カルト教団で過ごした10年
長いあいだ、私はある新興宗教団体の熱心な2世信者でした。
小学校を不登校になったのがきっかけで教団にのめり込んだのが10歳のとき、教団施設での長年にわたる生活を経て脱会をしたのが19歳のときですから、足掛け10年、思春期のほぼ全期間を私はその団体の内部で過ごしたことになります。
そのあいだ、外の世界で働くこともなければネットで外部の人と知り合うこともなく、世俗の中学・高校に通うこともなければ塾や予備校に行くようなこともありませんでした。
すべての人間関係は教団内で完結していて、だから教団が教える世界観以外の物の見方など知る由もなかったし、もちろん教祖や教義に疑いを抱くこともありませんでした。
このnoteは、そんな熱烈2世だった私が見てきた教団の内情とそこで遭遇した様々な出来事、そして私自身が信仰に目覚めてから脱会するまでの経緯をまとめたものです。
(約18,000字。読むのにかかる時間:約15〜20分)
これより下、教団施設の周辺で撮影した写真や団体に関する詳細な情報を掲載しています。新興宗教に明るい方であれば団体の名称もすぐにお判りになると思いますが、無用なクレーム防止のため、本記事を引用したうえで〈具体的な教団名に言及する〉のはご遠慮いただくようお願い致します。(それ以外の引用や拡散は大歓迎です。)
◼︎生い立ちと幼少期/〜11歳
以下、私が入信してから脱会するまでの経緯を中心に、適宜教団の内情を補足する形で話をしていきたいと思います。
上述のように、私はある新興宗教の古参会員である両親のもとに生まれました。父親は教団の理事や最重要施設の館長をつとめた幹部信者で、母親も信仰歴35年の元教団職員です。
私がはじめて教団の教義や教祖の存在と向き合うことになったのは小学4年生の歳、クラスメイトや担任との関係が上手くいかず小学校を不登校になったときのことでした。
以来、自分がひとり自宅にいることを心配した母親が近所の布教拠点──といってもアパートの一室に祭壇と法談スペースを設けただけの簡素なもの──に連れて行ってくれるようになり、母親が仕事をしているあいだ、そこで先輩信者から教義の説明を受けたり、算数や国語を教えてもらったりして過ごしていました。
私が不登校であることを打ち明けると、信者の皆さんは「神様は◯◯の決断をいつも応援しているよ」「先生(教祖)や私たちがついているから大丈夫だよ」と声をかけてくれ、いつも自分の味方をしてくださいました。
自宅のリビングでひとり孤独に過ごしていると平日の昼間の気怠げな空気が自分を責めているように感じられて辛かったのですが、こうして自宅以外に落ち着ける居場所ができ、自分の状況に理解を示してくださる方々と出会うことができて、心がとても楽になったのを覚えています。
それからは田舎にある教団施設の館長をしていた父のもとへもよく遊びに行くようになりました。館長室や自宅の書斎で勉強をする父の姿は今でもよく覚えていて、膝の上に乗っけてもらい「大事だと思ったところに赤線を引くんだよ」などと教わりながら一緒に教祖の書籍を読んだ記憶があります。
(あの頃の父はまだ聖職者のオーラを纏っていました。)
しばらくして勉強場所を教団運営の塾に移したあとは義務教育の勉強と並行して教祖の書籍を自分から積極的に読むようになり、教義について自分なりに理解を深めていきました。
◼︎”教団施設”で暮らす・布教にはげむ/12歳〜
先述の塾で講師をしていた先輩信者の方から紹介を受けて、私は”教団施設”──新興宗教にお詳しい方はすぐにピンとくると思いますが、クレーム防止と検索避けのためにあえてボカします──で暮らすことになりました。2010年の話です。
その場所はバブルが弾けて倒産したレジャー施設の跡地で、黎明期の教団がその土地を買収して建物類に改修をほどこし広大な修行場に作り変えたものでした。
(どうでもいいですが、その土地の売買を担当した?人物の一人が当時教団の専務理事だった私の父親だそうで、同じく教団の出版関係の部署にいた私の母親と知り合い私たち姉弟が生まれます。)
透き通った川をアユやヤマメが泳ぎ、初夏にはあぜ道でホタルが飛び交うような辺境にあるその施設で、その後私は6年ほどを過ごすことになりました。
施設での生活は辛いことが多く、早くここを出て自由になりたいと思う日も少なくなかったです。
上述のように閉鎖的な環境にあるので行動が制限されるうえ、6畳に満たないスペースに複数人で寝泊まりするためプライベートスペースもほとんどなく、加えて書籍も教団の教義に反するものは読むことが許されませんでした。
(食堂で大江健三郎を読んでいたら先輩信者に「君は”地獄系”の本も読むんだね」と詰問されて本を没収されたこともあります。)
自分の信心が弱ければもっと早い段階で実家に帰っていたかもしれません。
ただ、もちろん良い思い出もたくさんありました。
ノイローゼが酷くなったときに世話係のお兄さん信者の方が自分をこっそり麓のレジャー施設や駄菓子屋へドライブに連れて行ってくださったり、瀬戸内海に面する施設にいたときには厨房担当の職員さんとよく日の出前の浜辺で海藻をとって食べたりしました。
さらにときどき面白い行事もあり、夏には在家の業者が準備する本格的な花火大会が開催されたりして、宗教音楽にあわせて打ち上げられる花火は湖に映えてとても綺麗でした。
(事情を知らずに見物にきた地元住民の方々が花火に手を合わせる信者たちに困惑しているのを見ると少し気まずかったです笑)
それになにより、信仰に基づく強固な連帯の感覚は外の世界では得難いものだったと思います。すでに関係は切れてしまいましたが、尊敬できる友だちや先輩信者の方々との思い出は今でも自分の支えになっていますし、それまで友人がいなかった自分にたくさんの縁をつくってくださった教祖には深く感謝をしています。
さて、外界との連絡がほとんどない環境で祈りや瞑想、経典の熟読、「作務」と呼ばれる掃除、病気治しや悪魔払いのための修法の習得といった宗教修行に打ち込むなかで、2世信者の多くはだんだんと信仰に目覚めていきます。
(最初は暴力沙汰や窃盗を起こしていた子たちも、自然豊かな場所で信仰に向き合いながら過ごすうちに思いやり溢れる優しい子になっていく、その過程はいま思い返しても感動的です。)
廊下にもトイレにも教祖の説法CDが24時間流れ、一日が集団での祈りに始まり祈りに終わるような環境のもとで宗教生活を送るうちに、私自身も「救世主が臨在する奇跡の時代に生まれ、その直弟子として今生を生きることが許された自分はなんて幸福なのだろう」と強く感じるようになりました。
宗教修行にくわえて外界での伝道活動──戸別訪問や駅前での街宣、ビラ配り、大学の学祭への擬装サークルの出店、海外伝道等──も私たちの信心を深める重要な機会です。
布教活動をしていると、しばしば一般の人たちから酷い言葉を投げかけられますし、ときに暴力を振るわれたりもします。
幼少期は優しく話を聞いてくれた世俗の方々も私が成長するにつれて恫喝をしてくるようになり、ときには右翼の方に暴行を受けたり、大学生の方々に勧誘用のビラを束ごと奪われて側溝に撒かれたり、バーの店員の方に店内へ引きずり込まれて「ネットにばらまいとくから覚悟せえよ」と顔写真をたくさん撮られたりしました。
それでも、恐怖や怒りといった生理的感情をおさえて真理のために勇気を奮う伝道の過程を通して、信徒同士のあいだに強固な連帯が、そして信徒と教祖のあいだに師弟の紐帯が深まっていくのを感じました。
晴れた夏の日に市街地に行き、法友と家々を一軒一軒まわっていたときに感じた「自分は神様のために生きてるんだな」という充実した気持ちを、私は今でもはっきりと思い出すことができます。
◼︎信仰に目覚める/16歳〜
16歳のときのある日、私のいた施設を教祖が訪ねてきました。
教祖が帰ったあと、側近の方から「先生が君のことを話していたよ」と伝えられたときの感動は今でも忘れられません。
(いま思えば気のせいかもしれませんが、説法のとき、最前列に座る私を教祖が一瞥するのを感じることがあって、だからその話を聞いたときは「やっぱり」と思ったのを覚えています。)
小学校に入ってからずっと、私は自分が他の人とうまくコミュニケーションを取れないことに悩んでいました。
加えて当時は心身の調子も優れず、自律神経失調症や慢性疲労、ノイローゼ、鬱、逆流性食道炎、血糖値の原因不明の乱高下(とつぜん発作が来るのでラムネが手放せません)、対人恐怖、視線恐怖といった症状に悩まされながら、どうして自分は他の人と違うのだろう、この欠陥まみれの心身とこれからどうやって付き合っていったらいいのだろうと思って生きていました。
自分を悩ます苦しみに何一つ意味がないとしたら、それはとても耐えがたいことです。でも、この世界をお創りになった方が自分のことをずっと見ていてくださったのだと思えば、これらの苦しみにはきっと神様から賜わった試練として何かしらの意味があるはずだと思うことができたし、だから私が悟りを得た暁にはこの窮状は必ず解決されるだろうと確信を得ることができました。
そして同時に、卑小な自分の存在を肯定された嬉しさが電気のように全身を駆け抜けて、私は教祖の慈悲に深く感謝をしました。
それまでは親の信心を受け継ぐかたちで保持していた信仰を、私はこのとき本当の意味で自分のものとすることが出来たように思います。
そしてそれから間も無く、こうした信仰の目覚めの当然の帰結として、自分はこれからは俗世のくだらない価値観や欲望に振り回されずに、将来を真理のために捧げようと──具体的には、大学を蹴って教団に出家し、将来はアフリカや南米で命懸けの伝道活動をする先輩たちのあとに続いて、布教誌に掲載された教祖の顔写真を土壁に貼り付けて祭壇代わりにしているような国に行って信仰を広めることを──固く心に決めました。
その後の生活は信仰一色でした。
模試で開成や灘の生徒に負けては仏弟子としてみっともないからと1日14時間ほど受験勉強をする一方、祈りや瞑想にはよりいっそう熱心に励み、英語検定の受験のために麓の高校に行った際には教室のうしろの本棚に教祖の書籍をしっかり”献本”し、某出版社を相手取った裁判で先輩信者が証人として出廷するとなれば東京地裁に駆けつけて傍聴席から“応援の祈り”を送ったりなんかもして、とにかく生活のすべてを教祖に捧げる日々が続きました。
(この間に教祖から貰った表彰状は20枚近くになったでしょうか。)
そうして受験期の2月に入ると友人らとともに東京の教団施設に泊まり込み、進学する予定もない大学をひたすら受験しつづけました。
(詳しくは後述しますが、これは教団の教育部門の大学合格実績をでっち上げるためです。東大や有名医科大や慶應はもちろん、「センター利用」が使える早稲田の学部にはほぼすべて出願しました。入試会場では休憩中はずっと座禅を組み、教祖のことばを心の中で唱え続けていた記憶があります。)
その後、受験が終了すると私はそのまま教団の「職員養成所」のような組織に入り、教団や私を侮辱する発言をしてきた叔父夫妻(久々に会ったとき「君も将来はお父さんみたいになるんだろ」「説法の練習もしてるの?」などと嘲りの言葉をかけられたときはグラスの水をひっかけてやろうかと思いました)、それに従兄弟とも同時期に縁を切り、結局その後およそ1年ほどにわたりあちこちの施設を転々としながら修行生活を送ることになりました。
〈補足1〉二世信者の大学受験事情
ご質問をいただくことが多かった教団の受験事情について補足をしたいと思います。
私のいた教団では大学の入試を受けること自体は推奨されていました。
有名大学の合格実績は教団の社会的信用に繋がるうえ、巨大な法人を動かしていくにはある程度の知的訓練を積んだ人材が多数必要になるからだと思います。
ただし(おそらくは大学進学者の脱会率の高さゆえ)進学することは推奨されず、信徒の子女の多くは大学を“蹴って”そのまま職員養成所に入る道を選んでいました。
入試という世俗のシステムを利用して信者の養成や広報活動を行っていたわけですね。
〈補足2〉霊的体験について
(私のいた団体においては霊的体験を重視する傾向はやや希薄でしたが)ここで神秘体験についても触れておきます。興味のない方は読み飛ばしてください。
現代の一般的な生活においてその種の体験をする機会はほとんどありませんが、方法的・組織的修行を経れば(薬物等に頼らずとも)いわゆるトランス状態に入るのはそこまで難しいことではない気がします。
やり方は数時間で終わるものから長い時間をかけ入念に準備をして行うものまでいろいろ、その先に得られる体験もさまざまにあり、たとえば恍惚に満ちた体験は「悟り(霊的な認識のステージが上がること)」に近いものとして肯定的に扱われる一方、痙攣や意識喪失を伴うものは概ね悪霊の憑依によるものとされ、こちらは修行不足の証左として反省を迫られたりします。
(錯乱状態に陥った人には教祖直伝の修法を施していました。これがなぜか意外に効きます。)
私自身、雑念が静まった深夜に瞑想をしているときに霊体が自分の肉体を抜け出すような経験をしたこともありますし、教祖が「霊を入れる」と称して聴衆の前で複数の弟子たちをトランス状態にしたのを見たこともあります。
(その弟子たちとは懇意にしていたのですが、教祖の顔を立てて演技をしてあげるような方たちではなかったので「教祖の神通力はなんて凄いのだろう」「これをyoutubeで公開したら一般の人も信じるのにな」と思いました。)
また、いわゆる金粉現象※を目撃したりもしました。
(※いま考えると馬鹿馬鹿しいですが、掌から金の粉のようなものが出る現象をスピリチュアル界隈ではこのように呼び、私の教団では霊天上界の祝福のサインだとされていました。ある日の教祖の説法後、友人が興奮気味に「○○(私の名前)、見て!」と話しかけてきました。彼の掌を見ると一面が金の粉で輝いていて、「よかったね!天上界に祝福されているよ!」などとふたりで喜び、その粒の一つ一つをセロハンテープではがして一緒に観察した記憶があります。)
こうした現象の生理学的メカニズムは私にはよく解らないのですが、この種の体験が持つ、ときに当事者の世界観を捻じ曲げてしまう強い力とその危険性について、宗教に接する立場にある人たちは充分に理解しておく必要があると思います。
人間の体験の領域は現代文明に生きる私たちが想像するよりも本来は遥かに広大であり、複雑化した現代社会においてはその領域は自ずと縮減されているものの、たとえばチベット仏教で指南されるようなある種のステップを踏めば薬物等を使わずともその拡張を図ることができ、一部のカルト宗教はそうした体験をフックに使い勧誘を行うことがある──そんなことを私は後々に(特にオウム事件の裁判記録を読むなかで)学びました。
◼︎教団を脱会、施設を夜逃げする/19歳〜
教団に疑いの念が生じて半年ほどが経った2017年の夏ごろ、私は信仰を失いました。自分の心が教祖から離れていくのをどうすることも出来ませんでした。
もちろんこの時より前にも「もし仮に教祖の言っていることがすべて嘘だったとしたらどうなるだろう?」と想像してみたことはありました。
〈もし仮に教祖の言っていることがすべて嘘だったとしたら──いままで尊敬してきた先輩信者たちはただの阿呆だということになってしまうし、伝道活動における血の滲むような努力や、莫大な額の献金や、家族友人と縁を切り会社を辞めてまで出家した信者仲間の勇気や、大学を中退して施設に来た友人の決断や、これまで修行に費やしてきた膨大な時間は、すべて無駄だったということになる。〉
〈おまけに死後の世界というものはなく、つまり人生や世界には目的がなく、したがって意味がなく(にもかかわらずなんで世俗の人たちは発狂も悲嘆も自殺もせずに生きているのだろう?)、なんの生き甲斐も目標も無いままに、不条理に満ちたこの世界を死の瞬間までサバイブしなくてはならない。そんな馬鹿げたことがあるだろうか?〉
教祖が神ではなかったらという疑問が頭を擡げるたびに、その場合のあまりにも救いのない結果に混乱しては疑問を封印し、しかし相次ぐ教祖の不祥事にまた信心が揺らぎ、そのたびに自分は修行が足りないから悪魔に心の隙を狙われるのだと反省し、しばらくすればふたたび不信心の気持ちが兆し、どうにかして三たび疑念を打ち消す──そんなことをしばらくのあいだ繰り返してきたように思います。
それでも、およそ1年弱にわたって教祖の恥ずべき言動を間近で見続けて、私にもようやく「教祖はたぶん嘘を吐いているのだな」とはっきり感じる瞬間がありました。
「教えが嘘だったら自分は確実に気が狂ってしまう」と思ってずっと生きてきましたが、信仰を失った当時の気持ちはいま振り返ってみれば意外と冷静(というより、教祖がペテン師であるという事実に目覚めたのは自分だけなのだという興奮状態)だったように記憶しています。
さて、私の信心が揺らいでいるという事実は、当時一緒に仕事をしていた教祖の息女の方──詳しい経緯は忘れましたが、この人にだけは葛藤を事前に打ち明けていました。この方もまもなく教団を追放され、その後は大変な生活を送ったと伝え聞いています──を介して即座に教祖に報告され、後日私の直属の上長である教団幹部(Kという古参の信者で、彼が当時私に向けたゴミを見るような視線は今でも忘れられません)から呼び出しをくらい、「あなたの言っていることは子どものワガママとおなじ」「あとで理事長面談だ」「こっちは大変なことになっているんだ」などとさんざん怒鳴られました。
学校でいうところの「首席」のようなポジジョンにあった私が施設を去るとなれば後輩信者の指導に悪い影響が出ると思ったのだと思います。
施設にいると上長から罵詈雑言を浴びせられて心が落ち着かないので、仕方なく自転車で1時間ほど走ったところにある漁港に通っていろいろと考える日が続き、半月ほど経ったころ、私はようやく施設を出ることに決めました。
それから数日後の人の出入りが少なくなった夜、私は上長からの再三の面談の呼び出しを無視して表に呼んでおいたタクシーに乗り、地元の駅から特急列車に乗って東京に戻ってきました。
(タクシーの運転手さんが「ああ、あの施設の子ね、大変だったね」と慰めてくれました。携帯には同期の友人から私の身を心配する内容のメールが届いていましたが、怖くてとても開封することができなかったです。)
◼︎社会順応に失敗・大学を中退する/19歳〜
ツイートにも散々書いたのですが、施設を出たあとに私が直面した現実はそんなに甘いものではありませんでした。
まずは外の世界に居場所をつくろうとアルバイトを始めてみたものの、私はそこで周囲の人たちとまったく打ち解けることができませんでした。少なくとも私にとって、周囲の人たちの態度や振る舞いが、言葉の遣い方が、会話のモードが、施設でのそれと大きく異なるように感じられたからです。
非社交的な自分が悪いのだと分かってはいても、「なんか変な奴が入ってきた」などと悪口を言われたり、職場のグループラインにひとりだけ入れてもらえなかったり(たまに出勤する外国人留学生の同僚に「○○さんだけなぜグループに入ってないのですか?」と聞かれてはじめてその存在を知りました)、自分の知らないところで飲み会や忘年会が開催されたり、店を閉めて退勤する際に「私たちはみんなで帰るから先にひとりで帰ってて」などと言われたり、挙句あからさまに無視をされ始めたりしたときはやはりショックでした。
おまけに東大の某学生団体で働いていたときには自分の出自がバレてしまい、同僚の方たちに散々からかわれました。
当時の孤独な生活を思い出すと、いまでも少し辛くなります。
単発の仕事──だいたいが倉庫での退屈なピッキングや現場での過酷な肉体労働です──の予定がない日は大学図書館で勉強をするか、”もぐり”で講義を受けるためによくキャンパスに行ったのですが、同世代の子たちが健康的な笑い声をあげながら闊歩している姿を見るたびに、みじめな自分との境遇の格差が実感されて悲しい気持ちになりました。
けっきょく大学は一度も復学できないまま、休学可能期間を上限まで使いったあとに中退しました。マーカーで汚した『解析概論』も、フーコー関連だけでも10冊はとったノートも、幾度となく読み込んだカフカやジョイスも、すべてゴミ箱に捨てました。
教務課に退学届を提出したあと、キャンパス最寄りの井の頭線のホームで電車を待ちながら、ここで思いきり勉強がしたかったな、こんなことになるのなら教団にとどまった方が100倍マシだったなと思ったのを覚えています。
◼︎実家を追い出される/19歳〜
さて、社会に馴染めないことに加えて、熱烈信者である両親との関係がうまくいくはずもありませんから、もちろん家庭内にも居場所がありません。
さらに昔から天然なところがあった母親は、親族間のトラブルに巻き込まれたのを機にそのスピリチュアル熱にますます拍車をかけ、実家に戻って一年ぶりに再会したときには教団外の◯◯療法やら◯◯セミナーやらア◯ウェイやらに推計3000万近くを使い込んでおり、おまけにそれらを方々の知人友人に喧伝し、母の思考と一般常識との乖離は取り返しがつかない状態になっていました。
居間で四六時中瞑想にはげむのは良いのですが、知人のご家族が亡くなった際にその人の面前で「私の”パワー”を使えば治せたのに」などと発言したのを聞いたときは「もういい加減にしろよ」と思いましたし、そんな母の血を引いている自分を穢れた存在のように感じました。
(もちろん、私自身も親戚たちからずっと「いい加減にしろよ」と思われていただろうと思います。私が母に嫌悪を抱いたのはたぶん、彼女が自分と似ているからです。)
父親との関係はさらに酷かったです。
息子である私が脱会したことで教団幹部である自分の顔に泥を塗られたと感じたのでしょう、父は私といっさい口をききませんでしたし、私も父を軽蔑していたので、できるだけ廊下ですれ違わないように気を配っていました。
(当時、父は本名とはべつに宗教活動用の大仰な名前を名乗っていましたが、昔は聖職者然としていたあの人もいつの間にか教団内でくだらない出世競争に腐心する俗物になっており、加えて直属の部下が逮捕されたときには(非信者の芸能人がその犯罪に絡んでいたので少しだけニュースにもなりました)自分に捜査がおよぶことを恐れてか家族に怒鳴り散らしながらこそこそ証拠隠滅をしていて、その様子がなんともかっこ悪く、宗教者ならせめて上祐みたいに堂々と法廷で自分の主張をすればいいのにと思いました。
父とのほぼ唯一の会話は、隣家で大きな火事が起きた際、一緒にホースで水を撒いたときに「その調子だ」などと声を掛けられたときのものだったと思います。)
実家に戻ってきて間もなくのある日、父から「お前の皿を洗う音がうるさくて精神統一が出来ない!」と怒鳴られたのを機に喧嘩をしてそのまま絶縁を言い渡され、私は家を追い出されました。
当時は「過去のことは忘れて、これからは全くの別人として人生をやり直したいな」と思っていたので、ちょうどいいタイミングだなと思いました。その後はメールアドレスや電話番号を作りなおして戸籍も分離し、家族との一切の連絡が途絶えて5年が経ちます。
〈余談〉私よりも不遇な姉と弟の話
ここで少しだけ私の姉と弟の話をさせてください。
私の長姉(駿台模試で総合一桁を取るような優秀な人でした)も小学生の頃から信仰をめぐって次第に両親と対立するようになり、やがて目に見えて精神が不安定になっていきました。
(ちなみに精神病や神経症に罹患することを教団の言葉で「霊障になる」「狐に憑かれる」「悪魔が入る」などといい、信者の多くは加持祈祷で治療しようとするのでなかなか寛解しません。)
癇癪の発作が始まると包丁を振り回して暴れるので、母が「今お姉ちゃんに悪魔が入ってるから」と私と弟を近所の公園へ避難させ、そこで私たちは暗くなるまで「お母さんが刺し殺されたらどうしよう」などと話しながら家が静かになるのを待っていました。
姉は姉で親の愛情が欲しくて暴れるのに、両親はその気持ちに応えるどころか彼女を悪魔扱いし、挙句折伏の儀式を受けさせたりするわけですから、きっと辛かったと思います。
私自身も父親から「あいつ(姉)は魔にやられたからもう関わるな」と言われたことに素直に従い、9歳のときから10年間、彼女と一言も(誇張表現でなく本当に一言も)口を利く機会がありませんでした。
けっきょく姉は早々に家族と離縁し実家を出て、高校を卒業後はSEとして働きながら受験勉強をして夜間大学に入り直したそうです。
(母親や私とはのちに復縁しました。久々に会ったとき、姉は穏やかで優しい人になっていて、とても嬉しかった覚えがあります。経済的に決して楽ではない生活を送っていたはずなのに、私の誕生日には少し高めのセーターをプレゼントしてくれました。)
年近い私の弟(私よりも宗教的な素質がありました。某有名大合格後は進学せずにそのまま教団に奉職)も教団を脱会し施設から実家に戻ってきてまもなく心の病気と皮膚病を発症、自衛隊の入隊試験に不合格となり大学の再受験にも失敗したあとは精神病も悪化し、やがて自傷を繰り返す廃人のようになってしまいました。
(怪しげな教育法の影響を受けた母親のせいで彼は幼少期にほとんど言語情報に触れる機会を持てず、おそらくそのせいで中程度の発達障害を持っていました。)
私も兄として一応は寄り添ったつもりでしたが、あるとき彼とも仲違いをし、その後私の勘当を期に音信不通になって長い時間が経ちます。
◼︎教団のあっけない破滅
教祖の訃報を聞いた日のことは生涯忘れません。脱会から5年が経ち、私は24歳になっていました。
教祖の頓死の一報を聞いて一睡もできなかったその晩、数年ぶりに古い写真のデータを見返してみると、教団にいた頃に撮影した写真がたくさん出てきました。家族や友人たち、亡くなった人や行方知れずになった人、いずれももう二度と会うことはないだろう人たちと撮った写真を見ながら、一体どれだけの人が今も教団に残っているだろう、皆さんはいま何をしているだろうと考えました。
メディアから正式に第一報が出たのは翌日の14時頃、本屋で教祖の書籍を読むために市街地行きのバスに乗っていたときのことです。
最初にいくつかのマイナーメディアが速報を打ち、数分遅れてFNNやYahooニュースが教祖の死を伝えて、このとき「本当に死んじゃったんだな」「なんでこんなにあっけなく死んでしまうのだろう」と思いました。
教祖が亡くなったというのに、乗客たちはいつものように静かにバスに揺られ、世界は何事もなかったかのように進行していて、そのギャップがなんだか不思議だったのを覚えています。
近い将来、教団は崩壊するだろうと思います。
私がいた場所や建物も、現在のようなかたちでの教団組織も、たぶんそう遠くない未来に消えてなくなるでしょう。
もちろん名誉と保身とお金のことしか頭にない腹黒の中年幹部連中は野垂れ死にするなりハローワークに行くなりすればいい。いま心にかかるのは2世の子どもたちのことです。
2世信者にとって教団とは、そこに生まれ、その教義を通して世界を理解し、その理解にしたがって日々を生きるような、そんな生の総合的な枠組みです。それがたちまち瓦解したときの衝撃と喪失感はどれほどのものでしょうか。
(とりわけ施設出身の2世は一般とはまったく異なる世界観のもとで長く教育をうけた末、本来であれば就学や就職を終えている年齢でとつぜん知り合いが一人もいない世界に──むろん履歴書に書けるような経歴が何一つないままに──放り出されることになりますから、向後彼らが直面する課題は深刻です。)
宗教をめぐる問題が注目を浴びる昨今、軛から解放された彼ら2世たちが世論の追い風に乗って俗世に居場所を見つけ出し、あらたに拠り所となる価値や目的を立ち上げ、それぞれが豊かで自由な人生を歩んでいくことを祈っています。
*
宗教に頼らずに生きるということ、それは現代という時代において、もしかしたら難しいことなのかもしれません。
人間は意味を求める動物です。不条理な苦痛に直面したとき、私たちはそれらの苦しみになんらかの意味を求めます。そして苦痛に自分なりの意味付けをするのが難しく感じられるとき、そこで一部のカルト宗教が処方してくれる安直な意味や物語に(あるいは陰謀論やある種のナショナリズム等々に)飛びつきたくなることがあります。
(これは心の問題であると同時に社会の問題でもあるでしょう。多様性を推進するリベラルな社会に生きている以上、何が正しいかは自分で決めなくてはならないし、生きる意味も一人ひとりが探さなくてはいけません。)
もちろん宗教的理念の実践を通して人生に意味を見出していく生き方も尊重されるべきですし、ましてや新興宗教だからという理由でその信者が迫害されるようなことなどあってはなりません。ただその一方で、単一の超越的な価値や権威に人生のすべてを預けることには多くの危険が伴うという事実も(件の事件以来のさまざまな報道を通して)私たちは嫌というほど知っています。
きっとより健康的なのは、家族や友人や地域社会、会社や趣味サークルやネット界隈といった様々なコミュニティとの関わり合いを通して、権威や超越性に頼らない、オリジナルな、複数の意味や生きがいを紡ぎ出していく、そんな生き方なのだと思います。それは宗教的な生に比べればずっと地味かもしれませんし、劇的なカタルシスや興奮もないのかもしれませんが、それでも生活の隅々にたくさんの素朴な喜びや幸せがあることを、両方の生き方を経験した(?)私は知っているつもりです。
「自助グループ」などと呼ばれるような界隈でTwitterをするなかで、あるいは通常のライフコースをドロップアウトしたような人が行き着くような職場で仕事をするなかで、私は何人もの宗教2世たちと知り合いました。
彼らの多くは極限的な苦痛を経験してきた人たちでしたが、それでも外部の権威が処方してくれる安直な意味や物語に縋ることなく、かといって「(どうせ)人生に意味などない(のだから何をしたってよいのだ)」というような幼稚なニヒリズムに陥ることもなく、周囲の人たちと一緒に日々の生活を豊かなものにしながら、ある方はなけなしの生活保護費をはたいて買った人文書で勉強をし、ある方は仕事に生き甲斐を見出し、またある方は絵を描き、あるいは詩作をし、それぞれが力強く生活を前へ進めていました。
宗教に頼らずに生きるということ、それは現代という時代においてたしかに難しいことなのかもしれませんが、そのような勇敢な生き方が可能であるということを、それ自体安易な意味付けが難しいような大変な苦しみを生き抜き、それでいて豊かにのびやかに毎日を過ごす彼ら友人たちが私に教えてくださいました。
私自身、いつまで生きるかはまだ決めていません。
でも、自分の人生が続くかぎり、私もそんな彼らに倣っていきたいですし、かつて「不快な隣人」などと呼ばれ、永く救いのない悲しみや孤独と闘ってきた方々がこの社会の中に居場所を見つけ出し、宗教とともに生きた生活を遠い過去のものにできるように、かつて布教の片棒を担いでしまった自分にいま出来ることを、そして行政や社会の側が脱会者の包摂に向けてどのような施策を展開できるかを、これからも目をそらさずに考えていきたいと思っています。