学園アイドルマスターから面白いゲームの気配を感じるのに、キャラクターが"かわいい"すぎるがあまりにプレイできない話
『学園アイドルマスター』は、面白い。
正確に言うとまだ4-5時間程度プレイしていないので「ちゃんと面白くなりそうな予感がある」が正しいのだが、強くインスパイアされていると見られる『Slay the Spire』がなんといっても面白いので、面白いのはある種当然ではある。いやいや影響を受けたゲームを面白く再現するだけでも実は大層すごいことは理解しているが、今回語りたいのはそこではない。
何故僕が触ってみようと思ったかと言えば、PC版のリリースも大きいが、友人からの評判が大きい。対戦ゲームで怒るという人生でもっとも無駄な時間を共に共有した仲間たちから聞こえ伝わる話は、「確かに面白い」だとか「ゲームやってる人間にしかクリアできない難易度のそれがでてきて不安になる」とか、「ちゃんとやったら大した課金額でなくともランキングに乗れて楽しい」だの、「追加ターンを得た」など、なんだかオタクの心をくすぐるワードが飛び交うのである。人間は元来生物として、追加ターンを得たくてゲームをプレイする生物である。
直感もあり、評判もあり、これは面白そうであるというであれば、寝食を忘れてプレイするのがいつものお決まりのパターンの一つなのだが、今のところそうはなっていない。何故か。出てくるキャラクターが"かわいい"すぎるのである。

ひとえに美少女キャラクターといっても歴史がある。2000年代の美少女ゲーム全盛期から何かとその文化に触れ続けてはいるものの、『ブルーアーカイブ』なんかを見ているとここ数年は本当に美少女キャラクターの最適化が進んだというか、ある人にとっては圧倒的に完璧な存在としてのキャラクターが完成している。ノウハウが蓄積されたことで、美少女がより美少女になった。かわいいにも歴史があり、進化している。今の時代の美少女キャラクターは、広範で、完璧に、かわいい。
この出てくるキャラクターが"かわいい"すぎることの弊害が何かと言えば、自分自身が気恥ずかしくなることにある。ここで率直に平成初期のおじさんらしく「手毬たそ~」となれれば人生も幾ばくか楽しく過ごせたのかもしれないが、現実にはこんなに"かわいい"すぎる存在を俺ごときがプロデュースするなんて烏滸がましいのではないか、世の人はなぜそこまで傲慢になれるんだとという自己肯定感の低さを発生源とした謎の気持ちと、冷静に自分を俯瞰した時、中年男性が女学生を凝視しながらゲームに熱中し課金するその姿が、それはかなり危険な姿なのではないかという客観的な視点が、自身を熱狂の渦の外に追いやってしまう。
"推し"文化について学んだ時にも思ったのだが、誰かを推すにはある程度の自己肯定感が必要である。冷静に考えて推されて嬉しくない人間などそうはいないと頭でわかりつつも、最低限の肯定感すらないと「俺ごときに推されるのは相手にとって大層迷惑であろう」という気持ちが先に働いてしまい、推すに至らない。何かを推すには「自分に推されたら相手は嬉しいだろう」という根拠なき確信がまず先に必要なのではないかと思うのだが、この話はなんだか妙なところに玉を発砲しそうで怖いのでここまでにして話を戻そう。
自身を客観視した時、ではTFTの無意味だが狂気的なゲームモードである「チョンクのお宝」で休日を一日過ごす中年男性が危険な姿ではないのか、あるいはいきなりオリンピックを目指す中年男性が危険な姿ではないのかどうかでいうと、こちらも危険な姿ではあるとは思うのだが、それらの時にはこんな自制心は働いていなかった。つまりは、美少女キャラクター的なものに熱中しようとする時にのみ、この自制心が働いているようなのである。なぜだろうか。
他人の目を気にしながら生きていることはあるだろう。これは簡単なことを言っているようで、結構難しい問題である。僕は自分自身のことを「ある程度人の形のフリをしないと存在すら許されない」と思っているフシがあって、穿っていて、偏っていて、差別的で、醜悪な性格を必死に包み隠して、そこに誰がいなくとも、常に誰かの目を意識する生き方が根付いてしまっている。そうでないと存在が認められない環境に居続けてしまったからそうなったのだと今でこそわかっているし、こういう性質があったからこそ比較的上手に文章を書けるようになったし、自身の言語能力に多少なりとも磨きがかかったという功績もわかっているのだが、この呪縛を解きほぐすのは一朝一夕でできるものでもない。
突如オリンピックを目指すのは自身の中で「面白い人間」として「人の形のフリ」が出来ている判定であり、『学園アイドルマスター』に熱中する自分は「人の形のフリ」ができていないと、そう判定しているのだろう。人に伝えて冗談になるのか、ならないのか。自分の行動規範の中に、それを他人が見た時どう思うかという視点が、強くこびりついてしまっている。なんともバカバカしい話で、わからない人からすれば何を悩んでいるのかも伝わらないと思うのだが、まあ、そういう生物もいるのだと遠目に見て欲しい。
僕がこの先一歩踏み出す、つまりは他人の視線よりも自分の気持ちを優先できるようになるためには、躊躇なく、"冗談にせず"、『学園アイドルマスター』を遊べるようになることがその第一歩なのだろう。これは人生の岐路だ。『学園アイドルマスター』に向き合えるのか。向き合えないのか。
僕は今、岐路に立たされている。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?

