「人質司法は人間の尊厳を損なう」~その違憲性を問う裁判始まる
被疑者・被告人が否認していると長期にわたって身柄を拘束される「人質司法」は、虚偽の自白を招くなど冤罪の温床と言われて久しい。東京オリンピック・パラリンピックを巡る汚職事件で逮捕・起訴され、公判中の元出版社会長・角川歴彦氏(81)が、この「人質司法」によって身体的、精神的、社会的に多大な苦痛や損害を被ったとして、国に損害賠償を求めた裁判が始まった。1月10日、東京地裁民事6部(中島崇裁判長、山根良実裁判官、野本亮裁判官)で行われた第1回口頭弁論で、角川氏は自身の体験を語り、「人質司法は人間の尊厳を汚し、基本的人権を侵害する」と述べて、人質司法をなくすよう訴えた。
刑事裁判が終了した後に、元被告人が捜査の不当性・違法性を訴えて起こす国賠訴訟はしばしばあるが、刑事裁判が進行中の被告人がこうした訴訟を提起するのは極めて稀。しかも、捜査に当たった検察官のみならず、保釈の請求を退けた裁判官の判断にも違憲・違法があったとし、「人質司法」の違憲・国際法違反を正面から問いただす、(おそらく)初めての裁判と言える。
226日に及んだ身柄拘束
角川氏は、いわゆる東京五輪汚職に関連して、2022年9月14日に東京地検特捜部に逮捕され、東京拘置所に収容された。訴状によると、起訴された10月4日までの21日間、連日取り調べを受け、その合計時間は78時間29分に及んだ。この間、角川氏は一貫して否認。贈賄罪での起訴後も同拘置所での勾留が続いた。
弁護人が保釈を求めても、検察が強く反対。裁判官も「罪証を隠滅すると疑うに足りる相当な理由がある」などとして、保釈を認めなかった。逮捕時点で79歳と高齢で、心臓に重篤な持病を抱えていたが、主治医から処方されていた薬を飲むことも許されないまま、拘置所内で体調は悪化した。弁護人との面会中に意識を失って倒れたり、高熱を発したいりして、勾留の執行停止で外部の病院に入院すること2度。それでも保釈はなかなか認められず、2023年4月27日、ようやく第5次保釈請求が通って保釈された。身体拘束期間は226日に及び、体重は逮捕時から8キロ以上減っていた。
一方、自白していた者たちは、起訴されるとまもなく保釈された。KADOKAWAの元専務の拘束期間は31日、元五輪担当室長は24日である。
原告代理人の意見陳述
第一回口頭弁論では、代理人弁護士のうち4人と原告の角川氏本人が意見陳述を行った。その要旨は以下の通り。
村山浩昭弁護団長
〈「人質司法」は人間の尊厳そのものの否定であり、生存権の否定。この訴訟は、大川原化工機事件で亡くなった相嶋静夫さんなど、同じように非人道的「人質司法」の犠牲になった方々を、角川さんが代表して、この国で2度と悲劇を生まないために提起した公共訴訟である。〉
弘中惇一郞弁護士
〈検察は、無罪のリスクが高い、あるいは無罪判決が出ると困る特捜事件では特に、逃亡・罪証隠滅のおそれを針小棒大に主張し、保釈に強く反対する。すると、裁判官も保釈に踏み切れない。保釈を得るために、弁護人は主張のいくつかを取り下げたり、本来は不同意にすべき検察側の証拠を同意せざるをえないなど、刑事裁判においても弊害が出ている〉
伊藤真弁護士
〈「人質司法」は、憲法が保障する基本的人権の中でも根源的な「人身の自由」や「個人の尊厳」を侵害している。本件における裁判官の判断、検察官の行為は違憲・違法だ。被疑者・被告人を、国家権力が有罪立証するための道具や自白を得る手段として扱ってはならない。犯罪の嫌疑があっても、人間としての尊厳を尊重するのが文明国家の刑事司法として当然だ。〉
海渡雄一弁護士
〈本件は、憲法訴訟であると同時に、国際人権訴訟でもある。自由人権規約は、「何人も、恣意的に逮捕され又は抑留されない」「裁判に付される者の抑留は、原則ではなく例外でなければならない」と規定している。角川氏の長期にわたる勾留は、自白しなかったことへの報復だ。〉
角川氏の意見陳述
「生きている間は出られない」と言われて
最後に角川氏が意見を述べた。五輪汚職で逮捕勾留された他の人々が次々に保釈される中、1人取り残され、拘置所内で広がった新型コロナ感染症にも罹患。「このまま見捨てられるのではないか」と落ち込み、死への願望さえ芽生えていた時期に、拘置所の医師から「あなたは生きている間にはここから出られませんよ」と言われ、絶望のどん底に突き落とされた体験などを語った。そして、保釈後に冤罪・大川原化工機事件で無実の相嶋静夫さんが、身柄拘束が長期化する中、がんが見つかった後も保釈が許されなかったことに言及。「治療が手遅れになり亡くなられたことを知りました」と述べ、声を震わせながら、こう続けた。
「まずは、人質司法の存在を認めて」
「私は全く他人事だと思えませんでした。私が相嶋さんのように死んでいたかもしれないからです。(中略)生きて外に出られた以上、自分が相嶋さんに代わってその思いを世に伝えなければならないと感じました。(中略)裁判所と検察庁には、まず、人質司法というものが現に存在することを認めて欲しいと思います。法務省は国連の場で、日本の刑事司法は人質司法ではないと表明しています。しかし、私と相嶋さん、そしてこれまで身体拘束をされてきた全ての人たちが人質司法の証人です」
「80歳すぎて余命いくばくかの私ですが、同じ体験をして帰還した私だからこそ、もう2度と同じような思いをする人が出ないようにしなければならないと思ったのです」
傍聴席では、相嶋さんの長男が角川氏の意見陳述に聞き入っていた。
憲法・国際人権法違反の争点化を嫌う国
国側は、法廷では何の主張も述べなかったが、書面で原告の請求棄却を求め、争う姿勢を示した。裁判の争点については、国家賠償法上の違法があったかどうかで足りるとし、憲法違反や国際人権法違反に関しては「判断する必要性も相当性もない」との一文で切って捨てた。
こうした対応について、多くの憲法訴訟を経験してきた伊藤真弁護士は、記者会見で次のように解説した。
「別の訴訟でも、こちらが憲法違反を主張するのに、国側は一切憲法に触れなかった。憲法の問題に踏み込むと、違憲の判断をされる可能性が高いので、(裁判所を)そこに立ち入らせない、と法務省が機関として決めているのではないか、と思った。今回の(角川氏の)件も、誰でも実態を知れば、どう考えても憲法違反だし、国際人権法違反だと思うでしょう。だからこそ、国は何としても憲法問題には立ち入らせないという戦略で来るだろうな、と予想はしていた」
村山弁護団長は「被告(国)側は、裁判所に憲法判断をしてほしくないので、(議論を)避けている、というのは答弁書から明らか」としたうえで、「裁判所に、憲法違反の議論に踏み込んだうえで法的判断をさせることが、原告(角川)としては重要な一歩になる」との認識を示した。
被疑者に「表現の自由」はないのか
国側も認めた取材対応制限
原告側は、今回の裁判の中で、検察の対応が被疑者・被告人の「表現の自由」を侵害している、との主張も展開している。
角川氏に対する東京地検特捜部の任意の事情聴取が始まったのは、2022年8月8日。それが伝わり、9月2日からは自宅周辺にメディアが待機するようになった。同月3日には、ある全国紙が検察の見立てに沿った記事を掲載し、角川氏の事情聴取も報じた。このため、角川氏は同月5日午後2時半過ぎから30分間ほど、メディアの代表取材に答え、「戸惑っている。僕には事実関係は分からない」と述べ、賄賂を渡した事は否定し、「そんな心卑しく、今まで50年経営したことはない」と語った。
訴状によると、角川氏はその日の夕、特捜部から急な呼び出しを受け、事情聴取を受けた。その冒頭、取り調べ担当検事は、角川氏が記者会見を開いたと取り違えたらしく、こう言った。
「まずい、まずい、まずい。あれはないでしょう。角川さん、記者会見をしたらいけないでしょう」
国側は答弁書の中で、この取り調べを行ったのは同月6日とし、席に着くなり担当検事がそのような発言したことは否定したものの、以下のように、角川氏にメディアの取材に応じないよう求めたことは認めている。
〈テレビカメラの前で原告(角川氏)が報道機関に自己の主張を述べれば、これが放映され、本件会社の従業員らに不当な影響を及ぼすおそれがあるため、今後は、そのような行為を控えるよう協力を求める旨を伝えた〉
さらに同答弁書では、この時の取材が角川氏の身柄拘束の一因となったことも認めた。
〈テレビカメラの前で報道機関の取材を受けた前後で、本件(同社)専務が供述を変遷させたことを踏まえると、原告が、報道機関による取材を通じ、あるいは本件会社内で秘密裏に口裏合わせなどの証拠隠滅工作を行ったことが強く疑われることから、原告が本件専務、本件室長ら本件会社関係者、収賄側の本件理事らに働きかけるなどして罪証隠滅工作に及ぶおそれが極めて大きく、また、本件事案が報道等でも大きく取り上げられていることから、原告がその刑事責任を回避するため、逃亡を図るおそれが極めて大きいと判断して(中略)原告の勾留を請求するとともに、接見等の禁止を請求した〉
特捜部に被疑者として任意事情聴取を受けている者が、メディアの取材に応じ、すでに報じられている容疑を否定すると、それが報道を通じた「証拠隠滅工作」と受け取られ、そのことを理由に身柄を拘束されたのだ。被疑者には、自分の主張を述べる「表現の自由」はないのだろうか。
過去の教訓はどこへ?
それに、これでは取り調べを受けている者は、検察情報に基づく一方的な報道に、弁明も反論もできなくなり、メディアは当事者の言い分を取材することも不可能となる。今まで以上に、メディア上では捜査機関の情報だけがあふれる事態になってしまうのではないか。
メディアが捜査機関の情報のみを垂れ流すことの弊害、被疑者側の言い分にも耳を傾けることの重要性を、マスメディアだけでなく、私たちの社会は様々な事件から学んだはずだ。その教訓はどこへ行ったのだろう。
今後の予定
弁護団は、次回の口頭弁論期日(4月25日)までに国の答弁書に対する反論を提出することにしている。また、できるだけ多くの人の理解を得るため、裁判に関する資料はできるだけ弁護団のホームページで公開する、としている。
(写真はいずれも江川撮影)