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『悪は存在しない』ラストの考察

映画『悪は存在しない』を観た人は誰もがラストで衝撃を受けたと思います。自分もまったく理解ができず、突然のエンドロールを前に呆気にとられました。その後、ネットで様々な解釈に触れたところ、部分的に腑に落ちるものはあるけれど、完全にしっくりくるものはありませんでした。しかし、それらを参考にして考えていくうちに、自分の中でしっくりくる解釈にたどりつきました。すでに映画を観た人とその考察を共有したいと思い、noteを書くことにしました。ネタバレ全開ですので、映画未見の方はご注意ください。



◉まずは結論から


最初に結論を書きます。

「巧は花と心中しようと思い、高橋を行動不能にした。」

最大の根拠は、巧が高橋の首を締めたあと、来た道を引き返さず、花を抱えて鬱蒼とした林へと去っていくことです。順番に説明していきます。

◉巧の暴力性はどこから噴出したのか?

濱口竜介監督が『BRUTUS』のインタビューでラストシーンについてこう語っています。

「結局あの場面で誰もが受け取るものは、個人の中に潜んでいる暴力性の噴出みたいなものです。」

「個人の中に潜んでいる暴力性の噴出」。これは巧が後ろから高橋の首を絞めたことを指しているのでしょう(実はもうひとつの意味があると思うのですがそれは最後に書きます)。

日常での巧は何を考えているかわからないようなところがありますが、他人を傷つけるような人物には見えません。グランピング場の説明会では喧嘩腰の金髪の青年を後ろから止めています。怪我をした黛(まゆずみ)には「すみません」と彼にしては珍しく丁寧な言葉で謝っています。だからこそラストの唐突な暴力があまりに理解しがたいわけですが、車中の会話にヒントがあります。

芸能事務所の社員である高橋と黛に「鹿は人を襲うのか」と聞かれた巧は、絶対にないと答えつつ、「あるとしたら半矢の鹿かその親だったら」と言います。「半矢(はんや)」とは手負いの状態のこと。ラストシーンでも花の前に半矢の鹿がいます。

巧は半矢の鹿であり、同時に、半矢の鹿(=花)の親でもある。そう考えると辻褄が合います。半矢だからこそ、例外的に「暴力性の噴出」が起こってしまったと。

では巧が半矢というのはどういうことか。彼の肉体は壮健です。しかし、彼の心は、妻との別れ(おそらくは死別)によってひどく傷ついている。ここは見落としやすいところだと思います。高橋や黛とは対照的に、巧は必要最低限のことしか話さず、感情を表に出さないので、彼の内面は簡単には見通せません。しかし、彼の家には、妻が写る写真が飾られています。そこには、いまとそう変わらない娘の花がいます。死別からそれほど時間は経っていないのでしょう。

そして、巧の傷は癒えていない。彼は淡々と日常を送っているように見えますが、しょっちゅう学童にいる花の迎えを忘れます。地元の仲間との会合も忘れる。うどん屋で支払うお金も間違える。はじめはただ忘れっぽい人かと思ってしまうのですが、精神的に深い傷を負っているからこそ、うまく現実の中で生きていけていないという示唆だと思われます。妻が弾いていたピアノを夜に一人で撫でる巧の姿が印象的です。酒を飲めない彼は酔って苦しみを紛らわすこともできない。

娘の花も半矢です。母の死に傷ついています。学童にカバンを忘れる姿は巧に重なります。また、巧が遅れて花を迎えにいくシーンが二度ありますが、どちらも花は先に帰ってしまっています。他の子供たちは一緒になって遊んでいるのに。花くらいの年頃の子なら、友達と遊んで父が来るのを待ちそうなものです。花は大人とは会話をしますが、他の子供と話しているシーンはありません。代わりに花は自然の中を歩きます。区長に「楽器になる」と言われた鳥の羽を熱心に探します。ピアノを弾いていた母への思いが花を羽探しに向かわせたのでしょう。

二人は仲睦まじく暮らしていますが、花の寂しさを巧が完全に埋めてやることはできません。羽を拾ったあと、巧と花は並んで歩きますが、手はつないでいません。しかし、花の夢の中では、全く同じ状況で、二人は手をつないで歩いています。花の願望が投影されているのでしょう。

特に巧の傷は我々が思うよりずっと深いのだと思います。これは現実世界でもよくあることではないでしょうか。伴侶をなくした人の心の傷を我々は頭では理解しますが、その傷の本当の深さまではなかなか思いが至りません。この映画を理解するためには、観客は散らばった手掛かりから巧の傷の深さを想像しなければいけない。

◉いつ巧は花と死ぬことを思いついたのか?

巧が半矢の鹿であり、暴力性が噴出しかねない状況であったということは理解していただけたと思います。ただ、「どれだけ妻の死に傷ついていたとしても、花を守り育ててきた巧が心中を図るだろうか?」と疑問に思う方も多いでしょう。

そのきっかけ・理由は後述するとして、そのような飛躍が起こりうるという素地になっているのが、黛と高橋の車中の会話です。黛は介護の仕事から芸能の仕事へ、高橋は出役(でやく)から裏方へとキャリアの大転換がありました。黛はその理由を「心が壊れていた」ゆえの「反動」と説明します。高橋も「心が擦り切れていた」と言います。こうしたセリフが巧に重なります。妻との死別で心が壊れてしまったからこそ、何かのきっかけで「娘と生きる」から、「娘と死ぬ」という真逆の道へと一気に振り切ってしまう可能性があったのでしょう。

ではここから、終盤の巧の心の動きを考えていきます。花が学童から一人で帰ったことを知った巧は、車中で高橋と黛から「鹿は人を襲うのか」と聞かれます。そのくだりは先ほど言及しましたが、会話の最後に巧が「そのとき鹿はどこへ行くんだ?」と問い、高橋が「それは…どこか別の場所に」と答えます。それを聞いた巧は煙草を吸い始めるのですが、車はカーブし、林で日の光が遮られたためか運転席の巧の顔がみるみると暗くなっていきます。おそらく巧は鹿に自分と花を重ね合わせたのでしょう。幸せに生きる場所を失った自分たちは、「どこか別の場所に」行くしかないのかもしれない。妻が旅立っていった場所に…。そのような暗く恐ろしい考えがここで芽生えてしまったのだと思います。

花がなかなか見つかりません。区長も言っていた通り、自然の中を一人で歩くことは危険です。木の棘からしたたる血は自然が人間の身体に直接の危害を加えるものだということを示します。映し出される池や水路は命の危機を感じさせます。これまで自然の恵みの象徴であった水が途端に恐ろしく見える。そして日は暮れていきます。

花を探す巧の頭の中に、花の死という最悪の可能性が浮かんだのは間違いないでしょう。もしそんなことになれば、巧が学童の迎えを忘れていたことが直接の原因です。妻の死によってひどく傷ついた巧が、自分の不注意のせいで娘が死んだとなれば、一体どうするでしょうか。万一そんなことになれば、自分も後を追って死ぬしかない。車中で浮かんだ「花と二人で死ぬ」という考えが現実味を帯びてしまいます。

◉どうして巧は心中を決意したのか?

そんな探索の果てに、巧は高橋とともに花を見つけます。花は二頭の鹿と対峙しています。一頭は銃で打たれたところから血を流しており半矢の状態です。大きさからしておそらくこの鹿は親子で、巧と花のメタファーなのでしょう。そこで巧は、近づこうとする高橋を手で制止します。これは、半矢の鹿を下手に刺激して花に危害が及ばないようにということだと思います。この時点では巧は花を守ろうとしている。普通の父親の行動です。花は無事だったのだから、鹿から守れば二人で家に帰ることができる。

ここで花がニット帽をとって、鹿に近づいていきます。ここが大きなターニングポイントです。それを見た巧は、それまでに脳裏に浮かんでいた「花と二人で死ぬ」という考えを実行に移すことを決意します。花がニット帽をとって鹿に歩み寄るという行動がなぜ心中を決意させることとなったのか。理由はふたつあると思います。

花は外にいる時はほぼ必ずニット帽をかぶっていますが、そのニット帽がビジュアル的に花の幼児性を強調しています。その花が鹿の前でニット帽を取ると、美しい黒髪があらわになります。この黒髪が重要です。

花が行方不明になったことを知らせるアナウンスでは、「頭髪は黒色の長め」と繰り返されていました。また、説明会の前に巧の家で会合をしている時、花は長い黒髪を垂らしているのですが、そのすぐ手前に母の写真が置かれており、同じ方向に長い黒髪が垂れています。

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日常での巧と花は、林の中でおんぶしながら歩くシーンに象徴されるように、庇護する者と庇護される者だった。しかし、花がニット帽をとり美しい黒髪をさらすことで、花からは幼児性が剥ぎ取られる。きっと巧の目には妻と重なったのでしょう。これにより、巧と花は対等な関係、正確に言えば、共に生きて共に死ぬ一蓮托生の間柄となったのだと思います。そして、巧はそれまでに脳裏に浮かんでいた「花と一緒に死ぬ」という考えを実行に移そうと決意してしまった。

これだけではいまいち納得してもらえないかもしれません。より重要なのがふたつめの理由です。ニット帽をとって鹿に近づく動作は、説明会の終盤で巧がした行動とも重なります。巧は「俺は開拓三世なんだけど」と言って、いつもかぶっている帽子を脱ぎます。これは、高橋と黛に敬意を示し「自分もあなたたちと同じよそ者だ」という歩み寄る態度です。花もニット帽をとります。鹿に畏敬の念を示したのか、あるいは巧が黛にしたように鹿の止血を試みたのか、いずれにせよ半矢の鹿にぐいぐいと歩み寄っていきます。

花は登場人物たちの中で最も自然に近い人間です。林の中を歩き、鳥の羽を探し、牛に餌をやり、夢の中で遠くにいる鹿を見つめる。しかし、自然の側に行けるわけではない。木の棘も半矢の鹿も人間を拒みます。無垢な花はそれがわからず歩み寄ろうとしますが、半矢の鹿にとっては近づいてくる花は恐怖でしかない。巧にはそれがわかります。逆説的ですが、花が自然へと歩み寄ろうとする行動によって、むしろ花も巧も自然の破壊者であることが際立ってしまう。

グランピング施設を作ったら鹿はどこに行くのかという話の中で、高橋は「どこか別の場所に」と言いました。それは無責任な態度です。しかし、実は地元住民は銃で鹿を殺すというはるかに恐ろしいことをやっている。銃声を聞いて平然としている巧も間接的にそれに加担している。その事実を突きつけられているわけです。

そこで巧は、自分たちが死ぬことは自然と人間のバランスをとることにもなると思ったのではないでしょうか。説明会で巧は「問題はバランスだ」と言っていました。これこそ彼の行動原理です。説明会では、穏健派住民(うどん屋夫婦・区長)と強硬派住民(金髪の青年)の間に座るし、大きく見れば地元住民と芸能事務所の仲立ちをしています。黛と高橋にうどんをおごる代わりに水汲みを手伝わせる。手土産の酒は断るが一本の煙草はねだる(後で車内で点ける自分の煙草があるのに)。そんな巧が、自然と人間とのバランスが崩れていることを突きつけられる。

説明会の後、巧は自分で描いた絵の上に「水は低いところへ流れる」という区長の言葉を書いていました。よほど強く印象に残ったのでしょう。「上の者がやったことは下の者に降りかかる。上の者にはそれなりの振る舞いが求められる」という話でした。花が鹿に歩み寄るシーンでは、花は坂を下るようにして鹿に近づきます。それをさらに上にいる巧と高橋が見下ろしている。この三層の配置は示唆的です。それまでの巧は人間(上の者)と自然(下の者)のバランスをとってきたつもりだった。しかし、バランスがとれているかどうかを決めるのは「下の者」です。説明会で金髪の青年が「それ(水の汚染が誤差かどうか)を決めるのはおたくらじゃねえだろ」と言っていたように。「下の者」である鹿の苦しみと、そこへ降りていく無垢な花を目の前にして、自分たちがこの世界から消えることが「上の者」の務めのように巧には感じられたのではないでしょうか。

現世の苦しみから二人を救う心中は、人間と自然のバランスを回復させるものとして巧の中で正当化されてしまったのだと思います。

◉なぜ巧は高橋の首を絞めたのか?

ニット帽をとって鹿に近づく花を見て、高橋は止めようと前に出ます。その高橋の首を巧は後ろからきつく締めます。さきほど、高橋を手で制止したのとは全く意味が違います。あれは半矢の鹿を刺激して花に危害が及ぶのを避けるため。この首絞めは、決意した心中を邪魔させないためです。

普通の状況なら娘を鹿から守るのが第一のはずです。しかし、巧は心中を決意した。そうなると、高橋を行動不能にすることが最優先です。さらに言えば、鹿が花を襲うのならそれにまかせようという考えもあったのかもしれません。人間が鹿を撃ったのだから、花がその鹿に襲われたとしても、痛ましいけれどもバランスの回復になります。

巧が首を絞めたことで、高橋は泡を吹いて意識を失います。そして巧は、鼻血を出して倒れている花に近づきます。半矢の鹿に襲われたようです。ここで巧は花の鼻の下あたりに指をあてます。これは呼吸を確認している描写です。すぐに指を離し、そのあとに二度、いたわるように鼻血を指で払っているので、呼吸を確認できたのだと思います。もし花が呼吸をしていなかったのなら、鼻血を払うのではなく、何かしら別の行動を見せるはずです。演出的にも、花が死んでいると示唆したいのなら、口から血を流させて臓器のダメージを想起させるのが自然でしょう。

巧は花を抱え上げその場を離れます。ここで、巧は来た道とは違う、鬱蒼とした林のほうへと足早に歩き去っています。花の救出が目的だったのならば、来た道を引き返して車に乗るはずです。倒れた高橋を放置し、生きている花を抱きかかえて、林へと向かう巧。この姿が心中という解釈を強く裏付けます。

巧は高橋を殺そうとしたわけではなく、あくまで一時的に行動不能にしようとしただけでしょう。林へ向かう巧は、花を抱き抱えているというのにずいぶんと足早です。これは高橋が起き上がって追いかけてくることを警戒したのだと思います。実際、高橋は立ち上がり、巧の後を追うように何歩かふらついた後にまた倒れます。もちろん、寒い夜の野外に放置された高橋が死んでしまう可能性もありますが、それは巧の目的ではないと思います。

◉タイトルの本当の意味は何か?

最初に監督の言葉を抜粋しましたが、その全体を引用したいと思います。映画のラストシーンについてです。

「どう解釈していただいても構わない、というのが大前提です。ただ、単に荒唐無稽なものというよりは、私自身は奇妙な納得感を感じつつ書いたり、撮ったりしていました。結局あの場面で誰もが受け取るものは、個人の中に潜んでいる暴力性の噴出みたいなものです。それが少なくとも映画の中にはっきり存在している。観客は当然、それを悪と見なしたい気持ちを強く持つと思います。ところが、この映画には『悪は存在しない』というタイトルがついている。観客はそれを単に悪と見なすことを禁じられながら観る。タイトルと内容の緊張関係の最も高まるその瞬間、その体験こそが面白いものでは、と思ってつくっています」

冒頭で述べた通り、監督が言う「個人の中に潜んでいる暴力性の噴出」は、直接的には巧が高橋を締め落としたことを指しているのでしょう。

高橋は浅はかなところがあるとは言え悪辣な男ではありません。グランピング計画の首謀者でもありません。その計画だってまだ着工すらされていません。彼が巧に締め落とされるのは、自然破壊者の象徴として制裁を受けたというわけではなく、グランピングに来た客が半矢の鹿にたまたま襲われてしまうのと同じようなものだと思います。巧のしたことはすさまじい暴力ですが、花を襲う半矢の鹿を悪と見なせないように、我々観客はそれを悪とは見なせない。

これが監督が言う「暴力性の噴出」のひとつでしょう。しかし、ここまでの考察に基づけば、実は巧から花への暴力性の噴出をも指していることになります。巧は花に同意をとったわけではない。巧がやろうとしていることは無理心中です。

「赤いのがマツで、黒いのがカラマツ」とつぶやく花の愛らしさを見てきた観客には、妻との死別にどれだけ傷ついていようと、いくら自然と人間のバランスが崩れていようと、巧が花を殺すことは許しがたい。しかし、タイトルによってそれを悪と見なすことを禁じられている。

最後は月夜の雑木林を見上げるカットです。映画冒頭の雑木林を見上げるカットがおそらくは花の視点であったように(あの雑木林カットの直後に映るのは真上を見上げる花の姿でした)、ラストで流れていく雑木林も巧に運ばれていく花の視点ではないでしょうか。巧の荒い息遣いが聞こえてきます。ゆっくりと動いていたカメラは最後にぴたりと止まり、巧は大きく息を吐き出します。月も見えなくなっています。二人の死に場所に着いたということなのでしょう。

極めて短いエンドロールの後で、念押しをするように「悪は存在しない EVIL DOES NOT EXIST」というタイトルが最後に表示されます。映画冒頭では青字の「EVIL DOES EXIST」に赤字の「NOT」が付け加えられていました。青が花のイメージカラーであることを考えると、この赤が花が流す血のようにも思えてきます。花とともに死のうとする巧の行動を悪と見なすことを禁じられた我々の苦しさ。これこそがこの映画が最後に提供する唯一無二の体験なのではないでしょうか。

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