓練給付金あり
勤め人が通いやすい授業日程になっており、実際に社会人の学生が多いということだった。修論が不要というのは良し悪しで、元々研究をするつもりがない人には授業に集中できるメリットがある一方、もし修了後に他学で博士課程に進学したい場合(AIITには博士後期課程がない)には研究のやり方を学ぶことができないというデメリットにもなり得る。
圧巻なのは学費で、専門実践教育訓練給付金制度を利用すると最大70%が支給され、都民の場合は実質負担額354780円(年額ではなく総額!)で修士号が取れる。成績優秀者は返済不要の貸与型奨学金もあるとのことで、経済的な理由で進学を諦めた人には申し分のない大学院だという印象を受けた。
なお、情報は全て当時の説明会のものなので最新の情報は各自ご確認いただきたい。
北陸先端科学技術大学院大学
石川県能美市に本部を置く国立大学。通称JAIST。東京にサテライトキャンパスがある。
日本初の先端科学技術大学院大学として開学した研究大学院で、我々情報系の人間にとってはミラーサーバ ftp.jaist.ac.jp の運営元として馴染み深い。
取得できる学位は修士(情報科学)、博士(情報科学)
情報科学の授業は金曜夜と土日に開講
長期履修制度あり
こちらは何と言っても情報科学(Information Science)というドンピシャの学位が取れるし、研究大学として著名で博士後期課程も存在するので研究をやりたいならこちらという感じがあった。学費の面でも長期履修制度で2年分の学費で3年間通うことができるので、年額35.3万円の負担で修士課程に進学できる。
僕はこの時点で「研究」とか「博士課程」というのがどういうものか全く分かっていなかったが、何となくハカセへの道を消したくないという思いで気持ちがJAISTに傾いて行った。そして募集要項でその年の秋学期入学の試験がもうすぐ行われることを知り、勢いで出願してしまった。そして縁あって合格通知をもらった。
Get wild and tough 講義では 学部程度の知識を仮定
入学した僕を待ち受けていたのは過酷な現実だった。授業が難しい。
ソフトウェアエンジニアとして10年の経験があるのだから、授業はせいぜい応用情報技術者試験みたいなものだろうと高をくくっていたが、これは大変に甘い考えだったと認めざるを得なかった。理系の大学院だから当たり前なのだが、そもそも学部程度の知識がないと何を言ってるかさっぱり分からない講義ばかりだった。
過密な授業日程も僕を苦しめた。
情報科学の講義は基本的に土日に開講する。金曜夜に開講するものもごく僅かにあるが例外的で、2019年10月当時は原則土日に品川キャンパスに行って受けなければならなかった。石川本校の学生が平日3ヶ月かけて受ける講義を土日だけで賄うため、授業進度が早く予習復習も重い。また、JAISTは学部を持たない大学院大学であるため、幅広いバックグラウンドの学生が入学してくる。その中には僕のようないわゆる"文系"も含まれる。したがって1年次はしっかり勉強しなさいということで、大学院としては比較的多い20-26単位を講義だけで取らねば卒業させてもらえない。僕は二人の娘を妻と協力して子育てしているが、修士1年目は講義のために土日の大部分を犠牲にすることになり、妻子に結構な迷惑をかけてしまった。
このままでは修了もおぼつかないため、僕は方針を変えることにした。取れる単位を拾って生き残ろう…
入学当初「コンピュータサイエンスを存分に学びたい」と息巻いていたお前はどこへ行ったのか?シラバスを眺めながら数学の少なそうな講義を必死で選んでいる憐れな自分に気付き、情けなさで泣きそうだった。結局修了後にもらった成績証明書によると、
情報科学系から7科目
他学系の情報科目から3科目
情報とはまったく無関係だが修了単位に加算できるラッキー4科目
で何とか数合わせしていることが判明した。リスクを極力避け、取れそうな講義ばかり選んでこれの一体どこが「学び直し」か。苦笑する他ない。
なぜあなたの研究は進まないのか
とんだ低空飛行の末に何とか修了単位を揃えた僕は、次に研究に取り掛かった。日本の大学院生の本分は何と言っても研究である。JAISTは修士研究たる「主テーマ研究」の他に、研究者としての幅を広げるための「副テーマ研究」を課している。副テーマは研究室の主指導教員とは別の先生に師事し、3ヶ月〜半年程度で完了できるボリュームの研究に取り組む。僕は自分の幅を広げるために自然言語処理の先生にご指導をお願いして、日本語テキストの極性判定モデルを作った。とても楽しく、ここまでは非常に順調だった。
しかしながら、肝心の修士研究は困難を極めた。
元々院試のときに発表した研究計画では僕はRFIDタグを使ったモノ探しの支援をやりたかったのだが、調べてみるとこの分野はすでにぺんぺん草も生えないほど掘り尽くされており、アカデミックな貢献を出すには相当な工夫が必要な状況だった。いま思い返せば、それでもなお、これまでに試されていない要素を何でも良いので掛け合わせることで修士研究としては何とでもでっち上げられた気はするが、その当時はどんな論文を読んでも「何だ、自分が考えるようなことは全部やられてるんだ…」という感じがして、本当に何をやれば良いかわからなかった。
そのうちに僕は米国異動が決まり、環境の変化で研究どころではなくなってそのまま無為に1年以上を浪費してしまう。その時のことは別のエントリに書いたので、もし興味のある方はお読みいただきたい。
今思い返せば、この期間はシンプルに休学すればよかったのだ。進捗が虚無なので先生と面談することもできない。バツが悪いので仕事が忙しいことを理由にもっと研究室と疎遠になる。典型的な中途退学コース一直線だった。先生もこの出来の悪い学生には余程手を焼かれたに違いないが、先生の次のご提案で事態は急速に好転する。
あなたはソフトウェア技術者なので、まずは新奇性にとらわれずに手を動かしてソフトウェアを書いてみてはどうか。何かインスピレーションが得られるかも知れない。
車輪の再発明でもまずは構わない。車輪を作る過程で「どこが難しかった」とか、反対に「どこが意外に簡単だった」とか出てくるだろう。そういったことが研究の糧になることもある。
「アルゴリズムの発明」と言った華々しい業績ばかりが研究ではない。現在知られているものの小さなパフォーマンス改善も研究になり得る。
最近は有益なソフトウェアの開発も立派な研究となり得る。
ソフトウェアを書くことが研究になり得るのか…
その言葉に勇気づけられ、僕はとりあえずがむしゃらに色んなソフトウェアを書き始めた。まずは当初の研究テーマの「モノ探し」として、Android端末2台を使った三角測量でBLEビーコンを探すアプリを作ってみた。それからBLEが意外に面白くなって来て、2台のAndroidでCentral - Peripheralで双方向通信できるライブラリを作り、そのような端末同士でメッシュネットワークを構築するような遊びをやっているうちにMobile Ad-hoc Network (MANET)という分野があることを知って少しずつ自分のやりたいことが見つかって行った。
僕がJAISTに進学して最も幸運だったのは、何を差し置いても現在の主指導教員の先生に巡り会えたことだ。先生のお人柄がなければ、僕は絶対に修士課程を終えることができなかった。先生が辛抱強くこの不出来な弟子を鼓舞し続けてくださったお陰でどうにか最後まで走り切ることができた。この点に関しては、本当にどれだけ感謝してもしすぎることはない。
不本意な修士課程の幕切れ
先生のお陰でどうにか再び走り始めることができた時には、しかしながら修士課程も2年半が過ぎようとしていた。長期履修の上限である3年で修了するにはもう半年しかない。ここで先生に頂いたアドバイスは次のようなものだった。
残念ながら現在の研究を修士論文にまとめるのは時間的に困難かも知れない。学術論文はどうしてもアカデミックな新奇性が問われる。
JAISTでは学術論文だけが修士を取る方法ではない。課題研究と言って、自分でテーマを決めて半年程度の研究結果をまとめることで必ずしも新奇性がなくとも学位が取れる。
せっかく研究が良い感じになってきたところなので君の無念は理解できる。しかし学位を諦めて退学することもないだろう。どんな形でも修了を優先しなさい。やりたければ研究はこの先いつでも続けられるのだから。
課題研究…
実は課題研究は最後の手段として残しておいたものだった。JAISTでは、修士論文の代わりに課題研究という新奇性を厳密には問われない研究をすることで修了が可能だ。その分6単位ほど余分に授業を取らねばならないが、修了の可能性をグッと上げることができる。
しかし…しかしそれで良いのか?僕がAIITではなくJAISTを選んだのは、ハカセになる可能性を残すためではなかったのか。修士論文を書かないということは、その可能性を自ら閉じることではないのか。僕の脳裏に来し方3年の修士生活が走馬灯のように流れていった。…うむ、大変だった。妻子にも苦労をかけた。どんな形でも、僕はこの修士生活にきっちりと幕を引くべきだ。それが僕の責任だ。
こうして僕は修士生活の集大成というにはいささか寂しい内容の研究をまとめ、3年に及ぶ修士課程はあっけなく終わりを迎えたのであった。
修士課程とはなんだったのか
ここまでお読みいただいた方には、僕が修士号の学位記を受け取った時の心境として「自慢するつもりは更々ない。むしろその逆だ」と冒頭に書いた意味がよくお分かりいただけるのではないか。僕の修士課程とは一体何だったのか。
学力は身についたか
講義はとても楽しかったが、自分の学力不足が原因でバキバキに数学力が求められるような科目は普通に落としてしまったし、その後は卒業を優先するために履修時点で避けて通ってしまった…これは今振り返っても情けないし、もう一回やり直したいぐらいだ。
一方、大学院の授業を通じて確実に見聞の広がった分野が沢山ある。例えばCPUや仮想機械、オペレーティングシステムなどについては大学院の講義で初めてまともに勉強することができ、実習を通じて低レイヤへの苦手意識を少しだけ克服することができた。また、形式手法のようにソフトウェアを数理論理学的な裏付けを持って記述するような分野はまったく知らなかったので、純粋な意味で技術者としての自分の幅を広げることができた。
もちろん、大学院なのでどんなに勉強してもせいぜい20-30単位である。欲を言えばもっと沢山勉強したかった。おそらくこの欲求を満たすには学部から入り直して124単位分みっちり勉強するのが最善の方法ではないか。たとえば電気通信大学の情報理工学部(夜間)は僕が調べた限り求めるものに最も近い内容を提供する場所のひとつに見受けられる。それについてはまた別途考えてみることにする。
研究のやり方を学ぶことができたのか
研究については確実に成長することができた。まず、論文を読む癖がついたことは大きい。何か興味のあるキーワードを知ると、何はともあれGoogle Scholarで検索するようになった。また、自分の研究分野に関してはある程度研究マップのようなものが脳内に構築され、何でも知っている訳ではないが、探したいものを効率的に見つけられるようになった。論文を読む忍耐力も、そのための前提知識もある程度身についた。これだけでも3年前とは比較にならない進歩である。
しかしながら、本文に書いたように結局修士論文で修了することはできなかったし、ジャーナルに投稿することもなかった。大学院生としてはまったく落第生と言う他ない。
結局のところ、いま僕の手元にある修士号とは何なのだろう。本当に何も為せなかった。勉強も中途半端、研究も中途半端。こんなもの単なる紙切れに過ぎない。しかしそれでもなお、修士号は修士号だ。結局、自分の中で折り合いをつけるしかない。北陸先端科学技術大学院大学の修了生として恥ずかしくない自分になるしかないのだ。
今後について
これまでの流れから明らかにおかしいと思うんですが、博士後期課程に合格してしまいました…
違うんですよ聞いてください。
結局、課題研究で修士課程を終えるということになった時にハカセは半ば諦めていたのですが、指導教員の先生に
というお言葉をいただき、ホイホイ受けたところ、合格通知をいただいた次第です…
実際問題、試験中に「課題研究」という形式を気にされていた先生はただの一人もおらず、ひたすら
修士課程ではどのような研究をどのようにしていたのか
博士課程ではどのような研究をどのように遂行するつもりなのか
だけが問われました。その結果、審査員の先生方が「こいつは博士後期課程に行けるだろう」とご判断くださったのだから、そこは素直に受け取ることにしました。
この超低空飛行大学院生の博士後期課程がどうなるのか想像もつきません。しかし、チャンスを与えられたからにはひとつチャレンジしてみる所存です。
よく学士は参加賞、修士は努力賞、しかし博士だけはそうはいかないと言われます。どれだけ楽観主義者の僕でもそれは分かります。ただ、修士課程を通じてソフトウェア技術者ならではのアドバンテージのようなものも見えてきました。今回は流石に無策ではありません。いくつか戦略も考えています。次回みなさんに何か良い報告できる日を楽しみにしています。