2008-01-01から1年間の記事一覧

いつ贋作か――贋作の記号学メモ 2

(3) スタイルとは何か についてはそれこそ星の数ほどの文献があるが、きわめてコンパクトながら、単純には捉えにくいこの概念の核心を言い当てた、N.グッドマンの論文「様式の地位」(『世界制作の方法』第三章、ちくま学芸文庫、2008年2月)にまさる論考を…

いつ贋作か――贋作の記号学メモ 1

(1) 2001年秋、東京大学の本郷キャンパス内にある総合研究博物館で《真贋のはざま》と銘打った展覧会がひらかれた。これは元来、平成12年度から平成13年度にかけてなされた博物館工学ゼミの研究成果を一般に公開するという目的で実施された展覧会である。 …

記号主義の生成(7)  感情の内観? (弐)

パースに言わせるなら、人間の感情はすべて外界の対象にかかわりを持つことで成立する。逆から言うと、外部の事物に関係しない感情などはない。たとえば私が腹を立てたとする。(私が怒ったのは、単に私の虫の居所が悪かったからか。けっしてそうではない。…

記号主義の生成(7)  感情の内観?(壱)

どんな知覚も内容をそなえている。例えば目の前に紅いリンゴをみとめたとき、この知覚(sens perception)には(ある種の経験主義者によれば)紅さの感覚がともなう。直観なる能力を是認する見地からこの事態を言い直すと次のようになるだろう。すなわち、人…

記号主義の生成(6)  内観はあるか

パースが次に吟味するのは、行動主義心理学以前の古風な心理学が自明の研究方法とみなしていた〈内観〉(introspection)である。4) 内観をめぐる問:人は内観の能力を持っているのだろうか。それとも内部世界(あるいは精神)に関する知識はすべて精神外部…

記号主義の生成(5)  認識の構造

[身体性の経験を基礎とした否定性のせいで幼児の非自己的意識に〈自己性〉が創発される――この見地については後に機会をみて再論することにして、いまはパースの直観論を先に進めることにする。]パースがいま俎上にのぼせようとするのは、3) 認識が単に主観…

記号主義の生成(4)  自己意識の生成 

直観を論駁するためにパースは次に「直観的な自己意識」をターゲットにする。はたして直観的な自己意識を人はもつことができるのだろうか。設問のこの順序には理由がある。前の問いはいわばメタ直観的認識論の試みだった。すなわち、人が持ちうる認識につい…

記号主義の生成(3)   無意識の推論

パースが「直観」を退けた議論はそれほど単純ではない。彼はまず「 ある対象を認識するとき、それが直観によるのかそれとも推論(reasoning)によるのか、その差を直観的に知る能力」に異議を申し立てる。パースは「直観」をいわば真正面から撃破するのでは…

記号主義の生成(2)  認識能力の吟味

第一論文「人間に具わると主張されてきたいくつかの能力に関する問い」で言及された「いくつかの能力」は実際には5つに及んでいる。それらの能力を書き出してみよう。1) ある対象を認識するとき、それが直観によるのかそれとも推論(reasoning)によるのか…

記号主義の生成(1)  直観を否定する

パース(Charles Sanders Peirce)は1868年にJournal of Speculative Philosophy誌にいささか奇妙な題名の二つの論文を寄稿した。すなわち、「人間に具わると主張されてきたいくつかの能力に関する問い」(‘Questions Concerning Certain Faculties Claimed …

俳句の世界制作法 ノート(11)

主観主義と客観主義の彼方へ――俳句の形而上学 俳句の技法の問題が火をつけた「主観派」と「客観派」の対立をあらためて整理してみよう。客観派は〈写生〉ということで、自然のありのままの記述であると解する。自然が主観の観照する対象であるかぎり、そこに…

俳句の世界制作法 ノート(10)

この作品のさらに立ち入った鑑賞に古典の教養が必要になることは言うまでもない。だが俳諧の文学的研究に深入りすることはわれわれの議論の道を踏み外すことになる。ここでは引き続き、現代俳句における〈写生〉の技法の考察に集中しなければならない。 弁証…

俳句の世界制作法 ノート(9)

第一は、現代俳句とそれ以前の俳句とを比較してどういうことがわかるか、という論点である。問題はかなり複雑でありいま十分に議論を展開する余裕がないので、一点をあげるにとどめる。〈現代俳句〉における〈写生〉は、二つのものの「対立や衝突ないし相克」…

俳句の世界制作法 ノート(8)

映像を制作する技法としてのモンタージュはふたつの力能をそなえている。ひとつは、人が慣れ親しんだ日常的な――ある意味で凡庸な――映像に含まれた可能的連想を断ち切る〈否定の力〉である。第二には、この貧しくされた素材としての映像をあらたなイメージの…

俳句の世界制作法 ノート(7)

の記号学的機能と構造を解明することによって、従来、問われずに放置され、匿されてきたいくつかの論点に、真の問いの資格がもたらされるだろう。同時に、〈現代俳句〉はもとより前近代における〈俳諧〉の文化に対して、文化史の上の位置づけが与えられこと…

俳句の世界制作法 ノート(6)

〈写生〉という技法ははじめから――その提唱者によってさえも――あらゆるエセ哲学的な誤解にまみれていた。〈写生〉を墨守する作家たちとそれに叛旗をひるがえした作家たちの争いは、客観を重視するかまたは主観を重視するか、などという愚にもつかない選択肢…

俳句の世界制作法 ノート(5)

〈写生〉が作者の感情または「感動」を表現する技法にはなり得ない、という見解は、たとえば次のような発言に明らかである。 「なんらかの情感の起伏が俳句という文学形式の中に、言語の媒体によって伝えられる。俳句の中にそれが再生産され、読者は作者の感…

俳句の世界制作法 ノート(4)

総じて言って、『俳諧大要』だけではなく、子規が執筆した俳句論はみな過渡期の産物にすぎない。それらは、当時行われていた怪しげな哲学的概念(文学理論、藝術学など)のごった煮のなかにすぐれた洞察がいくつか混じっているという風の、シェフが試作中の料…

俳句の世界制作法 ノート(3)

高濱虚子によると、子規は「不折という男は面白い男だ」と口癖のようによく言っていた。明治20年代末の頃である。「お前も逢つて御覧、画の話を聞くと有益な事が多い、俳句に就いての我等の意見とよく似て居る。」*1 文学史家によれば、現代日本語における俳…

俳句の世界制作法 ノート(2)

表現としての俳句の記号学的構造と機能を考察することを通じて、日本語の哲学のありように多少ともさぐりを入れてみる――これがこのノートの課題にほかならない。 これに着手するにはどんな方法をとるべきだろうか。なるほど、俳句なる文藝の成立とその展開の…

俳句の世界制作法 ノート(1)

古くから日本語の話者たちは――彼らをここでは「日本語人」と呼ぶことにしたい――5音と7音とを組み合わせて韻律を生成しこれを基礎とする詩形をたえず作ってきた。この詩形は記紀の時代に出現したが、以来今日にいたるまで、その制作は千年以上におよぶ歴史を…

記号系としての絵画の生成 (8)

これまでの考察によって、絵画が生成するその秘密が顕かになった。――こう言うのが言い過ぎだとしても、その秘密は形而上学的原理の平面で正確なスケッチを施されたことは確かであろう。しかもその素描は、経験的次元で豊かにされるべくそこへと移行されるこ…

記号系としての絵画の生成 (7)

知覚物の聖なるイコンとしての図像 メルロが構想する形而上学が明らかになったいまとなっては、冒頭に引用した、彼によるの記述にはほとんど不明な箇所は見当たらない。《交換システム》としての身体性が――旧いタイプのあるいはなどではなく――環境と個的生命…

記号系としての絵画の生成 (6)

『眼と精神』の存在論――伝統との連続/非連続 私たちの見るところ、ヴァイツゼッカーの生命論が含意する形而上学ないし存在論はヨーロッパの正統的な思想に属している。それはけっして思想史の傍系をなすのでもないし、まして異端でもない。こうした存在論こ…

記号系としての絵画の生成 (5)

の二義性と存在論 ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』の序は本書の根本思想をきわめて簡潔な言葉で述べた感銘深い文章である。 一例をあげれば、生命研究について彼はこう述べている。「生命に関するいかなる学問の始まりも、生命それ自体の始まりで…

記号系としての絵画の生成 (4)

ヴァイツゼッカーの医学的人間学 メルロ=ポンティの形而上学がゆたかで煌びやかな比喩で彩られていることは否みがたい。ある読者はこの比喩の過剰に当惑するが、別の読者には、これらが字義性には還元しえない必然的比喩のように映る。 この種のアンビバレン…

記号系としての絵画の生成 (3)

としての可逆性 という観念が主客の二元性を「前提している」がゆえに、旧来の形而上学を克服しえていない、という批判には、たしかにもっともらしい側面がある。なるほど、ある特定の観念を差し出すとき、それが別の観念を前提していることがしばしばある。…