すかぢ式 シナリオライター脱創作論 【第2回】
技術論は円環せざるを得ない-『チェーホフの銃』批判-
SNS時代の今日、人々が興味がありそうな言説が日々流れていきます。
そんな中で、クリエイターのための技術論にも多くの「いいね」がついています。
今回はその中から「伏線の張り方」を取り上げていきたいと思います。
伏線回収というのは作品評価において分かりやすい指標になります。
作品レビューや感想などは基本的には主観的評価によるところが強く、「良い作品」論争などはじまると水掛け論になりがちです。
ですが、伏線回収の実績というのは比較的分かりやすく作品の優劣を付けやすいと思われます。
たとえば、作品を批評する時に「重要な伏線が投げっぱなし」「伏線が全く回収されていない」は市場にかなり強いネガティブなイメージを与えます。
「作者が大風呂敷を広げて、重要な伏線が全く回収されず、投げやりなラストで終わる」
評価:★☆☆☆☆
この様なレビューが書かれ、実際にその指摘通りであるならば、販売数にかなりのダメージが出ます。
作品の評価基準というのは多数ありますが「伏線回収」は比較的客観性のある共通認識に至る傾向があります。
「キャラクターが可愛くない」に対して「可愛い」と思う人が反論するのは(水掛け論になるとしても)容易ですが、「重要な伏線が回収されていない」に対して「回収されている」という反論は難しいです。
つまり作品の善し悪しを語る時に相対的に「伏線回収」は分かりやすい目安となるのです。
§作劇法『チェーホフの銃』
有名な作劇法として『チェーホフの銃』があります。
「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、最終幕にはそれが発砲されるべきである。」
意味ありげで登場させた小道具や設定などは、必ず終盤で回収されなければならない。
これは「物語には無用の要素を盛り込んではいけない」とも解釈出来るとされています。
この解釈を字面通り受け止めて「ああ、無用な要素は物語に入れてはいけないのだな」と考えてはいけません。
なぜならば『チェーホフの銃』はさらに違った解釈も出来るからです。
なぜ壁にかけられた「銃」は使わないといけないのでしょうか?
チェーホフの時代ではなく、現代の我々視点で考えるならばファンタジーものやバトルものなどのアニメやゲームの背景の壁に銃がかけられていて、それが使われないからといって怒る人はいません。
使わなければならない「銃」とは、つまるところ見ている人間にとって気になる存在であるのです。
「銃」に存在感があり、その「銃」の存在が魅惑的であるからこそ、視聴者はその「銃」が使われずに幕が閉じると怒りを露わにするのでしょう。
背景の中に埋没している自然な「銃」が使われる事がなくても誰も気にしません。
「銃」は魅惑的である時に「使われる期待度」が高まるのです。
その様な意味で考えるならば、『チェーホフの銃』というのは「無用な要素は物語に入れてはいけない」という「~してはならない」という側面だけでなく、見る者の心に大きく刺さり期待度を上げてしまった魅力的な「銃」の言及とも言えます。
この様な解釈をすると、「銃」つまり「伏線」には二つの側面があると言えます。
見る者の心に大きく刺さったからこそ期待度が上がった「銃」であり、故に使われなければならない。
だとするならば、『チェーホフの銃』は、大きな武器にもなるが、その代償を支払わないと、大きな災厄を招く様な技法だとも言えます。
『チェーホフの銃』に対して「ああ、無用な要素は物語に入れてはいけないのだな」と考えるのは早計だと思われます。
§「読み手を物語に引き込ませるチェーホフの銃」
武器としてのチェーホフの銃。まさに読者を物語に引き込むためのチェーホフの銃……などと言うと少し難しい印象を与えてしまうかもしれません。
ですが、読み手を物語に引き込ませる技法としての「銃」と考えれば、程度の差はあるとしても、比較的ありふれたものであり、さほど技能を必要としません。
物語を書く人間ならば無意識でやっている事が多いとも言えます。
たとえば、あなたが新しい物語を書いているとしましょう。
「強い人間が出てくる話」です。
その冒頭で以下の様なシーンを書いたとします。
分厚いコンクリートで囲まれた研究室の廊下を、小さな子供が立っている。
その子供を取り押さえようと複数の武装警備員が群がる。
だが、次の瞬間、武装警備員は肉塊となって四散する。
この数行を書いた瞬間にあなたは、その子供がなぜそこまで強いのか? なぜそんな場所にいるのか? なぜまわりの人間は彼を取り押さえようとしたのか? などの説明をしなければならなくなります。
つまりは物語を描写する時に必然的に伏線が発生している状態と言えます。
次に子供がどの様に大人達を肉塊に変えたかの描写を、何パターンか考えてみましょう。
①この子供が、軽く手をかざして大人を肉塊にした。
②この子供が、変体して瞬間的にあばらが羽根の様に広がって、人間を肉塊にした。
③この子供と目があった瞬間に大人達は肉塊となって四散した。
④この子供が呪文を詠唱して、大人達を肉塊とした。
この様に子供の強さを描写することによって、さらに物語が新たなる謎を呼びます。
①ならばたぶん超能力なのでしょう。
②ならば子供の形をした化物か、もしくはその様な化物になってしまうウイルスなどが発生しているかもしれません。
③も超能力と考えられますが、目が合った瞬間にその人間の魂を増幅させてその大きさに身体が耐えられずに四散するという霊的なものかもしれません。
④ならば魔法ですが、なぜ現代的な研究所にいるか謎です。もしかしたらこの魔法使いは異世界から逆転生してきたのかもしれません。
この様に、読者が興味を抱くような物語を書き連ねると必然的に謎が謎を呼び、謎が数珠つなぎの様に発生していきます。
逆に言えば、「説明されるべき要素」というものがうまくハマると読み手は物語を中断する事が出来ずに読み進んでしまうとも言えます。
週刊連載の様な1話目で読者の心を掴まなければならない形式だと、一ページを進めるたびに謎が謎を呼ぶ様な山場を作らなければなりません。
不人気ならば十週打ち切りとなる少年ジャンプなどでは、一話目からどれほど派手な外連味で読者を魅了しなければならないかの勝負とも言えます。
この構造は週刊誌だけにとどまりません。
ハリウッド映画など見ると、必ず冒頭からかなり大きな事件が起きます。
音楽も状況もすべてがクライマックスさながらの展開が10~15分ぐらい続き、それが終わると嘘の様に主人公などの平坦な日常が描かれています。
もちろんこの冒頭10分は確実に引き込ませる技法としての伏線にもなっています。
これは、物語の構造上、読者を掴むために盛り上がりを持ってきたら、そこに説明など入れる余裕などなく、冒頭の盛り上がりには多くの謎が残ってしまうという必然的な流れからきています。
ただし、多くの名作は、この冒頭盛り上がりの中が物語のクライマックス近くに回収される伏線となっている場合が多いです。何故ならば、冒頭の盛り上がりとはつまるところ物語の根底の設定であり、冒頭の盛り上がりにブーストをかけてクライマックスを持ってきた方が、より見る者に心地よい興奮を与えるからです。
この様に物語に引き込ませるための伏線というのは、
小規模なものならば、物語を動かす動力源として機能し
大規模なものならば、物語のラストを盛り上げ最後を締めくくるカタルシスとして機能します。
美少女ゲームにおいて、長らくこの様な冒頭の盛り上がりは必要がない様な扱いを受けてきましたが、近年では体験版を少しでも長くプレイしてもらうために冒頭からの盛り上がりを用意した作品が増えてきています。
ラノベなどの買い切り作品などでも試し読みで購入してもらうために冒頭の盛り上がりを重要視する編集は多いです。
実際、現在の様な物語過多な時代においてはエンタテインメント同士の可処分時間の奪い合い状態となっており、どれだけ冒頭の盛り上がりで「読者を引き込ませるチェーホフの銃」になるかが重要視されています。
§「見えているけど見えないチェーホフの銃」
『チェーホフの銃』は引き込ませるための伏線技法という説明をしました。
実際、『チェーホフの銃』は回収されるべき伏線であり、もし回収出来ないのであれば欠陥の物語の烙印を押されてしまうのですから、それは誰の目にも「伏線」に見える「銃」であるハズです。
ですが、『チェーホフの銃』には更なる意味もくみ取れます。
つまり、背景の中に埋没している自然な「銃」が使われる事がなくても誰も気にしません。そんな埋没している「銃」が、もし大きな伏線となっているとしたら……読者は大いに驚かされるでしょう。
この様に『チェーホフの銃』にはさらに、「目立つチェーホフの銃」と「見えているけど見えないチェーホフの銃」があります。
一般的に言う「伏線」という場合は、こちらの「見えているけど見えない伏線」の事をさすでしょう。
考察系のyoutubeなど見ていると、「さりげないコマの背景に実はこんな深い伏線が隠されていた」的な動画が数多く流れてきます。
この様にちょっとした漫画のコマや表紙イラストなどに伏線的な要素を忍ばせておくというのが小さな「見えているけど見えない伏線」とするならば、物語の根底を覆す様な大きな「見えているけど見えない伏線」などは叙述トリックなどに分類されます。
叙述トリックの細かい分類などはここでは省きますが、大きく考えると叙述トリックとは、見る者に「誤認」させる技術の総称と言えます。
人物、場所、時間、事件そのもの、どの様な形でもよいので、読み手に「誤認」させます。
誤認する事で読み手は重要な手がかりを見失い物語を読み進めますが、正しく伏線が回収された時に、物語の見え方が一変します。
いわゆる大どんでん返しというヤツです。
これが上手くはまると非常に心地よい驚きになり、読後感が全く違ったものになります。
この様に物語を一変させる魔法の様な「見えているけど見えない伏線」ですが、この技法に関して細かく説明は出来ません。
叙述トリックというのは、だいたいにおいてトリックそのものが物語の根底となっているからです。単純に言えば先行作品を解説して「ネタバレ」をするから説明が出来ないといった感じです。
また実例を出さずに「誤認の形式」を並べたところで「人物の誤認」の説明は「人物を読み手に誤認させる事です」など、なんの発見も得られない説明になってしまいます。
叙述トリックを使いたいのであれば、読み手をどの様にして「誤認」させるかをいろいろなパターンを考えましょうという程度のアドバイスしか今は言えません。
ただ、この様なトリックなどを生み出す思考法については今後の連載の中で触れたいと考えています。
ですが、今回はとりあえず、教える事は出来ないとしてください。
それよりも、ここで語りたいのは、この「見えているが見えない伏線」は物語を面白くする大きな武器となりますが、こちらも「読み手を物語に引き込ませるチェーホフの銃」同様に大きなリスクを伴う技法でもあります。
あまり語られない「見えているが見えない伏線」のリスクに関して考えていきましょう。
§「見えているけど見えないチェーホフの銃」罠
『向日葵の教会と長い夏休み』の開発で、とある有名シナリオライターが別ルートを担当したシナリオライターのプロットを読んで、いたく感心していた事があります。
曰く「こんな複雑ですごいプロットよく考えますね。」
もちろん字面通りにこの言葉を取ってはいけません。
シナリオライターという人種は、基本的には、一つのノベルゲームを複数人で作った場合には、自分が担当したシナリオがもっとも評価が高くなる事を願います。
自分の担当したシナリオの評価が高ければ、ゲーム全体の評価が低くてもそれほど気にしませんし、なんならゲームの評価が高くても、自分の担当したシナリオの評価が低いことの方がよほど気にかかりだったりします。
そう考えると、プロットを読んで「よく考えますね」という発言は、そのプロットになんの脅威も感じていない事を意味します。
実際、このゲームが発売されると、この有名シナリオライターのルートが一番の評価になり(とは言ってもその様に企画段階から全体像のプロットが作られていたのですが)、「すごいプロット」と言われたルートは、むしろゲームの評価を下げるぐらいの評価となりました。
この結果が出た時にボクはこのシナリオライターに「なぜすごいプロットなのに、評価が低いと思いますか?」と質問しました。
すると彼は、
「ストーリーを良く見せる事ばかり考えてキャラクターがないがしろにされており、すべてにおいて中途半端になっていた」
と語っていました。
ストーリーは大どんでん返しもありそれなりに複雑なのだけれども、そもそも美少女ゲームを買うユーザーはそんなものを欲しているとは思えないとの事でした。
この発言は鋭いです。
実はこれは叙述トリックが得意なシナリオライターが陥りやすい罠でして、大どんでん返しありきで物語を構築して、登場人物をそのトリックを成立させるためにしか動かす事しか出来ず、魅力的なキャラクターにならずに凡作になるということがままあります。
推理小説というジャンルであるならば叙述トリックだけでも良いかもしれません。ですが美少女ゲームにおいて中途半端なトリックなど単なるノイズになりかねません。
美少女ゲームにおいて基本的にはキャラクターが魅力的に描かれることが望まれます。
キャラクターを魅力的にするために叙述トリックが使われるのでしたらそのノベルゲームは名作となり得るでしょうが、叙述トリックを使うためにキャラクターを創作しているのであれば、ほぼ間違い無くその作品は駄作になるでしょう。
§伏線に関する「べき」論
一流の叙述トリックを得意とするシナリオライターですら、その技に溺れて、自らの作品の評価を下げてしまうのです。そんな中で、SNSで流れてくる様な「伏線の張り方」が実用に耐えられる技術論となりえるでしょうか?
「読み手を物語に引き込ませるチェーホフの銃」の節でも言いましたが、「伏線」と思わずにただ魅力的な話を考えていたら構造的に伏線になっている方が好ましいのです。
実際、伏線が上手く使われた物語において、キャラクターは必ず魅力的なものになります。
キャラクターの過去が明かされ、内面の意外性が掘り下げられる。その時に伏線が張られていたシーンは読み手に違った新しい姿を見せます。
何気ないシーンが、伏線回収後に読むと感動的なシーンに劇的に変化しています。
そう言った意味では、高度な伏線回収技術である叙述トリックですら、物語を面白くするためにキャラクターを魅力的にするために必然的に取り入れられた方が良いと思います。
「伏線の張り方」という技法があるとしたら、ボクに言える事は、それによって、キャラクターや物語に深みを与える様なものであるといった感じです。
ですので、伏線を教科書的に捉えるのは危険ですし、伏線という作劇法において「べき」論は有害とすら思えます。
チェーホフが「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、最終幕にはそれが発砲されるべきである。」と述べたのは事実かもしれません。
チェーホフがどれだけ偉大な文学者だとしてもやはりその「べき」論は否定されるでしょう。そしてその否定から、新しい技法が生まれます。
たとえば、「読み手を物語に引き込ませるチェーホフの銃」の節で、強い人間が出てくる話を書く時に、「なぜ強いか」の説明に迫られると書きました。
ですがそんなもの必要がない例外もあります。
たとえば『ワンパンマン』の主人公サイタマなどに説明などいりません。
強い説明がない事でキャラクターにインパクトを与えているのです。
この様に、前の節ではあらゆる設定を書くと説明に迫られると書きましたが、それは定型的な物語の場合であり、必ず例外が存在します。
さらに、伏線回収の技法を破るというグロテスクな例を出しましょう。
例えば、例えばの話です。
冒頭にとてつもなく魅力的な伏線を用意し、読者の興味をかき立てます。
その作品は、謎が謎を呼び、どんどん面白そうな展開を見せます。
ですが、その謎は一向に明かされる事がなく、物語が進んでいき、最終回を迎えます。
最終回で、その最大の謎は解かれる事もなく終わります。
この様な物語が大ヒットした後に最終回で大炎上したとします。
この時に、たしかに視聴者からすれば、物語に対する裏切りであり、キャラクター達に対する裏切りであり、視聴者に対する裏切りであります。
ですが、この作品に関わった人々からしたらどうでしょうか?
この様な作品が発表されるたびに「伏線回収とはこの様にされるべきだ」という言説がプロアマ問わず語られます。
ですが、もし自分も同じプロの創作者であり、その作品ほどのヒットに恵まれていないのであれば、なぜそこから学ぼうとしないのでしょうか?
伏線回収はかくありきと教科書的な反応をする前に、なぜその様な作品がヒットしたのかを考えないのでしょうか?
炎上するほどの注目を集めた作品です。
まさに「読み手を物語に引き込ませるチェーホフの銃」として一流の出来だったのでしょう。
この様な作品で儲けたとしても、次に続かないなど反論する人もいるかもしれません。
ですが経営者目線からしたら、未完成の様な結末のヒット作があったとしたら、数年後にリメイクを作る事が出来ます。
たぶん、その作品が人気作であり、かつ不完全燃焼で終わったとしたら、そのリメイクは必ず商業的に成功すると思います。
あのヱヴァンゲリヲンの様に……。
§すべての技術論は円環せざるを得ない。
「読み手を物語に引き込ませるチェーホフの銃」そのものがあまりに魅力的であった場合、チェーホフが「するべき」と語った法則は破られても成立する事があります。
伏線は回収されなければならない、という当たり前の決まりが、魅力的な伏線の見せ方によって壊れてしまう事があるのです。
この時に創作者はどうするべきでしょうか?
同じ様に、伏線回収出来ないほど魅力的な「銃」を目指すべきでしょうか?
たぶん、そして、ほぼ間違い無く、その様なものは不可能でしょう。
回収されないほどの魅力的な伏線を作るのは、それはそれで特殊な能力が必要ですし、もしそんな手法の作品が一年に何度も出てきたら、たぶん誰も物語など見なくなるでしょう。
伏線を回収しないヒット作など、創作においては例外としかいいようがないのです。
だとしたら、やはり最終的には当たり前の地点、「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、最終幕にはそれが発砲されるべきである。」に落ち着いてしまうでしょう。
それでもなお、作劇法における「べき」論はやはり例外を認めるという形で注釈を増やしていきます。そしていくつもの注釈を経て再び最初の地点に戻ってくるでしょう。
なぜこの様な事が起きるのか?
この問いは少しばかり答えるのが難しいのですが、端的に言えば、物語というものは社会に投げ出されて価値が生まれるからです。
社会というものは、人間活動によって無制限に生成されつづける現実です。
無制限に生まれる現実に対して物語の価値観も無制限に創出されます。
この様な流動的な社会に対して投げ込まれる物語を技術論的「べき」論で語るとしたら、その「べき」に無限の注釈がつく事を意味します。
しかし、理論化された「べき」は有限個しかありません。なぜならば、理論化というものは、多くの物語を単純化して類型化して語るからです。
「歴史は繰り返さないが、韻を踏む」といわれます。
現実は無限の様相を見せるため、歴史は繰り返しません。
けれども、我々は何かを語る時に、特にそれを理論化したい時には単純化して語る時に、歴史の繰り返しを見るのです。
この構造は『チェーホフの銃』に限らずあらゆる作劇法が同じような運命をたどります。
技術論はグルグルと同じ場所を回転する事になり、「技術論は円環せざるを得ない」のです。
我々は、クリエイティブハック的なものを望みがちですが、創作とは、物語という商品によって社会とつながる行為なわけですから、その様な教科書的な正解などありません。
我々が創作で使う技術は日々進化していかざるを得ないのです。
そのためには、我々は日々進歩していかなければなりません。
これはプロを目指す人間のみならず、まさに一線で活躍するプロも変わりません。
今の自分に満足したとしたら、すぐにでも成功者の梯子から滑落してしまうのでしょう。
創作における、日々の鍛錬。
それはどの様に可能なのでしょうか?
次回は、本創作論の骨子となる「インプット批判論」を展開していきます。
<著者プロフィール>
SCA自(すかぢ)
ケロQ/枕代表兼シナリオライター
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