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推し活が“刺さる人”の共通点──学歴じゃなくて「夢との距離」の話


※映画『夢売るふたり』の軽いネタバレがあります。


最近バズっていた
「なぜ高学歴は『推し活』をしないのか」
というnoteを読んだ。

ざっくりまとめると、

  • 人間が使える「関心」は有限

  • 頭が良くて自己投資のリターンが高い人ほど、自分の人生にフルベットしがち

  • だから、他人(推し)に時間とお金と感情を投げる“非合理”を避けやすい

という話だった。

これは本当にそうだと思う。
けれど読み終わったあと、どうしてもこう思った。

「いや、学歴より先に見るべき変数があるよな」

私が足したい一行はこれだ。

推し活が「穴埋め」になるか「余裕の趣味」になるかを分けるのは、
学歴じゃなくて「自分の夢が、いま動いているかどうか」だ。

そしてもう一歩踏み込むなら、

その夢を「ちゃんと自分で畳んだか」
それとも「なんとなく手放したまま来ちゃったか」

この違いが、かなりデカい。

この“夢との距離感”を、やたら正確に見せてくれるのが
映画『夢売るふたり』(西川美和監督、2012年)だ。

「推し活がしんどくなる人って、こういう構造でしんどくなるんだよな」と腑に落ちたのが、この映画でした。

あれは「結婚詐欺」を題材にした作品ですが、
構造的に見ると 推し活のメタファーとして非常に精度が高い


1. 『夢売るふたり』は何を描いている映画か

『夢売るふたり』は、小さな居酒屋を営む夫婦の話だ。

  • 火事で店が全焼し、二人の「ささやかな夢」は一度止まる

  • 夫・貫也(阿部サダヲ)は板前という誇りも失い、酒に逃げる

  • 妻・里子(松たか子)は、夫の“モテ体質”を使って結婚詐欺に手を染める

ざっくり言うと、「店を立て直すために、夫婦で結婚詐欺を始める」映画だ。

ただし、『夢売るふたり』の本筋は、「結婚詐欺」そのものではない。

もっと奥にあるのは、

  • 絶望した人間が

  • 他者に“救済の物語”を投影し始める

その構造の話だ。

登場する女性たちは、孤独や挫折、人生の停滞をそれぞれ抱えている。
そこへ現れるのが、「優しい男」「自分をわかってくれる理解者」「自分だけを見てくれる存在」としての貫也だ。

自分の物語が進まなくなったとき、人は他者に物語を委ねようとする。
「この人と一緒になれば、今の自分から抜け出せるかもしれない」という期待を、相手の人生に乗せてしまう。

この構造は、そのまま推し活の心理と重なっている。

2.推し活とは“逆方向の結婚詐欺”である

結婚詐欺の構造を、冷たく分解するとこうなる。

  • 相手が「自分の人生を好転させてくれる」という幻想に投資する

  • お金や時間や感情を差し出す

  • しかし、物語の主導権は相手の側にあり、自分ではコントロールできない

推し活も、向きは違うがよく似ている。

  • 推しの輝きに、自分の人生の一部を投影する

  • グッズ、チケット、遠征などの形で、継続的に投資する

  • しかし、推しの活動・スキャンダル・休止・引退は、完全にコントロール不能だ

あえて乱暴にまとめると、推し活は
「搾取されることを、自ら選ぶ“逆方向の結婚詐欺”」でもある。

『夢売るふたり』では、“騙される側”の女たちは、自覚なく「夢を買っている」。
推し活もまた、多くの場合、「夢を買っている行為」だ。

ここに、推し活が“刺さりすぎてしまう人”の構造的な核心がある。

3. 夢売る映画なのに「他人の夢を買う話」

貫也は板前という誇り/夢があったが、火事以後それを喪失し、酒に溺れ、他人の夢(ウエイトリフティング選手のひとみちゃん)に肩入れし始める。

自分の夢との距離感・手応えを失っていく。

貫也は彼女を詐欺のターゲットとしつつも、
練習を見に行き、試合を気にし、つい応援してしまう。
一見すると「いい人」なんだけど、構造としては完全にこうだ。

自分の夢が止まった人間が、他人の夢を買っている。

店も、板前としての未来も失って、
自分の物語がフリーズしてしまった男が、
まだまっすぐ夢を追っている他人に感情を預けてしまう。

これはそのまま、推し活の心理と重なる。

自分の人生が停滞しているときほど、
誰かの「本気の夢」はまぶしく見える。

時間とお金と感情をちょっとずつ払って、
その物語に乗らせてもらうことで、しばらく生き延びられる。

よく考えると、貫也は物語の前半では、まさに“推し活される側”の人間だ。

孤独や停滞を抱えた女性たちが、 「優しい」「わかってくれる」「自分だけを見てくれる」男としての貫也に、自分の物語を預けていく。

ところが後半になると、その貫也自身が、ターゲットであるはずのひとみちゃんに肩入れし、練習や試合を追いかけ、「推す側」に回ってしまう。

つまり『夢売るふたり』は、

推される側だった人間が、自分の夢を見失った結果、他人を“推し始めてしまう”

という、二重の推し活構造になっている。

この反転があるからこそ、推し活が「ただの趣味」ではなく、
「自分の夢の空白と結びつきやすい行為」だということが、いやでも伝わってくる。


4. 阿部サダヲが言語化した「なんとなく諦めた夢」のヤバさ

阿部サダヲ本人も、この構造をちゃんと言語化している。

インタビューで彼は、貫也についてこう話している。

「貫也はダメな男だなぁ…って思いました」と言う。

「途中で自分の夢を諦めちゃってるんです。それで他人の夢、例えばウエイトリフティング選手のひとみちゃんの夢に乗っかっちゃって。それはだめでしょう、男として。そういうところは、自分とはちょっと違うなと思ったんですよね」。


夢を諦めるのは、やはり駄目なことかと尋ねると「諦めなきゃいけないこともあるんでしょうけど。僕もプロ野球の選手になりたかった夢を諦めて、いま俳優やってるんですけどね(笑)」と答える。

「ただ僕は、向いていないと気づいて、プロの選手にはなれないなと思ってやめたので。貫也はなんとなくやめてるから。そこはちょっとな、と思う」。

https://www.cinemacafe.net/article/2012/09/05/13740.html

ここが本質だと思う。

  • 自分で考えて夢を畳んだ人は、まだ舵取りを握っている

  • なんとなく夢から降りた人は、「未処理の空白」を抱えたまま大人になる

そしてその空白は、
他人の夢でいちばん簡単に埋められる。

推し活が「楽しい趣味」から
「しんどい穴埋め」に変わっていくのは、だいたいこのパターン。


5. 推し活が“刺さりすぎる”人の共通点は、夢のフェーズだ

私の仮説はかなりシンプルで、

推し活の“重さ”は、その人の夢が今どのフェーズにあるかでほぼ決まる

と思っている。

A. いま、自分の夢を追っている人

受験でも、起業でも、研究でも、育児でもいい。
「自分の課題」が目の前で動いているフェーズの人は、
正直それどころじゃない。

  • 自分のことで手一杯

  • 推しがいてもライト層になりやすい

  • 観客席に行っても、すぐグラウンドに戻りたくなる

B. 夢が止まっている/なんとなく諦めた人

ここが一番危ない。

  • 仕事はあるけど、「これを一生続けたいか」と言われると微妙

  • 昔やりたかったことは、いつの間にか遠ざかった

  • なんとなく日々は過ぎるけど、「物語が進んでいる感」がない

こういうとき、
他人の夢は、めちゃくちゃ魅力的に見える。

  • 推しの成長で、自分も一緒にレベルアップしている気がする

  • 推しの挫折に、なぜか自分の歴史を重ねてしまう

  • 推しの一言に、人生を救われた気がする

このフェーズだと、推し活は簡単に「穴埋め」化する。

C. 夢を叶えた人/一度夢を畳んで、また主導権を取り戻した人

ここまで来ると、推し活はただの「余白の遊び」になる。

  • 自分の物語は自分で回っている

  • 推しに人生を預けていない

  • だから、ハマっても中毒にはなりにくい

自分の夢が動いている人は、観客席に長居しない。

この「夢のフェーズ」の違いこそが、
学歴より前にある変数だと思う。


6. 「高学歴は推し活しない」へのツッコミ

最初のnoteは「自己投資のROI」という軸で、
高学歴と推し活の関係を説明していた。

たしかにこれは強い。
ただ、私はこう言い換えたい。

  • 「高学歴だから推し活をしない」のではなく

  • 「自分の人生プロジェクトを回している人」は、推し活を“主食”にしづらい

その結果として、
高学歴・高所得層に「推し活しない人」が多く見えるだけだ、と。

そして逆もまた真なりで、

  • 学歴に関係なく、起業家・アスリート・職人・研究者

  • あるいは、育児や介護に本気でフルコミットしている人

こういう「自分の夢(課題)が動いている人」は、
やっぱり観客席に定住しない。

一方で、高学歴でも

  • 就職してから夢を見失ったとき

  • キャリアチェンジの狭間で、宙ぶらりんになっているとき

こういうフェーズでは、
普通に推し活が穴埋めとして作用しうる。

要するに、

問題は“学歴”じゃなくて、“物語の主導権がどこにあるか”だ。


7. 「あ、これ穴埋めかも」と感じたときにできること

ここまで読むと、

「じゃあ推し活は全部ダメなのか?」

と思われるかもしれないけれど、もちろんそんなことはない。

誰かの努力や才能に心を動かされるのは、むしろ健全だ。
人は他人の物語に触れることで、自分の物語を見直せたりもする。

ただし、ここだけは注意したい。

推し活が「自分の夢の代わり」になった瞬間から、しんどくなる。

具体的には、

  • 推しのスキャンダルや活動休止で、自分の幸福が大暴落する

  • 生活コストは増えるのに、自分の人生が一歩も進んでいない感覚が強まる

  • 推し活をやめると空虚、続けても空虚、という二重苦にハマる


やるべきは、もう少し地味な“構造の調整”だと思う。

試しに、次の4ステップだけやってみてほしい。

  1. いま止まっている「自分の夢」を一行で書き出す
    (例:「本当は◯◯を勉強したかった」「昔は△△になりたかった」など)

  2. それを

    • 「向いてないと気づいて畳んだ夢」

    • 「なんとなく諦めてしまった夢」
      のどっちかに分類する

  3. “夢”をフルサイズで再開できなくてもいいので、
    一番小さい単位で再起動してみる

    • 週1で30分だけやる

    • 1冊だけ入門書を買う

    • 1人だけ、その世界の人に会ってみる…など

  4. 推し活は「デザート」に下げる

    • 生活の“主食”ではなく、“お楽しみ枠”に戻す

夢を追うって、必ずしも

「会社を辞めて世界一を目指す」みたいな話じゃない。

自分の人生の主導権を、もう一度自分の手に戻すこと。

その第一歩さえ踏めれば、
推し活との距離感はだいぶ変わると思う。


おわりに:推し活の話じゃなくて、「主役は誰か」の話

推し活は、現代のインフラであり、同時に罠でもある。

  • 自分の夢が動いている人は、観客席に長居しない。

  • なんとなく夢を降りた人は、他人の夢を買いやすい。

  • 夢を一度畳んで主導権を取り戻した人は、余裕として推し活を楽しめる。

『夢売るふたり』の重量挙げのシーンは、
この3つを一気に見せてくれる。

だから私は、こう言いたい。

自分の夢を、もう一度“自分の手”に戻せるか。

推しの物語を楽しみつつ、
ちゃんと自分の物語も進めていく。

結局は、推し活の問題じゃなくて、
「主役のイスを誰に渡しているか」の問題だと思う。

そのバランスを取り直すきっかけとして、
この映画と、このテーマを置いておきたい。


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