見出し画像

ポストSaaSとしてのONCEモデル


ONCEモデルとは

once.com トップページ

今年3月に海外のSaaS業界で、あるニュースが話題になりました。

Railsの作者で37signals社のCTOでもあるDHHは、SaaSとして提供していたチャットシステムを、今後新たな機能開発はしないという前提で、買い切りのソフトウェアとて提供し、1週間足らずで25万ドルを売り上げたとブログで報告しました。

SaaSに対置されるこの販売モデルを、37signalsではONCEモデルと呼び、さらに取り扱うシステムを増やしていく計画を発表しています。ユーザーは一度の支払いでソフトウェアを所有し、それを自らホストし運用することになります。

但し37signalsとDHHは、SaaSモデルが最適であるプロダクトは存在するとも述べており、実際に彼らは複数のSaaS製品を抱えています。一方、ユーザーにとって必要十分な機能を既に提供できており、かつ運用コストが小さければ、ONCEモデルが適していると述べています。

「懐かしい」販売モデル

ONCEモデルと新しい名前が付いていますが、一定以上の年齢の方は、目新しさどころかノスタルジーすら覚えるのではないでしょうか。

少し前まで、ソフトウェアはむしろ買い切りが当たり前でした。ソフトウェアは開発者の手で十分にテストされてからROMに焼かれ、ECサイトや街の電気屋で梱包された状態で販売されていました。ONCEモデルは、そのような時代に回帰するような印象を与えます。

DHHはブログで、自身がDropboxの熱心なユーザーではあるものの、新機能ではなく最初から備わっている機能だけを使っていると述べ、ONCEモデルの有意さを強調しています。また彼は、37signalsのSaaS製品であるBasecamp(プロジェクト管理ツール)の旧バージョンは、新規の機能開発が10年前から凍結しているにも関わらず、今現在も数百万ドルを売り上げていることを引き合いに出しています。

SaaSとして提供する以上、PdMはプロダクトロードマップを考え、毎月毎週のように新たな機能を追加しようとします。ユーザーにとってそれが本当に望ましいケースも大いにあるでしょうが、コア機能に満足しているユーザーにとっては、過剰な機能開発に映るケースもあるでしょう。

一見すると懐かしいONCEモデルは、そのようなユーザー層を再発見した点で、私たちに新たな視点をもたらしたと言えます。

37signalsの遺伝子

出典:WIRED『The Brash Boys at 37signals Will Tell You: Keep it Simple, Stupid

ONCEモデルの公式ページには、下記のようなメッセージが載っています。

For nearly two decades, the SaaS model benefitted landlords handsomely. With routine prayers — and payers — to the Church of Recurring Revenue, valuations shot to the moon on the backs of businesses subscribed at luxury prices for commodity services they had little control over.

過去20年に渡り、SaaSモデルは地主(著者注:SaaS企業)に大きな利益をもたらしてきた。定期支払という教会へ、繰り返し訪れる信者 ー 支払者とも ー のお陰で、企業評価額は月に達する勢いだ。ユーザーは自分たちではほぼコントロールできないコモディティ化したサービスに、過剰な金額を支払い続けている。

出典:https://once.com/

理解できる部分もありますが、全体的に過激な主張という印象です。このような強いメッセージを打ち出しながら、37signalsは何故このタイミングでONCEモデルを採用したのでしょうか。

DHHらの著書『小さなチーム、大きな仕事:37シグナルズ成功の法則』では、その書名が示唆するとおり、小回りの効く小規模な組織を維持したまま、事業成長を図るという主張が述べられています。

これは仮説ですが、37signalsのチャットシステムは、恐らくSlackを始めとした競合にシェアを取られつつあったのではないでしょうか。37signalsでは限られた人数で最大の利益率を出すことに主眼を置いているため、このまま粘って戦うよりは、新たなプロダクトへ人的リソースを再配置するという合理的な選択肢が当然浮上するはずです。

通常の企業であれば、マーケットからの撤退を決めたSaaS製品は、サービス提供を終了します。37signalsはその代わりに、チャットシステムのコードをそのまま顧客に販売し、運用保守すら顧客に委ねました。これは顧客にシステム利用を継続する選択肢を与えながら、企業資産であるコードベースから得られる利益を最大限引き出し、双方を利する選択肢であると解釈できます。

こう考えるとONCEモデルは、37signalsが持つ「小規模組織で最大の利益率」という遺伝子に則った当然の選択肢に思えてきます。

ポスト資本主義との符合

前述したDHHらの著作には、下記の一文が載っています。

何かを加えるのは簡単だが、価値を加えるのは難しい。あなたが取り組んでいることは、本当に商品を顧客にとってさらに価値あるものにしているのだろうか。

出典:『小さなチーム、大きな仕事:37シグナルズ成功の法則』

この書籍の原著(『REWORK』)が出版されたのは2010年です。先ほど見たDHHのDropboxに対する評価は、2024年のブログ記事の発言なので、14年の歳月の間、同じ思想が通底していると言えます。すなわち、ユーザーが必要とするコア機能は限られており、それ以上の機能開発は無駄になるケースがある、という考えです。

ここで話は大きく飛躍しますが、経済学者や環境学者を中心とし、近年多くの有識者が資本主義の限界を訴えています。現在の資本主義における問題が無視できない水準に高まっており、資本主義に変わる経済システム、つまりポスト資本主義への移行が提唱されています。

資本主義の問題の一つとして、私たちの生活に対する充足感が指摘されています。例えば下図は、NHK放送文化研究所が5年毎に実施している世論調査の結果です。これによると、1973年から2018年にかけ、日本人の生活満足度は大幅に伸びています。

生活における満足感 出典:NHK放送文化研究所 第 10 回「日本人の意識」調査(2018)

生活満足度が高い人々に対し、新たな需要を喚起することは難しく、資本主義の定義そのものである経済成長が困難になりつつあると主張されています。公共政策の研究者である広井良典は、これを資本主義の「内的な限界」と呼び、モノの需要が飽和し、かつてのような消費活動の拡大を維持できなくなると論じています。

37signalsのONCEモデルは、この「内的な限界」に則った考えと言えます。経済成長が構造的に不可能な時代にあっては、当然ながらソフトウェアに求められる機能の需要成長にも影が差します。必要なコア機能の提供だけをユーザーが求めた場合、ONCEモデルは合理的な選択肢になり得るでしょう。

懐かしさすら覚えたONCEモデルは、実は現在の経済システムの現状に親和したモデルと言えるかも知れません。

💡ポスト資本主義については下記の記事でより詳しく紹介しています。

参考文献


いいなと思ったら応援しよう!