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政治に学歴フィルターはいらない 町山智浩の小野田紀美への「偏差値35で学術会議担当?」発言を許すな

常見陽平千葉商科大学基盤教育機構准教授/働き方評論家/社会格闘家
小野田氏の政策、スタンスには批判的な立場ですが、町山智浩の批判は論外です。写真:ロイター/アフロ

 町山智浩が、日本学術会議関連の政策を担当する小野田紀美に関して「偏差値35で学術会議担当?」と投稿している。すでにSNS上では町山に対する批判が渦巻き、怒りが燎原の火のように燃え広がっている。

「学歴」で政治家を裁く危うさ

 この発言は、極めて危うい発言である。この発言を放置してはならない。率直に、左派、リベラルからの雑な批判の好(?)事例である。高市政権への批判として不適切である。

 ただ、政治家のあり方を考える上でも、高市政権について議論する上でも、日本の大学を考える上でも、考える機会にはなる。炭鉱のカナリアとして、時代の空気の危うさを察知した。警鐘を乱打したい。

 政治に学歴フィルターを設けてはならない。そう叫びたい。

「多様な議員」がいてこそ民主主義は前に進む

 代議士とは、国民の代わりに議論をする職業である。そして、様々な人が議論に参加することによって民主主義は前に進む。民主主義は議論を重ねる。単純に多数決で決めてはならない。議論を尽くし、少数意見に光を当てた上で多数決をする。

 私は国民の代わりに議論する人は、できるだけ多様な方がいいと思っている。つまり、議員は多様であった方がいいと考えている。

 たとえば、よく批判される芸能人、スポーツ選手などが議員になることについて、私は極めて肯定的である。彼ら彼女たちは真摯に国民と向き合っている。世界と向き合っている。もちろん、単なる集票マシーンと化す可能性はある。政治家としての能力、資質は問われる。ただ、このような議員を切り捨てていくと、政治は、やや極論であるが世襲議員、官僚・弁護士上がり、大手企業出身者が中心のものになってしまう。ただでさえ、定数削減が話題になる今日このごろだ。議会の多様性を守らなくてはならない。

 閣僚の最終学歴には、東大や早慶、海外の大学などが並ぶ。ここで、様々な大学出身者、さらには最終学歴が大卒・院卒でない者がいた方が、多様な視点が生まれるという考え方もあるのではないか。

「偏差値」で思考停止してはならない

 町山は小野田の出身大学、拓殖大学の直近の(あくまで彼が認識している)偏差値をもって、偏差値帯が低い大学の出身者が学術会議担当をすることを問題視した。町山の偏狭な視点の問題点は後述する。ただ、様々な出身大学の人がこの問題に向き合うことで、解決策が見えることもあるのではないか。学術会議に関する議論を東大、京大卒が独占していいのか。

 ここで、町山の指摘する「偏差値」について考察する。偏差値は偏差値であって、偏差値でしかない。大学の偏差値は、その時期によって変化する。大学のラベル、レベルは一部重なるが、分けて考えなくてはならない。小野田の受験時と今の偏差値も異なる。

 大学を見る上で、偏差値以外の着眼点は多数ある。歴史、伝統などもそうだ。偏差値と関係なく、教育や研究について特定の分野において突出している部分もある。

 釈迦に説法だが、そして一部はトートロジーになるが、一般に語られる「頭がいい」「成績がよい」「受験で第一志望に合格した」「大学で教養・専門知識を身につけた」「卒業後に難関企業に入社した」は、それぞれ概念が異なる(あえて雑な表現にしている)。さらには、入学先の大学は必ずしも「頭のよさ」「成績のよさ」というだけで決まるわけではない。受験の方法も、問題の傾向も多様である。

教育と格差、ジェンダー

 さらには、どれだけ保護者が教育に投資するか、教育を重要視するかという問題もある。たとえば、ここ数年、旬なテーマであるが、ジェンダーの論点がある。女性の東大進学、理系進学は、保護者や進路指導担当者の影響が指摘されている。端的にいうと、差別的な表現をあえて書くが「女の子は受験で苦労しなくていい」「東大や理系は男の子が行くところ」という価値観である。「男の子」には難関校受験のために教育にお金を注ぐ、都市部の大学に進学させるが、「女の子」にはそうしない。そんな家庭内差別がこの国には蔓延していないか。

 町山は小野田の出身大学の偏差値を問題視したが(その発言自体看過できないが)、仮に町山の主張を365歩譲って前提とし、「小野田は偏差値が低い大学に進学した」という事実の先に、「小野田がもし男性に生まれていたら、より偏差値の高い大学に進んで(進ませてもらって)いたのではないか」ということも想定されないか。誤読されないように強調しておくが、女性が男性に劣っているということを言っているわけではない。男性が女性よりも教育について投資されているという差別的な問題を指摘している。

「学歴フィルター」は就活だけの話ではない

 町山の視点はいわば、政治に「学歴フィルター」を設けるような危険な視点である。この言葉は、就職活動における学校名による差別、区別などを表現したものだ。より具体的な現象で言うならば、大学名などにより選別され、受付開始時間と同時に申し込んだのに、決められた大学名の人しか企業説明会の予約が取れない、選考において力作のエントリーシートが大学名で落とされる、などである。学歴差別・区別があるのかは一部、都市伝説的に語られる。実際、「学歴差別をしています」と宣言して採用活動を行う企業は存在しない。

 各社がどのような大学群から採用しているかは、各社の採用ホームページ、就職ナビサイト、大学の進路実績ページ、東洋経済新報社が発行する『就職四季報』、各種ビジネス雑誌の特集などで確認できる。これについて、データをもとに集計した調査も積み重ねられてきた。学校名・学校群と就職先について研究した調査は多数存在するが、大手企業は選抜度の高い大学の合格者が多いことは、傾向として確認できる。

 政治に、民主主義に、学歴フィルターはいらない。町山の発言は、政治を受験競争や就活の延長上で捉える危険な発想ではあるまいか。

大学不要論への反論 —— 知の基盤を軽んじるな

 なお、この場を借りて主張しておくが、よくある「Fランク大学など潰してしまえ」「低偏差値大学などいらない」という論について、NOを突きつけたい。

 「大学不要論」が叫ばれる。今年、財務省の審議会では「大学なのに義務教育レベルの授業が行われている」との批判がなされ、定員割れ私大の存在意義に疑義が呈されたと報じられた。

 しかし、基礎学力の不足は大学のみに責任を負わせられるものではない。むしろ、中等教育段階において学力保障が不十分である現実を直視すべきである。大学における基礎教育の実施は、大学が「劣化」したわけではなく「リカバリー」であり、教育のセーフティネットとして不可欠な役割を担っている。大学を安易にスケープゴート化する議論は、教育政策の全体像を見誤らせる危険をはらむ。Fランク大学は、人を育てる力においてはSランクかもしれないのだ。

 大学は教育機関であると同時に、研究機関でもある。この二重の機能を軽視することはできない。定員割れ大学であっても研究者が所属し、学問が維持されることで、学術基盤はかろうじて保たれる。学問の蓄積と研究の深化は国力に直結する。

 大学の数を議論する際は、分野や地域の視点が不可欠だ。大学はコミュニティでもあり、地域に存在することで若者の流出を抑える効果も期待できる。

 ラベル(大学ブランド)ではなくレベル(実際の学習経験)、学校歴ではなく学習歴が問われる時代になってほしい。淘汰の時代においても、大学は社会の知的基盤であり、地域社会の核である。その存在理由を再定義することが、学生と社会双方にとっての不可欠な課題となる。

日本の左派、リベラルよ、レベルの低い批判で高市早苗を応援するな

 町山の論の別の視点での危険性を指摘しておく。それは、左派、リベラルからの高市早苗や内閣に対する批判のレベルが低いということである。「わたしのかんがえるさいこうなはつのじょせいそうりだいじん」と高市早苗がズレていることの違和感が発せられる。「右派」的な政策への懸念が伝えられる。ただ、劣化した批判はむしろ高市早苗政権を強くしてしまう。

 高市政権の中でも、小野田は保守層から支持されている上、担当領域においてタカ派的な政策をとることが懸念されている。特に担当する外国人政策などにおいてはそうだ。いわば、多様性を尊重しない政権になることが懸念されている。

 町山もその点を懸念したのだろう。ただ、多様性を抑圧すると目される政治家に対して、学歴などを持ち出し批判、いや否定し、多様性を抹殺しようとする極めてこじれた状況になった。このようなレベルの低い批判が、左派、リベラルを後退させるのである。

「会いに行ける左翼」として

 ここまで書いておいてなんだが、私はネットで「パヨク」と罵倒される左翼知識人である。高市早苗政権、中でも小野田のようなスタンスの政治家がどのように動くか、危機感を抱いている。

 ただ、このような高市早苗、内閣に対するレベルの低い批判、思想の迷走にはうんざりしているのだ。左派、リベラルは終わりだと言われる。各党もライトにシフトしている。そんな中、私は長年掲げている「会いに行ける左翼」の名に恥じぬよう、左翼知識人として、新しい左翼の姿を創るのだと、ここに決意を新たにしたのである。これからの左翼の話をしよう。

千葉商科大学基盤教育機構准教授/働き方評論家/社会格闘家

1974年生まれ。身長175センチ、体重85キロ。札幌市出身。一橋大学商学部卒。同大学大学院社会学研究科修士課程修了。 リクルート、バンダイ、コンサルティング会社、フリーランス活動を経て2015年4月より千葉商科大学専任講師。2020年4月より准教授。長時間の残業、休日出勤、接待、宴会芸、異動、出向、転勤、過労・メンタルヘルスによる休職など真性「社畜」経験の持ち主。「働き方」をテーマに執筆、研究に没頭中。著書に『50代上等!』(平凡社)『なぜ、残業はなくならないのか』(祥伝社)『僕たちはガンダムのジムである』(日本経済新聞出版社)『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)など。

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