私のあの頃にきっと関係ある話。


10代レズビアンは同年代異性愛女性より妊娠のリスクが高いんだそうですよ - みやきち日記
これについて、みやきちさんの掲示板で交わされた会話内容が↓

>カモフラージュもありますが、まだ自分のセクを自認できないとき、あるいは否定したくて無我夢中なときって、
>「わざわざ」異性と性交渉を持とうと試みる気がします。
>「ヤってみれば、異性愛に目覚めるかも」みたいな。

これは絶対あると思いますね。
もちろん非ヘテロが全員そうだというわけではありませんが、自分のヘテロ性をぜんぜん信用できない分だけ、男女セックスを「性的指向のリトマス試験紙」または「『あなたは異性愛者です』という証明書」代わりにしようとしてしまう、ってことはけっこうあるんじゃないでしょうか。

>見た目アウティングしているようなレズビアンとか、ナマイキなレズビアンとか、はぐれモノになっちゃってるレズビアンとかの場合、それを快く思わない不良男子などからレイプされちゃう、ということもあるのではないかという気もします。

『ボーイズ・ドント・クライ』のブランドン・ティーナのパターンですね。恐ろしいことに、あれ、実話ですもんね。
ブランドンに限らず「オトコを必要としないオンナ」っていうのはマッチョ主義のヘテロセクシュアル男子からは憎悪の対象になりやすそうですし、そういうかたちの性暴力もやっぱりあるんじゃないかなー、と思います。

あと、今日の日記を書きながら思ったのが、「自己評価の低さも関係しているのではないか」ってことです。
異性愛者女子でも、自己評価が低いがゆえに性的逸脱にのめり込むケースっていうのがありますが、それと似たような現象が非ヘテロ女子にも起こりうるのではないかと。
非ヘテロだと、それだけで「お前はダメだ」「異常だ」「幸せになれない」っていう有形無形のメッセージを受け続けるわけですからね。欠落した自尊心を「異性に欲望される自分」像で埋め合わせようとする子がいても、何ら不思議ではないと思います。
 

http://6404.teacup.com/miyakichi/bbs/2457

 

この内容はメモ¶(..)

ところで記事の論旨に疑問を持つ人もいる。確かに紹介された研究の信頼性というものは、常にどこかで議論すべきだけど(当たり前)、それはともかく、この情報から

自分の性的指向を否定するため、あるいは隠すために、過剰なまでに異性愛的な性行動をとってみせないとならない、ってことがあるんじゃないか

という可能性を考えるのは、とてもとても重要かつ必要です。というか、こうした思案は(割と性的熟成が早かったために異性とセックスしようとまでは考えなかったとは言え)私自身かなり頷けるし、上記問題の可能性をわざわざ否定する人もいないと思う。で、こういう社会的要請が主体の行動に影響を及ぼしている可能性は、2008-10-15(体型と身体イメージが性行動に与える影響: 同性愛男性編)みたいに一つ一つ調査して欲しいと思っている。そして、考えられる問題性があるなら、何らかの可能性を示唆することはあってよいと思う。むろん、その語り(示唆すること)がどのように信憑性を持ち利用されるかも危惧しなければならないけどね。でも、そこらへんは皆慎重になりつつ、考えを深めていけたらいいと思う。

前置きが長くなった。


で、みやきちさんとそのブログビューワーさんの意見について。

まず、↑の話は、特に掲示板の話は、あくまでクィア女性の話なのだけど、これは「男性」として生まれクィアとして生きてきた自分にも非常に通じる点があるように感じられた。以下、その部分を重ねあわして書いてみる。
私は確か幼稚園児の頃から男性スキーだったけど、それにもかかわらず、なぜか小学校低学年から4,5年生までの間、過剰な異性愛男性性を振舞っていた。それは、

調査では、ゲイ・バイセクシュアル男性が、同年代の異性愛男性より、妊娠をさせるリスクが高いことも明らかになった。

http://gayjapannews.com/news2009/news4.htm

みたいな、妊娠させる、というケースではなく、極めて幼稚なものだった。それゆえに、自分にとって「些細なこと」として忘却されていたのだが(むろん彼女たちにとって些細ではなかったかもしれないけどね)、その行動にも、何か社会的な背景があったのではないか?

恥ずかしい話だけど、仲間内の男子たちに言われて女子のスカートめくりを楽しそうにしたりね。(でもあんまり楽しくはなかったかもしれない)
あと、自分でも「なぜ僕はこんなことをしてるんだろう?」と思いつつも、友達の女子に気があるような言葉を観衆の前で言ってのけたり。
また、少しでも気になる女子がいると、「きっと僕は彼女の事が好きなんだ恋なんだ」と思うこともあった。・・・けれど、その気持ちはどうも足の浮くような違和感がしたのね。もちろん、その時から私は非モノセクシュアルだったのかもしれないし、彼女への好意を恋と名づける事もおかしくはなかったかもしれない。だから、どこかで「恋だ」と思い切れなかったのは、単純に彼女への気持ちがさして強くなかっただけかもしれない。
それでも、なんだか“今の”私の中で、あれらの行動は自己一貫性のないものに感じられた。
・・・ともあれ、今さらこんなことを言ったって、過去を無理やり現在の思考で捻じ曲げてしまいかねない。たとえば、自分を「本当はゲイだったのに、勘違いしただけの人」と恣意的に位置づけるだけではないのか。それはそれで、何か妙だと思う。
よく物語にもあるような、「自覚のないゲイ→第二次成長期を迎えて『本当の』自分を発見する→だから今までの異性愛的経験はただのカモフラージュでしかなく、まやかしである→ゲイは生まれつきゲイでしかなく、他のセクでも同様。そこに揺らぎはない」という、ある種ストレートな成長物語は、本質主義的できっと多くの人から共感を得るだろう。しかし、そう意味づける事は果たして正しいのだろうか?
私自身も、今している自分語りでこのストレートな物語を自分に向けて表象してしまっているかもしれない。そういう表象が、私の中から大切なものを取りこぼさせている危険もあると言うのに・・・。
だからこそ、一つ一つの性的経験が何を意味し、自己でどのような位置を占めているかは、慎重になるべきだ。

・・・けれど、↑のような話を読むと、「やっぱり私は異性愛社会の要請にしたがい、頑張ってガチな異性愛者の振りをしたのではないか?」とか、「男として生まれたのだから女好きに決まっている、と思い込まされていただけではないか?」、とか考えてしまう。
そして、実際そういう側面も、なくはなかった。<あくまで私自身の実感だけどね。

で、更に思い当たるのが、やはり「欠落した自尊心を『異性に欲望される自分』像で埋め合わせようとする」・・・という箇所。
いや、私の場合対象が異性ではなく「同性」(?)だったのだけど、たとえば「妊娠機能を持った一部の『女』ではないために、何したって妊娠しないから男にとって都合のいい便所になるんじゃないか」みたいな考えを、小さい頃から持っていた節が自分にはあって。実際周囲からもそういう言葉を聞いたので、「搾取されるための利便性を持てば自分も性的に欲望されて、(何かを)埋め合す事が出来るのではないか」、という観念に捕らわれていたように思う。たぶんね。
もちろんそれは自分以外のクィアを見知る前の話だし、かれかのじょらと出会う事で今は違う見方を持つようになった。

でもたまにBLでも当時の私のようなキャラクタがいて、セックスにおいて自虐する受けを見かけると、ちょっと薄暗い感情に包まれる。そして、そういう受けを切に求めている自分も、未だにいる。

まあ、何を言いたいかというと、だ。私はこの社会の中で確実に「社会的要請」を受けながら自己の性を培ってきた。そういう自覚があるってことだ。