みなさんの常識は世界の非常識

みなさんの常識は、世界の非常識Vol.8

ISISになぜ人が集まるか。承認欲求の満たされない世界

2015/4/10
「みなさんの常識は、世界の非常識」では社会学者の宮台真司氏がその週に起きたニュースの中から社会学的視点でその背景を分かりやすく解説します。※本連載はTBSラジオ「デイ・キャッチ」とのコラボ企画です。

ISISなどの過激派組織に参加した外国人戦闘員の数が、2万5千人を超えたとみられることが、国連の調べで分かりました。昨年半ばから7割増えたとしていて、外国人戦闘員の出身国は、チュニジア、モロッコ、フランス、それにロシアがあげられます。

渡航先は、ISISが活動するシリアとイラクで2万人以上を占めているということです。宮台さん、明らかに非合法的なテロ組織に世界中から人が集まってしまうのは、いったいなぜなのでしょうか?

ホネットの「第三の承認」の場としてのISIS

昔は、外国からの傭兵というと、アフリカなどによくあることだけれど、お金がなくて、家族を養うために仕方なく働きにいくという話で、フーベルト・ザウパー監督の『ダーウィンの悪夢』(2004年)が描くような、市場化に組み込まれたがゆえの貧困が専らの理由でした。

ところが今は状況が違っています。社会思想家であるアクセル・ホネット氏の言葉を使えば「承認をめぐる闘争」になりました。チュニジアが典型ですね。この国はアフリカで最も豊かな近代国家なのに、ISISへ参加する人が多いのです。しかも貧困層ばかりでもありません。

次のように想像できます。「社会の中で承認されるポジションに就けるはずだったのに、就けなかった」「ポジションに就いたのに、期待していた承認が得られなかった」人たちが、「承認が得られる代替的な場所」を探し、それがISISだと思い込むのではないか、と。

ホネット氏は3種類の承認を区別します。第1が「愛による承認」。入れ替え不能な個体として承認され「自己信頼」感情が生まれる。不全が「虐待」です。第2が「法による承認」。権利と責任を持つ個体として承認され「自己尊重」感情が生まれる。不全が「権利剥奪」です。

そして第3が「連帯による承認」。共同体にとって貢献的価値を持つ個体として承認され「自己価値」感情が生まれる。不全が「尊厳剥奪」。社会の中で承認されるポジションに就けるはずだったのに…」「承認されるはずのポジションに就いたのに」はこれに当たります。

ホネット流に言えば、社会の中に、貢献的価値を持つ個体として承認してくれる共同体がないから、代替的な承認共同体を追い求めて、豊かな先進国の人々が「そこ」に出かけるわけです。「君がいるからわれわれはここまで頑張れるんだ」と褒めてくれる「そこ」に出かける。

〈共同体にとっての価値〉を承認してもらえない

この第3の承認は、第1や第2と違って、単なるアクセプタンス(受容)ではなく、アプルーバル(賞賛)です。自分の〈共同体にとっての価値〉を、肯定してもらうことです。先進国でも──先進国だからこそ──社会が空洞化して、この承認が得にくくなるのです。

ここには、オウム真理教の幹部信者たちと、とてもよく似た構図が見出せます。オウム真理教の幹部信者は、多くが特段の貧困層ではありませんでした。むしろ豊かな中流家庭で、高い教育を受けた人たちが多数存在した、というのは、皆さんもご存じの話でしょう。

僕は1980年前後に自己啓発セミナーに関わっていましたが、驚いたのは、後のオウムと同じく、ピカピカのエリートたちが集まっていたこと。彼らは不全感を抱いていました。でも、オウム信者らがそうだったと上野千鶴子氏が主張する「二流エリート」ではなかった。

そこに見られたのは「目標に到達できなかった」という挫折感ではなく、専ら「目標に到達したのに自分は輝いていない」という〈こんなはずじゃなかった感〉でした。実際「目標を達成したのに、親以外は自分を褒めてくれない」と思いを語るエリートが目立ちました。

ここには2つの要素があります。第1は、耐久消費財の一巡によって「物の豊かさ」の時代が1970年ごろまでに終わった結果、多くの人が社会学者ロバート・キング・マートン氏の言う「目標のアノミー」に陥り、間違った目標を自分の最終目標として掲げる、「目標混乱」が起こったこと。

第2は、目標混乱の背景でもありますが、自分の「共同体にとっての価値」を認めてくれる社会が消えたこと。僕が東大に入った頃は、帰省すると駅で軍楽隊がお出迎えという先輩たちがいました。「錦を飾る故郷」があったのです。今ではそんな地方は残っていません。

代替的な承認チャンスを提供する集団に向かう

せっかく東大や京大や早慶に入ったのに、誰も僕のことを見てくれない。高い教育を受けて社会の中で〈共同体にとっての価値〉を承認してもらえるはずだったのに、得られない。そういう人たちは世俗社会の「外」に〈代替的な承認チャンス〉を探すようになります。

これを宗教社会学では〈代替的な地位達成〉に向かう〈埋め合わせ動機〉として記述してきました。現実社会で(承認が得られる)地位達成がうまくできない人が、宗教教団で代替的な(承認が得られる)地位達成をしようとする動機づけを持つことを言っています。

オウムの幹部信者たちの場合が、まさにその典型でした。他方、ISISに参加しようとする先進国や近代国の若者たちも、よく似ています。まさにISISこそが、自分の〈共同体にとっての価値〉をめぐる代替的な承認の場だと思いこんでやってくるわけです。

オウムに基本的な洗脳手法を提供した自己啓発セミナーに関わっていたので分かりますが、こうした問題が日本でも、1980年代には既に顕在化していました。背後にあったのは、自分の〈共同体にとっての価値〉を承認してくれる家族共同体や地域共同体の空洞化です。

ホネット氏の議論を待つまでもなく、これはシステム(マニュアルに従って役割を果たす、個人が入れ替え可能な場)が、生活世界(善意と内発性をベースにした、個人が入れ替え不可能な場)をどんどん侵食する成熟した近代社会では、一度は必ず起こることだと考えられます。

中間層の分解が問題を深刻化させている

僕たちがその解決方法を見つけ出せない間に、今度はグローバル化による資本移動自由化と、IT化によるホワイトカラーのお払い箱化を背景として、急速な中間層分解による社会の空洞化に直面。人々はますます〈こんなはずじゃなかった感〉に苛まれています。

昔だったら故郷に錦を飾るエリートになれたはずの、しかしもはや、それがあり得ない人たちが、ママに言われて一生懸命頑張って、「いい学校、いい会社、いい人生」的な地位を達成したはずなのに、実際には「なんなんだ、これは?」ということになるのです。

さて、ISISにおける承認欲求の問題に関しては、ちょっと面白い記事があります。インドネシアの英字新聞、ジャカルタポストに掲載された記事です。日本でも産経新聞が紹介したから読んだ方もいらっしゃるでしょう。原文を参照しつつ意訳しましょう。

ISISから戻ってきて逮捕された31歳の男性、アフマド・ジュナエディ氏は、ジャカルタポストのインタビューに答え、「ISISでの生活は、事前の想像とは違っていて、退屈だった、参加する価値はなかった」と語りました。

「シリアでは、1日2時間だけライフルを持って周囲を警備する他は、電気もない家に大人数で押し込まれ、ずっとコーランを読む毎日だった。〈自分がほとんど誰の助けにもならないと感じ〉お金もろくにもらえなかった」としています(〈 〉は宮台が加筆)。

※「ジャカルタポスト」当該記事へのリンク

カウンターインテリジェンスは大切だが解決策ではない

男性が実際に発言したことが新聞掲載されたのかどうかを横に置くと、明らかにISISの情報宣伝に対するカウンター戦略です。「ISISでもあなたは承認されないよ、誰の助けにもならないよ」と。こういうカウンターインテリジェンスが非常に重要なんです。

それは地下鉄サリン事件直後に僕が『終わりなき日常を生きろ』を出してやろうとしたことです。ただし、重要ではあれ弥縫(びほう)策にとどまり、問題解決にならない。今後も〈共同体にとっての価値〉を承認してもらえない人たちが、代替的な承認チャンスを求めて蠢きます。

ISISがたとえ殲滅されても次が出てきます。よく言われるように転移性がんに似て、完治があり得ないのです。共同体の消滅と社会の空洞化を放置して、グローバルな資本主義経済が回る限り、ISIS参加のごとき「承認をめぐる闘争」が永続するのは確実です。

そう考えると、ISISが提起する──古くはオウムが提起した──問題は、人体で言えば転移性がんに比すべき、実に大変なことなのです。日本人が殺された事実はとても痛ましい話ですが、そこだけが問題なのではないことをお分かりいただけたでしょうか。

(構成:東郷正永)

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