モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

運動の戦略、とか言われるものについて

 社民的なものが後退戦を続ける中で「自己批判せよ」みたいな話がよく聞かれる。戦略がバカげているから支持を集められないのだとか、正しいことを述べているだけではダメだとか、まぁ、そういう話。・・・もちろん、戦略は大事だ。しかし、僕が思うような意味での大事さは、巷でしばしば見聞きするところの戦略論とは全然違うものであるらしい。そのあたりのことを、少し整理してみる。


 前提を整理しよう。私たちと彼らの目指すものは異なっている。単に方向が違うだけではない。私たちは一部の人たちに重荷を押し付けるようなやり方をやめよう、と言い、むしろその重荷を共に背負うこと、そうした重荷を減らすことを主張すると同時に、重荷を減らすための努力を求めるという意味においてさらなる重荷を背負うことを求める。一方、彼らは、相変わらず重荷を一部の人に押し付け続け、そうした負担から共謀して逃れ、安穏と暮らそう、と誘惑する。どちらの道も同じように負担を求める道であって、その中から魅力的な道を選ぶ、という構図にはなっていない。彼らに同意することは、とても安易で楽なことである。私たちに同意することは多少の覚悟を要求する。

 ゆえに、彼らはただただ逃げ道を指し示すだけで、その道には沢山の人たちが殺到することになる。そこに戦略と呼びうる、私たちが学ぶべき何か知的な工夫が、何一つでもあるわけではない。その指し示された道の安易さが人を集めているだけである。それ以上でもそれ以下でもない。それに対して、私たちは一人一人に考えることを、決断することを求めねばならない。しかも、決断した人が後になって翻すことのないように互いに支えあうことも必要だ。そうした中でもなお、流されていく人は後を絶たない。私たちが直面しているのはそういう状況である。その中で、私たちは私たちが歩くべきだと思う道を共に歩こうという人を増やしていかねばならない。・・・以上のことから、さしあたりひとつのことは言える。彼らに学ぶべき戦略など何もない。ただ、私たちは、私たちの道の困難さに見合った戦略を、自前で考え出さなければならない。・・・このことを確認するだけでも、薄っぺらい左派批判のほとんどは聞く価値がないものになると思われる。これはもとより、左派に反省すべき点がないことを意味しない。ただ、彼らに学ぼうとしても学べるものはないよ、と述べているだけだ。


 さて、私たちはいかにして、人を誘惑して、より困難な道の方を選ばせることができるのだろうか。普通に考えて、そんな選択をすることはありえない。ありえないのだが、しかし、そもそもの私たちがより困難な道の方を選んでいる理由を考えてみればよい。好き好んで歩いている人は、あまりいないだろうと思う。逃げ出せるものなら逃げ出したい、背負う必要のないものなら投げ出したい、重荷とはそういうものでしかない。それでも、多少でも、それを背負おうと思うのは、誰かに不当に重荷を背負わせることに対して私たちが良心の呵責を感じるからである。私たちが良心の痛みを感じるのは、私たちと誰か他者との間にある事実に対してである。私は食べることができ、彼は食べることができず、ほっておけば死んでしまう。そのような状況を事実として知るとき、その事実を私は拒否したい気持ちになる。拒否したい気持ちが高まるとき、その事実を前に何もしないことそのものが苦痛となる。この良心の苦痛によって、より困難な道は、むしろより居心地のよい道となる。だからこそ、私たちはわざわざその道を行こうとするのである。だから、私たちの第一の武器は、この良心の呵責を生じさせるところの真実を隣人に手渡すことである。だから、私たちの基本戦略が話すことに、表に出ることに、暴露することにあるのに対して、彼らの基本戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することにある。これは偶然そのようになっている、というわけではないのである。

 しかし、ここに私たちの直面する困難も明らかとなるであろう。黙ること、隠れること、隠蔽することは基本的に自己完結したものである。これに対して、語ること、表に出ること、暴露することは、聞くこと、見ること、を要求する。彼らの武器は、自己完結している上に、即効性のあるものである。これに対して私たちの武器は、相手次第のものであり、効果も徐々にしか現れない。このこともまた、弁えておかねばならない。だから、私たちは、その戦略の効果を、短期的に評価することはできない。私たちの用いる武器は、彼らの用いる武器とは違うのである。・・・このことは、私たちが自分たちの戦略を反省する必要がないことを意味しない。ただ、彼らがあげる短期的な戦果を基準にして自分たちを測っても意味がない、ということである。

 私たちの戦いは、基本的に忍耐を強いられるものである。しかし、相手もまた別の意味で忍耐を強いられていることをここで指摘しておこう。彼らの用いる基本的な戦略は黙ること、隠れること、隠蔽することである。自己完結しており、それを崩さない限り、決して私たちが付け入ることはできない。しかし、誰かの語りを耳にしてしまえば、人はその語りと自己のあり方の整合性を気にしてしまう。その語りが自分のあり方と整合しないものであるならば、つまり自分を否定する、批判するものであるならば、何かを言いたくなってしまうのも人なのである。だから、ついつい自ら口を開いてしまう。自ら姿を現してしまう。自ら暴露してしまう。私たちは、ただ正しいと信じることを語り続け、示し続け、暴露し続ける。それはそれで、十二分に強力な武器なのである。正しいことを述べるだけでは足りない・危ういが(これは次に述べる)、しかし、正しいことを述べることは必須である。自分が、ではないにせよ、誰かがどこかで語っていなければならない。


 さて、もう一つ、とても重要なポイントを指摘しておこう。彼らの使う基本戦略は、黙ること、隠れること、隠蔽することである、と述べた。これはそれなりに強力でありながら、しかし無敵ではない、と述べた。しかし実は、もう一つ、警戒を要する危険な武器がある。それは、彼らが黙るのではなく、むしろ私たちを黙らせること、閉じ込めることである。たとえば、職場の上司に向かって語るものは、職場から追放されることによって語ることを不可能にされてしまいうる。もちろん、労働基準法の保護によって、そう簡単に追放することはできない。しかし、法に触れない範囲の有形無形の圧力だけでも、それは相当の消耗を私たちに強いるものである。これは、本当に警戒すべき武器である。

 私たちが戦略と言うときに考えなければならないことは、この「黙らせる」ことに対抗する戦略である。私たちを黙らせる力、それは小さなものから大きなものまで、様々である。しかし、いずれにせよ、私たちに黙る意思がないにも関わらず黙らせる力とは、誰かをして第三者の意思に従わしめるものであり、それは一言で言えば権力である。どこにどのような権力が配置されているのか、ここで語るとき、どのような権力がどのような方向に作動するのか、これを見極めなければならない。・・・卑近な言い方をすれば、上司に向かって物を言うためには、「私抜きでは業務が回転しない」というような余人をもって代えがたい位置を占めるよう仕事に励むとか、あるいは他の仲間と一緒に組合を作ることである。上司の権力に対して、自らの職業上の能力に由来する権力を、団結(およびそれを支える法)に由来する権力を対抗させ、均衡させ、そこに語る場を維持していくのである。私たちに必要な戦略とは、語りうる場を押しつぶそうとする権力の強化に対抗して、語りうる場を支えるための権力の再配置の戦略である。

 ここで一つ注意が必要である。この権力をめぐっても、私たちと彼らの間ではまったく異なる戦略が取られることになる。彼らの戦略は黙らせるためのものである以上、彼らはより大きな権力を求めるのであり、よって、小さな権力を束にしてより大きな権力にまとめあげていくことを基本とする。これに対して私たちの戦略は、相手に語らせることも含めて語りの場を維持・拡大していくことを目的とするのであるから、権力をより小さい単位に分解し、互いに均衡させることによって非‐権力が作動する余地を増やすことが基本戦略となる。場合によっては、自らの保持する権力を放棄することが正しい戦略でありえる場面さえ存在する*1。


 私の考える戦略とは、このようなものである。彼らに学ぶことなど何一つない。
 私たちは、自分の生きている環境の中で、語りうる場を広げるために、守るために、様々な手を打たねばならない。そこに周到な戦略が必要である。その上で、そうして確保された場において、実際に語らなければならない。具体的には、たとえば、アルバイトが労組を作って解雇を撤回させたりすることなどは、よいお手本であろう。第一に、語りうる場を作るための闘争を始めることである。基本は、とにかく仲間を見つけてつながることである。労働運動もリブも障害者運動も、まずはそこから始まった。第二に、その場を基点にして、とにかく語ることである。それ以上のより高度な戦略を考える必要もあるだろうが、基本はこの二つであり、この二つを欠いたところでは、どんな戦略も力を持ちえない。


 完全書き下ろし。疲れたのでもう寝ます。誤字・脱字系は明日直すので、ご指摘あればコメントにどーぞ。

  • 11/27 12:40 修正。「奴ら」を「彼ら」に統一。

*1:たとえば、教師が学生・生徒に向かい合うとき。一般に、教師が持っている権力は十分に大きすぎるので、教師としての職務を意味のあるものにするためには、すべての、ではないにせよ、部分的に放棄することはむしろ必須でさえある。