
“武装ラブライバー”が示した、自己消失のファッション──“祭壇化”する日本カルチャー
パイ インターナショナルから『ファッション・スタイルとカルチャーの大図鑑』が出版された。香港のファッション専門出版社、FASHIONARYがまとめた本である。
歴史的なトレンドから、社会の変化を生みだすきっかけをつくったサブカルチャー、そしてSNS上の最新トピックまで、1920年代から2010年代までの、115のスタイルを図鑑形式で網羅した本である。
日本発のファッションスタイルとしては。
みゆき族、暴走族、スケバン、オタク、竹の子族、カラス族、ビジュアル系、ロリータ、ギャル、デコラ系、フェアリー系、森系、Eボーイ&Eガール(アへ顔要素)の13スタイルが収録されている。
原宿、渋谷、秋葉原といった日本のポップカルチャー、“OTAKU”と“KAWAII”の文脈に沿ったファッションスタイルが多い。
で、40代・50代はこう思うはず。
あれ?裏原系は?
あれこそ、日本発のメンズファッションスタイルとして世界に誇れるものではないの?
藤原ヒロシの位置づけは「ストリートファッションのゴッドファーザー」だ。
アンダーカバーやナンバーナインは世界に羽ばたいた。
そしてNIGOはVuittonとコラボし、いまやKENZOのデザイナーよ?
これらがなかったことにされてるの???
1.なぜ裏原系は「日本発スタイル」として認められないのか

裏原系とは、「裏原宿」と呼ばれるエリアから発信されたファッションのことを指す。
…と、ひとことで説明できればいいのだけど、そうはいかない。
90年代後半から原宿という街そのものが裏原ムーブメントに取り込まれていた気もするし(竹下通り界隈以外裏原じゃないかと思う広範囲)、これといった厳格な定義はない。
しいて言うなら、90年代初頭の渋カジ、中盤のヴィンテージブームから続くアメカジの系譜であり、パンク、ロック、ヒップホップなどの音楽、サーファー、バイカー、スケーターなどのカルチャーと融合したスタイルである。
さまざまなユース・サブカルチャーから引用した着こなしこそが特徴であり、確たる統一性や一貫性がない。
故に、裏原系が語られるときは、デザイナー・ミュージシャン・スタイリストなどの「カリスマ」や限定生産小ロットによる「レアもの」の話が中心になる。
語られるのはいつも、誰が着ていたか。何枚限定だったか。プレ値はいくらついたか。つまり、ファッションというより“都市伝説”に近いかもしれない。
これを図鑑に載せることができるか。と考えたら難しいのではないだろうか。

「裏原系」というファッションスタイルは「アメカジ的な何か」としてしか定義づけることはできない。
そこにレアものを足し、自分なりの“ひねり”を加える編集スタイルにすぎない。
つまり、文化的な背景が“借り物”であること。これが決定的だったのだと思う。
例えるなら、「DJのリミックスは上手いが、曲自体は他人のもの」状態だ。センスは抜群だけど、曲そのものは他人のものだ。
これを日本発のスタイルとしては載せれなかったのだろう。
00年代の「ちょい悪オヤジ」も同じだ。イタリアオヤジの文化を再編集するスタイルにすぎない。
雑誌『Free&Easy』や『Lightning』のようなヴィンテージ・レプリカ系(ヘリテージ系)も同じ。
海外からは「再現能力の高さ」「MADE IN JAPANの技術力」で賞賛されてはいるけど、徹底的に“他者の文化”を復元しているにすぎないからである。
いずれも“発信スタイル”というより“解釈スタイル”であり、文化的オリジンではないのだ。
2.ヴィジュアル系は女性が育てた男性発ファッション、Vチューバー文化へ受け継がれる系譜

日本で生まれ、日本で育ち、そして今なお形を変え続けているメンズファッションがある。それが「ヴィジュアル系」だ。
ヴィジュアル系とは、視覚的な表現を重視し、独自の美意識や世界観を構築したロックバンドスタイルである。一般的にはXジャパンが代表例として挙げられることが多い。
その定義の詳細は、ヴィジュアル系警察が飛んでくるので割愛するけど、欧米のロック、パンク、メタル、特にグラムロックの影響が強いと言われている。
これも借り物のファッションではあるのだけど、その拡散と文化的定着は主に女性ファンの熱狂的な支持と参加によって成し遂げられ、日本独自のスタイルと言ってもいいレベルにまで進化した。
これがなぜ図鑑に掲載されているかというと原宿に聖地(新宮橋)があるからである。
kawaii文化、特に「ゴスロリ」界隈と密接な関係があるのである。
神宮橋は、ヴィジュアル系と原宿系がぶつかり、交ざり合う「文化的なスクランブル交差点」だった。
そこではファッションの境界線が曖昧になり、新たなスタイルや解釈が生まれていったのだ(ゴス〇〇、〇〇ロリと細分化されていった)。

2000年代中盤以降には、「Vホス」というスタイルも登場。
これはヴィジュアル系の耽美性・非現実性にホストの艶美・接客的魅力を加えたものである。ヴィジュアル系とホストがなぜ融合したのかも説明すると長くなるので割愛(お兄系、メンズナックル、メンズスパイダー、小悪魔ageha等の濃い話が絡んでくる)。
「ゴス〇〇、〇〇ロリ」というのは10年代以降も細分化、再解釈、再編集され続いている(例:量産型、地雷系)。量産型はオタク文化(夢女子)も加わり、「量産型オタク女子」という意味合いも含むようになった。
そんな彼女たちの推しである「Vホス」というスタイルは、2次元や2.5次元の世界で“美学”として息づいている。
例えば、アイドリッシュセブン、あんスタ、うたプリ、ヒプマイなど、キャラのビジュアルに耽美・細身・美形・強メイク・高身長・目元の色気とVホス的美意識が散りばめられている。
一部のVチューバーもそうだ。
中性的・細身・長髪・中世風・パリッとしたスーツやゴシック風衣装。名前や振る舞いも“夜の住人感”満載である。
ビジュアル系の様式美とホストの接客演出が、最終的に「バーチャル王子様」へと昇華されたのだ。

かつて、視覚表現に命を懸けた日本の“美しき男たち”は、今や液晶の向こうで、王子様となって愛を囁いている。
私には、「夜を滑る吐息がフェアリーダンス」な『快感フレーズ』的な何かに見える。ヴィジュアル系+ホスト系+厨二病の源流では?(他には時代的に『Weiß kreuz』とか)。
なんにせよ。ここまで女性目線で魔改造されたら。もはや男性のファッション文化とは言えないだろう。男性発ではあるけども。
日本の男性発のファッションスタイルは「オタク」しか残っていないのだろうか?
3.2010年代最後の発明「武装ラブライバー」の誕生
男の盛り文化は、ギャル男とともに終わった?

「暴走族」と「オタク」。
これが『ファッション・スタイルとカルチャーの大図鑑』に収録されている日本男性発のファッションスタイルである。
この2つしかない。
これを10年代に融合させ復活させたスタイルがある。
“武装ラブライバー”である。
00年代までは裏原、ギャル男、V系、アキバ系など男性ファッションの主役がいた。
しかし10年代は「女性主導のスタイルの細分化」に比べて、男性は何も生み出せなかったように見える。
『日本現代服飾文化史』では、2010年以降はSNSの影響でファッションが多様化し、ストリートカルチャーを背負った新しいスタイルが生まれていないという見解だ。それは他の本でもだいたい同じ。
「男の盛り文化は、ギャル男とともに終わった?(mens eggは2008年に休刊)」
そんなふうに思われていた2010年代に“最後の異形”が現れた。
それが武装ラブライバーである。
武装ラブライバーは、暴走族の「装飾文化」とオタクの「フェティッシュ」が融合したスタイル、数少ない男性発のファッションなのである。
「暴走族~ヤンキー系(DQN)」こそが日本の男性ファッション・フォークロア

まずは暴走族のスタイルから簡単に説明しておこう。
「〇〇族」について語ると40年代から話が始まるのでそこはカットする。
ヤンキースタイルも正確には「米兵の遊び着スタイル」から始まり、それがアメリカ海軍基地のある横須賀のツッパリと接続(スカジャン・マンボパンツ)し、暴走族・ヤンキー文化の中で原型がわからなくなるまで再編集されたスタイルである。これも詳しく説明すると長くなるのでカット(『族の系譜』が詳しい)。
世間一般的には、「暴走族~ヤンキー系」こそが日本の男性ファッション・フォークロアであり、ギャルの前日端的位置づけにもされている(地方のヤンキー系が上京してギャル化する)。
独特の発展を遂げてきた制服文化。変形学生服メーカーなど国内産業が支えてきた実績。そして既製服の改造・着崩しによって“オリジナルなシルエット”まで開発したからだ。
これらが独自性の強い日本特有のスタイルとして評価されている。
そのファッションスタイルの核は次の3つである。
・着崩し技術 = 制服文化からストリートファッションへ(スラウチルック)
・DIYスピリット = 既製品を自分仕様にカスタマイズ
・服の“逸脱”が個性になるという、カウンター・ファッション精神(ツヨメ・チャライ・オラオラ=社会的逸脱、性的逸脱、道徳的逸脱)
変形学生服(長ラン・短ラン・ボンタン)、ドカジャン、特攻服、カラーシャツ、特攻ブーツなど特徴的なアイテムは多数あるけど、制服の着崩し(スタイルの崩し)やDIY(盛り文化)は今に通じる、日本的なファッションと言える。
なにかへの強いこだわり、それを再編集する能力に長けているオタク

次に「オタク」。
これは1983年の中森昭夫の「おたくの研究」と題したコラムに端を発している。
髪はボサボサ、母親に買ってきてもらった服、よれよれ、眼鏡、トレンド遅れ、陰キャ、等々。今の「チー牛」とそんなに変わらない描写がされている。
それが90年代には秋葉原という街を背景に背負うようになり「アキバ系」と呼ばれるようになる。97年にはアニメモチーフの服を着る「アニカジ」という言葉も登場している(美少女Tシャツ系というカテゴライズもある)。
で、大事なのはオタクの「ルックス」ではなく「スタンス」の方である。
1996年に「アクロス」が「シブヤ系VSアキバ系オタク大調査」と題した特集を組んでいるのだけど、なにかへの強いこだわり、それを再編集する能力、それに長けているのがオタクなのだと記されている。
アキバ系オタクがアニメやゲームに熱中していた一方で、渋谷系オタクは、ヴィンテージ・音楽・クラブに没入していた。
どちらも「コンテンツに耽溺し、私物化し、語る者たち」である。
凝るコンテンツがアキバ系か渋谷系かの違いでしかない。
オタクのルックスの方は、00年代の脱オタブーム、10年代のファッションインフルエンサーによるオシャレ指南、オタクカルチャーのメインカルチャー化に伴い、一般層との差が曖昧になっていった。
しかし、「チー牛」に代表されるような、昔からのオタク像を色濃く残している者たちも当然いるのである。
そして「武装ラブライバー」である

武装ラブライバーとは、暴走族的な「特攻服と盛り文化」、そしてオタク的な「推しへの強いこだわり」が合体し、愛を制服として盛るという新しい狂気を体現した存在である。
このヤンキー文化とオタク文化、本来は相反する二つのカルチャーをつないだのは、「パチンコ」だった(海外の識者はそう見ているのだろう)。
2000年代以降、アニメや美少女コンテンツはパチンコの演出に組み込まれ、DQN文化とオタク文化は日常的に接続されていった。
『ラブライブ!』はその象徴であり、特攻服は信仰の被膜となった。
愛は狂気へ、狂気は制服へ。そこに誕生したのが、“武装ラブライバー”なのである。
彼らは、2014〜2016年の『ラブライブ!』ブームに合わせて登場した。
当初はライブTシャツや応援タオル程度だった装備は、やがて痛バッグ、ハッピ、そして特攻服へと進化する。
イベント会場には、推しの名を背に背負い、缶バッジと無数のグッズで身を包んだ“信者”たちが現れるようになった。
その姿は異様でありながらも、彼らにとってはまぎれもない「信仰の可視化」だった。
我々にとっては、まるで歩く“デコトラ”だったのである。
4.「祭壇ファッション」──自己消失する新しい装いのかたち

2015年、『ラブライブ!』は絶頂期を迎えていた。作品を取り巻く経済規模は423億円(筆者試算・注1)。これは同年の『ONE PIECE』の156億円や『進撃の巨人』の130億円をはるかに上回り、アイドルファン経済で見ても、AKB48(139億円)や嵐(367億円)をも凌駕する。
まさに、アニメ×音楽×アイドル×ライブのすべてを呑み込んだ文化のるつぼであり、「ラブライバー」は一種の社会現象となっていた。
当然、その中には「先鋭化」する者も現れる。
“武装ラブライバー”とは、この熱狂の極点に現れた、信仰のスタイルだったのである。
「武装ラブライバー」は、ギャル文化で言えば“ヤマンバ”に相当する。もっとも極端な装飾と自己表現を突き詰めた異形の存在である。

ヤマンバのマインドはギャルとほぼ同じで変わらない。ヤマンバが一過性のものでも。ギャル文化が終わろうと。マインドは残った。
それが自由・反骨・仲間重視・自己プロデュース精神である。
ヤマンバの背後にギャル文化があったように、武装ラブライバーの背後にはオタク文化がある。
武装ラブライバーのマインドはなんだろう?
オタク文化が一枚岩ではないことは重々承知している。
その上で、よくある傾向としてはこんなところではないだろうか。
・異端であることを誇る(「一般人」や「リア充」との断絶を誇る)。
・表現の極端さ(表現の自由戦士)
・同志コミュニティ(閉鎖性と排他性)
・消費でなく“信仰”(カルト的なコレクター)
・深い理解と愛情(情報収集へのあくなき欲望)
…なんか宗教じみてない?(笑)
彼らは推しを神と言う。推し活を布教という。
なら、「自分」は何だろう?
宣教師?いや違う。
オタクは本来、非社交的と言われている。
自ら仲間を積極的に増やそうとはしない。他の人に魅力を伝え、広めるために、極端な武装をしているわけではない(武装は広告ではない)。
なら何か。
それは「祭壇」ではないだろうか。
武装ラブライバーの本質とは、自己演出ではなく「祭壇化(自己表現→自己消失)」である。
推しを讃えるために、自らを装飾し、舞台装置と化す。
それは旧オタク文化における「キャラの再現(コスプレ)」やギャルの「自己プロデュース」とも違う、他者(推し)を崇めるためのファッション行為だ。
・自分をよく見せるための装いではなく「推しを称えるための装備」
・アクセサリーは自己表現ではなく「供物や神具」
・美的バランス重視ではなく「意味・象徴・忠誠の可視化」が優先
・人の目を意識するのではなく「推しの目を意識(あるいは幻視)」
これらはカトリックの聖職服や日本の喪服文化などに類似があるけど、それを個人が自発的に・創造的に行っている現象は珍しいと言える。
これは日本の独自のファッションになるポテンシャルがあるのではないだろうか。
5.SNS時代の新しい日本発ファッション文化へ

SNS時代のファッションは自己をアピールするものだけど。自己が消えるファッションというのはそのカウンターでもある。
“自己主張”ではなく“自己消失”を選ぶファッション。これは逆説的に、「誰よりも強く、神を映す者」として、異様な存在感を放つ。
コスプレやロールモデルなどは自分の中に推しを宿す。祭壇ファッションは自分の外に推しを顕現させる。
例えば、こんな遊び方が出てきたらどうだろう?
推しの再現度ではなく。
なにかの祭壇ファッションをして。「私の推しは何か」を当てるクイズ。
神(推し)を召喚するためにその触媒で着飾る。
そして画面越しに問う。
「問おう、何が私の推しですか?」と。
そんなのがtiktokで流行ったりしたら?
「#推しがバレたら即終了」「#〇〇が降臨する祭壇」
「#推し召喚ファッション」「#この推しわかる人とは友達になれる」
ってありそうじゃない?
再現度の高さではなく、“信仰の深さ”で伝わるコーディネート。そこにファッションの“意味”が宿る。
『ファッション・スタイルとカルチャーの大図鑑』では、10年代以降のファッションスタイル(記号遊び)はほぼすべてSNSから生まれている(例:〇〇コア)。
祭壇ファッションはSNSの世界でも通用するファッションだ。推しの対象が二次元、アイドル、スポーツ、動物、歌手。なんでも応用がきくからだ。

日本には人の数だけ神がいる。推しがいる。八百万の神。
日本の伝統的な信仰は「唯一絶対神」ではなく、「八百万の神」、すなわち、あらゆる存在に宿る神性を認める文化だ。
そして。日本は「身にまとう信仰」だ。
西洋のキリスト教的「内なる信仰」ではなく、日本的な外在化の信仰(神棚、祭礼、装飾)に近い。
「神に祈る」のではなく「神を飾る・宿す・魅せる」。これは神輿文化やデコトラにも共通している。
神を乗せて練り歩くのが祭りの本質なら。
推しを背負い、纏い、歩く。これが祭壇ファッションの本質だ。
この祭壇ファッションは日本独自のファッション文化として可能性があるのではないだろうか。
【参考文献】
ファッション・スタイルとカルチャーの大図鑑、「族」の系譜、ギャルと不思議ちゃん論、ファッション蘊蓄辞典、日本現代服飾文化史: ジャパン ファッション クロニクル インサイトガイド、ストリートファッションの時代、「かわいい」の帝国、「女子」の時代、ギャルとギャル男の文化史、オタクはすでに死んでいる、ギャルの構造、TOKYOおめかし図鑑、脱オタクファッションガイド
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