睡眠中の男性は赤ちゃんの泣き声が医学的に聞こえないのか
エビデンスを求めて三千里、着太郎(@192study)です。
先日、いーちゃん (@iichan002) さんの以下のツイートに、男性医師のアカウントが「睡眠中男性は泣き声の音域は医学的に聞こえない」「夜泣きの声には気付かない」とリプライされたそうです。(現在はリプライのツイートは特にエクスキューズなく削除されたようで詳細は分かりません。)
医学的根拠があるなら納得(または安心)できるとする人もいれば、自分(または夫)はちゃんと起きられたという人、エビデンスはあるのかと喉元まで出かかった人もいて、反応は様々です。
なお、我が家では0時、3時、6時の授乳は空腹の泣き声で妻より先に起きて対応し、妻は8時間熟睡しておりました。育児休業は取得しておりません。また、特性としてはロングスリーパーで睡眠中は熟睡してちょっとやそっとでは起きないめちゃくちゃ寝起きの悪いタイプです。
それはともかく、本当に「睡眠中男性は泣き声の音域は医学的に聞こえない」のでしょうか。最終的には個体差という話になってしまいますが、科学的視点での一般的な傾向は把握しておきたいところです。医師の方が医学的な根拠を元に仰ったらしいことなので、それなりにエビデンスがあるものと思い追ってみることにしました。
英 Mindlab 社の実験
ぐでちち (@gude_chichi) さんがこの言説を見てイラッとして以下の通り調べてくださいましたので、まずこちらの詳細を追ってみました。
見つけていただいた2009年11月30日のデイリー・メール誌(タブロイド紙で英国発行部数2位)の記事 "When Daddy goes deaf: How men really DON'T hear babies crying while asleep" を元に調べてみたところ、元ネタはデイリー・テレグラフ誌(一般紙サイズの新聞で英国発行部数1位)の2009年11月29日の "Buzzing flies more likely to wake men than crying babies: study" という記事が発端のようでした。
実験の内容は、各ボランティアの「睡眠環境」とやらを再現した後に、音を再生し、それを脳波計で結果を計測して、通常の脳活動がどのように妨げられているかを測定したとのこと。詳細は不明ですが、起こす可能性のある音ランキングTOP10とか浮ついたリストだけ記載されているので、10種類あるいはそれ以上の音を聞かせているようです。
この実験は英国の神経マーケティング調査会社(なんだそりゃ)の Mindlab 社が同じく英国の Lemsip Max All Night Cold & Flu Tablets の製薬メーカーに依頼されて実施されたもののようで、記事中に製薬メーカーの担当者の言葉として「"冬の数か月間、私たちの多くは風邪やインフルエンザの症状に苦しみ、睡眠の中断につながる可能性があります。だからこそ、症状を緩和し、眠れるようにする Lemsip Max All Night Cold&Flu Tablets を開発したのです。"」とあるように、宣伝を目的としたもののようです。
なぜかメーカー名がいずれの記事中にも一切書かれておらず気になって調べたところ、レキットベンキーザー・ヘルスケア社という企業のようで、日本では販売委託によりクレアラシルやミューズなどのブランドを展開しているようです。また、韓国で2001年から2011年にかけて1000人を超える死者を出した加湿器殺菌剤事件なども記憶に新しいかと思います。
同様の内容を伝えるシカゴ・トリビューン誌(アメリカ中西部の主要新聞)の記事 "Men, women wake to different wails" によると、実際に男性が女性より乳児の泣き声に反応するかどうかを検証したものではなく、また被検者が男女8人ずつの小規模な実験だったようです。
文中に Dr. David Lewis なる人物のコメントが出てきますが、Mindlab の会長兼創始者の Dr. David Lewis-Hodgson のことのようです。ウェストミンスター大学で心理学と生物学の学位を取得し、サセックス大学で実験心理学科の博士号を取得しているようですが、研究論文等は不明でした。
センセーショナルで自説に援用するには便利な内容のためか英語圏の多くのブログ記事や書籍にも引用されており、日本に限らず欧米の父親も深夜の授乳や夜泣き対応に起きずにいる様子が垣間見えましたが、力及ばずオリジナルの論文は見つけられませんでした。
いずれにしろ、商品の宣伝を主目的とした製薬メーカーの依頼研究であり、原論文も容易に見当たらず、実験参加者の属性も不明であることから、残念ながら金科玉条として引き合いに出せるほどのエビデンスレベルはなさそうです。
fMRI による乳児に対する脳反応の男女差
次に、生姜ライダー (@ridinginger) さんが庭野賀津子 (2014) の「乳児の泣き声と表情に対するヒトの脳反応」という文献レビューを見つけてくださいました。ありがとうございます。この中から男女差に関わる内容を見てみます。
このレビューでは MEDLINE, PubMed, PsycINFO から21件の論文を対象として抽出しています。研究自体が母親を前提としたものがほとんどのようで、残念ながら男性や父親を対象に含めた研究はそのうち3件とごく僅かのようです。日本に限らず未だに育児は女性が行うべきものという価値観が欧米でも根強く残っていることを感じさせますね。
乳児の写真に対しては男性は女性に比べて反応が見られないようですが、Seifritz ら (2003) の研究では泣き声に対して育児経験のある父親も育児に関する脳機能の変化を生じるようで、大変興味深いですね。原文は翻訳にかけてもよく分からなかったので、もう少し勉強して後から更新できればと思います。
ちなみに本筋とはまったく関係ないのですが、母親による自分の子への特別な脳反応が恋愛時と神経基盤が共通している (Bartels et al., 2004) とする研究もあるらしく、Twitterでもよく見かける「息子は小さい恋人」みたいのはまんざらデタラメでもないのかもしれません。
この文献レビューでは「睡眠中の男性は泣き声の音域は医学的に聞こえない」と断言する根拠は見当たりませんでした。文献レビューの対象が1999年から2013年10月までの期間、あるいは検索キーワードが「fMRI」「human」>「neural response」または「brain response」>「infant cry」または「infant face」に限られているからかもしれません。
これとは別に、ぽこち(@shyuhunikki)さんが関連しそうな論文ということでなんと3つも論文を紹介してくださいました。ありがとうございます。こちらも順を追って見てみたいと思います。
ストレスによる育児への動機付け耐性の性差
1つ目の Fabian Probst ら (2017) の "Do women tend while men fight or flee? Differential emotive reactions of stressed men and women while viewing newborn infants" では、19〜45歳の合計80人の男女による対照実験で、寒冷昇圧ストレス試験によりストレスを誘発し、それから20の短い映像(半分は泣いている様子、半分は普段の様子)の新生児の世話をする衝動を評価しています。2017年と比較的新しい実験ですね。
結果は世話をする動機付けに性差があり、ストレスが男性では世話をする動機付けを低下させたが、女性ではそうではなかったとのこと。コントロール群の女性の泣いてない映像の動機付けの低さもちょっと面白いですね。
ストレス下で男性が優位に育児への動機付けが落ちるという大変参考になる実験ですね。ただ、これは視覚的な映像が主になっており、「睡眠中男性は泣き声の音域は医学的に聞こえない」根拠とするには難しそうです。
乳児の空腹時の泣き声に対する脳反応の性差
2つ目の De Pisapia, Nicola ら (2013) の "Sex differences in directional brain responses to infant hunger cries" は男女9人ずつの欧州人を対象とした研究で、そのうち育児経験の有無が半数ずつの安静時の成人に対して、1歳の幼児の空腹の泣き声、ホワイトノイズおよび不規則な泣き声に対する脳の反応を分析したようです。
育児経験の有無に関わらず、男性に比べて女性の方が、赤ちゃんの空腹時の泣き声に対する反応が強い、ということのようです。
2013年時点の当該論文では「男性を含む神経生物学的研究はほとんどない」とし、「一つの例外」として前述の Seifritz ら (2003) の研究を挙げています。やはり研究自体がないんですね。他の参照している論文がいずれも興味深いものばかりなので、後で順を追って読んでみたいなと思いました。
この論文は NHKスペシャル 「ママたちが非常事態!?2~母と“イクメン”の最新科学~」でも紹介されていたようで、おび (@0b_gata) さんからも別途情報をいただきました。ありがとうございます。
しかし、やはり睡眠時の研究ではなく、「睡眠中男性は泣き声の音域は医学的に聞こえない」根拠とするには難しそうです。
睡眠の性差
3つ目の Jessica A. Mong ら (2016) の "Sex differences in sleep: impact of biological sex and sex steroids" ですが、睡眠に関する性差の文献レビューのようです。乳児の泣き声とは直接関係しませんが、目覚めやすさ、あるいは目覚めにくさについて参考になりそうです。性差の部分についてピックアップしてみます。
性差について冒頭で「睡眠は非常に進化的に保存された行動であるため、男性と女性が異なる睡眠をとる可能性はすぐには明らかにならないかもしれない」と述べられており、かなり微妙なテーマのようで一概には断言できないようです。
ちなみにこれとは別の論文で、思春期にテストステロンを増やすと就寝時刻が遅くなるという報告もありました。(Gary Wittert, 2014)
【追記1】乳児の泣き声が父母に及ぼす影響
記事公開後に H.S.ReD (@HSReD10) さんから高橋・桐田 (2011) の「乳児の泣き声が父親・母親に及ぼす心理生理的影響」という論文をご紹介いただきました。こちらの研究では、育児中の20組の父親と母親の乳児の泣き声に対する心理生理的反応を測定しているようです。
結果はこれまで見てきた論調と異なり、乳児の泣き声に父親と母親の間で生理的反応に差が無かったとしています。ただ、父親の方が不快に感じる傾向があり、また逆に私的状況不快得点(社会的に迷惑がかからない泣き声に対する耳障りの度合い)が低い父親では泣き声の影響を受けにくいとのこと。
【追記2】乳児の泣き声に対する父母の知覚
先ほどご紹介いただいた情報を確認する過程で、神谷 哲司 (2007) の「乳児の泣き声に対する父母の知覚と育児意識との関連―家族システムの観点から―」を新たに確認しまして、以下性差に関わる部分をピックアップしました。後ほど検討します。
また、鈴木・横田 (2013) の「乳児の泣き声に対する大学生の認知」にて以下の言及がなされており、興味深い性差です。
【追記3】父親は母親と同じように赤ちゃんの泣き声に気づくことができる
メパ (@mei_doguuuchan) さんからは、引用リツイートで論文をご紹介いただいており、その後追記できずにおりました。面目ありません。
この研究では父親27人、母親29人に泣き声に基づいて自分の赤ちゃんを認識する能力を他の同年齢の赤ちゃんの泣き声と比較して評価。
研究によれば、赤ちゃんと一緒に過ごした時間と他の赤ちゃんとの接触が親の反応を決定する重要な因子。
赤ちゃんと一緒にいる時間が同じくらいの時間(1日4時間以上)であれば、父親(N=13)も母親と同様に成功したようで、また乳児と一緒にいる時間が1日4時間未満の父親(N=13)では認知率が有意に低かったようです。
なお、日常的に他の赤ちゃんに接していた親(N=20)は、自分の赤ちゃんの鳴き声だけに接していた親に比べて認識率が低く、偽陽性率が高かったとのこと。
こちらも睡眠中の研究ではありませんが、乳児との接触時間が長ければ父親でも子どもの泣き声の識別能力が上がる、というある意味当たり前のことではありますが、研究によって改めて確認されたと言えますね。
家族の睡眠と相互作用
ひとみ (@ida_hitomi) さんからは「たぶん睡眠中感知する音域を男女でピンポイントに調べた論文はない」と引用リツイートで言及いただき、代わりにちょっと違った視点での論文を紹介いただきました。ありがとうございます。
ちょっとまだ読み込めてないので詳細は後ほど更新できればと思います。
テストステロンと育児と睡眠の関係
その他、オキシトシンにより睡眠が浅くなるという指摘もいただきましたが、オキシトシンの増加は睡眠の質につながると言われており、どちらかというとテストステロンのことかと思います。これまでご教示頂いた情報を追うので精一杯で自分ではほとんど何も調べられていなかったので、最後にそちらを検討してみたいと思います。
テストステロンは男性ホルモンの一種で、筋肉の量と強度を保つのに必要であり、内臓脂肪を減らし、造血作用を持ち、性欲を起こします。集中力やリスクを取る判断をすることなどの高次精神機能にも関係します。テストステロンの値が低いとインスリン感受性が悪く、メタボリック症候群になりやすくなります。(堀江 重郎, 2013)
通常、攻撃性および危険または衝動的な行動に心理的に関連する男性性ホルモンと考えられていますが、テストステロンは男性と女性で放出され、両性の社会的機能と向社会的動機付けにおいて重要な役割を果たすようです。(Eisenegger C, 2011)
Saltzman & Ziegler, (2014) によれば、テストステロンの減少などのホルモンの変化は人間と動物の両方の父親で観察されます。(Darby Saxbe, et al., 2018)
Lee T. Gettler ら (2011) の報告では、乳児との接触により父親の血中のテストステロンが減少することが観察されています。こちらの論文は NHK スペシャル ニッポンの家族が非常事態!? 第2集「妻が夫にキレる本当のワケ」でも紹介されたことがあります。
睡眠の量と質はテストステロンレベルの低下につながりますが、逆を示唆する証拠もあります。Elizabeth Barrett-Connor ら (2008) による65歳以上の男性を対象としたコホート研究では、テストステロンレベルが低い人は、睡眠効率の低下、夜間の覚醒頻度の増加、および深い睡眠時間の短縮を経験したそうです。 (Mary Fran Sowers, at el., 2008)
以上のことから、やや雑な推論ですが、乳児と相応の接触時間を持つとテストステロンが低下し、その結果として睡眠が浅くなり、乳児の泣き声に反応しやすくなる条件ができる、とする理屈が考えられます。
個人的な雑感
現時点での個人的な結論としては、「睡眠中男性は泣き声の音域は医学的に聞こえない」という学術的根拠は見当たらないように思われました。
それはさておき、庭野 (2014) や De Pisapia, Nicola ら (2013) の文献を見る限り、男性が研究対象としてほとんど含まれていないことから、日本語圏に限らず少なくとも英語圏においても育児がいかに女性前提となっているのかが分かりました。
雑なまとめとしては、男性は乳児の泣き声に対する反応が弱い可能性があるが、乳児との接触により改善する余地がある、という所でしょうか。男性が夜泣きや深夜授乳に起きない傾向が強いことは経験的に明らかですが、環境や状況により変化する可能性も十分あることが垣間見えたかと思います。
他にもっと新しい、あるいは分かりやすい研究がありましたらご指摘頂けると助かります。
謝辞
ツイートの引用、論文のご紹介等、各種情報をご提供いただいた皆様に、この場を借りて心よりお礼申し上げます。
参照文献
Buzzing flies more likely to wake men than crying babies: study
The Telegraph, 29 November 2009 • 09:01 am
庭野 賀津子 (2014)
乳児の泣き声と表情に対するヒトの脳反応 : fMRIによる研究の文献検討
東北福祉大学研究紀要 38巻, 221 - 231
Fabian Probst ら (2017)
Do women tend while men fight or flee? Differential emotive reactions of stressed men and women while viewing newborn infants.
Psychoneuroendocrinology Volume 75, January 2017, Pages 213-221
De Pisapia, Nicola ら (2013)
Sex differences in directional brain responses to infant hunger cries.
NeuroReport: February 13th, 2013, Volume 24, Issue 3, p.142-146
Jessica A. Mong ら (2016)
Sex differences in sleep: impact of biological sex and sex steroids.
Philosophical Transactions of the Royal Society B: Biological Sciences
Volume 371, Issue 1688.
Erik Gustafsson, Florence Levréro, David Reby & Nicolas Mathevon (2013)
Fathers are just as good as mothers at recognizing the cries of their baby.
Nature Communications Volume 4, Article number: 1698
高橋 有里, 桐田 隆博 (2011)
乳児の泣き声が父親・母親に及ぼす心理生理的影響.
電子情報通信学会技術研究報告. HCS, ヒューマンコミュニケーション基礎 110(383), 7-12, 2011-01-14
神谷 哲司 (2007)
乳児の泣き声に対する父母の知覚と育児意識との関連―家族システムの観点から―.
地域学論集 鳥取大学地域学部紀要. 2007, 3 (3), 316-326
鈴木亜由美, 横田 晋大 (2013)
乳児の泣き声に対する大学生の認知.
広島修道大学論集 第54巻 第1号 p.109-119
堀江 重郎 (2013)
I. 病態解明・診断・治療 13. 男性更年期障害(LOH症候群)
日本内科学会雑誌 102巻 4号 p.914-921
Christoph Eisenegger, Johannes Haushofer, Ernst Fehr (2011)
The role of testosterone in social interaction.
Trends in Cognitive Sciences Volume 15, Issue 6, p.263-271, June 01, 2011
Wendy Saltzman, and Toni E. Ziegler (2014)
Functional Significance of Hormonal Changes in Mammalian Fathers.
J Neuroendocrinol. 2014 Oct; 26(10): 685–696.
Lee T. Gettler, Thomas W. McDade, Alan B. Feranil, and Christopher W. Kuzawa (2011)
Longitudinal evidence that fatherhood decreases testosterone in human males.
PNAS September 27, 2011 108 (39) 16194-16199
Mary Fran Sowers, Huiyong Zheng, Howard M Kravitz, Karen Matthews, Joyce T Bromberger, Ellen B Gold, Jane Owens, Flavia Consens, Martica Hall (2008)
Sex Steroid Hormone Profiles are Related to Sleep Measures from Polysomnography and the Pittsburgh Sleep Quality Index.
Sleep. 2008 Oct 1; 31(10): 1339–1349.
Erich Seifritz, Fabrizio Esposito, John G Neuhoff, Andreas Lüthi, Henrietta Mustovic, Gerhard Dammann, Ulrich von Bardeleben, Ernst W Radue, Sossio Cirillo, Gioacchino Tedeschi, Francesco Di Salle (2003)
Differential sex-independent amygdala response to infant crying and laughing in parents versus nonparents. [PDF]
Biological Psychiatry 2003 Dec 15;54(12):1367-75.