初期近代における「クリスマス終了のお知らせ」

  • 「仮庵の祭からサトゥルナリア祭へ:16世紀の年代学でのクリスマスへの攻撃」Carl Philipp Emanuel Nothaft, "From Sukkot to Saturnalia: The Attack on Christmas in Sixteenth-Century Chronological Scholarship," Journal of the History of Ideas 72 (2011): 503–22.

 1600年代の初頭、とあるプロテスタントの学識者は次のように言いました。

もし私が60年前に我らが主[キリスト]は12月25日に生まれたわけではないと言ったならば、私は焼き殺されていただろう。もしカトリック教徒が今同じことを言ったならば、彼は異端審問にかけられるだろう。しかし私たちの宗教[プロテスタント]ではそれが許される。なぜならここでは真理を話しそれを公言することが許されているのだから。実際、彼らの想定[キリストが12月25日に生まれたという想定]の根拠はあまりにばかげていて、全ヨーロッパがそれに同意してきたというのは驚くべきことだ。

 この人物の反カトリック的なバイアスには注意する必要があるものの、少なくとも1500年代の半ばにいたるまで12月25日がイエス・キリストの生誕日という想定が疑われてこなかったことは確かです。

 ここで彼が「ばかげている」と一蹴している根拠とはなんでしょう。それはベーダという修道士・司祭が735年に著した書物にまでさかのぼります。そこで彼はローマの古い慣習では冬至が12月25日とされていたことに言及し、この日をキリストの生まれた日とみなしました。この想定をするさい彼はさらに以前(300年代)に書かれた著作に依拠していました。この著作では、そこから日照時間が長くなりはじめる冬至という日が、世界に光をもたらすキリストの生誕の日にふさわしいという象徴的解釈がなされていました。

 この12月25日説が疑問視されるようには宗教改革の嵐が吹き荒れる1500年代半ばからでした。ちょうどそのころある古代の著名な教父の著作が印刷にかけられます。そこではベーダの想定とは異なる3月、4月、あるいは5月がキリストの誕生日ではないかという説が唱えられていました。すでに古代の時点でいつ生まれたかよく分からなくなっていた!

 1575年にカルヴァン派の説教者であり、ジュネーブで哲学教授をつとめていたベロアルドゥスという人物が『年代』という著作を出版します。そこで彼はベーダが用いている史料(300年代に書かれたもの)がイエスの生誕日を確定するために聖書から引き出している情報が、当時のユダヤ教についての無理解にもとづく誤ったものであることを指摘し、12月25日説を否定します。代わりに彼は旧約聖書、新約聖書、あるいはそれらに付されてきた注解を根拠にして、キリストは12月ではなく10月に生まれたのだと主張しました。

 12月25日説にたいする批判の根拠は、より実際的な理由からもなされました。たとえばハインリヒ・ヴォルフという改革派の人物が1585年に出版した著作では次のようなことが書かれています。イエスが生まれたころにアウグストゥスの命令によってローマの全戸口調査を行う命令が出されたとあるが(ルカ2:1)、アウグストゥスほどの賢帝がそんな年末の寒くて雨ばっかりの時期に人々をはるばる歩かせて調査に協力させるとかありえないだろ、常識的に考えて。

 さらに1590年代に入ると、クリスマスというのは異教の祭りを起源とするものではないかという説が唱えられはじめます。スイスの神学者であったホスピアヌスという人物は1593年の著作のなかで、クリスマスというのはローマで農耕の神サトゥルヌスを祝うために12月17日に行われた祭りに起源があるのではないかと疑いはじめました。最初に12月にお祭りをはじめた人たちは、別にキリストの誕生日を祝おうとしていたのではなくて、当時ローマで行われていた祭りをキリスト教化しようとしただけではないかというのです。そう言われてみると、子供にプレゼントをあげる、あるいはとりわけ暴飲暴食を行うというクリスマスの慣習は、いかにもローマの祭りに起源を持っていそうです。実際彼によれば、クリスマスというのはエピキュリアンたちがワインを飲みまくる唾棄すべき行事に成り果てていました。

 1594年にはさらに新たな証拠が見つかります。ある古代の教父がアンティオキア(今のトルコにある町)で386年に行った説教のなかで、12月25日にキリストの生誕日を祝うという行事は10年前には知られておらず、最近になって「西」からやってきたのだと言っていることが分かったのです。

 冒頭で引用した学者はヨセフ・スカリゲルという初期近代最大(というか史上最大)の年代学の権威なのですが、彼はこの証拠を目の前にして断言しました。「西」というのはローマのことだと。つまりすでに異教徒たるローマ人が行っていた祭りをキリスト教化したのが12月25日のクリスマスだということになります。スカリゲル自身は旧約その他の資料を駆使して、イエスの生誕を紀元後3年の9月下旬から10月初旬にかけてのどこかだと主張しました。

 このようなクリスマス批判を行った者たちはみな、12月25日という日付が間違っているから、別の日付に祝祭を移そうと主張していたのではありません。彼らはクリスマスという祝祭の無根拠性を問うていたのです。この問いを通じて彼らが行っていたのはカトリック批判でした。カトリックの教えのもとで実践されてきたクリスマスというのは、聖書に根拠はなく、実際に行われている祭りも堕落したものであり、しかもあろうことかそれは異教起源なのだ。このように主張することで彼らはプロテスタントの立場から、ローマの宗教実践を突き崩そうとしていたのです。

 彼らはルネサンス以降人文主義によって研ぎ澄まされてきた文献学というメスをふるい、常識の無根拠性を明らかにし、それにより伝統的権威を無力化しようとしていました。1647年にイギリスで出されたクリスマス禁止令というのも、このような年代学者たちによる挑戦があってこそ成り立ちえたものです。

 暦をあつかう年代学という学問は、学識を武器に争われた正統性の奪い合いのアリーナであり、12月25日のクリスマスはその主たる係争点の一つでした。「クリスマス終了のお知らせ」は学問的であると同時に、宗教的であり、宗教的であるがゆえに政治的なメッセージだったのです。