"あいだ"にある国家、フィンランドとウクライナ
2月24日のほぼ同時刻、フィンランドの首相サンナ・マリン氏および大統領のサウリ・ニーニステ氏は、ウクライナへの侵攻を強い言葉で非難する投稿を行った。
フィンランドにとって、現在ウクライナで起きている出来事は、決して対岸の火事ではない。
以下の図を見てみよう。青色がNATO加盟国である。ご覧の通り、フィンランドは2022年現在、隣国スウェーデンとともに、NATOには加盟していない。
ロシアが戦争を仕掛けているのは、ウクライナではなく、NATOである。ロシアが守りたいのは、緩衝地帯としてのウクライナである。
そしてこれと全く同じように、緩衝地帯としてNATOに入らなかった/入れなかったのが、フィンランドという国であった。
"あいだ"にある国としての、フィンランドとウクライナ
フィンランドという国は、常に西側諸国とロシアの間で、極めて難しい舵取りを迫られてきた国である。
例えばフィンランドは、いくつかの東西間の戦争の舞台にもなってきた。その意味で、現在進行中のロシアのウクライナ侵攻は、フィンランドの人々にとって、1939年の「冬戦争 Winter War (wikipedia)」を思い出させる。第二次世界大戦において、すぐ隣のスウェーデンが戦火を免れたのに対し、ソヴィエト-フィンランド間の戦争は、極めて厳しい結末を迎えた―主要な都市であったヴィープリ Viipuri(露:ヴィボルグ Vyborg)を含む、国土のおよそ1割をソヴィエトに割譲することになったのである。
このような隣国との関係性を踏まえれば、フィンランドがNATOに加盟することに慎重なのも頷ける。西側への接近は、ロシアとのあいだに即座に軋轢を生むことを意味する。だからこそ第二次世界大戦後のフィンランドは、ソヴィエトとの間で1948年にYYA条約を結んだ。それは、フィンランドの厳格な中立性を目指したものであった。
YYA条約で合意された内容は、おおまかに言えばこういうことだった。
"ソヴィエトはフィンランドに侵攻しないことを保障する。その代わり、フィンランドはNATOに接近しないこと"。
このYYA条約に基づき、フィンランドはアメリカによる戦後のヨーロッパ支援プログラムであったマーシャルプランにも参加を控えている。フィンランドは、このようにNATOへの不参加をはじめ西ヨーロッパ諸国と距離をとらざるを得なかった。そのことは結果として、ヨーロッパが一致団結して成長していくなかで、フィンランドの経済成長の遅れをもまた招いた。しかしそこには、"あいだ"で厳しい調整を迫られ続けたフィンランドにとって、いかんともしがたい葛藤があったといえる。……スウェーデンが軍事費を年々削減する中、フィンランドが今も徴兵制度を保ち続けているのは、偶然ではない(ソ連崩壊にともない、YYA条約の取り決めはもうない。)
フィンランドでは、NATOに加盟すべきかどうかについて、今も国内で広く議論が続く。これだけEUとしての地位が確立しているフィンランドにおいても、2021年時点で、国民の約4割がNATOの加盟に反対している。
ウクライナで起きている出来事は、フィンランドでのNATO加盟に関する議論にもまた、大きな影響を及ぼすことになるだろう。……ウクライナが「NATOに加盟していないから」という理由でEU諸国に放置されているのを見て、国防のためにNATOに加盟すべきだという流れになるのか。それとも、それ見たことか、NATOに加盟しようとするとやはりロシアに侵攻されるのだ、という理由から、NATO加盟には反対になるのか?最終的にどちらになるにせよ、それはフィンランドに大きな対立を招くものであることは、間違いないだろう。
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フランスのマクロン首相は2月7日、「ウクライナのフィンランド化 Finlandization 」は、「議論しうる選択肢のひとつ one of the options on the table」であると述べた(後に撤回)。この「フィンランド化」という言葉は、決してフィンランド国内で誰にも知られているような言葉ではない。しかしこれは、上記の1948年のYYA条約に見られるように、「ロシアからの侵攻を防ぐために、NATOに加盟しないことを確約する」ことを意味している。
この言葉からも分かる通り、国際的な観点から見て、フィンランドの立場は、ウクライナと大きく重なっている。
フィンランドの人々からウクライナの人々へと向かう共感は、おそらく日本人の私たちがウクライナに感じるそれより、おそらくずっとずっと大きい。ウクライナの人々が抱えてきた(いまや、現実になってしまった…)、いつ戦車が国境を超えてくるかわからないという恐怖。それはフィンランドの人々にとって、わずか数百キロの国境の先、目の前にある恐怖なのだ。
フィンランドの、外交政策の専門家であるアアルトラは、フィンランドの人々全員の考えを代弁するように、このように述べる。
ロシアと長い国境線を接するフィンランドにとって、今のウクライナは、現実に明日起きうる出来事としてそこにある。
2月26日追記:
いま、フィンランドにいること
フィンランドにいると、苦しい。
例えば、フィンランドには、ロシア出身の人々が、割合多く住んでいる。話者ベースでいうとおよそ8万人―60人に1人くらいは、ロシア語を話す。
こうしたロシアに出自を持つ人々の多くは、ウクライナへの侵攻を聞いて、どう感じているのだろう?ウクライナ人への支援は多く立ち上がっているけれど、こうして他国で、しかし「加害国ロシア」として日々批判される声を聞きながら、誰かに相談することもできない苦しみに。どう支援の手を差し伸べることができるだろうか?
僕の同級生にも、ロシア人がいるのだ。彼女は言った。支持していなかったとしても、いまや移民だとしても、私たちにも責任の一端があると感じている。ロシア人の家族も友人もみな、恐怖を感じている。恥ずかしい、と。
そして、ごめん、と言った。
僕たちは果たして、彼女に言葉をかけられるだろうか?
―どんな言葉を?
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同級生に、ポーランド人とリトアニア人の友人がいる。
ワルシャワ条約機構 WTO が調印されたポーランドと、1991年にやっとのことでソヴィエトから独立を果たしたばかりのリトアニア―EUのなかでも、2004年と最も後からEUに加盟したうちの2ヶ国。おそらくフィンランドよりずっとずっと、ロシアという国家に対して特別な感情を持つ国々だ。
彼らは、侵攻を知った直後からプラカードを作り始め、授業もそこそこに、フィンランドのロシア領事館前へとデモへ出かけていった。
ポーランド人の友人は、途中でロシア人にぶん殴られそうになったよ、と笑った―少なくとも、Telegram上では。
リトアニア人の友人は、心配で、おそろしくて、"むなしい empty"んだ、と言った。家族と一緒にいたい。彼らもいま、とてもしんどいと思うから、と。
一体、どんな言葉だったら、彼女に寄り添うことができたのだろうか?
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ヨーロッパらしい、と言うべきか。
大学側からは、ウクライナ出身者全員へのコンタクトをとり個人的なサポートを行っている旨、現在ウクライナへの滞在学生はいない旨が一斉メールで届いた。他の学生に向けても、悩んだときの相談窓口などを知らせる内容と一緒に。
また学生たちの行動も早かった。既にウクライナのために行動しようと、学生有志によるコミュニティ「Aalto University Students for Ukraine」が立ち上がっている。参加者は、2月25日17時時点で既に300名を超えた。支援方法や支援先などが次々に出回っているほか、主導する学生が中心に、ひっきりなしに情報交換を続けている。
また、僕が所属している、芸術・建築・デザイン学部学生連盟も、学生へのサポートやデモへの参加などを積極的に発信しようと動き出した。明日は午後からロシア領事館前で、デモを行うという。
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僕のほうはといえば、その情報量の多さに、正直のみこまれている。
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昨日はなんだか辛くて(それは今週がテスト週間で、プレゼンやエッセイの締切が重なって睡眠時間が足りていなかったこともあるし、もしかしたら思ったより、ウクライナのことがずっしりと体に響いていたのかもしれない)、全然からだが動かなかったから、久しぶりに本を読むことにした。
そこで「まとまらない言葉を生きる」を手にとったのは、おそらく必然だったのだろうと思う。
たぶん、明日は、僕もデモに行くと思う。ただただ、流れにのみこまれながら。
でも、それがきっと大事なことなんだろうなと思う。
つまり、恐れを、怒りを、悲しみを感じているあなたの。せめてその隣にいようと思うのだ。
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2月26日追記:
ウクライナのキエフ中心部では、有志の人々が銃を持った。
ふと、近内悠太さんの「世界は贈与でできている」という本の一節を思い出す。
私たちは、世界を、くぼみのなかにあるボールのように捉えている。少しぐらいずれても、勝手に元の位置に戻ってくるものだと。
しかし、本当はそれが、丘の上にあるボールなのだったとしたら?
もし世界がそんなかたちなのだとしたら、近内さんが言うように、「何も起こらないこと」が、ひとつの、大きな大きな「達成」なのではないか。
フィンランドは、自由で平等で、教育や政治や福祉が先進的で、幸福を謳歌している国のように、皆さんには見えてきたでしょうか、見えているでしょうか。それは果たして、一体どれだけの努力の上に成り立っていたのでしょうか。
フィンランドは金曜の夜。0時をまわっているというのに、近くの部屋から、ずんずん、ずんずんと低音のきいた爆音が聞こえる。
こんなことが起きているのに、よくパーティなんかできるな、とさっきまで思っていたのだけど。
でも改めて考えてみると、むしろその、当たり前に今日が来ていることに、当たり前にパーティができるということのあまりの儚さに、(うるさいのだけど)愛おしさすら感じてくる。ような気がする
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3/2追記:
2/26土曜日、デモに行ってきました。
フィンランド大手紙のHelsingin Sanomatによれば、ヘルシンキだけで1万人以上が集うデモであったとのこと(記事では、動画や写真も確認することができます)。ヘルシンキの人口が約50万人であることを考えると、莫大な人数が訪れていたことがわかります。
不思議な感覚でした。日本人でありながら、フィンランドで、ウクライナのために、フィンランド語で声を挙げていること。
―デモの最中、「Terve Ukraina」が歌われました。
1917年、ウクライナ独立直後に、フィンランド人Eino Leinonが書き上げた詩だといいます。歌詞の内容もなにも全くわからなかったけれど(歌詞の英訳はこちらにあります)、ただただ、100年を超えて祈りが折り重なることの美しさに震えました。
*本文内に登場した友人たちには、投稿の許可を頂いています。
ウクライナのためになにができるか?
先に述べたAalto University Students for Ukraineより、情報を引用する。4点ある。
1)デモに参加すること。
世界中で開催されるデモの情報は、以下のウェブサイトにまとまっている。
デモは東京でも開催される。
2)寄付を行うこと。
おそらく、このあたりは信頼できるのではないか。
・赤十字
https://www.icrc.org/en/where-we-work/europe-central-asia/ukraine
・Voices of Children. Support Ukrainian children who suffer from the trauma of war https://voices.org.ua/en/donat/
・ウクライナの防衛省に対する直接寄付 https://www.mil.gov.ua/en/donate.html
・ウクライナ軍を支えるための救命ファンド https://savelife.in.ua/en/donate/
・ウクライナ大使館より、日本での寄付先も提示されている。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/ukraine_jp_62188759e4b0d1388f12b338
3)情報を追うこと。
https://www.instagram.com/svidomi_eng/
https://instagram.com/withukraine
日本語ソースでは、以下のようなものもある。
ウクライナ大使館 https://twitter.com/UKRinJPN
堀潤 https://twitter.com/8bit_HORIJUN
4)情報を可能な限り広めること。
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そして少しだけ、考えてみてほしいこと。
いま、世界で戦争が起こっているのは、ウクライナとロシアの間だけだろうか?そんなことはなくて、今もアフリカや中東地域などを中心に、年に10,000人を超える方々が亡くなってしまうような戦争・紛争が、世界各地で起きている。
こうしたなか、私たちがウクライナとロシアの問題だけを大きく取り上げるのはなぜなのか、ウクライナにばかりたくさんの支援が集まるのはなぜなのか、なぜアフリカや中東地域で争いが起きることに、僕たちは声をあげないのか。その強烈な西欧中心の権力性について、少しだけでいいので考えてもらえたら嬉しいなと思う。結局、EUやアメリカに関係がなければ"グローバルな問題"にならないのだとすれば、グローバルだというのは、西洋的であるということに過ぎない。本当にそうだろうか?
あるいは、ウクライナに対して感じる共感、ロシア(政府)に対して感じる怒りが、"先進国として"そんな振る舞いは許されない、という共感や怒りなのだとすれば、その私たちの共感の射程に現行の紛争地域が入ってこない傲慢さを、少しだけ考えてもらえたらいいなと思う。
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そして最後に、これもとても、あるいは一番大事なことかもしれないから、置いておく。
戦争とは、その場だけで起きているのだけではなくて、私たち自身の日々の健やかな暮らしに対して仕掛けられている。上で述べた東欧の人々の怒りが、ロシアの侵攻とその政治に対して向けられているものだとするならば。僕は、私たちの日々の健やかさが奪われていることに対して、怒りを覚える。
私たちは、小さな小さな健やかな毎日を守り抜いていくことをこそ、大事にしていくべきだと思う。こんなときだからこそ。