血統の森+はてな

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ゲームの終わり、乗馬入りという名のゴール。

彼等のゴールはどこにあるのか - 〜ものかきの繰り言2009〜
はてダのおとなり日記がはじめて役に立った瞬間であった。
のっけから、彼等のゴールはどこにあるのか、というのが恣意的かどうかはさておき、二つの意味に捉えられて面白いなと。つまり、「競走馬(もっぱら牡馬)」と「種牡馬になれない馬を残念がる競馬ファン」という二つの意味に捉えることができるかなと。この二つは可分か不可分か。さておき、

「一つのハッピーエンドとしての種牡馬入り」
(中略)
極端な言い方をすれば、これは一種の共同幻想ではあるのでしょうが、競馬というものがある程度、「名馬の子供が名馬だといいなぁ」というメカニズムというよりもファンタジーに寄っている以上、この

「ひとまずのわかりやすいハッピーエンドに至らなかった事」

が「残念だね」という感嘆の背後にあるのではないかと考えるのは、個人的には非常にわかりやすいです。

種牡馬入りはハッピーエンド、か。それはそれで面白い考え方ですね。でも、こうも考えられるのではないかなと。

競馬がブラッドスポーツであるならば、優秀な子孫を残す可能性のある馬の血を次代に紡いでいくことが一つの大きな目的ではあるわけですが、それ自体が「ゲーム」である以上、種牡馬になれないという事実はゲームに参加することすら叶わないわけ時点で、「ゲームに負けた」とも捉える事ができましょう。この敗北したこと自体が「残念」なのかもしれません。見方を変えるならば、優秀な子孫を残す可能性が無いという烙印を押されてしまったことが「残念」なのでしょう。種牡馬入りが「ハッピーエンド」、めでたしめでたしというよりも、種牡馬入りを成就できなかったこと、すなわち血を紡ぐゲームからリタイヤすること自体が「バッドエンド」と捉えた方がわかりやすいのかもしれません。


しかしながら、すべての馬を血を紡ぐゲームの舞台に上げることは出来ないわけです。なぜならば、すべての馬をゲームのスタート地点に置いてしまうと、競走という行為において馬を選定するという意味づけが失われてしまうためです。この血を紡ぐゲームは、競走によって馬を終わることなく淘汰させ続けることで、より速い馬を造り上げることもまた目的なのです。よって、競走成績という比較的わかりやすい、けれども絶対的ではない一つの指標で、繁殖に上げる馬を間引くわけです。

この間引くための線引き、繁殖に上げる(上がる)か、ブラッドスポーツの循環サイクルから外れて乗馬になるかという選択において、交流G17勝という成績が、一部ファンの思っていたものと生産界の感覚にズレが生じた故に、脊髄反射的に叫んだり、あるいは嘆いたりしていると。競走による淘汰競争ならば、ブルーコンコルドは芝戦線から脱落したという事実でもって、すでに敗れているとも捉えられましょう。この敗北を、交流G1では取り戻すことが結局出来なかったというのが、種牡馬入り出来なかったという結果だと思います。

個人的には種牡馬になれなくて残念だね、というよりかは、酔狂で繁殖入りさせることの出来る牧場が無い、もしくは少ないんだな、という方が強く。ロマンがないな、というよりかはパトロンがいないな、の方がよっぽど強いですね。ブルーコンコルドという馬に思い入れは全くないですし、地方競馬に造詣がないので、私自身サバサバした感情しか持ちません。ですから、競走成績でもって種牡馬入りできないことに「残念」という感情を持ちません。むしろ誤解を恐れずにいうなら、淘汰されるべくしてされたのではないか、と。

若くして舞台から去れば、その見せることのなった可能性に悲しみ、老いて去れば、その足跡に悲しむものです。見る事のできない種牡馬としての可能性と、見ることのできた交流G17勝という成績に対して。

かりそめにも種牡馬入りしたとして、仔から優秀な成績を持つ馬が出なければ、それはそれで嘆くことでしょう。種牡馬入りしたはいいものの、仔に恵まれずひっそりと種牡馬引退、行方知らず…忘れた頃に重賞戦線を仔が賑わせた頃にはすでにこの世を去っていた…「バッドエンド」どころかこれでは悲劇ですね。

種牡馬入りは現役という競走生活の終わりでもあり、種牡馬成績による競争生活のはじまりでもあるのです。第二の馬生である種牡馬生活を選択させられなかったことによって、負けるという負の可能性から抜け出すことが出来た、ゲームから脱落したことによって争うことのない安息を迎えることが出来た、と捉える事もまた一興ではあり、かな。



でもね、どうせ1年も経たないうちに、ブルーコンコルドが種牡馬入りすることが出来なくて「残念」だなんて感情、忘れるでしょ?