年寄りに「お前らに未来はない」と言われる若者達
「脱成長」は「脱未来」
先日始まった東京都の次期知事を決める都知事選。立候補者による多種多様な語りが伝えられる中で、少々気になる言い回しを耳にした。某立候補者いわくの、「自然エネルギーと脱成長で、心豊かな生き方で満足できるような国づくりを進めていきたい」というものである。当初は耳を疑わざるを得なかった。
都知事選にも関わらず、国の話を前面に押し出すというのは百歩譲るとして。さらにエコロジー系の話は二百歩譲るとしても。
多くの人達をけん引し、道しるべを築くべき立場に就こうと手を挙げた人が、成長を止めよう、それで満足しようと主張するのは、どのような了見なのだろうか。
人は未来を、夢を、希望を抱き、そしてそれを糧(かて)にして生きていく、自然界では(恐らく)唯一の生き物である。生物学的には「遺伝子の呪縛に囚われない生物」とも表現されている。成長を止め、今のままで満足しようとの主張は、それらの未来、夢、希望を奪い去ることに他ならない。
人が絶望を覚えるのは、現時点での環境に対してではない。今後、未来につながる道のりが見えなくなった時、行く先に明るい兆しが見えなくなった時にこそ、絶望が心に刻まれる。
少し前に学生の自殺が相次ぎ、社会問題化した際にも指摘されたものだが、彼ら・彼女らが世の中に絶望し自らの命を、未来を絶ったのは、自分達が置かれている環境そのものに対してでは無い。今後に明るい見通しがつかず、今の状態が続く、さらに悪化しうると考えざるを得なくなったために他ならない。
先行きに明るい兆しが見えない中で、誰が日々の生活を楽しく、明日を信じて前向きに、努力邁進しながら生きていけるというのだろうか。
「若者の老人離れ」
今件も含め、特に高齢者や一部の富裕層による「脱成長」の言葉からは、得てして「未来のことなど自分達は知ったことではない」「今の自分達が良ければそれでよい」という魂胆が透けて見えてくる。あるいは本人達は意識していないのかもしれないが、無意識のうちにその意図が盛り込まれてしまっている。そしてその言葉は若者たちに向けて「お前たちに未来は無い」とドヤ顔で宣言しているのと同意である。
本来なら若者からその豊富な経験を持てはやされ、敬意を払われるべき、そして若者自身もできればそうしたいであろう高齢者達が、なぜそのような言葉を堂々と口にし、主張しているのか。そしてなぜその言葉に潜む愚に気が付かないのか。むしろ高齢者には未来を託す若者たちに、その未来に希望があるよう語り、それを裏付ける道しるべを示す義務すらあるというのに。
言葉の真意に気が付いた若者達の悲しみはとどまるところを知らない。これでは「若者の老人離れ」が起きても仕方がないのかもしれない。
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