「名探偵津田」で考える新しいタイプの小説
「水曜部のダウンタウン」の「名探偵津田」が面白過ぎます。第1回からずっと観ていますが、10年以上放送している過去の「水ダウ」の中で「あのちゃんに次ぐ名作だと思います(TVerで観られるので、観たことがない人はぜひどうぞ)。
名探偵津田は、ミステリーの世界へダイアン津田さんが強制的に閉じ込められ、事件を解決しないとその世界から抜け出せないドッキリです。
面白いのは、津田さんが探偵の仕事をイヤイヤしていることです。津田さん以外のドッキリの中の人は事件が起きた世界を演じ切りますが、津田さんだけはドッキリ以外の世界をずっと意識しています。
ドッキリの世界を「1の世界」、ドッキリを観ている僕らがいる現実世界を「2の世界」と喩えた津田さんの説明が秀逸でした。
津田さんが1の世界と2の世界のどちらに自分が存在しているかわからなくなり、混乱する(ように見える)シーンがあります。
その姿を笑いながら、この混乱って深い話だなと思って観ていました。
テレビのドラマや劇では、演技している人は脚本の世界に没入していて、観客を意識しません。あくまでも脚本家と監督が作った架空の世界の住人として振る舞い、それ以外のカメラや照明、観客の存在を無視して演技します。
2つの世界に混乱するようにしている津田さんに対して、相棒のみなみかわさんは、「これはコントと同じです」と説明していました。
コントもお芝居です。コントをしている芸人は観客を見ずに演じます。漫才とコントの違いはなにかというと、観客を意識しているかどうかです。コントのような漫才もありますが、漫才のフォーマットでは観客がいることを前提に演技します。
ドラマや劇で観客を意識しているのはナレーターだけです。ナレーターや独白する登場人物が観客に向かって語りかけます。ドラマや映画では語り手の代わりにカメラが説明してくれることもあります。カメラの画角やピントによって、監督の意図を読者に伝えます。小道具にピントを合わせることで、小道具に意味を持たせることができます。
津田さんは観客の立場にいたはずなのに、劇中に放り込まれてしまいます、強制的に。本来ドラマでは存在しないはずの観客の立場を認識しながら、周りに合わせて演技しているわけですから、混乱するのは当然です。
ドラマや劇と同じ物語芸術なのに、小説は少々異なります。小説は読者を常に意識しています。語り手がいて、視点人物は内情を表現します。その相手は、間違いなく他者であり、物語の外にいる読者です。
登場人物が読者を意識している小説は、あまりありません(いくつか前衛的な作品はありますが)。でも、物語世界に迷い込んだことを読者に語りながら進行する小説を読んだことはないですね(どこかにあるかもしれませんが)。
名探偵津田を観ていたら、現実世界を意識しながら小説世界に入り込んだ人を描く新しい形式の小説が書けそうな気がしてきました。でも、こういうメタな物語って受けないんですよね。
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