Mottyの旅日記 Archive

Mottyが巡った場所の記憶と記録

国分山城

 唐子浜の正面にある急峻な唐子山にある城で、国分城や府中城とも呼ばれる。

 国分山城が築城された時期は明確でなく、南北朝時代の頃であるという。ただ、伊予国府から近いという地勢的な条件や、手頃な標高というのを考えると、それ以前から、国府を守護する砦や有事の際の詰城といった機能が置かれていても不思議ではなく、防御施設という意味では、城の歴史がもう少し遡る可能性があるのかもしれない。

 南北朝時代初期の頃の国分山城周辺では、興国3年(1342)に、南朝方の武将で新田義貞の弟でもある脇屋義助が伊予国府に進出し、急に発病して病死するということがあった。

 その義助の墓が、城からほど近い国分寺辺りにあることや、新田一族で南朝方伊予守護だった大館氏明が、すぐ南の世田山城を拠点としていたことから、この国分山周辺一帯は、南朝方の拠点となっていたようだ。しかし、義助の病死直後、北朝方の細川頼春が侵入して氏明を自刃に追い込み、以降の東予は、河野氏と細川氏の間で争奪が繰り返されるようになる。

 ただ、国府山城の名は史料に見えず、この頃の城主などはよく分からない。争奪が続いた時代も、世田山城や峰続きの笠松城が機能していたと見られ、国分山城は、その出城的な用途があったのではないだろうか。

 その後、南北朝末期の永徳元年(1381)に、将軍足利義満の仲介で河野氏と細川氏が和睦すると、以降は河野氏がこの周辺の支配を確立した。具体的には、河野氏の庶流である重見氏や正岡氏が領したようだ。

国分山城本丸

 戦国時代に入り、河野通直の代に河野家中が乱れると、来島に本拠を置く来島村上家が、宗家に叛いた重見氏や正岡氏の討伐で功を挙げ、通直の信頼を得て国分山城周辺に勢力を築いたという。特に、通直の娘婿である村上通康への信頼は絶大で、その力に期待した通直が家督を譲ろうとするほどであったが、結果的にはこれが家中を割ることとなって逆に勢力の弱体化を招き、河野氏は戦国大名に脱皮するきっかけを失うこととなる。

 通康の子通総の代になると、織田氏が中国地方に進出するようになり、その部将だった秀吉の調略を受け、通総は天正10年(1582)に織田氏へ寝返った。

 すると、当然のことながら、河野氏や河野氏と同盟関係にある毛利氏、両家と繋がりが深い能島村上家から攻撃を受けて苦境に陥り、通総は支えきれずに秀吉の下へ逐電してしまう。この時、通総の兄得居通幸は、鹿島でなんとか善戦していたものの、来島村上家の旧領の多くは能島村上家によって奪われ、同様にこの城も、能島村上家の属城となっている。

 能島村上家の当主村上武吉は、国分山付近を勢力下に置くと、この城を重要視して改修し、拠点化した。しかし、毛利氏が本能寺の変で秀吉と和睦した後、武吉が秀吉の意向に従わなかったことから、天正13年(1585)の秀吉による四国征伐の際に能島城で小早川隆景の攻撃を受け、降伏に追い込まれてしまう。そして、それに伴ってこの国分山城も開城した。

唐子山と国分山城の解説板

 四国征伐後、伊予は隆景に与えられ、同15年(1587)の九州征伐後に隆景が筑前へ移されると、秀吉子飼で賤ヶ岳七本槍としても有名な福島正則が東予を与えられて入部する。正則は、隆景が本城としていた湯築城を廃してこの城に本拠を移し、11万石の封土に相応しいよう改修拡張した。

 その正則は、文禄4年(1595)に尾張国清洲へ転封となり、代わって池田景雄(秀雄)が入部したが、慶長2年(1597)に慶長の役で景雄が死去すると、遺領は嫡子秀氏に引き継がれず、翌年には小川祐忠が領主となっている。

 同5年(1600)の関ヶ原の合戦では、祐忠は小早川秀秋に呼応して西軍から寝返ったものの、当初から旗幟を鮮明にしなかった事を咎められ、一旦は改易となってしまった。翌年に改易は免除され、半知となって豊後日田に領地を与えられたが、石田三成と近しかった祐忠と嫡子祐滋は退き、光氏が家督を継いでいる。

 戦後、伊予半国は、早くから家康に尽くした藤堂高虎に与えられたが、高虎が同7年(1602)から本拠とする今治城の築城を始めると、国府山城の資材が転用され、城は廃城となった。

 城は、麓の居館と山上の詰城という組み合わせの城である。ただ、歴史的に見れば本城として運用された城ではないため、恐らく、正則が行った改修の際に麓の居館が整備されたのだろう。

 山上までは遊歩道が整備されており、この遊歩道の麓付近に、道沿いに3ヶ所ほど明らかに人工的な平坦地があるのだが、往時は何らかの城郭施設があったのか、それとも後世の開拓によるものか、判断はできなかった。

国分山の登山道から唐子浜を望む

 その場所を過ぎれば、山頂までひたすら直線的な坂道で、遺構らしい遺構は見られない。北東麓の居館の位置を考えると、登ってきた道が大手になると思われるのだが、防御面を考えると、直線というのは考えにくく、往時はもっと道がくねらせてあったのかもしれない。

 山頂は、本丸があるのみで、付属の郭は見られず、非常にシンプルな縄張となっていたようだ。本丸は、そこそこの広さがあるとは言え、近世まで大名の本拠城として機能していたにしては手狭すぎ、詰城の機能以上は求められなかったようで、藤堂高虎が今治城を新たに築いて移ったのも頷ける。

 このほかには、北東麓には広大な居館跡が農地として残っており、のんびりとした田園風景になっているものの、1段高い地形から往時の姿を朧気に偲ぶことができた。ちなみに、唐子山の名は、移城後に高虎が松を植え、山の姿が唐子のようになったからという。

 国分山城へは、遊歩道が整えられているが、唐子山の山容はなかなか峻険で、登山道が整備されているとは言え、登るのにはある程度の体力が要る。登山道が山肌を縫うようにうねらず、山頂へ向け直線的に延びて傾斜が急になっていることも、その要因のひとつだろう。

 頂上の本丸部分は公園化されているが、地元住民の憩いの山という感じで、史蹟を重んじた整備のされ方ではなかった。遺構が少ないのは、公園として整備する際に破壊されたのか、それとも高虎が資材の持ち出しを徹底したのか、どちらなのかは今となっては分らないが、もう少し遺構があれば、素晴らしい燧灘の眺望も含めて良い城跡だっただけに、惜しい城である。

 

最終訪問日:2008/10/23

 

 

訪れた時は、曇天でしたが、木々の間から唐子浜や瀬戸内海が見渡せたので、晴れていれば、かなり良い眺望だったんでしょうね。

水軍の将が重要視したというのが実感できる景色でした。

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