「19歳、息子の命は数本のポールになった…」9回目の命日、大桟橋通りで母は
横浜スタジアムの前に建つ中華街の北門(通称「玄武門」)。多くの観光客やビジネスマンが行き交うその門を背に佇むのは、茨木計江さん(63)です。
大桟橋通りの中央分離帯に立ち並ぶオレンジ色のラバーポールを指さしながら、茨木さんは語ります。
「このポールは、息子が亡くなってから数ヶ月後に設置されました。そして、右折禁止になったんです。ここでポールを最初に見たとき、主人は『あの子の命は、数本のポールになったんだ。もう、あそこで死ぬ人、いないね……』と悲しそうにつぶやきました。あの言葉を、いまも忘れることができません」
2015年12月30日、茨木さん夫妻は長男の佐介さん(当時19)を交通事故で失いました。
なぜ、佐介さんはこの場所で突然命を奪われたのか。なぜ、この事故を未然に防ぐことができなかったのか……。
佐介さんがこの場所で、突然命を奪われてから、今日で9年。交通事故の被害を一件でも減らしたいという思いを込め、母親の計江さんにお話を伺いました。
■2015年12月30日、息子と交わした最後の会話
「お母さん、俺、やりたいことがいっぱいあって大変だわ」
それは、2015年12月30日、お昼前のことでした。長男の佐介はバタバタと横浜へバイトに出かける用意をしながら、こう続けました。
「1月23日までに車の免許を取り終えて、友達とスノボに行って、2月3日はまた山に戻ってインストラクターの資格をとって、夏にはカナダに留学だし」
「大変だ」という割に、とっても嬉しそうに話すその姿を見ながら、私は毎日が充実していることが嬉しく、「ひとつずつつぶしていかなくちゃだね」と言いました。
すると佐介は、
「そうなんだよ」
と答えながら、笑顔でバイクにまたがり、いつものように出かけていきました。
それなのに、まさか、それがあの子との最後の会話になってしまうなんて……。
19歳の佐介は、この日を最後に、人生で一番楽しい時間を断ち切られ、やりたかったたくさんのことが何ひとつできなくなってしまったのです。
■事故多発の危険な場所だとわかっていたのに…
その日の夜10時34分ごろ、事故は起こりました。
佐介は赤レンガ倉庫のレストランでのバイトの帰りで、カワサキのZZR250に乗って海方面から大桟橋通りを直進していました。
そして、バイクが横浜スタジアムの前にさしかかったとき、対向してきた1台のタクシーが、突然、中華街の北門通りへとと右折したのです。
いわゆる「右直事故」です。いきなり対向車が自車線に飛び出してきたため、佐介は避けきれず、とっさにバイクを捨てるかたちで衝突を避けようとしましたが、結果的にタクシーの前方で衝突されたのです。
事故直後、最初に駆け寄ってきてくださった方が、偶然にもお医者さんと看護師さんだったそうで、すぐに心臓マッサージやAEDをしてくださったようです。加害者が車から降りてみたとき、佐介はすでに半目で、声かけにも反応はなかったとのこと。胸部打撲で即死でした。
佐介は小学生の頃からオフロードで腕を磨き、レースもやっていて、「バイク仲間のためにも、バイクでは死にたくない。自分ほど気をつけている人間はいない」とまで言っていました。それだけに、なぜあの場所で……、と不思議でなりませんでした。
その瞬間の佐介の胸の内、無念さを思うと、いたたまれない思いがしました。
事故現場は神奈川県で最も古い歴史のある加賀町警察署のすぐそばです。事故後、警察からは「あそこ、危ないところなんです」と言われました。右折する先の横断者に気を取られ、あんなに広い道路なのに、前方から近づいてくる直進車を見落としがちなのだと。
加害者のタクシー運転手は67歳でした。彼も事故直後はこう供述していました。
「あそこは危ないので、いつもはあの場所で曲がらず、ひとつ先を右折していたのに、あの日はたまたま……」
そして、
「前を見ていなかった」
とも。
■ドラレコに記録されていた危険な直近右折
半年近くたって警察に呼ばれたとき、こちらからお願いして初めてタクシーのドライブレコーダーに記録されていた動画を見ることができました。そして、衝突に至った事実が明らかになりました。
タクシーは前から佐介のバイクのライトが近づいているにもかかわらず、突然、右折を開始し、ウィンカーはほぼ曲がりながら出していました。あれでは、息子がいくら気をつけていても、対向車が右折しようとする素振りを予期することはできなかったはずです。
ドライブレコーダーの映像を確認した私たちは、あの子が悪くなかったこと、一方的に殺されたことがわかったことで、さらに悔しさが募り、苦しめられました。
そもそも、警察もあの場所で事故が多発し、非常に危険だとわかっていたのなら、なぜ初めから右折禁止にしていなかったのでしょうか。
誰かが死ななければ、できないことなのでしょうか。
あのポールが最初からあれば、息子は生きていて、今も楽しく暮らしていたはずなのに……。
■刑事裁判で供述を変えてきた加害者
実は、事故直後「前を見ていなかった」と供述していた加害者は、その後、「バイクが来るのを見たが、行けると思って行った」と供述を変えてきました。少しでも自分の非を少なくしようとしたのでしょうか。明らかに後付けで言い出したことです。生きている人間は、後から思いついたり、入れ知恵されたことを言うことができるのです。
何より驚いたのは、私たち遺族が支援弁護士をお願いするまで、ドライブレコーダーの映像という最も客観的な証拠が、刑事裁判の中で検証されていなかったことです。
その後、私たちは刑事裁判に被害者参加しましたが、判決は、懲役1年4ヶ月執行猶予3年というものでした。
弁護士の先生は早い段階で私たちが望んでいることを汲み取り、力を尽くしてくださいましたが、この結果はとても納得できるものではありませんでした。
このような一方的な事故で人の命を奪っても、何もなかったかのように普通に暮らせるという交通事故の刑の軽さ、これでは誰も本気で気をつける気にはならない、私たちが目指した抑止力にはなりません。
刑事裁判のとき、加害者から一度きりの謝罪がありました。でも、その後、連絡は一切なく、お墓の場所すら聞いてきません。私たちには、あの場限り、刑を軽くするためだけのポーズにしか思えませんでしたが、それが反省の気持ちととらえられ、執行猶予の理由になっていることを思うと、本当に悔しい思いです。
■あの日から私は悪夢よりひどい現実を生きている
あの子の可愛い顔を見ているのが好きでした。大きくなって正面切ってじっと見ることができなくて、パソコンに向かっている姿を、ご飯を作りながら横目で盗み見ていました。私の作った料理を美味しそうに食べる顔や楽しそうにギターを弾く姿、もう二度と見ることができないのが今でも信じられません。
あの日から私は悪夢よりひどい現実を生きています。毎日、毎日、朝起きて仏壇を見ては、『この悪夢はいつ覚めるんだろう』と、また1日悲しく辛い日の繰り返しです。何を見ても悲しく、どんな前向きな言葉も私には響きません。
バイト先の社長さんや店長さんも、「あと30分早く上がらせていれば……」と涙ながらに謝ってくださいました。違うバイクだったら、とか、『あと1分、いや数十秒早かったら、遅かったら』とか、そんなことをぐるぐるぐるぐる考えてしまいます。
でも、違うんです。加害者がちゃんと直進車を見て曲がってさえいれば、あの子は生きている、ただ、それだけなんです。それが、今ある事実の全てです。
あまり怒らない佐介も、
「ふざけんな、俺の人生返せ、俺の大事な人たちをこんなに悲しませて、どういうこと? どうしてくれんの」
さすがに天国でそう思っているでしょう。
2016年8月10日は、佐介20歳の誕生日でした。主人はシャンパンを注ぎ、仏壇の前でグラスを傾けていました。本当なら一緒にお酒が飲めるようになる日でした。20歳を迎えさせてやりたかった。
9年前の12月30日から私の世界は変わってしまいました。変われるものなら変わってやりたかった……。今もそう思い、苦しみ続けているのです。
《筆者コメント》
2024年も数多くの交通事故被害者、遺族の声を取材し、取り上げてきました。しかし、その中には、想定されている危険に対してきちんとした対策が施されていれば防げたのではないか、という事案も多くありましした。
今回お話してくださった茨木さんのケースも、現場では以前から右直事故が多発し、「危ない場所」と認識されていました。なぜ死亡事故が起きるまで、右折禁止にしなかったのでしょうか。
2024年9月、高知東部自動車道で起こった正面衝突事故(「息子の胸は切り開かれ、小さな心臓が見えて…」父の悔恨と怒り ドラレコ映像公開【高知正面衝突事故】(柳原三佳) - エキスパート - Yahoo!ニュース)も中央にワイヤーロープさえ設置されていれば、死亡事故にはつながらなかったかもしれません。
その他、歩者分離信号、アクセルとブレーキの踏み違え、飲酒運転など、事故抑止のためのさらなる対策が急がれます。
2025年という年が、交通事故抑止のために少しでも前進することを願わずにはいられません。