5月のある日、埼玉県に住む夫妻の自宅に、15歳の長女が帰宅した。娘には重度の障害がある。いつものようにおむつを交換しようとしたところ、おむつに500円玉大の血が付着。驚いて陰部を確認すると、複数の裂傷がある。
母親の土田沙織さん(42)は頭が真っ白になった。「まさか」。娘は性被害に遭っている。四肢不自由で知的障害もあるため会話はできない。被害を訴えることもできない。「このままでは加害者が野放しになる。私たちがやるしかない」。夫妻は証拠探しを始めた。(共同通信特別報道室)
▽泣いてばかりの娘
「あの事件の後、娘は変わってしまいました」。沙織さんによると、長女は身体に触られることを親からですら怖がり、笑うこともなくなった。事件後1カ月以上の間、いつも不機嫌で泣いてばかりだったという。
長女は2008年生まれ。700グラム台の低体重で生まれた際、脳梗塞を起こし、脳性まひになった。15歳になった今も小柄で、身長は1メートル。脳性まひの後遺症で自力では立てず、普段は必ず大人が補助に付き、車椅子で移動している。
会話こそしないものの、質問に対するイエスには、口を開けて反応する。くすぐると口角をゆるめて笑い、目が輝く。一方で、機嫌が悪い時には低い声で「アー」と意思表示する。
5月の事件後、夫妻は周囲に相談。長女を病院で診断してもらった。医師は「外部からの圧力」があり、性被害に遭ったと指摘。地元の警察署を訪れ、相談した。
▽ドラレコ回収
両親は被害があったことをきちんとした形で残しておきたい気持ちが強く、その後も被害届を出そうと試みた。しかし、被害届は捜査の開始に必ずしも必要ではなく、署は既に捜査を始めていると説明。被害届の受理はいったん見送られた。
被害を受けたその日に長女が立ち寄ったのは2カ所だけ。特別支援学校と放課後等デイサービスだ。障害のため自力でどこかへ行くことはないため、その日関わった大人は10人未満に絞ることができる。
事件の可能性が高いのに、警察が被害届を受理してくれない―。今回のケースに限らず、被害の状況が詳しく分からない時などは警察がすぐに被害届を受理しないこともある。被害者が障害者の場合、聴取の際に自分の身に起きたことや、被害に遭った日時や場所を明確に説明できないことも。
ただ障害者が被害者となる事件を多く担当してきた杉浦ひとみ弁護士は、こう指摘する。
「一昔前は障害者の事件を軽視する傾向はあったが、最近は被害届を提出できないとは聞いたことがない。検察が、言葉を話せないことで『公判を維持できない』と判断するケースはあるが、警察の段階で被害届を受理しないのは、経験した人は少ないのではないか」
捜査関係者も、障害の有無にかかわらず子どもが性被害に遭った際、ショックで話ができないために保護者が被害を代筆したり、日時や場所を空欄にしたりして提出されるケースはあると話している。
地元署は取材に「性犯罪被害については事件があったかなかったかも含め捜査状況についてお伝えできない」と回答した。
両親は7月下旬、署から「新たな証拠が出ないと難しい」と伝えられた。
▽「捜査」を始めた夫妻
夫妻は自分たちで「捜査」を始めた。まずは学校からデイサービスまでに乗った車のドライブレコーダーの回収。しかし、数カ月前のデータは既に消去されていた。「もっと早く動いていれば…」。悔やんでも仕方がないが、そう考えてしまうという。
その後、沙織さんが地元の議員に以前から事件のことを相談していたこともあり、署は被害届を提出するよう促した。事件から4カ月たって、被害届と供述調書を提出することができた。
▽娘を守りたい
沙織さんによると、長女が被害を受ける以前から、知人の子どもが虐待や性被害を受けた経験を多く耳にしていた。それでも「まさか自分の娘の身に起きるとは思っていなかったんです」。障害者の施設で働く従業員の中には、虐待で退職させられた後も、施設を転々としながら同じ職を続けている人もいると聞いた。
重度障害の子どもを預かってくれるデイサービスも、地域に潤沢にあるわけではない。被害に遭った可能性のある場所に、しばらくの間は娘を預けなければならないジレンマがあった。
「どうやったら娘を守ってあげられるのだろう」
自分にできることを考え始めた。
そんな時、ニュースで見かけたのが「日本版DBS」だった。子どもと関わる仕事に就く人に、性犯罪歴がないことを確認する制度だ。学校や保育所に性犯罪歴の確認が義務付けられるが、一方で、学習塾や放課後児童クラブなど「公的な監督の仕組みが整っていない施設」は、義務ではなく任意になる見通しだ。
「任意であってもいい。これを障害児や障害者が通う福祉施設や介護施設にも広げてほしい」。日本版DBSの対象に含めるよう求める署名活動を、インターネット上で始めた。
長女は未成年だが、特別支援学校を卒業した後は、生活介護事業所に通う。「娘は逃げることも叫ぶことも周囲に伝えることもできない。娘が守られる制度を整えてほしい」と訴え、集まった署名は8千筆を超えた。
これからも自分たちにできることを、地道に探していく。「娘が安心して暮らせる街にしたい。そんな簡単なことが危ぶまれている現状がある。少しでもよりよい日常を目指して」
夫妻の闘いは続く。