“マジック:ザ・ギャザリング”(Magic: The Gathering;以下MTG)とWotCの思い出
1996年、“マジック:ザ・ギャザリング”(Magic: The Gathering;以下MTG)日本語版がHJ(仮称)から発売された。
事前の期待どおり爆発的なセールスとなり、以後現在に至るまでトレーディング・カードゲーム市場のトップタイトルの一つとなっている。
当時HJに在籍していた私にとって、MTGとの出会いから日本語版の発売に至る過程は非常にエキサイティングな経験だった。もう時効かとも思うので、当時のことを少し書き残しておこうかと思う。
今さら言うまでもなく、MTGはアメリカのウィザーズ・オブ・ザ・コースト(Wizards of the Coast;WotC)から発売されているTCGで、1993年8月にアルファ版が発売された。発売と同時にブームを巻き起こし、6か月で売る予定だった100万枚が、わずか6週間で売り切れたという。
同年10月にはベータ、11月にはアンリミテッド、12月には最初のエキスパンション“アラビアンナイト”が発売された。
私がMTGの存在を知ったのはその翌年の1994年のことで、だいぶ遅かったといえる。
実はもっと早く知っているべきだった。というのもHJはアメリカ在住の協力者から各社のゲームのカタログを送っていただいており、その中にMTGが掲載されたWotCのカタログもあったからだ。残念ながら輸入の担当者(HJの関連会社のPHがアメリカのゲームを輸入して販売していた)はそれに注目せず、私もそのころは日常の仕事が忙しく、海外メーカーのカタログに目を通していなかった。
また、1994年4月にはニューオーリンズで開催されたGAMA Trade Show(現GAMA-EXPO)に行っているので、そこで知っていても不思議でなかった(WotCは出展していなかったかも)。だが、この時のGAMA-EXPOでは“Dangerous Journeys”の後始末で忙しかったのだ(“DJ”の話もいつか書きたいと思っている)。
◎1994年6月 International Tokyo Toy Show
というわけでは、私とMTGとの関係のはじまりは1994年の東京おもちゃショーだった。WotCのアドキソン社長から、東京おもちゃショーに合わせて来日するのでその際に会いたいという手紙が、アンリミテッドのスターター1ディスプレイと共にHJに届いたのだ。
※おそらくWotCはほかの会社にも同様にコンタクトしていたと思う。前年のGen-Conでお目見えしたMTGはこのイベントを訪れていたメディアワークスの目に留まっていた(1)。その他の出版社や、イエローサブマリンのような海外ゲームの輸入を積極的に行なっていた会社もすでにMTGに注目していただろう。
そしてアンリミテッドが届いた時にたまたま編集部に来ていたのが朱鷺田祐介さんだった。朱鷺田さんとはTRPGの仕事でお世話になっており、海外のゲームにも詳しいということで何個か渡してプレイしてみていただくことにした。朱鷺田さんは、さっそくイラストレーターの田中としひささんとプレイしてMTGの面白さと可能性に気づいたとのこと。私もルールに目を通し、ひととおりは理解してアドキソン社長の来日に備えた。
来日したWotCの一行は、アドキソン社長、MTGのゲームデザイナーであるガーフィールド氏、国際部の「ファイアバード」(2)氏らだったと記憶している。
最初の顔合わせがどこでどうやってだったかは覚えていない。ただ、夜、お寿司屋さんに行ったことは確かだと思う。ガーフィールド氏とファイアバード氏がいたと思うが、アドキソン社長はいなかったと思う(ほかの会社の人と会っていたかも)。こちら側は誰だったか。朱鷺田さんだったか同僚のA氏だったか。テーブル席で早々に食事を終えたわれわれは、Ten Thousand(ダイスゲーム)に興じた。ずいぶん長い時間プレイした。お寿司屋さんもよく許してくれたものだ。ガーフィールドとゲームをした日本人は私たちが最初だったのではなかろうか。
※朱鷺田さんに確認したところ、覚えていないとか。じゃあHJのA氏だったか?
●7月 Origins San Jose
サンノゼで開催されたOrigins Game FairにHJの佐藤社長と2人で行く(社長夫人もいた。通訳はいなかった?)
OriginsはシミュレーションゲームやTRPGの大きなコンベンションで、HJからは毎年のように誰か行っていたが、1990年代になるとすっかりご無沙汰になっていた。
現地では当時アスキーに在籍していた宮野さんと、翻訳家の楯野さんが来ていた。ブラブラしている感じだったけど、目的はやっぱりMTGだったのだろうか?
イタリアのStratelibriというゲームメーカーの人と情報交換。Stratelibriさんとは以前からアメリカのゲームに関心を持つ外国人同士ということで親しくしていた(確かマリオだかルイジだったか)。
ちょうど“Legend”発売直後ということで、分厚いバインダーを持ち歩くMTGファンを大勢見た。シミュレーションゲームとTRPGのファンには壁があるものだが、MTGに限って言えばどちらのファンもその魅力にとりつかれているという印象を受けた。老若男女問わずMTGを楽しんでいる姿を見て、MTGが日本でもヒットすることを予感した。
この時はファイアバード氏といろいろ日本の市場について話したように思う。早く契約したいところではあったが、まだその時ではなかったようだ。
●11月 Fallen Empiresで日本初のトーナメント
HJはまだ輸入代理店ではなかったが、WotCからMTGを輸入して日本のホビーショップに流し始めた(当時別会社だったPHが中心だったが……)。そして、新しいエキスパンション“フォールン・エンパイア”発売に合わせ代々木の全理連ビルでトーナメントを開催することになったのだ(誰の発案だったのか覚えていない。私ではないのは確か)。
WotCの日本語サイト(https://mtg-jp.com/20th/history.html)によれば、「第1回マジック:ザ・ギャザリング コンベンション/東京」という名称だったらしい。
イベント当日発売の“フォールン・エンパイア”がすぐ使えるという特殊なレギュレーションの中、日本初の大規模なトーナメントが64人のシングル・エリミネーションで行なわれた。
イエローサブマリンの松代守弘さん、田中としひささん、すでにMTGに注目し大会(MOX杯)を開いていた鶴田慶之さん、中村聡さんなどがジャッジ。ヘッドジャッジは朱鷺田さん。初めて見る“フォールン・エンパイア”“ダーク”やらなんやらの謎カード入りのデッキのジャッジをするのは大変だったと思う。しかし私何やってたっけ? トーナメント終了後にジャッジ陣と飲み会に行った。ジャッジ陣はいろいろなゲームのプレイ経験を持っており、やはりジャンルを越えてMTGに魅せられた人々だった。
この時大きな謎があるのだが、WotCの営業部の人が独りで来ていたのだ(リチャードソンさんっていったっけ?)。彼は何しに日本に来ていたのだろう? われわれはWotCの国際部と交渉していたのだが、営業部は独自に日本の市場を調査したりほかの会社と交渉していたのかもしれない。
※代々木といえばHJ、全理連ビルを借りてシミュレーションゲーム、TRPGなどの大会をよく開催していた。角川歴彦氏も見学に来たことがある。向こうは覚えていないだろうが、名刺交換もした。
◎1995年 Final Stage
新年早々、阪神・淡路大震災が発生。なぜか会社に泊っていて、朝のニュースを会社で見る。
●3月 GAMA ニューオーリンズ
前年に引き続きGAMAに行く。場所は前年と同じニューオーリンズ。
アドキソン社長、「ファイアバード」、佐藤社長と私の4人で人気レストランであるアントワンズでディナー。前年もこの店で食事したのだが、そのときはアバロンヒルの社長とだった。諸行無常である。ディナー直前に通訳担当がカゼでダウンし、私が通訳することになった(私、本で英語を覚えたので会話は本当はダメなのよ)。
先方は何も言わなかったが、すでにHJは大量の注文をWotCに出すようになっており、代理店の有力候補になりつつあったのではなかろうか。
この時はかなり具体的な話に及び、通訳はしんどかった。佐藤社長がWotCからの出荷量が少なくて困っているというのを「starvation」と表現したら、アドキソン社長は大いに笑ってくれた。佐藤社長は「なんで困っていると言ったのに笑われるの?」とばかりに不思議な顔になっていた。ごめんなさい。
うろ覚えなのだが、日本語版のイラストを変える必要があるかどうかについて話し合ったような気がする。今思うと、ほかの日本の出版社からそういうアイデアを提案されていたのかもしれない。
※アントワンズは本当に素敵なレストランで、ついついいろいろ頼んでしまった。アドキソン社長はそんな私を見て、「楽しんでいるね」と笑っていた。
●アドキソン社長初来社?
HJに初めて来社したのがいつだったのかはっきりとは覚えていないが、この年の東京おもちゃショーの時ではなかったか。編集部(当時は『RPGマガジン』とゲームの編集部が一体化していた)のほとんどのメンバーが自分のデッキを持っており、自分たちがMTGを理解していることをアドキソンさんにアピールした記憶がある。デッキに〈シヴ山のドラゴン〉入れている人もいたのでこの頃だったのではないか(いい時代である)。
いつのことだったか忘れてしまったのだが先のリチャードソン(?)氏から、角川書店(現・KADOKAWA)と共同してMTG日本語版を展開しないかというアイデアを提案されたのはこの頃だったのではないだろうか。社内騒然である。角川に獲られるのかというわけだ。
今振り返ると面白いのだが、当時HJ内でMTGが売れると考えている人はゲームの仕事に深く携わっている人間だけで、ほかはかなり懐疑的だった。当時トーナメントなどに一生懸命だった人物まで懐疑的だったのだと、近年になって聞いて驚いたものだ。そんな孤独な戦いだったのか。そりゃ社内の私の評判も下がるわな。まぁ当時も今もあまり周囲の評判は気にしないことにしているし、自分が確信してそれが社長に支持されたならやるしかないでしょ。
もしかして、WotC内では国際部と営業部で意見が割れていたのではなかろうか。国際部はHJを推し、営業部は角川を推しというわけで、ホビー流通をHJ、書店流通を角川というような構想があったのかもしれない。確かに国際部と営業部は別々に行動していたようにも思える。
●8月 世界選手権見学
この年の夏、驚くことがあった。シアトルで行なわれる第2回MTG世界選手権を私と朱鷺田さん2人で見学にこないかとアドキンソン社長から招待されたのだ。旅費向う持ちである。佐藤社長は悩んでいたが、ちょうど海外事業のコンサルタントの人が来ていて、招待を受けるべきだと社長に助言してくれた。今考えると、GAMA以来アドキソン社長は私のことを気に入ってくれていたような気がする。
でかいモデムとノートパソコンを持ってシアトルに出張。ちなみにOSはまだWin3.1、インターネットではなくダイヤルアップでCompuServeにつなぎ、そこからNIFTYのメールを使って通信していた。
2回目の世界選手権は最初のものよりずっと大規模となり、世界各国のディストリビューター、ライセンシー、プレイヤーたちが集まっていた。いろいろな人と交流したが、皆さんお元気だろうか。ちなみに朱鷺田さんが以前G社で働いており、某有名アニメ映画にクレジットされていることを知ると、外国の人も結構な確率で感心するのである。
この頃、WotC国際部に日本育ちのピーターさんが入社し窓口に。WotCの社屋を案内してくれる。ちょうど“Homeland”の制作中でプルーフを見せていただく。ついゴミ箱から拾って来てしまい、あとでピーターさんに謝った。
おそらく私が招待されたということは、ほとんどHJが代理店に決まりかけていたのだろう。それから間もなくWotCとHJ間で契約が取り交わされ、日本語版の制作にとりかかることになった。ピーターさんがWotC独自で制作した日本語訳を持ってきたが、どうもよろしくない。そこで翻訳者として朱鷺田さんを紹介した。
ちなみにWotCとHJ間の契約は輸入代理店契約であり、日本語版の制作はWotCの仕事となる。HJは翻訳者を紹介したり、翻訳に意見を言う立場だった。
やがてHJにMTG専門の部署ができ、MTGでの私の仕事は終わり、再びTRPGの仕事に戻ることになる。ただ、ルールガイドなどの出版物はいろいろ担当させていただいた。HJを離れたあとでもタカラトミーさんのルールガイド『ベーシック・バイブル』などを作らせていただいたのも懐かしい思い出である。