1911年、キュリー夫人に向けられた大バッシング
「キュリー夫人」の愛称で知られるマリ・キュリー(1867〜1934)は、ポーランド出身の化学・物理学者です。
彼女は1895年7月26日にフランスの物理学者であるピエール・キュリー(1859〜1906)と結婚し、キュリー姓を名乗るようになりました。
キュリー夫人は夫のピエールと共同で放射能の研究をし、1903年にはその功績が認められて、ピエールと共にノーベル物理学賞を受賞します。
ノーベル賞を受賞した女性はキュリー夫人が史上初めてです。
多忙ではあったものの充実した研究生活を送っていた矢先、悲劇が彼女を襲います。
それは1906年4月19日の木曜日のことでした。
雨が降る中、夫のピエールはいくつかの用事を済ませ、馬車が行き交う通りを横断していた際に、足を滑らせて横転し、6トンの荷物を積んだ馬車に轢かれて亡くなってしまったのです。
このとき、ピエールはまだ46歳の若さでした。
キュリー夫人は夫の死の知らせに凍りつき、しばらくは誰の問いかけにも答えられない状態だったといいます。
その後、深い悲しみが彼女を苦しめ、ときには悲鳴をあげるなど不安定な精神状態が続きました。
当時の日記には「夫と同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書き残しています。
キュリー夫人は30代半ばにして未亡人となってしまったのです。
それでも時がゆっくりと彼女の悲しみを和らげ、研究生活に戻れるようになりました。
そして1910年に、夫ピエールの元弟子だった物理学者のポール・ランジュバン(1872〜1946)と出会います。
ランジュバンはキュリー夫人の5歳年下でしたが、研究熱心なところが夫のピエールとよく似ており、彼女の心にぽっかりと空いた穴を埋めてくれる存在となりました。
ランジュバンは妻子ある身だったものの、その夫婦仲はとうの昔に冷めきっており、すでに別居状態にあって、裁判沙汰にまでなっていたといいます。
キュリー夫人とランジュバンは互いに研究生活を送る中で関係を深め、次第に恋仲にまで発展しました。
ところが、この2人の関係がランジュバンの妻にバレてしまいます。
彼女はこっそりと使いを送って、キュリー夫人とランジュバンがやりとりしていた手紙を盗み出し、マスコミにリークしたのです。
これはキュリー夫人を叩きたかったマスコミにとっては最高のネタでした。
1900年代初めの社会は「女性」が科学の道に進むことを良しとしておらず、優秀なキュリー夫人の成功を苦い顔で見る人も大勢いました。
その中で飛び込んできた不倫のスクープをマスコミが利用しないはずがありません。
彼らはすぐさま猛烈にキュリー夫人を誹謗中傷し、新聞では彼女を「人様の家庭を壊すユダヤ女(Jewish homewrecker)」とレッテル貼りをします。
しかし事情をわかっている人にはこれが不当な批判であることは明らかでした。
ランジュバンの家庭はもともと壊れた状態にありましたし、そもそもキュリー夫人はユダヤ人ですらないのです。
さらにこの時期は、キュリー夫人がフランスの科学アカデミーの会員選挙に落選したばかりでした。
科学アカデミーとはフランス国内の科学研究を発展させるため、1666年に創設された歴史ある学術団体です。
1911年当時は会員に一つ空席が出ており、関係者の多くはキュリー夫人の優秀さや功績から、彼女を会員候補に推していました。
しかし保守的な会員たちは、キュリー夫人が「女性」であることと「外国人」であることを理由にこれを却下したのです。
まさにこの時期のキュリー夫人は一般社会から徹底的に叩かれ、アカデミックの世界からも差別される人生で過酷な時期にありました。
その中でキュリー夫人の味方についたのが、かの有名なアインシュタインだったのです。