The English version of this article is found on my Medium.
]]>「新型コロナにはイブプロフェンが効く」、「英国でかえって症状を悪化させたと話題になっている」、「英国での改めて効果を検証中(2020/6/4時点)」。「マスクは無意味」、「一定の効果はある」、「マスクは必須」。
コロナ禍、あらゆる情報が激しく揺れ動いた。
そもそもこれが深刻な感染症のかの議論から始まり、感染率の高低、どうやってうつるのか(飛沫感染はあるのか)、どういう症状か、どんな薬が効くのか、どれくらい感染者がいるのか、どう対処したら良いのかなどなど、この数ヶ月間さまざまな重要情報が毎日のように大量に出てきては、早い場合は1日も経たないうちに覆った。
(私も含め)最初は主張の一貫性を重視していた人達も、しばらくすると「知識が常に更新されつづけるのがサイエンス」と考えを改め、前言に固執するよりも最新の情報に基づいて柔軟に考えを変えつづける方が大事だと変容していった。
そんな情報の乱流の中、混乱をひどくしていたのがソーシャルメディアだった。
あきらかな悪意を伴ったデマや根拠のない断定口調という文字コミュニケーションに起因する問題もあるが、今のソーシャルメディアの仕様や使われ方にも問題点があり、これは正せる可能性がある。
私が最大の問題と感じている問題に「残響情報」という名前をつけさせてもらった。
皆さんは1日にソーシャルメディアを見ていて、何度、同じ情報を目にするかを思い返して欲しい。
何かの事件が起きて、それがツイッターに流れる。例えばGeorge Floydさんの殺害事件などを例に挙げると、私はそもそものきっかけとなっていた動画のツイートを英語圏の友達のリツイート(再配信)で見ていた(あまりにショッキングだったのでリツイートできなかった)。
その後、この事件はすぐに、CNNだ、APだ、Reuterだ、BBCだと、さまさまざまなニュースで取り上げられ、それらのツイッターアカウントからも情報が発信される。すると、次にそのニュースを見た人たちが、ニュースを拡散し始める。ただ公式RTをする人もいれば、ひとこと添えてリツイートを行う人もいる。さらにそれを見た人と第2波、第3波が重なってゆく。
これだけでも同じ情報が何重にも重なって繰り返されるには十分だが、これで終わりではない。
もう少し時間が経つと、さきほどのニュースメディアの人たちが、さきほどのツイートを見逃した人たちのために、一度ツイート済みの情報を繰り返しツイートを行う。ツイッター慣れをしていない人は違和感を感じるかも知れないが、つ1日中ツイッターを見ている人はいない。朝の通勤電車で見る人、ランチ中に見る人、夜しか見ない人もいるため、時間をずらして同じツイートを行うと、異なる層の人たちから大きな反響がくる。世界中で話されている英語でのツイートとなれば、時差の観点からも、これが重要になる。
こうやって1つのニュースが、何百何千種類の記事になって、長い時では1週間くらいTwitterの上を還流し続けている。
時間をおいて、再発信する行為そのものを否定するつもりはない。そもそも自分でもやっているので否定できる立場にない。
だが、平常時なら許容できるこうした情報の流れが、緊急時には実害を伴う。
例えばCOVID-19への対処方法に関するニュースが数日間還流している最中に、その情報が間違いで逆効果であるニュースが発せられたとする。
メディア企業は新事実が発覚したと同時にそれを伝え、以後、古い記事を改めてツイートすることは避けるだろうし、ちゃんと古い記事には訂正を入れる。
だが、読者となるとそうはいかない。ほとんどの人は、ニュースの日付なんか確認せず、ただ価値がある/面白いと思ったら拡散をしてしまう。こうして、いつまでも古い情報が環流を続ける。
TwitterやFacebookなどのソーシャルメディアの投稿は削除ができないわけではないが、それをする人はほとんどおらず、基本的に次々と新しい投稿が追加される一方だ。
ただ、あまりにもたくさんん新しい情報が追加され続けるるから、古い情報は遡れなくなって、どこかへと流れていってしまう。名付けてストリーム(川の流れ)型メディアとも呼ばれる(だからこそ、時差投稿が意味を持つ)。ストリームと書くと軽やかなイメージがあるが、見方を変えれば情報が堆積しつづけるメディアともいえる。
東日本大震災後、IT技術が災害時にどう役だったか(あるいは役立たなかったか)、グーグルの依頼で山路さんと調査した(東日本大震災と情報、インターネット、Google)。この時もデマの対処法としてたどり着いた結論は、「デマの拡散量にまけないくらいたくさん正しい情報を流す」で、結局は情報をさらに増やす方向のものだった。
だが、新聞や雑誌など紙媒体ではこうはいかない。1ページ辺りの文字量も、全体のページ数も決まっていて、デスクと呼ばれる人が、限られた紙幅でどの情報を載せるか常に取捨選択をしている。
だから、情報の受け手は、膨大すぎる情報に押し潰されることなく、決まった読書量に凝縮された美味しいところどりの情報を得られる。
これに対してインターネットの情報は、記事1つの長さも、1日にどれだけの量の記事を提供するかも制限がない。食べ終わっても、おかわりがで続けるわんこそばのようなものだ。
人には1日24時間という時間の制約もあれば、次の食事を取るまでに活動できる量、1日に吸収できる情報の量といったもののキャパシティーが決まっている。デジタル情報はそうした身体性を無視して、ホワイトホール(ブラックホールの逆の存在)のように情報を出し続ける。
Twitterは、そこに1投稿140文字の制限を設けて、情報を飲み込みやすくした。たが、1日に投稿できる数の制限はないのでホワイトホール感に変わりはない。
気がつけばニュースサイト、ソーシャルメディア、メッセンジャーソフト、電子メール、どのデジタル情報ツールも永遠に終わりがやってこない巻き物のような構造あるいは閉まることのない蛇口から永遠に情報を浴びせられつづける構造だ。われわれはそこでおぼれ続けるしか道はないのか?
よく見渡すと、ストリーム型(情報堆積型)とは異なるアプローチのサービスが既に存在している。Wiki(ウィキ)という仕組みだ。
知っている人は少ないかもしれないが、このWikiでつくられたWikipedia(ウィキペディア)なら知っているという人が多いだろう。
Wikipediaは、どこかの出版社が無償提供している電子辞典サービスではなく、Wikiというインターネット上のワープロのような仕組みを使って、何万人もの人が言葉の定義を共同作業で編集してつくられている。善意の塊による辞典だ。
面白いのは、既にあったWikipedia上の定義があとで間違いだとわかると、気がついた人が、既に書かれていた他の誰かがせっかく書いてくれた内容をバッサリ削除して、書き直す。
ただ、ここがデジタルの素晴らしいところで、実はどの文章が削除され、どう書き換えられたかはちゃんと履歴が残っていて、いつでも古い状態に戻すこともできるのだ。
だから、勘違いをしている人が書き直しをしてしまっても、ちゃんと前の元の状態に戻せる(勘違いした人がどうな書き換え、再訂正されたかの履歴も残る)。
情報を延々と追加しつづけるのではなく、「まとめなおせる」というのがストリーム型メディアとの違いで、1つの文章を100人が編集したからと言って100人分の情報をつきつけられるのではなく、あくまでも目にする情報の量は見た目上は増えない(その代わりにすぐには見えない履歴は増え続ける)としたのがWikiの画期的なところだ。
ストリーム型メディアのように1+1=2と情報が積み重なるのではなく、1+1=betterな1という感じで、情報の量を増やさず質だけを高めることができる。
メッセージアプリ(やメール)での議論なども、誰かがWikiで決定事項をメモしていれば、途中から参加した人も、やりとりを冒頭からすべて読み直すのではなく、wikiで決定事項のまとめを見て、いきなり議論に参加することができる。
残念ながらWikiはたくさん種類があるが、どれも操作方法が難しく、なかなかとっつきにくいという問題がある。
だが、今ではMicrosoft WordやApple社のPagesなど多くのワープロソフトや、るGoogleドキュメントのクラウド版ワープロも同様の編集履歴の記録を備えており、これらをWiki的に活用することもできるはずだ。
あなたの会社のデジタル移行を推進したのは?
A)CEO
B)CTO
C)COVID19
コロナ禍、英語圏で流行ったツイートだ。見つけてすぐに私も日本語訳を付記してリツイートしていた。
実際、COVID-19(新型コロナウィルス)による外出自粛が広がる中、Zoomなどのソフトを使ったビデオ会議が、世界中に一気に広がった。
ちょっと前までITが苦手そうだった人まで「次回のミーティングはこちらで」と慣れた様子でZoomミーティングのURLとパスワードを送ってくる様子に何度か驚かされた。
私もイタリアでお城のような家に住むファッションデザイナーから、ボストンに住むテクノロジー系アーティスト、京都の庭づくりの職人、百貨店の店員まで幅広い人とZoomでトーク番組やミーティング、飲み会などを行なった。
パソコンそのものの普及や、インターネットの利用、ソーシャルメディア、スマートフォンなど、さまざまなデジタルテクノロジーが世の中に浸透する様子を目の当たりにしてきたが、ニーズに駆られて広がったこの4〜5ヶ月のビデオ会議に勝るスピードのデジタル化(デジタルトランスフォメーション)は見たことがない気がする。
しかし、それに合わせてさまざまな問題も生じている。
特に「Zoom疲れ」などと呼ばれている心理的ストレスの問題を耳にすることが増えてきた。
これは十分に予見できたことで、私もMacFanという雑誌の3月末発売号のコラムでもこれを予言していた。
でも、もしかしたらデジタルツールに慣れ親しんでいるデジタルネイティブの世代は、感じ方が違う部分もあるのかも知れない、と思っていたが、先週、急速なデジタル化はデジタルネイティブに取ってもストレスの大きなできごとだと知る機会があった。
金沢美術工芸大学での遠隔授業だ。私は河崎圭吾教諭の誘いで2019年度より同学の客員教授として年に1〜2回の講義を行なっているが、先週、約1年ぶりの講義をZoomで行ったのだ。
1年に1回の頻度では、生徒の素性や能力、関心事も知らないままで、普通に講義をしてしまうと、どんな生徒かもわからずに一方的に講義する形になってしまう。そこで授業に先立って提出してもらう事前課題を用意した。
どうせならテクノロジーの精通度や、どんな考えや価値観を持っているかや、そしてコロナ禍にどんなことに困っているかを知りたかったこともあり、「外出自粛をつづけながら、より良い学びを可能にするシステムの提案」をテーマにした。
たくさんの興味深く示唆に富んだ提案があった。優秀な提案も多かったので、興味のある企業にはヒアリングでもしてもらいたい。これまでもスカパーなどいくつもの大企業とプロジェクトを進めてきた学生たちなので、詳細の発信は学生たち本人に任せたい。
だが大まかに分類すると、以下の2つの提案が多かった。
(1)雑音を排除したコミュニケーションが生み出す不快さ
(2)隙間時間をなくしたことが生み出す不自由さ
(1)は、私もMacFanのコラムで指摘した点だ。デジタルツールの多くは、効率化重視でつくられていて、それ故に使う側も効率を重視してしまいがちだ。
コミュニケーションツールの、ビデオ会議では、実際には世界各地に散らばって離れ離れにいる人たちが、やや至近すぎるくらいの距離でお互いの顔を正面から覗き込むようにしてコミュニケーションをすることを前提につくられている。話している人の声は、相手との距離に関係なく均等な音量で届く。小さな雑音も均等な音量で届くので、人数が少しでも多くなっていると、誰かが話をしている間は他の人はミュートにして一切の物音を発せず聞き役に徹するといった形での話し合いになることが多い。
話す側は相槌や笑い声といった反応もない中、相手が本当に聞いてくれているのかもわからない不安にかられながら暗中模索でひとしきり話しては、他の人に話を振るスタイルだ。これは教員だけでなく、聞いている側の生徒も疲れる。
課題では聞いている人たちのリアルタイムの反応を話者に返すための仕組みの提案であったり、例えば隣の席の人や、同じ班の人の授業中の私語が聞こえてくる実際の教室のような空間的概念を取り入れる提案が目立った。
これもまさに私がMacFanのコラムで指摘していたものだが、他の多くの人も、同様のフラストレーションを感じているのだろう。最近、周囲を見渡してみても、そういった試みを目にすることが多い。
例えばspatial.chatというロシアのサービス。これはまさに画面上に仮想空間をつくっては利用者をアイコンとして表示。自分のアイコンを動画や他の人のアイコンに近づけると、近づいた動画や人たちの声は聞こえやすくなるが、それまで聞こえていた動画や人たちの話し声は音が小さくなり、現実世界のような音の空間が再現されている。
ライゾマティクスも、緊急事態宣言中、毎週金曜日に開催していたイベントの後で、同様の音空間を使った実験を行なっていた(Twitchというサービスを基盤にして独自に開発。そこで真鍋大度さんがDJをしていた)。
「授業中の私語」など、先生によっては言語道断で、まったく無駄なもののように思えるが、学生たちがリラックスした気持ちで授業を楽しむには、実はこうした無駄や遊びの部分があることこそが大事なのかも知れない。
(2)の「隙間」というのも、まさにそうした無駄の話だ。ある生徒は、ZOOMでの授業だと、朝起きてベッドの目の前のパソコンの電源を入れたら、もう教室にいる。これだと授業に向けての気持ちの切り替えができない、と指摘していた。通学時間であったり、学校についてから廊下などを歩く移動時間。これもまったく無駄なようでいて、そこでしばらく会っていない友達とのセレンディピティが起きていたり、部活の話をしたり、気分の切り替えなどが行えていた。
しかし、仕事や学校生活が効率一辺倒でつくられたデジタルツールで置き換えられたことによって、そうした本来大事だった「無駄」が突然、切り捨てられたのだ。
今のデジタルツールの多くは、こうした「身体性」をまったく考慮せずに、ただ「用を成す」こと、仕様書に列挙された機能を提供することだけを念頭に作られていることが多い。
「効果的」、「効率的」、「機能的」かつ「実用的」であることに「最適化」はされているが、使う人の気持ちへの思いやりが少ない。
心地よかったり、高揚感をもたらしたり、ポジティブな議論を促したりとかそういうものがない。
ヒトとコンピューターではつくりが違う。
ヒトは休みなく情報の洪水を浴びれば疲れてしまう。また次の仕事、次の勉強への切り替えに時間がかかる人もいる。デジタルコミュニケーションでも、会議でも全員と目を付き合わせて行うのでは疲れてしまうのでよそ見をするくらいの遊びも必要だし、あいづちや私語といった雑音も必要だ。
多くの人がデジタル漬けになることで、今、改めて、こうした「無駄」と見なされていたことが大事だったかと実感した人も多いはずだ。
奇しくも、私は昨年のカナビ(金沢美術工芸大学)でも、「これから無駄がいかに大事になるか」という話をしていた。
3時間以上の講義の内容は多岐にわたったが、扱った中心テーマの一つはAI時代をどう捉えるかだ。AIが、人間を上回る能力で物事を認識し、処理してくれるAI全盛時代、人がそれに対抗しようとしても意味はなくなる。
そんな時代の人間において求められるのが「無駄」を作り出すことではないかという話をさせてもらった。
それまで多くの人にとって
それまで多くの人が関心を持っていなかった地を探究して新しい「価値」を発見するマルコ・ポーロのような探究型、あるいはそれまで価値のなかった物事に、新たな価値を見出し宇宙のように広い世界をつくりだす千利休のように新しい価値を定義する価値創造型。
特に後者は、少なくともAIが人間の道具である間は、出てこない利用法だろうし、そもそも自分と同じmortal(モルタル=いずれは死ぬ)である人間が定義した価値だからこそ、他の人も共感できると思う。
人を魅了する奥深いストーリーづくり、世界観づくり、そして審美眼、こういったものこそが、少し未来、他の人々の共感を伴って、そもそもどのような価値観から生まれAI技術を採用するのか、といった選択にも関わってくるのではないかと思っている。
インターネットやソーシャルメディアの広がりは「共感」や「反感」といった心理であったり、そもそもの「人と人のつながり」など極めて人間的な部分を増幅してきた、というと身に覚えがある人も多いのではないだろうか。
デジタルツールが進歩して、人の生活の中で大きな役割を担えば担うほど、実はそれを使う人の「人間的な部分」こそが重要になる。
「生人間力(なまにんげんりょく)」というのはeatKanazawaというイベントで中島信也さんが放った、なんとも力強い言葉だが、これからの時代はまさにそれが重要であり、そうした「生人間力」を増強するための道具は、人の身体性を考慮したものでなければいけないと考えている。
今日、西田さんのTwitterでAsahi Shimbun GLOBEでも「接触者追跡」データーの記事があったことを知った。
追跡データでの監視の危険性は否定しないが、グーグルやアップルのソリューションで「彼らは一切データを取得しない」と技術的にも企業コメントとしても明言されているのだから、その点正しくない。:新型コロナ感染者の接触者追跡データ 本当に欲しがっているのは誰? https://t.co/iEbKSsEIdM
— Munechika Nishida (@mnishi41) May 17, 2020
多くのマスメディアが取り上げない重要な技術を紹介した歓迎すべき記事だ。
しかも、記事は「プライバシー保護」の観点に軸足をおいていて、これも非常に重要だ。
新型コロナ流行の後、ユヴァル・ノア・ハラリも感染拡大の防止が「監視社会」を促す引き金になる懸念を何箇所かで述べているが、私もまったくその通りだと思う。
日本はデジタルサービスでのプライバシーの問題に鈍感過ぎたので、一般紙で、こうしたプライバシーを検証する連載は価値がある思う。
ただ、この記事には続編が必要だと思った。
それは記事で指摘されているNSAに端を発するプライバシーを無視した「接触者追跡」の技術を反省した、「曝露(ばくろ)通知」という新しい技術が、アップルとグーグルによって開発されており、この技術は「まさにプライバシー保護」をもっとも重要と掲げており、しかも、新型コロナの流行爆発を防ぐ上で大きな希望が持てるからだ。
問題は「プライバシーを重視すること」こそが「曝露通知」のもっとも重視している部分であるにも関わらず、技術のルーツが同じであるが故に正反対の「プライバシーを脅かす」技術と誤解されやすいのだ。
ここでまず、なぜ「曝露通知」では、妥協を許さない徹底したプライバシー保護が重要であるかを、実際の利用シナリオを通して考えてみたい。
「接触者追跡」でも「曝露通知」でも、共通している2つのことがある:
- 人物AがPCRなどの検査を受けて、新型コロナに感染していることが判明したら、アプリを使って、その旨を登録する
- すると人物Aと2週間以内に濃厚接触していた人(例えば人物B)に「感染の恐れがある」という通知が届く
ここで、もし、感染した人なり、濃厚接触した人が、2週間以内にやましいことをしていたとよう。
人にはいえない恥ずかしい場所にいっていた、不道徳なことをしていた、誰かに嘘をついて行動をしていた--なんでも構わない。
もし、ここでアプリが、人物Aなり、その接触者なりのプライバシーをおかして、例えば国だったり地方自治体だったり、家族だったり、職場だったりに、自分がどこにいっていたかや、誰とあっていたかの情報が漏れる可能性があったとしよう。
人物Aやその接触者はどうするだろう?
具合が悪くても健康を装い検査を受けない。あらゆる手段を使ってアプリへの陽性(=感染)情報の登録を避ける。届いた通知を隠す。
こういったさまざまなアプリの価値を台無しにする可能性が浮上してくる。
やがて、自分のスマホに追加した技術のせいで、プライバシーが脅かされると知った人々は誰かと隠れて接触する時にはスマホを持ち歩くのをやめたり、持ち歩いたとしても電源を切ったりしてしまうだろう。
これではせっかくの技術が意味をなさない。
アップルやグーグルは、そんな無駄な技術のために、労力を払うほどバカな会社ではない。
手間隙をかけて新たな技術を提供するからには、ちゃんと効果があることを目指す。
なので、実は利用者のプライバシーを尊重するように何重もの工夫を重ねている。
まず、そもそも利用者がこの機能の利用を望まない場合は、(残念だが)機能をoffにできる設計を採用している。
また、誰かと誰かが30分以上近距離にいた、という事実は記録するが、どこだったかの情報は一切取得しない。また、感染者が自分が感染していたという事実を登録しても、それが誰だったかの情報は一切通知されない。また何時頃にあっていた人かも通知されない(ただし、何月何日にあった人かは表示されるので、その日にその人1人にしか会っていない場合、)人物Bは誰が感染したのか知る可能性はある。ここだけは、まだ工夫が足りないところかも知れない。
いずれにしても、これくらいまでに徹底してプライバシー保護の姿勢を打ち出していないと、せっかく大勢の人が労力をかけて「曝露通知」のアプリをつくっても、それが使われず、効果を発揮できない可能性がある。
だから、「曝露通知」では、利用者が全幅の信頼をおいて安心できるほどまでにプライバシーを保護することが、技術の存在意義に直結している。
さて、アップルとグーグルの両者は、なるべく早くこの技術をiOSとAndroidのOSに搭載しようとしているが、OSの更新は一朝一夕ではできない。そこで段階的な措置として、各国の保険機関と協力しあって1国1アプリの登録制で、この機能を実現するアプリの開発を促しており、こちらは早ければ今月中にも登場する。
ただ、冒頭の記事でも指摘されていたように保険機関やアプリを開発する企業が、個人情報/プライバシーを盗もうとする心配はないのか?
これに関しては実はアップル/グーグルの双方が、アプリのガイドラインとして「利用者については最低限の情報しか集めてはいけない」と固く情報収集を禁じており、アプリを「COVID-19対策以外」に利用することも固く禁じている。アプリが利用者の位置情報を取得することも禁じられており、それに違反するアプリは、そもそもアップル(やおそらくグーグルも)アプリの流通を行わないとしている。そして似たようなアプリが乱立し審査が大変にならないことも考慮して、1国1アプリの登録に限定している。
ここでプライバシーに対しての配慮には納得できても、そもそも効果があるのか?という疑問はあるかも知れない。冒頭で紹介した朝日新聞の記事でもシンガポールの「TraceTogether」やイギリスの事例をあげて、アプリの効果がなかったとしている。
しかし、これにはちゃんと理由があって、そもそもこれらの技術は、アップルとグーグルの協力体制の前に開発されたアプリであり、まだ十分なプライバシー配慮のガイドラインが導入されていなかったり、iOSとAdnroid間ではちゃんと接触が記録されないといった問題を抱えたままのアプリなのだ。
新しい技術がなんでも良いというつもりは毛頭ない。
だが、ただ似たような発想に基づく技術というだけで、まったく別の志でつくられた有望な技術をふいにしてしまうのはあまりにももったいない。
冒頭であげた記事を読んだ人には、ぜひとも「曝露通知」が別の技術であることを認識してもらえればと筆をとった。
ついでながら、せっかくの良い連載なので、Asahi Shimbun GLOBEには、記事の続編として「接触者追跡」とは異なる「曝露通知」についてもしっかりと取り上げてもらえればと思う。技術の概要についてはアップル社もグーグル社もかなり詳細に公開している。
参考までに私がITmediaで書いた記事を紹介したい:
https://www.itmedia.co.jp/pcuser/articles/2005/05/news016.html
戻るべきはどの世界?
“Build Back Better”という言葉がある。
私は東日本大震災の直後に知った。
大きな自然災害で破壊された街の復興。
元の通りに戻さねばと考える人が多い。
でも、そうではなく「前よりも良い状態にする」のがBuild Back Betterだ。
災害への備えの点でbetterという意味で使われることが多い。
ただ、もう少し拡張して、そもそも問題を抱えていた街を、
カタストロフィーを1つのリセットボタンと考えて、もっと良い状態で再創造するという意味にも使えないだろうか。東日本大震災の多くの被災地も、震災前、既に経済の落ち込みや過疎化といった問題を抱え、先行きのない状態に陥っており、膨大な時間と労力をかけて未来のないままの街に戻すことは無意味だと多くの人が議論していた。
同じことは、今年に入ってから人類を襲った新型コロナウィルス感染症(COVID-19)のパンデミックに対しても言うことができる。
COVID-19が牙をむく前、世界では気候変動による大規模災害が大きな関心事で、世界の若者たちが対策の必要性を訴え立ち上がっていた。
各国の代表者たちも、重要性は認めたものの「すぐには実行できない」と気の長い目標を示していた。
だが、パンデミックで、世界中の大都市が、経済活動の自粛をしたことで、今、地球上の大気はここしばらくなかった水準で浄化されている。3月時点で、二酸化炭素の排出量が中国だけで2億トン(約25%)減少、4月時点でPM2.5の量がインドのニューデリーで60%、韓国のソウルで54%減になったという。ヴェネツィアの水もかつてない透明度を取り戻したと話題になっている。
ここで我々に突き付けられるのが次の問いだ:
「もし、ワクチンなどが開発され、COVID-19の流行が抑えられたら、我々は膨大なCO2を排出し、大気を汚しまくっていた経済活動に本当に戻って良いのか」
まだ査読中のものが多いが、大気汚染とCOVID-19の関連性を調査した論文が増えている。イタリアのボローニャ大学では、大気汚染の原因粒子にのってCOVID-19が拡散していた可能性を指摘している。一方、米ハーバード公衆衛生大学院(HSPH)の研究チームも大気汚染と感染致死率の関連性を指摘している。
そもそも昨今の感染症の多くは人間が自然を破壊し、不幸な動物たちの交わりが起きたことが原因というのが、COVID-19禍で大きな注目を集めた感染症映画「コンテイジョン」のラストシーンの示唆であり、アップル社のThink Differentキャンペーンにも登場した霊長類学者ジェーン・グドールの主張だ。
この数ヶ月の経済的ダメージを考えると、今は緊急事態で「もはや環境のことなど考えている余裕もない」という人も少なくないだろう。しかし、そうやって元の活動に戻ってしまったら、そこから一体どうやって将来の「環境改善」に取り組むというのだろう。
こうしたことを踏まえ、我々はどのように経済活動を再開していくのか。
日本はイタリアに比べたら空気がきれいだし、我々には関係ない?では、日本人でなく、イタリア人にはなんと勧める?あなたたちは、これまで通りの経済活動に戻って空気を汚してください?
経済活動再開、その進路は?
COVID-19のパンデミックがもたらしたのは環境の変化だけではない。
日本の社会にも、もはや不可逆となりそうな変化をいくつももたらしている。
改めてパンデミック前後の世の中の変化を振り返ってみよう。
日本では常に東京一極集中が問題とされてきたが、変化をまっさきに求められたのは東京などの大都市で、この後も地方都市から先に緊急事態宣言が緩和され、東京などの大都市だけつづく可能性が高い。
そんな東京。オリンピックでの交通混雑を解消するのに必要だと言われていたにも関わらず、なかなか広がらなかったテレワーク(リモートワーク)。これがCOVID-19による外出自粛で、一気に普及した。
テレワークで、大きな障壁となっていた印鑑の利用もIT担当相の失言が最後のひと押しとなり一気に進むことになった。
こうやって家で働くことが増えれば、自然と裁量労働制へのシフトが進む。
過労による自殺などが話題となり「働きかた改革」の重要性が訴えられていたが、政府が主導していた働き手のモチベーションを無視した就業時間だけで規定する雑な「働きかた改革」よりもよほど本質的な働きかた改革になる。
同時に女性にとって働きやすい仕事環境の整備にも追い風になるはずだ。
就労に関する問題といえば、都知事が公約しつつも、なかなか解決できずにいた東京の満員電車の問題も、COVID-19流行によるオフピーク通勤やテレワークで、いとも簡単に解消されてしまった。お勤めの方々は、これだけ長く平穏を味わった後で、本当にあの人を人とも思わぬ劣悪環境に戻ることができるのだろうか。
皆、どこかで答えはわかっているはずだ。
しかし、ネットで実際に経済活動を再開しようとしている人たちの声やアクションに目を向けてみると、必ずしもその方向性は合致していない。
我々の頭の中にある「仕事のイメージ」は、多くの問題をはらんだままの昨年までの仕事のやり方のイメージだ。
そもそも会社の組織構造であったり、収益源/ビジネスモデルであったり、想定している顧客であったり、収益目標であったりも、昨年のままである。
これまでずっと「一度、立ち止まって本当にこのままでいいのか話し合う必要がある」。
おそらくすべての業界に、そういう声をあげる人はいた。
今、人類は、まさにその立ち止まり、話し合うべき機会を半ば強制的に与えられている。
しかし、中国はそれをしないまま、経済活動の再開への一歩を踏み出し、その立場を利用して世界中で先行者利益の獲得をしようと営業活動を活性化している。
アメリカやヨーロッパも、それに続こうとしている。
と、なれば資本主義の競争からこぼれ落ちないためにも、早実、日本も同じ道をたどり始めるだろう。
そして人類は、再び昨年までの世界に戻っていく。次の大規模災害までの束の間…
おそらく数年間に3度くらい連続でこの規模の災害に見舞われないと、人類はその姿勢を正さないのではないかというあきらめをどこかで感じる。
しかし、それはなぜだろう?と問いただすと、より根源的な問題が見えてくる。
「人間の指揮者に近づけようとはまったく考えていない。だからこそ、ここから新しい指揮芸術が生まれてくるかも知れない」
ー国立音楽大学の客員教授、板倉康明氏
東京大学と国立音楽大学は「オーケストラを用いたヒューマンアンドロイドによる演奏表現の共同研究」を始める。その発表会でのことばだ。
池上高志教授(東大)と石黒浩教授(阪大)による、自発運動プログラムを組み込んだアンドロイド、「オルタ」。
池上教授と作曲家の渋谷慶一郎氏は、2018年、日本科学未来館で、このオルタが歌を歌いながら指揮をするアンドロイド・オペラ「Scary Beauty」を披露した(公演は話題となり、オーストラリアのアデレードでも行われ、今月末にはドバイでも行われる)。
「普通、歌手が指揮をすることはしない。このことからも、この研究が、クラシックの指揮者をトレースすることからハズレている研究だとわかる。」と渋谷氏。
研究では、人とアンドロイドと言う異質なものが、異質性を保ったまま創発的に生み出す音楽を模索する。
具体的に両者には、どのような差異があるのか?
コンサートマスターを務めた学生の北原さんが、鋭い指摘をしていた。
「(人間の指揮者だと)盛り上がると、(テンポが)ちょっと速くなったりするけれど、オルタくんは正確。ヒトと機械の両方の良さ、悪さを知ることができた。」という。
これは機械が良い、人間が良い、という話ではなく、両者の性質の違いだ。
彼女は 「音楽的に盛り上がってきて、速くしたいなと思った時には人間の指揮者の方が良い」とも付け加えている。
「オルタ3」は、奏者50人くらいの表情を見分けられる目も備えており、今後は、実際に表情に合わせてテンポを変えることも研究のひとつとして検討しているのだとか。
冒頭の板倉先生が、ヒトとアンドロイドの創発に関する別のエピソードを紹介してくれた。学生たちは、この発表会に向け3日間、練習をしていた。1日が終わる頃には疲れ果てくたくたになっている学生たち。その時、突如、オルタが明るい表情を見せながら指揮をした。それに釣られるように最高の演奏が飛び出したのだ、と言う。
アンドロイドが意図して、そう演奏させたわけではないかも知れないが、板倉氏は弦楽器科の永峰 高志氏のこんな言葉を引用して、その意味を説明する。
「指揮者の本来の役割は拍を出すことではない。そうではなく音楽の方向性などの内面性を引き出すこと。アンサンブル(つまり演奏を周囲と合わせること)は(指揮者の側ではなく)オーケストラで出すもの。」
そう言う意味では、この演奏は意図の生むに関わらず「オルタ」が引き出した、と言えるのではないか。
学生の北原さんもこう言っていた。
「面白そうと思って参加したものの、初日は(指揮が)わかりづらかったし、(オルタの)見た目も怖かったので不安があった。ただ、やっていくうちに曲にもオルタくんにも愛着が湧いてきた。みんなで(オルタの指揮を)見て集中して合わせようとしているのを強く感じた。」
「タイトル『永遠のソール・ライター』の『永遠』に込めた意味は色々あるけれど、その一つはここ日本がソール・ライターのもう一つのホームグラウンド、という意味です」
1月9日から渋谷 東急Bunkamuraザ・ミュージアムで始まった2度目のソール・ライター展(-3/8まで)のオープニングレセプション、ソール・ライター財団マーギット・アープ理事長の言葉だ。
今年は私がテクノロジージャーナリストとして仕事を始めてから30年の節目の年だ。
で、この30年で、どんな実績が?
記憶力が悪い上に頭は次にやりたいことでいっぱいなので、とっさに思い出せない。
デビューは、世界でも初めてかも知れないシェアウェアを紹介する連載。
これを企画、執筆し雑誌の目玉の1つにできていたと思う。
その後、テクノロジー企業の創業者や研究者、ビジョナリー、思想家、デザイナー、経営者など、もはや会えなくなった人も含め錚々(そうそう)たる人たちを取材し、その言葉を文字に変えてきた。
本も1ダースほど書いた。一部は台湾や韓国でも翻訳出版された。一通りの新聞、テレビ局に出演したし、英米仏韓西(+カタルーニャ)の雑誌、Web媒体やテレビ、ラジオにも出演した(人によってはこっちの方が実績だと思うかも知れない)。
そういえば、日本でのiPhone発売開始前夜祭イベントで孫正義さんと一緒にMCをさせてもらったりなんていうこともあった。
でも、いずれも過去は過去だ。
そんな私が、ここ数年はすっかりテクノロジーよりもアートやデザイン、教育方面に傾注していることはTwitterやFacebookを見ている人ならご存知の通りだ(最近「アート/デザイン関係の方だと思っていました」と言う人も増え、喜ばしく思っている)。
これは自分の中では極自然に起きた変化だが、不思議に思っている人も少なくない。
改めて説明を試みると、自分の中でもいろいろと面白い発見があった。
丁寧に書くとどうしても長くなってしまうので文字数の上限を決めて説明してみたい(ちゃんと伝えるには、長大なメッセージよりも角度を変えた短いメッセージを長期間にわたって何度も出し続ける方が効果的というのは、この30年の学びのひとつだ)。
この5年ほどの間に、ひとつ大きな発見があった。自分にとっては、歳をとってから、自分の性的趣向が他の人と違っていたことに気がついたかのような衝撃の発見だった。
それは、自分がそもそも興味を持っていたのは「テクノロジー」ではなく「未来」の方だった、ということだ。
この「未来」という言葉には、「人類の種としての進化」だったり、「豊かな文化」といった視点も含められている。
それだけに、新たなテクノロジーを不毛な楽しみの道具に変える傾向が強い日本のテクノロジー業界とは、ちょっと相性の悪さを感じていた。とはいえ、十数年の間は、そんなテクノロジー業界にどっぷりと浸かり、それまでの縁をないがしろにしていた。その時点ではテクノロジー業界こそが、自分が所属している唯一のコミュニティーになってしまっていたので周りに合わせて我慢し続けてきた。
これは実は、それなりに大きなフラストレーションになっていた。
「テクノロジー」そのものではなく、そこから生まれてくる「新しい広がり」が好きな私にとってはアップル製コンピューターは必然の選択肢だった。
Apple IIの時代も、Macintoshの登場後も、さらにはiPhoneでスマートフォン時代、iPadでタブレット時代がやってきても、世の中の風景までも変えるような大きなトレンドの変化、世の中に対して「意味」を持つ変化は、常にアップル製品の周辺から生まれてきたように今でも思う。
では、アップルの製品が技術的に、そこまで先進的かと言えば必ずしもそうではない。
もっとも分かりやすい初代iPodを例に挙げよう。
2001年の発表当時、初代iPodに際立って新しいテクノロジーが搭載されていたかというと、答えは「No」だと思う。
では、iPodは何が凄かったかと言うと、製品のデザインだ。ねじ穴1つなく、背面は鏡面仕上げという見た目のデザインのそれも凄かった。だが、それ以上にポケットの中にすべての曲(1000曲)を入れて持ち歩けるというコンセプトがしっかりと練られていた。また、それが絵に描いた餅にならないように1000曲をストレスなく転送できる技術を戦略的に採用したり、1000曲の中から聞きたい曲を素早く選べるホイールを搭載したり…
あらゆる利用シーンをしっかりと検証し、議論し、その上で快適になるまでブラシアップした爪痕を随所から感じ取ることができた。
当時、他の会社からも同じ容量5GB、つまり1000曲を入れられる音楽プレーヤーも出ていたが、1000曲も転送するのは一晩がかりだったり、曲を選ぶのが大変過ぎて使い物にならない、とりあえずスペックを満たしただけの製品ばかりだった。
このiPodが、やがてアップル社を大躍進させ、世界規模で人々の風習を変えたことを考えると、未来をつくっていたのは「テクノロジー」の側ではなく、「デザイン」の方なのだと強く思わざるをえない。
もともとアップル社の製品が好きだったのはデザインに惹かれていた部分もあり、ジョニー・アイブはもちろん、深澤直人さんやIDEO社のデザイナー、さらにはIBM社のデザイン部門まで、デザイン関係の取材はかなり早い時期から始めていた。その背景もあり、2005ー2006年頃からは徐々にデザイン関係の仕事を増やしていった。
デザイン思考という言葉が日本にも広がり始める前後だった。
企業向けなどに行っていた講演でも、デザインこそが全社を貫く横串であり、戦略の中核になるはずだと、 三洋電機の事例などを挙げながら講演していたことを今でも思い出す。
それと並行して、実はアートへの興味も強まり始める。
故スティーブ・ジョブズの誕生日に合わせるようにアップル社は同社の新本社の名前「Apple Park」を発表した。
そしてその少し前、日本のSEIKOとナノ・ユニバースは1982年に発表されたロングセラーの腕時計「セイコー・シャリオ」の復刻を発表。3月から本数限定での発売となる。
もう35年も前の時計ではあるが、実は若い人たちの目にも触れている可能性が高い。
なぜならウォルター・アイザックソンによる故スティーブ・ジョブズの評伝のハードカバー版の背表紙でジョブズが身につけているのがまさにこの時計だからだ。この時計はジョブズにとってかなりお気に入りだったようでGoogleで「Steve Jobs 1983」、「Steve Jobs 1984」といったキーワードで検索をすると、かなりの確率でこの時計を身につけている写真を見つけることができる。実際にジョブズの人生におけるターニングポイントでもある1984年1月の初代Macintoshの発表会の時に身につけていたのもこの時計だ。
この一時代を感じさせる腕時計が昨年、突然、脚光を浴びた。なんとジョブズの所有していた腕時計がオークションで販売されシンプルなクオーツウォッチとしては破格の$42,500(480万円)で落札されたのだ。
今となっては誰もジョブズがどのような経緯で、この腕時計を手に入れたのかはわからない。
ただ、「セイコーシャリオ」は海外で発売されていた時計ではないので、ジョブズは何かでこの時計を知って誰かに買ってきてもらったか(そこまでする可能性は低いだろう)、さもなければ日本を訪問した時に自分で購入したのだろう。
後者の可能性は極めて高い。なぜなら、1982〜3年頃と言えば、ジョブズはMacの開発に関係して日本を頻繁に訪れていた時期だからだ。
ジョブズは当時、日本の工場のオートメーションに大きな興味を示しており、ソニーやキヤノンそしてアルプス電子などを訪れている。アルプス電子では工場見学の後、工場の人たち向けに講演を行い、「第五世代コンピューター」についての質問なども受けたという(その辺りの話はぜひ、私がまとめた追悼ムック「スティ-ブ・ジョブズは何を遺したのか パソコンを生み、進化させ、葬った男」を参照してほしい。このムックの一番最後のページでジョブズの最後の作品として紹介したキャンパスがついに完成と思うと少し感慨深い)。
いずれにせよ1982-3年と言えばジョブズが日本を訪れ、この国への愛を深めていた時期であり、ジョブズが愛していた禅にも通じる日本のシンプリズムや精巧さを感じさせる「セイコーシャリオ」と出会い、自ら購入した可能性はかなり高い。
今回の復刻は、この1982年の時計をかなり正確に甦らしたものだ。例えば「SEIKO」の文字の下に「QUARTZ」の文字が書かれているのも、いかにも1980年代っぽい。最近の時計では「QUARTZ」なのは当たり前すぎてわざわざ刻印しないからだ。ちなみにこのブログを書きながらWIkipediaで調べていたら1980年代はじめというのは、まさにQUARTZ時計が普及し始めた頃のようで、そういう意味では「最新テクノロジー大衆化の先取り」という意味でもジョブズっぽさに通じるところがあるのかもしれない。
■文意は読み手の頭の中でつくられている
四半世紀近く物を書き、情報を発信する仕事を続けた自分がたどり着いたのは「コミュニケーション不信」だった。
少し文章長めくらいで、懇切丁寧に説明しても意図が伝わらないことが多い。
逆に誤解が生じないように簡潔に削ぎ落とした文章でも伝わらない相手には伝わらない。
ソーシャルメディア時代になり、読んだ人の感想を目にする機会が増えたことでつくづく思い知らされたのは、文章の意図と言うのは書き手以上に読み手の頭の中でつくられるという現実だ。
世の中の半分くらいの人は文章を読む時、頭の中で声に変換して読むそうだ(私もその1人だ)。
ここでは実験として、普段、そうしない人も、次の文章を頭の中で、好みの明るい性格の女優さん(友達でもいい)の声を想像して読んで見てほしい
「元気そうね」
ここで一度、スイッチを切り替えて、下のまったく同じ文章を常にどこかにシニカルな雰囲気の漂う声で読み直してほしい(誰も思い当たらない人は美川憲一さんや泉谷しげるさんあたりを想像してもらうといいかも知れない)。
「元気そうね」
まったく同じ文字列が、読み手が明るいムードか暗いムード、頭の中でどっちの声で読んでいるかだけで、まったく印象が異なることが多い。
このように文字によるコミュニケーション成功の鍵の半分以上は、書き手ではなく、読み手の手中にある。
最近、文字だけでは伝わらない感情などを伝達する日本の携帯電話生まれの「絵文字」がMoMAの収蔵品になったが、何か象徴的なできごとのように感じた。
だが、絵文字が完全な解決策ではない。
よく知り信頼している相手による文章であれば自然と好意的な頭の声で読み好意的に受け止められるし、逆に疎んでいる相手、不信感を持っている相手が発した文章であれば、どこかネガティブなフィルターをかけて解釈してしまう。それが人間だと思う。
■コミュニケーションのノイズ
難しいのは文字によるコミュニケーションだけではない。
声を使ったコミュニケーションにも難しさがあることを図で説明したい。
米国の大学に通うと「Communication 101」という必須科目がある。今でも強く印象に残るのは意思伝達に潜む多くのノイズ/障害がいかに多いかの話だ。英語のWikipediaにも項目があるが「Communication Noise」には主に「心理的ノイズ」、「環境的ノイズ」、「物理的ノイズ」、「セマンティック(意味的な)ノイズ」があると言われている。
簡単に図示をしてみても誰かの思いが相手に伝わるというのはもしかしたら奇跡なんじゃないかと思うくらいに障壁が多い。
例え話者が非常に卓越した言語力を持っていたとしても、そもそも1つ1つの語に対して持つ印象「語感」は人によって差異があるものだし、メッセージの発信者と受信者の頭の中で同じイメージの複製が行われることは皆無といってもいいだろう。
さて、上の図の多くは、文字によるコミュニケーションにも当てはまるものだが、私が特に致命的と思っているのが「そもそもの解釈の失敗」という部分だ。
一卵性双生児でも、生まれた瞬間から異なる体験の蓄積が待っている。人々の価値観というものが体験の蓄積で醸成されるのだとしたら、価値観は一人一人皆、異なっているはずだ。
そして価値観が異なれば、同じ物やアイディアに対しても、それをどのアングルから眺め、どう切り取って言語化するかの手法も異なる。
同様にメッセージの受信者も、万が一、すべての障壁を乗り越えて「卓越した能力で言語化」したメッセージを間違いなく受信したとしても、それを解釈し、頭の中のイメージに落とし込むに当たっては、それまでの経験や知識の影響を大きく受ける。
ずっと会話が成り立っていると思っていたのに「え!〜〜の話だったの?〜〜の話だと思っていた」というのはよくあるできごとだ。
TwitterやFacebookなどへの書き込みに対しても、想像もしなかったアングルの脈絡のない返答がきて「この人はどういう思い、どんな認識で、この返信をしてきたのだろう」と悩むことも多い。
■Web 2.0で何が変わったのか
それでも20世紀のマスメディアは、多くの人にその意図を伝え、新しい文化を生み出すことも少なくなかった。これら旧来型マスメディアがうまくいっていた一因は、20世紀メディアの多くが受け手が自分の価値感にあうものを吟味してチューン・イン(選択)をする特性があったからではないか。
視聴者や読者は、情報に触れる前に、ある程度、ふるい分けが行われていた。
例えば同じiPodのレビューでも、ファッション誌なら形や色についてしか触れなくても「技術的考察が少ない」と怒る読者もいなかった(そもそも怒るような読者はファッション誌を買っていなかったり、ファッション誌を読む間だけは頭を切り替えていた)。逆に技術雑誌のレビューに見た目や触り心地を無視していると憤慨する人も少なかった。スポーツ新聞の記事を読んで「ふざけている」と憤慨する人もいなければ、特定のイデオロギーに基づいた本を買って自分のイデオロギーと違うと怒る人もあまりいなかったはずだ。
テレビ番組も、ラジオ番組も、雑誌も、それぞれが世界観であったり共通の価値観を持っていて、門をくぐるという通過儀礼、つまりチャンネルを合わせたり、書店で購入した後は、読者もその価値体型の中で内容に触れていた。
おそらくこれはインターネットが広まり始めてからもしばらくは同様で、ブログが広まり始めたくらいも同様だったかも知れない。
変わったのは、「Web 2.0」というバズワードと共に、ソーシャルメディアが普及してからだと思う。
「Web 2.0」で、それまでの読むだけだった人たちがコメント欄であったり、ソーシャルメディアで情報を発信する側になったことも大きいが、それ以上にソーシャルメディアの普及でコンテンツがバラバラに分解されたことの方が大きいように思う。
人々は面白いニュースをTwitterやFacebookで発見し、トップページを素通りしていきなり目当ての記事に飛び、そのままトップページや他の記事を見向くこともなくTwitterやFacebookに戻っていく時代が始まった。
デジタル技術が音楽アルバムを曲単位の販売に分解したように、Webニュースサイトというコンテンツは解体され、その中のコンテント、つまり個別のニュースが直接アクセスの対象になった。
ソーシャルメディアの投稿やRSSフィードから、1クリック0円とわずか数秒の移動時間で、自分とまったく異なる価値観のコンテントにも首をつっこめてしまう。
コンテントを価値観の合わない人たちとの接触からかくまっていた、コンテンツとしての世界観や価値観の壁が崩落した。