フロイスは見た!荒木村重の妻女らが残酷にも処刑された、目を覆わんばかりの光景とは?
天正6年(1578)、荒木村重は織田信長に反旗を翻したが、やがて劣勢に追い込まれると、翌年9月に有岡城(兵庫県伊丹市)を脱出し、尼崎城(同尼崎市)に移った。これを知った信長は、村重の妻女らを処刑としたので、その経緯を取り上げることにしよう。
村重が有岡城から尼崎城に移ったことについては、村重が信長に許しを乞うても無駄と考え、家臣らに気付かれないよう脱出した、とフロイスの『日本史』に書かれている。この点については、尼崎城に移って大坂本願寺との連携を図ったという説もある。
いずれにせよ、有岡城に残った村重の妻女には、前代未聞といわれる悲劇が待ち受けていた。信長は裏切った村重に対して、激しい怒りを覚えていたからだ。以下、フロイスの『日本史』により、信長が無慈悲にも決行した処刑の模様について確認することにしよう。
信長は、村重の妻、2人の娘ら近親者36名をすべて捕縛するように命じた。捕らえられた村重の妻らは、死刑の判決を記した板を立てた荷車に乗せられ、京都市中を引き回しにされると、処刑場となる法華宗の大寺院に到着したのである。
村重の妻は「だし」といい、貞淑さと天性の美貌を誇っており、常に大いなる安らぎを表情にあらわしていた。「だし」は荷車から降りる際、振り乱れた髪を結び、身だしなみを保つため、腰帯を締めると、高価な衣装を身にまとったが、ほかの者たちとともに斬首された。
次に、有岡城に籠っていた貴婦人120名が捕縛され、最後の判決を持っていた。その親族らは彼女らを救う方法がないかと考えたが、それは成功しなかった。貴婦人は処刑になることが決定し。尼崎の七松というところで磔刑に処されたのである。
貴婦人の中には幼子のいた者もいたが、母親を苦しめるため、幼子を母親の胸に括り付け磔刑に処された。全員が磔にされると、刑吏が銃弾あるいは槍で彼女らを殺害したのである。処刑の現場を見た人は肝をつぶし、何日も放心状態で過ごしたという。
その後、514名の男女は小屋に入れられ、生きたまま焼き殺された。まさしく阿鼻叫喚の生き地獄だったが、それは信長の村重に対する怒りが爆発したものといえよう。