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BUG プレオープントークイベント きりとりめでる×吉田山「美術と批評(性)について」(後編)

みなさんこんにちは。
株式会社リクルートホールディングスが運営する新アートセンター BUGのスタッフです。
BUGは三つの活動軸があり、①BUG Art Award、②BUGにてひらかれる展覧会、③アーティストのみに限らないアートワーカーのキャリア支援の3つです。
3番目にあたるアートワーカーのキャリア支援として、7/12にBUGプレオープントークイベント、「美術と批評(性)について」きりとりめでる×吉田山を開催しました。
美術における批評のあり方やそもそも今、美術批評はありえるのか、という問題点から執筆に限らないかたちでアートに関わるふたりに存分に語っていただきました!
この記事では、トーク内容をリミックス・バージョンで前編・後編に分けてお届けします。トークに参加できなかった方も、もう一度内容を確認したい!という方も、どうぞご活用ください。
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前編はこちら


仕事における批評性のあり方について

吉田山さん(以下、吉田山):僕自身批評家っていうところにいないし、批評性でなら何か考えるかなって、今日までずっと思っていました。僕が例えば何か活動を始めるときってやっぱ面白いかどうかを考えるっていうか、そのときのテンションとかでは実は決めないです。道で偶然会った人と喋り込んで何かが始まるみたいなことはよくあるんですが、実際それが面白いかどうか、歩きながら、家に帰ってから、眠るまで、朝起きてもずっと考えます。今までのいろんなケースと、照らし合わせて面白いのかなみたいな。それ面白いの?って簡単に言っちゃう。
ギャグ的な面白さとかってことではなく、みんながやる必要あんのかなと思うことは、とんでもなく疲れることで、でも、疲れる以上にやるに値する面白さかどうか。

檜山真有(檜山):やる必要があるとか面白いっていうのは何でしょう?意義に置き換えられるのか、個人的な楽しみか、社会的な楽しみなのかどうでしょう?
 
吉田山:誰かのためみたいなことは年々あんまり興味がなくなってはきています。
コミュニティベースドアートやコミュニティデザインは、多分僕の性格上それは生活の中では必要だけれど、僕はそこまでアウトプットと結び付けられなかったところから活動しています。結局ジョージアに行ったり、トルコに行ったり、神津島に行ったりとかして、僕自身無理してプレゼンするタイプじゃないんで、何となくこんな感じでダラダラいて、気の合う人と喋ったり何かその場所で1個でも自分ができることとか、何か関係できることが無理なく発見できたらいいかもしれないと思っています。それが何かひとつの主体にはなってないけど、続いていく感じはあるのかなって。
そういう意味でそうっすね。結構ヒストリーっていうところに面白さを見ていることが多いかもしれないです。あとは自然というか風景とか。
元々、富山県出身で自然に囲まれて育ちました。立山連峰っていう山が市街地から見えるんですけど、とんでもなく綺麗なんです。それと比べて自分がやってきたことやこれからやることをジャンル分けせずに、全部照らし合わせて面白いかどうかを精査していきます。立山連峰から勝ち上がってきたアイディアが自分の中で生きがいみたいな状態になって、エンジンになっていきます。
何かを変えるためとか大それた視点がそこまでないんで、根性でできることがあれば、いろいろやってみようみたいな年々それが浮き上がってきてるというか、これができたから、次、もっときついことができるかもって自分に負荷をかけていってどこまでいけるかなっていうのを試しています。もちろん失敗もするんですけど、失敗してもいいやって思ってるんで。
 
檜山:吉田山さんの面白さの自己精査は、照合するものの強さによって律されていて、出会いと熟考のバランス感覚が、いろんな人との出会いが発生させているんだろうなと思いました。
 
吉田山:今日って多分キャリアについても考えるみたいなのって、実は裏テーマにはきっとあるんですよね。僕自身、元々、アーティストのアシスタントから身を投げ出したところから始まっているんです。「目」というアーティストと、同時期に川俣正の作家のアシスタントや手伝いとかをしていたんですけど、両者ともに大掛かりなプロジェクトを進める作家なんだけど、作品は同じようなボリューム感だけど、チーム編成とか、考え方とかいろんなものが違うことは、そこに身を投じていたから、内部が見えることがいっぱいあるんで、それが転じて今に至っています。
川俣さんだったら、視点を空間に置くことによってそれが批評的視座みたいなのを何か設計していく作品だと思うけど、間近でそういうものを見ていて、本人も善意でそこまでやっていなかったりするわけですよ。大きな力に対して自分個人の視点を持ち込んでいくとか、労働者的思考を持ち込んでいくとか、そういう方法論は割と根っこにあるなと思っておます。
誰でもやれることだと思うんすけど、それをやってみるのもかえっていいかなって思っていて、あんまりテクニックがいらないというか、なんかスリーコードでパンクバンド始めるみたいなことにも近いというか、何かそれにまた別の違う意味が現れてきたら、僕はまた違うことやると思うけど、要は、どこからそういったバイブスとか偶然を引き寄せているんだろうみたいなのを改めて考えました。

檜山:職業と仕事って分けて考えることができると思っていて、2人が話していたことで特にさっき吉田山さんが話していたことは、肩書きが活きてくるような職業としてアートに従事していながらも、内実を伴う仕事として面白いから偶然続けてやってるんだなみたいな感覚があるのかなと思いました。
きりとりさんは、批評は文章にこれからは限らないんじゃないかっていう批評性のあり方とか自身の活動に重ね合わせてどう思われますか?

ノエル・キャロル『批評について 芸術批評の哲学』より見る批評の種類について

きりとりめでるさん(以下、きりとり):軽く今の話に引き付けてみると、ノエル・キャロルが10年前ぐらいに書いた『批評について 芸術批評の哲学』本の邦訳が数年前にされていて、美術史でもないし、カルチュラル・スタディーズでもない批評が自立するには何が必要になりうるのかという話をしていて、「理由ある価値づけを行うものが芸術批評だ」という価値づけを生むところにキャロルは重点を置くんです。キャロルの場合、価値づけを行う対象は何でもいいと、作品個別じゃなくてもプロセスでも良いと言うんですけど、結構特徴的だと思います。
「理由ある価値づけ」が批評の核で、それではない対抗馬みたいなのを沢山挙げていて、そのうち8個ぐらいをまとめてみました。

ノエル・キャロルからレビューと批評の違いを考えようかなと思い、キャロルにとって批評は理由ある価値判断であり文章だと、価値判断をするにあたって、どうしてそのような価値判断になるのかを言明できるかどうかをポイントにします。でも、しかも、それは文章で行わなければならないとまでは言わないけど、文章って最初に言うんですよ。この本の中でいろんな批評を吟味していきますが、そのときも全部テキストベースの批評なんですね。

吉田山さんの展覧会などの活動に関して振り返るときに、今日聞いて初めて何が意図されていたのかがわかったみたいな人が割といたと思うんですよ。吉田山さんのこと知ってるし、展覧会もいくつか見てるけどみたいな。例えば、吉田山さんのインタビューとか見てわかったりとかする人もいるだろうから、そういう理解が標準化可能であるという意味で文章を批評の中心に置きたい気持ちはちょっとわかる。けれど、それだけじゃないなとも思います。

檜山:そうじゃないと思った理由は何ですか?
 
きりとり:そうじゃないって思ったのはそうじゃないことをやり続けてきたから。自分の実践から照らし合わせてそうじゃないと思ったのと、でも、そういったときに佐々木敦さんのまとめ方が檜山さんと私と吉田山さんのグループにちょっと近いかなと思いました。

批評とは常に何かについての批評であると。だから、必ず対象があるんです。その対象を知らない第三者またはこの後知ることになる他者に向けて書かれるものということが中心にあるんですね。そこで佐々木さんがご自身の取り組みの例で挙げているのが、刊行された文芸誌を全部読んで、ランキング付けすることとか。
自分でランク付けをすると、その文芸誌における百戦錬磨の人たちの中での了解とは全く別に自分自身が、ただ1人の個人として全く違う評価を与える世界があることを、そういった文芸の領域に対して見せるものでもあったというような話をしていたのです。要するに、書き方の問題とか、やり方の問題、立て付けの問題が非常に批評指標においては重要なのだという話をしていて、それは多分展覧会であったりとか、場所を作るとか、場所がなくなるときにどうするかとか、何かそういったやり方一つ一つに、どういった意味を込めるかみたいなことにつながるのかなと思いました。
佐々木敦さんに戻すと、ゆえに批評は非常に作品的なものに近づいていくというのがの見立てなわけです。

ただ、キャロルのこの整理は結構面白くて、たとえば作家が残してる手記やちょっとした会話だとか、そういったもの全てを動員して批評を行ってて良いと考える穏当な現実主義に対置した仮設意図主義は、作品を批評するにあたって、作家が展覧会や作品において開示しているものに依拠するという立場ですが、その程度の曖昧さをキャロルは批判します。つまり、作品を批評するときに、どこまで何を参照していいかを考えてるという議論です。
たとえば、美術批評を行うgnckさんは民主的にアクセス可能な情報を基にしか批評は書かないということを言っています。私なりに解釈すると、それは展覧会におけるハンドアウトやトークイベントでの発言は参照するけれども、作家が個人的に発言したことを軸に作品を分析はしない、という倫理です。

檜山:キュレーターが作家と話してた雑談を開示するかどうかって、非常にいろんなものを抱えるものじゃないですか。それをやるにはまず本を書けみたいなこともあり、手順を踏まないとできないってことですもんね。
 
きりとり:トークイベントとかでポロッと言っちゃったことも含めて、どの情報を開示するか、しないかって作品にとって常に非常にシビアな問題ですよね。そのようなことを十全に受け止めた結果、仮説意図主義者が生まれたんだろうなって私は思っています。キャロルは終始批判的で、例えば参照できる範囲が不明瞭だからよくないと論じますが、私自身はちょっと仮説意図主義者に通じる部分もあります。何を作品の範囲に含めて見なすかという事が、常に重要だと思っているからです。
キャロルのこの本はどれが自分にとっての批評なのかというすり合わせには便利だなと思います。吉田山さんが「◯◯についての批評」だと断定的に言ったり考えていたとしても、吉田山さんにとって、動機があって、欲望や意志のあると思ったところにすでに批評がたくさん発生しているということだってあると思います。

吉田山:佐々木敦さんは文章に限るって言ってるんですか?

きりとり:言ってないけれども文章の書き方の話ではあってスタイル、文体の話とか、という話にもしていく。
 
檜山:なるほど。ノエル・キャロルが言っている批評そのものを自律させるための価値づけと佐々木敦さんが言っている他者へ向かう対象の批評は相反すると思いました。時代のムードとして自律性っていうものは、すぐいわゆる権威と結びついてしまうところがあるから、我々みたいな若手というか新世代は作品になるべく寄り添うっていうかたち、批評の自律性というよりかは、作品ありきじゃないと書けないしできないっていうところになっていくのかなと思いました。

きりとり:ノエル・キャロルが対象とする作品とは、作家の意図と達成という意味で、だから作家のことも含めて考えているんだと論じるのですが、作品を中心に寄り添うことは必ずしも批評が必要ないのではないかという意見も生みうることも含めて論証していきます。ゆえに批評の自律性ための批評が大事だっていうよりも、批評はもはや消えそうなのででも批評っていうものがあるんですよっていう話をするトーンの方が近いかなと思います。

スライドで岩城京子さんの「第一次創造」、「第二次創造」、「第三者」も挙げているんですけど、次に刊行予定の『パンのパン』で書いてもらっている吉田キョウさんが参照している概念で、対象は作品だったりして、作品を作った第一次創造というものがあり、付随して行ったものを第二次創造とするとその第一と第二から離れたところに第三者がいる。この第一次創造、第二次創造って言ったときに、たくさんのものが代入できるっていうのが非常に面白いと吉田さんの文章を読んで思ったんですね。
ゆえに第二のところに何が入れられるっていうことを書いたりするとか、それもまた批評性だなと思っていました。

質疑応答

質問者A:面白い話をありがとうございました。大変興味深く聞かせていただきました。
僕は美術家ですが、作品を作る意義と、それを人に見せることが両輪になってないと活動ができないことになっているというか、プロとして活動できないです。
そのときに書かれていることって依頼原稿が多いことを含めて、それを人に読ませる意義のほうは大体充填された状態で依頼が発生すると思うんですけど、書く意義って好き以外に踏み込んだところで、美術家との幸せな関係の一つとして、どのようなところにあるのでしょうか?
美術家として活動を続けている経験として、たまになんかこれすげえ書かれちゃったな、自分の面白さを言ってくれている上に、この文章面白いし、その人も面白いってなったときにもう次のステップに行くしかないと思うんです。ある種デッドエンドに当たったことによって、次のステップを考えなきゃいけなくなる。それは一瞬不幸だけど、めちゃくちゃ幸せな状況ではあります。何回かそういう経験をして、どうしてこんなことできるのかを聞いたら、それは悪意だって言われて。
つまり、プリミティブな書く意義、社会のためになるような悪意の乗った意義ってあったりしますか?
 
きりとり:あります。作家が同じことを続けなくてもいいよ、っていう気持ちになっていることはあります。もしかしたらそれは本人の気持ちなので何もわからないところですけど、伝わっているよっていうことでもあるし、もうやめてもいいよって思って書いてるときもあります。けれども、場合によっては場違いな、そんなこと言われなくてもわかってるよみたいなこともあるとは思っています。あと悪意については、キュレーターや作家に対してというよりも、この美術館や施設はこういうことも、ああいうことも、できるのであれば、今こういう展示はしなくてもいいんじゃないかっていう気持ちで書くこともあります。
展覧会をスペクタクルにするかどうか選びたいところではあると思うけれど、作品のディティールみたいなものを徹底的に扱うことができるところが美術館、ホワイトキューブじゃないですか。空間として力を持っているのに、そうじゃない中途半端に反芸術的な実践を行うのはどうなんだって思って書いた文書とかがあります。

吉田山:ただ単に望まれているから、これをしよう、みたいな気持ちはいつもないけれど、外れすぎてもいけないなみたいな両輪でいつも物事を考えてはいます。悪さしてやろうみたいな気はないんですけどね。
レビュー書くときなど二次的な応答をするときと、自分で企画をつくるとき、そして頼まれた仕事としての企画、どれもほとんど同じ態度なのですが、どの仕事も、どの仕事相手とも睨み合っているというか、監視しあっているというか、ドスを突きつけあっている気はします。
最近、仕事のリサーチの中で、奈良の大峯千日回峰行という1000日かけて行う修行のことを知りました。一度でも失敗すると修行中に常に所持している短刀(ドス)で切腹しなくてはならない、その失敗とは風邪を引く、体調が悪い、その他様々な要因関係なく、修行を途絶えると切腹する過酷な修行なのです
今日なんかこういう話になるかもと思って、「バグ」って何だろうとちょっと調べてきました。エラーとはちょっと違うニュアンスで元々コンピュータ、プログラミング用語で、思ってもいない動きをしている動き方を見たときに、虫のようだっていう、虫のように動いているもので、それは自分が意図してない、与えてない動きをしていることが、「バグ」だとしたら、僕は結構バグを見るのも、バグと何かやるのも好きだし、自分自身が何かのバグになることにも興味があります。そういう意味ではバグって悪意の塊みたいな意味かもなって思いました。社会にとってのノイズなどとも意味が違うし、バグって虫じゃんっていう。
 
檜山:「バグ」って悪意の塊じゃんっていうのは、社内で持ち帰らせて、検討させていただこうかなと思います。でもいい言葉だなって思いましたし、私個人としては全くそうだと思いました。

質問者B:3つ質問させていただければと思います。1個目が皆さんが若手の作家さんから批評を依頼されることも今までに多々あるというお話をされてたと思いますが、どのようなときに批評というものが発生するのかが気になりました。
例えばどのような条件が揃えば、批評的な観点が生まれるのか。若手の作家さんから依頼される事実があれば批評が書かれると思うんですけれど、仮に依頼されなかったときに、どうしたら今回のお話されている皆さんが批評を書こうとされるのか、批評したいと思うのか。条件というか、批評の大前提となる要素が気になりました。
2個目が批評のその後について伺いたいなと思ったんですけれど、そもそもその批評家の方が批評したその先のフィードバックはどうあるべきなのかが気になりました。
要するに展示だったり、作品を見たときに批評家の方が批評されたその批評をさらに読む人たちがどうフィードバックし、それがどう反映されていく、もしくは拡張されていくべきなのでしょうか。その先に批評の場がどう作られていくべきなのかが気になっています。三つ目が批評の先のその批評がアップデート可能なのかを伺えればと思いました。一つの展示や作品に対して批評する行為は、ある意味視点を開示すると同時に、その思考だったり、視点を1回固定することだと思ったのですが、その1回の視点だったりとか、もしくは立ち位置を明確にした後に、要するにその可塑性が批評に存在するのだろうかということです。
 
きりとり:アップデートは可能だと思います。それは対象も変わるし、書き手も変わるし、状況も変わるし、1回書いたらそれを保持し続けなくてはいけないというものでも決してないと思うんですね。
美術批評は極めて非言語的対象を言語化する営みであるがゆえに、読者へ「作品の手触り」を伝えようと描写します。その描写は結果的に、どこか写真みたいに無意識的な記述が生まれやすいという所があって、そこには「視点が固定される」ということ以上に、時代や世界が組み込まれやすいと思います。そういった意味で、読解上の可塑性があると思っています。
けれども、私は批評の批評をやっている、つまり、すでに書かれた批評文をより批判的に分析するための批評をやってきたところがあります。ですので、そのような依頼を受けたことは特になく、勝手に書いてる点は否めません。執筆の枠自体があまりないのは実際そうなので、展覧会評の中で書かれるということが若干あるかなと感じています。
なのでフィードバックはどうあるべきかっていったとき、SNSで言及される以上の枠組みがあってもいいのではないかなと私自身は思っています。それもあって『パンのパン』もやっています。
あと1個目のどのようなときに批評が発生するかという質問に対してですが、書くことを含めて批評的な行為を取りたくなるとき、あるいは、その人の展覧会を作りたくなるときっていうことまでレンジを広げると、文章に限らずあるかなと思います。批評について、制度としての批評と、メンタリティとしての批評性が分かちがたくあるときは、恐れるべきことになる可能性はありますが、批評性メンタリティとしての批評だと、いろんなところで批評は発生するのかなと質問を聞いていました。その二つの観点から見てどうでしょう、制度とメンタリティみたいな。

檜山:制度とメンタリティというときに、どういうときに批評が発生するかってことですかね。私の話になりますが、作家に展示や作品の感想とかをメールとかLINEで個人的に送ったりするときに、私の中で批評性は発生しているとは思うんですね。ただそれは、その人しか見ないから、批評とは呼ばれないだろうなとは思います。
 
吉田山:展覧会や作品見た後に、最近思って自分でびっくりしたのが、「新しい○○」というタイトルがよくあるんですけど、「新しい」って何を意味するんだろうってずっと考えていたんですね。例えば、布施琳太郎さんの「新しい孤独」という名前の中での「新しい」っていうのは、何を指しているのかを考えていて、実際問題、孤独ではないみたいな話をしても仕方ないし。反芸術とかそのアンチみたいなものの現代的な解釈として、「新しい」っていうのはあるんすよね、っていうのをメッセージで送ったら、本人も気づいてなくて、僕の中で合点がいって、本人に送ってみたらそうかもみたいな、そういう新発見というか、それは批評的なことかもなって思いました。本人にDMしただけなんですけど。
そういう個人的なやり取りも含めつつ、きりとりさんの『パンとパン』のようなDIYマインドを露わにし続けて、かつ、自身のテリトリーを耕し、維持することが大事なことを守っていて、それが批評(性)のポイントなのかも?と思いつつな日々ですね。はい。

檜山:質問の中でおっしゃっていた批評の場が少なくなるのってコミュニケーションスタイルの変化からして、当然の変化になっちゃうのかなっていう、ある面から見ると寂しいことかもしれないんですけど。でも、見えないところで動いているというのが最近のムードなのかなとも思います。ただ、BUGは冒頭でも言ったように、やっぱりアートワーカーの支援をしたいし、美術批評がアートにとって非常に重要なものだとも認識しているので、どうやって批評の場を開いたり、批評のフィードバックはどうやってなされるのかは、挑戦していきたいと思いました。状況としても、今が過渡期なのかなっていうことを考えたりしながら、質問を聞いていました。
その上で、批評の場というものがつくっていくのだとしたら、誰にでも実践できるように開かれているのが望ましいあり方だと思いました。

おわりに:編集後記

執筆に限らない美術における「批評」を行うきりとりめでるさんと吉田山さんをお呼びしたのは、これまで批評に持たれていた権威性やマチズモなコミュニケーションのイメージを刷新したいという思いからです。
刷新という言葉には「軽やか」という言葉を結びつけたくなりますが、お二人の活動やキャリアは、そこからはほど遠い地に足ついた泥臭さがあることがイベントを通じて伝わってきました。
それは、お二人ともBUGがアートワーカーのキャリアを支援するという活動軸を鑑みて、今の仕事にたどり着くまでの道のりを話してくれたその一歩一歩の着実さの所以だと思います。
引き続き、BUGでは批評だけではなく多くのアートワーカーがその一歩を踏み出せるような支援や、歩みを応援するようなイベントを開催いたします。

まずは9月20日よりグランドオープンするBUGの展覧会雨宮庸介個展「雨宮宮雨と以」にぜひお越しください!衣装として吉田山さんが関わってくれています。
https://bug.art/exhibition/amemiya-2023/