〈遊び〉についての断章 (4) 

namdoog2012-02-29

〈遊び〉を再考する――規則の梯子 2

遊びの練習 
 遊びと快とのかかわりを考えるためには、両者を区別したうえで、快の〈質〉を考慮する必要があるだろう。たとえば、スポーツをたんなる楽しみでやっているのは、むしろ多数のスポーツを愛好する人びとである。プロの選手や競技者はもちろん、アマチュアであっても、スポーツに専念しているすべての人びとが「真剣に」スポーツに取り組んでいるのに対して、彼らはいわば「遊び半分で」でそれをやる。本人たちに遊びの造形をいいかげんにしているつもりがないのは事実かもしれない。とはいえ、造形の突き詰め方にどこか甘さが混じりがちなのも否定できない。だからこそ、彼らはどちらかと言うと安直に快を手に入れ気晴らしをするのだ。
 しかし、彼らが浸っているその快なるものが、遊びの造形をゆるがせにしない玄人に恵まれる快にくらべ、味わいにおいてどこやら浅薄であることを見逃すことはできない。遊びに快や楽しみを求めるのが間違いだというのではない。自由な境地に人を誘うはずの遊びが、かえって不自由の重荷で人を圧しつぶすことがあるのを知らないわけでもない。だから問題は、どこまでも楽しみの質なのである。
 遊びとは一面では区別されながら他面ではかかわりをもつ〈快〉の質を深めるためには、何が必要なのか。いうまでもなく、遊びの〈練習〉あるいは<習練>である。遊びにおけるこの練習こそが、遊びの上達、洗練、巧拙などといった、遊びの諸可能性の基礎をなす。ここでもわかりやすいのは、我が国の伝統的な遊びの世界だろう。たとえば、茶の湯、踊り、三味線、和歌などの〈遊藝〉や〈藝道〉が成立するのも、やはりこの練習(けいこ、習練、訓練、おさらい、修業など)という基盤のうえなのである。
 このようにして、遊びに関する<規則>の本質的有意性が確認される。なぜなら、規則のない場所で練習に励むわけにはゆかないからである。練習には――明示的か黙示的かを問わず――ルール、技法、教則、マニュアルなど、なんらかの規則が不可欠である。練習とは、規則をなぞったり、修正したり、確実なものにしたり、創造したりする――こうしたもろもろの意味で、〈規則の練習〉にほかならない。このようにして、遊びの質は、規則なしには考えられもしないことになる。

遊びの非日常性 
 しばしば遊びの非日常性が指摘され、遊びは仮構だといわれたりする。遊びは「たかが遊び」なのであって、現実の、真面目な、字義的な行動ではないという。これは正確にはどういう意味だろうか。
 遊びの一種にカイヨワのいう〈模擬〉があることが事情をややこしくしている。たとえば子供が人形遊びで母親に扮して遊ぶとき、繰り広げる行動のテクストが字義的な意味をもつわけではない。子供は仮構の世界に身をおいているのだ。
 しかし、遊びの非日常性はこの意味での仮構と同じではない。たとえば、ゴルフに興じている人は文字どおり〈ゴルフをしている〉のであって、〈ゴルフのふりをしている〉のでも、まして別の何かのふりをしているのでもない。模擬の遊びが仮構であるのは、それが文字どおりの行動ではない(たとえば、舞台の役者は字義的な殺人を犯すわけではない)からではなく、遊びの造形作用のなかに〈俗〉の圧力に対抗するじつに真剣な働きが含まれているせいなのだ。そのせいで、遊びはしばしば日常性を批判するしぐさのように映るのである。
 遊びはけっして夢ではないし、狂気でもない。それが繰り広げられる舞台は、世俗の行動がなされるのと同じこの厳しい現実界なのである。遊びのこの成立条件とのかかわりで、遊びを藝術になぞらえることができる。
 藝術家がもしすぐれた作品を制作しようと思うなら、あるいはみごとなパフォーマンスを演じようと意図するなら、作品の素材を注意深く吟味し、道具を選び、手法に工夫をこらし、また実演にふさわしい環境を整えなくてはならない。これらを実現するには、現実とわたりあう強固な意志と、現実を誤りなく認識する明敏な知性が必要である。たんなる夢想家は藝術にはむかない。現実逃避が優れた作品を生みだしたためしはないのだ。同じように、現実をどこまでも明らかに見つめる眼をもたない者、現実と真正面から取り組む力のない者には遊びは向かない。
 ここには――アンリオが著書『遊び』で指摘するように――実にあやうい遊びのバランスがある。どんな遊びでも、みずからを遊びとして諦視する眼をそなえている。遊びのなかに設けられたこの距離を失えば、それにはもはや遊びの存在資格がない。この意味でも、カイヨワのいう〈めまい〉の遊びは成り立たないのではないだろうか。知覚の惑乱に翻弄され、呆然自失した「遊び」は自壊作用を起こしてしまうからだ。
 とはいえ他方で、遊びはどこまでも情熱を要求する。「本気で」ない遊びはたちまち質を劣化させてしまう。ちなみに、カイヨワは遊びを二つの極の間に配置できると考えた。一方の極では、気晴らし、騒ぎ、無邪気な発散などが支配し(〈パイディア〉の極)、他方の極では、この奔放さは弱められ、意図的に障害をもうけてそうした移り気を縛ろうとする(〈ルドウス〉の極)。こうした見地も、遊びの微妙なバランスを語ろうとしたものにちがいない。
 私たちは、遊びが現実の抵抗にさからって形成される行動の様式であることを航空機事故のたびに思い知る。観光旅行を考えてみればいい。それは未知の大陸を捜しに船出したコロンブスの旅でもないし、教典を求めて砂漠を進んだ三蔵法師の旅でもない。旅先で何泊かした後、再び世俗の生活に帰ることが約束された安全な遊びにすぎない。しかし、思いがけない出来事が遊びのこの約束を無残に踏みにじるようなことがしばしば起こる。
 ちなみに現実とはたんに物理的なものにかぎられないことを申し添えておこう。社会的現実、人間の心理的現実などを考えあわせるなら、じつに様々な現実の裏切りが遊びを待ち伏せているのは想像にかたくない。(続く)

遊び―遊ぶ主体の現象学へ

遊び―遊ぶ主体の現象学へ

遊びと人間 (講談社学術文庫)