「セガが好きすぎるセガ社員」こと奥成洋輔氏の著書として7月に出版された、『セガハード戦記』が話題となっている。
同書には、セガの家庭用ビデオゲーム機のハードウェアや有力タイトルの説明にとどまらず、出荷数などの社内資料、開発や海外部署にまつわる逸話もふんだんに盛り込まれている。さらに任天堂、NEC、ソニーといった他社の動向やヒット作にも多数言及され、それらに触れたゲームプレイヤーたち、そしてもちろんセガファンの心情も生き生きと描かれている。
加えて奥成氏自身の“ゲーム小僧”からセガ社員に至る道のりまでも率直で平易に語られており、その充実した内容に似合わず、すらすらと読めてしまう稀有な本と言えるだろう。
さてこの『セガハード戦記』にもあるように、セガの家庭用ゲーム機の歴史は40年前の1983年7月、ファミコンと同月同日に発売された「SG-1000」にさかのぼるのはよく知られている。
ただ、もともと開発していたのは“ホビーパソコン”の「SC-3000」で、同じソフトが使えるSG-1000を急遽追加したという経緯は、この本で初めて知った方もおられるかもしれない。
なぜセガがホビーパソコンを発売しようとしたのか、そしてこのころの子どもたちにとってホビーパソコンがどのような存在だったか、同書にはこれらもわかりやすく述べられている。
ところでこの「ホビーパソコン」という言葉については、『セガハード戦記』を読み進めていくと、ある食い違いが確認できる。
まず、序章の「セガハード前史」の中では以下のように説明されている。
さて、電子ゲームや家庭用ゲーム機と並行して、パーソナルコンピューター(当時はマイクロコンピューター=マイコンと呼んでいた)が徐々に家庭へ普及してきたのもこの頃だった。(中略)1981年末以降になると、何万円もするPC用のモニターを追加購入せずとも、家庭のテレビに繋いで使えるようになり、ようやく一部の家庭では見かけるようになってきた。現在は「ホビーパソコン」と呼称されている、低価格のパソコンたちである。
一方そのあと、「メガドライブ」がテーマの第4章には、以下の記述がある。
値段といえばメガドライブは、前年の1987年にシャープから発売されたホビーパソコン「X68000」ともよく比較された。X68000は(中略)モニターとセットとはいえ40万円近くと、当時のPCの中ではダントツに高額だった。
このように、序章では“低価格のパソコンたち”を、第4章では“ダントツに高額”なものを「ホビーパソコン」と呼んでいるのだ。
誤解のないよう付け加えるが、筆者はこれをあげつらう意図で取り上げたのではない。
奥成氏より少し年下の筆者の実感としても、これらは当時どちらも確かに「ホビーパソコン」だったのだ。
つまり「ホビーパソコン」の意味するところは、文脈によって違いがあるのが実態だったということになる。
ごく大まかに整理すると、「使い勝手が家庭用ゲーム機に近い低価格のパソコン」と「それより高級な機種を含み、ビジネス向けを除くパソコン」のふたつの意味があったと説明できる。
このふたつの意味の違いはどうして生じたのか?
それにそもそも「ホビーパソコン」という呼び方は、いつごろから使われるようになったのだろうか?
今回はこれらの疑問を手掛かりに、『セガハード戦記』の補助線の意味合いも込めて、昭和末期から平成初期を彩った「ホビーパソコン」の歴史のあらましを振り返ってみたい。
文/タイニーP
「ホビーとの訣別」
さて、「ホビーパソコン」という呼び方が広まるには、その前提として「パソコン」という略称が使われている必要がある。
先に『セガハード戦記』から引用した文章にもあるように、1970年代後半から1980年代序盤にかけては、パソコンの代わりに「マイコン」と呼ばれるケースが非常に多かった。
まず最初に、この「マイコン」から「パソコン」へ呼び名が変化した過程を追ってみよう。
1970年代に急速に発達していたマイクロプロセッサー(現在で言うCPU)は、それ単体でも「マイクロコンピューター」や「マイコン」と呼ばれていた。
これに入出力装置などを組み合わせたごく小規模のコンピューターもまた、個人所有のコンピューターの意味での「マイコンピューター」をかけて「マイコン」と言われたのだ【※】。
※混乱を避けるため、本稿ではこれ以降、特に注記する場合を除いてマイクロプロセッサーを指す意味での「マイコン」は使わない。
当時のマイコンは、マイクロプロセッサーなどの部品やキットを、自分でハンダ付けして組み立てるところから始めるのが当たり前。
ソフトウェア(プログラム)も市販されることはまれで、多くは解説書などのお手本を手作業で入力したり、あるいはそれを改造したりと、研究やホビーの色が濃いものだった。
しばしば日本初のマイコン雑誌(パソコン雑誌)と言われる『I/O』も、1976年11月の創刊号から10年以上にわたり、表紙には「ホビー・エレクトロニクスの情報誌」を掲げている。
しかしこのころ北米ではすでに、スモールビジネスなど、所有者個人の日々の活動に役立てる道具としてこれらマイコンを利用しようという機運が生まれていた。
1977年春に開催された「西海岸コンピューターフェア」では、簡単に使い始められる完成品としてアップルの「AppleⅡ」やコモドールの「PET2001」が展示され、話題となっている。
日本ではその直後、1977年7月に「マイクロコンピュータ総合誌」を掲げてアスキー出版から『アスキー』が創刊された。
その巻頭に掲載されたのが、「ホビーとの訣別」と題した文章だ。
(略)創刊号が皆様のお手もとに届く頃、米国では全米コンピュータ会議(National Computer Conference)が開かれた直後で、そこでマイクロコンピュータを個人的な目的に使用する、いわゆるパーソナル・コンピューティングが一般に学会レベルで認められるようになるようです。
ここにホビーではない新しい分野、「コンピュータの個人使用:パーソナル・コンピューティング」が出現したと言うことができます。
(中略)
家庭や日常生活の中に入ったコンピュータは、テレビやビデオ、ラジオのような、いわゆるメディアと呼ばれる、コミニュケーション(注:原文ママ)の一手段になるのではないでしょうか。テレビは一方的に画と音を送り付けます。ラジオは声を音を、コンピュータはそれを決して一方的に処理はしません。誇張して言うなら、対話のできるメディアなのです。個人個人が自分の主体性を持ってかかわり合うことができるもの──これが次の世代の人々が最も求める解答であると思うのです。(後略)
この「ホビーとの訣別」の筆を執ったのは、『アスキー』創刊時の編集人兼発行人だった西和彦氏とされている。
彼は『I/O』創刊の中心人物でもあったのだが、西海岸コンピューターフェアへの参加後に親しい執筆者を誘って編集部を抜け、新たにアスキー出版を設立したのだ。
その行動も、「ホビーとの訣別」という表題も、「マイコンがホビーと結びつきすぎることは、発展の枷になりかねない」という懸念の反映だったと言える。
西氏はその後、ビル・ゲイツ氏と直談判して米マイクロソフトの極東代理店の権利を獲得し、同社のBASIC【※】が、1979年発売のNEC「PC-8001」(168,000円)に搭載されるうえでの立役者となった。
※日常的な英単語を使う、入門者向けのプログラム言語。マイクロソフトは北米でのマイコン用BASICの最有力の地位を築いており、PET2001には当初から、またAppleⅡには途中から同社製のBASICが採用された。
PC-8001は、大型コンピューターの端末としても利用できるよう、標準的な端末と同じ1行あたり80文字の表示が可能で、カラー表示にも対応。
記憶装置のフロッピーディスクドライブ(FDD)や複写紙に対応したドットインパクトプリンターといった周辺機器を早くから広告に載せ、実用性を強くアピールしたのが特色だった。
しかしそれでもなお、「マイコン」という言葉にはホビーの印象が色濃く残り続けた。
これに関しては、1979年前半の社会現象となった「インベーダーブーム」の影響も無視できない。
当時はインベーダーゲームの模倣作がマイコン向けに続々と現れ、雑誌上でそのプログラムリストが発表されたり、それを収めたカセットテープが販売されたりしていた。
業界の展示会「マイクロコンピュータショウ’79」でも、各社が人寄せとしてこのようなゲームを動かしていたほどだ。
これらによって、“インベーダーのように複雑なビデオゲームを家で好きなだけ遊べる機械”という、マイコンの一面的なイメージが世間に広まったわけだ。
ビジネスから浸透した「パソコン」
そのイメージに変化が生じた要因のひとつとして、漢字表示に対応する機種が登場しはじめたことが挙げられる。
漢字を含めた情報処理は、大型コンピューターを中心に1970年代に急速に実用化が進んだものの、英数字とカタカナのみというシステムもまだ少なくなかった。
当時、広く使われる漢字として認識されていた「当用漢字」だけでも2,000字ほどあり、その字形などを保持・利用するために上乗せされるコストが軽視できなかったためだ。
そんな中、半導体メモリーの高密度化が進み、1980年代序盤には約3,000字の漢字やひらがななどの字形を十数個、あるいはそれ以下の半導体ROMに収められるようになる。
マイコン本体にこれらの漢字ROMを追加したうえで、ディスプレイ、FDD、プリンターといった周辺機器を揃えても100万円程度というシステムが現実化してきた。
つまりマイコンが、当時流行していた「オフィスオートメーション(OA)【※】」の重要アイテム、オフコン(オフィスコンピューター)に取って代わっても不思議ではなくなったのだ。
※効率化・省力化と生産性の向上を目指して事務機器に電子技術を導入することや、その技術。1970年代にはオフコンに加えて、普通紙コピー機とファクシミリ(FAX)が“OA三種の神器”と呼ばれた。
日本のマイコン市場で先行した日立やシャープは、このような漢字利用への発展も想定した新機種を投入して、クラス別の製品戦略をとるようになった。
NECも、PC-8001のソフトや周辺機器が利用できる互換性を持つ上位機種「PC-8801」(228,000円)を1981年秋に発表した。
またPC-8801よりも一足早く発売が始まった富士通の「FM-8」(218,000円)が、当初から漢字への対応をアピールするなど、OA向けを主目的にこの市場に参入するメーカーも相次いでいる。
しかもちょうどこの時期、1981年初頭から日経新聞が「パソコン」の略語を紙面で使いだした【※】。
有力紙の紙面にひっきりなしに「パソコン」の4文字が使われたことで、この表現が「マイコン」とは一味違うものという印象を伴いながら広まっていったと考えられる。
同じ1981年には、題名に「ビジネス・パソコン」と入った書籍が複数出版されており、この方面では「パソコン」がかなり早く浸透したことがうかがえる。
※これ以前の日経新聞の紙面では、パーソナルコンピューターの省略形として主に「パーソナル電算機」や「パーソナルコン」が使われていた。なお「パソコン」は、日刊工業新聞など他社の新聞・雑誌では1978年ごろから確認できる。
「ホームコンピューター」への期待
クラス別のパソコンを投入する動きからは、ビジネスとは反対の方向、つまり家庭向けで低価格のクラスも発生している。
日本でのさきがけは、1980年秋に69,800円でコモドールが発売した「VIC-1001」だろう。
またNECは1981年秋、PC-8801と同時にこのクラスの「PC-6001」(89,800円)を発表して、PC-8001も含めた3機種を並行して展開する戦略をとった。
1981年末には、日立やナショナル(松下)からも入門者向けをうたう10万円未満の機種が登場している。
中でもVIC-1001やPC-6001はサウンド機能が充実していたほか、家庭用ゲーム機と同様に、本体と付属品のみでテレビに接続して使えるようになっており、このクラスのお手本となった。
そもそも1970年代には、「将来はホームコンピューターが“一家に一台”置かれるようになる」という言説があった。
このホームコンピューターを核にして、エアコンの設定や風呂の給湯などを自動的に管理する「ホームオートメーション(HA)」や電子メール、在宅勤務が実現すると考えられていた。
これは当時のコンピューターの標準的な利用形態だった、ホストコンピューターと端末の関係を家庭内に置き換えたものだ。
しかし1970年代末から1980年代の家電製品は、この予想とは少し違う形で発展していく。
個々の製品自体に、組み込み用のマイクロプロセッサー(マイクロコントローラー、組み込み用マイコンとも呼ばれる)が入ることになったからだ。ただこれだけでは統合的なHAまでは実現せず、遠い目標として残されたままだった。
また「ニューメディア【※】」がブームになっていたこともあって、1980年代前半の電機メーカーにとってはやはり、ホームコンピューターは有望な市場に見えていた。
※情報・通信技術を活用した、既存のメディア(テレビ・ラジオ・出版・レコード・映画等)の枠に収まらない新しいメディア。主に1980年代前半から中ごろにかけ話題になった。2000年代以降にも何らかの形で残ったものとしては、CATV、文字放送、衛星放送、高品位放送(ハイビジョン)、INS(ISDN)、パソコン通信などが挙げられる。
つまり日本のパソコン市場がクラス別に分かれていく中で、家庭向けパソコンには、このホームコンピューターへの布石という、電機メーカーにとって重要な意義があった。
そこに1983年、アスキーとマイクロソフトが主導する共通仕様「MSX」が提唱されたのは、まさに渡りに船であり、それが賛同メーカーを多数集めた理由と考えられる。
そしてアスキーだけでなく、これら電機メーカーが自社のパソコン製品を「ホビーパソコン」だと言明することも、この時点ではめったになかったと言っていい。
もちろん、パソコンに親しんでもらう入り口としてのホビーを一切否定していたわけではなく、「ホビーから実用まで」などという言い回しはよく見かけるものだった。
とはいえ、ホームコンピューターへの発展を前提にするなら、趣味の範囲だけで完結するような印象を持たれることに利点はなかったわけだ。