警視庁公安部は昨年12月、中国人民解放軍による日本へのサイバー攻撃に関与した疑いで、中国籍の元留学生王建彬(おう・けんひん)容疑者(36)の逮捕状を取った。既に出国しているため公安部は国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配する方針だ。
王容疑者が来日したのは12年前。もともとは、日中貿易のビジネスを夢見る優秀な若者だった。日本国内での足取りを追った結果、民間人を利用した中国の情報活動の一端が浮かび上がった。
中国は2017年施行の国家情報法で、自国民に情報活動への協力を義務化。彼もその末端で使われたとみられている。(共同通信=大西逸朗)
▽成績優秀な若者は、夢に向け歩んでいた
2012年春、大阪市にある日本語学校の卒業式。誇らしげな表情を浮かべて賞状を持つ、スーツ姿の王容疑者の姿があった。
「成績トップで、卒業生代表としてスピーチもした。おとなしい性格で、先生たちにも好かれていた」。今年5月、取材に応じた同級生の中国人男性が振り返った。
王容疑者がこの学校に入学したのは10年春。中国で勤めていた小売り会社を辞め、24歳での留学だった。
この同級生が当時の印象を語る。「工場やコンビニでアルバイトをたくさん掛け持ちして、自立した生活を送っていた。勉強にも熱心だった」
学校関係者によると、将来は「日中の貿易ビジネスに携わりたい」と話していた。日本語学校卒業後は、同じ大阪市内にある私立大の経営系の学部に進学。夢に向け、順調に歩んでいた。
▽61419部隊
「日本のUSBメモリーがほしい」
捜査関係者によると、交流サイト(SNS)のメッセージを通じて最初に「依頼」があったのは大学時代だ。
依頼主はある女性。公安部の後の捜査で、人民解放軍のサイバー攻撃部隊「61419部隊」(山東省青島市に拠点)に所属する軍人の妻と判明した。
この女性とは、王容疑者が来日する前の勤務先の元上司から紹介され、知り合った。USBメモリー自体の郵送は、もちろん違法でも何でもない。王容疑者は依頼に応え、通販サイトで購入して中国に送った。引き換えに報酬を受け取ったという。
ただ、依頼はこれだけで終わらなかった。女性は、自身が軍関係者であることをSNSで明かさないまま、次第に依頼の内容をエスカレートさせていく。
王容疑者が応じたとみられる「依頼」の中には、日本国内のレンタルサーバーを契約し、IDとパスワードを送った疑いも含まれる。
このサーバーは、2016年の宇宙航空研究開発機構(JAXA)など国内約200機関の機密情報を狙ったサイバー攻撃で使われた。攻撃では日本の複数のサーバーが使われ、その一つが王容疑者のものだった。日本のサーバーを経由することで、検知システムに不正アクセスと認識されにくくするためだったとみられる。
▽架空企業、偽名でソフト購入を狙う
王容疑者は16年春に大学を卒業。就職先として日本国内の会社に内定を得たが、「健康上の理由」から入社を辞退し、帰国した。
帰国後も「軍人の妻」である女性との関係は続いていたとみられる。16年11月、女性からの指示を受け、あるセキュリティーソフトを東京都内の販売会社から購入しようとした疑いがある。警視庁公安部が今回、逮捕状を取ったのもこの容疑だ。
ソフトは日本企業に販売が限られている。このため王容疑者は、架空の企業名や偽名を使って購入を申し込んだ。しかし、販売会社は登記が確認できないことなどを不審に思い拒否したとされる。公安部は、人民解放軍がソフトの脆弱性を調べた上で、新たなサイバー攻撃を仕掛ける目的だったとみている。
▽「これ以上は危険」
王容疑者が再び来日したのは翌17年。日本にいる知人に会う目的だったとみられる。ただ、待っていたのは公安部の捜査員だった。任意の事情聴取を受けた王容疑者は、容疑を認めた。
公安部は一方で、観光目的で来日した女性も聴取した。その後、女性は出国している。
王容疑者のスマートフォンには、軍人の妻とのこんなやりとりがSNSに残されていた。
「これ以上は危険と感じる。毎回びくびくしている。いけないことだ」(王容疑者)
「国家に貢献しろ」(軍人の妻)
ソフト購入は依頼というより「指示」あるいは「命令」であったことをうかがわせた。捜査関係者は「工作活動の末端で使われた可能性が高い」とみている。
▽「国家」という言葉の重み
王容疑者はこの女性と接触するまで、人民解放軍との関わりはなかったとみられる。違法行為を手伝わされることに葛藤を抱えながら、なぜ指示に従わざるを得なかったのか。ある公安部幹部はこう指摘した。「中国と日本では『国家』という言葉の持つ重みが全く違う」
公安関係者によると、中国の情報活動は、ロシアや北朝鮮とは異なる点がある。両国では、特殊訓練を受けたスパイが主な活動を担う。
一方、中国は民間人を巻き込んだ「人海戦術」が特徴とされる。特に2017年6月施行の国家情報法は、自国民や中国企業に対し、国家機関の情報活動への協力を義務付けており、こうした傾向はさらに強まっているとみられる。
公安部幹部は「日本が好きで普通に生活している中国人が、ある日突然、中国当局の指示でスパイ行為を働かざるを得なくなるという状況がある」と明かす。
先端技術を巡る米中対立の激化を背景に、日本でも経済安全保障の重要性が叫ばれる中、警察当局は中国による情報活動の実態解明に力を入れ、動向を注視している。
▽「良き師、良き友」
「先生、この2年間本当にありがとうございます」
マイクを手に、ゆっくりとした日本語で話す約10年前の王容疑者。日本語学校の卒業式の様子を撮影した動画には、クラスを代表し、恩師に感謝の言葉を述べる姿が残されていた。他の卒業生から「良師良友 教書育人」と書かれた記念の旗がこの恩師に渡された。
卒業生たちと一緒に涙をぬぐう恩師に、王容疑者が優しく語りかけた。「その旗に書いてあるのは、私たちのよい先生であり、よい友人。知識も人生も教えてくださるという意味です。先生にとてもふさわしい」
王容疑者の同級生とみられる男性のSNSでは、卒業後に恩師を囲んだ飲み会や、友人とおどけた様子で肩を組む留学時代の王容疑者の写真が残る。学校関係者は「優秀だった彼がなんであんなことをしてしまったのか。本当に不思議だ」と声を落とした。
逮捕状が出た今、王容疑者が再び来日し、恩師や友人らと再会できる可能性は低い。かつてともに学んだ中国人男性の1人は、取材にこうつぶやいた。「どんな思いで軍に協力していたのだろうか。結局、国に利用されてしまったのか」