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パンがないなら、死ねばいいのに 後編


パンがないなら、死ねばいいのに/自殺という過酷な自由を考えるためにの続き。

⑤労働の「日本人論」
 石澤靖治(学習院女子大教授・メディア関係論)さんは、終戦後から80年代まで、一説には千冊といわれるほど大量に出版された日本人や日本に関する代表的な本を「日本人論」と「日本論」に整理した。
 「日本人論」とはルース・ベネディクト『菊と刀』や土屋健郎『「甘え」の構造』といった文化によって日本を説明するタイプ、「日本論」はエズラ・ヴォーゲル『ジャパンアズナンバーワン』、チャーマーズ・ジョンソン『通産省と日本の奇跡』などの官僚制や終身雇用・年功序列といった制度によって日本を説明するタイプ。
 前者は書かれた時期も影響して、どちらかといえば日本の特異性をネガティブに、後者は日本の特異性をポジティブに(そして後に、米国の脅威や参照対象として)描く傾向があると言える。(さらに「日本人論」から制度を正当化し、日本文化が欧米の行き詰まりを救うという「文明の超克」的な話も出現する)
 石澤靖治さんの整理から言えば「日本人論」のはしり1955年に、ロバート・ベラー(UCバークレー教授・宗教社会学)は、日本が“自国を「近代産業国家」に変えた唯一の非西洋国家”だったのは何故か、ヴェーバーの言う「資本主義のエートス」たるプロテスタントの倫理の機能的代替物は何かという疑問にこのように答えている。
 近代後発国が西欧近代産業社会へ参入するためには、既に形になっている西欧の工業・産業を輸入して移植する他なかった。国内の原始的な段階にとどまっている貧弱な民間組織が膨大な資本を必要とするそれを担うことはできず、唯一国家だけが可能だった。国家が主導して国内の資源を集中させることが有効な唯一の道だった。
 そこで“政治体系および政治価値の強さが、決定的な変数”となる。
 徳川時代は、所属する身分階級において・を通じて集合体への忠誠を重視する社会。藩における君主への忠誠、商業では株仲間、農業では村落といた集合体への忠誠が重視され、家族はそれ自体内部で政治的であると同時に幕府組織の最末端として政治体系に組み込まれていた。そこでは、静的な統合という価値より、集合体への積極的な献身が評価され、動機付けられていた。
 この集合体への忠誠という特殊主義、積極的献身という遂行、政治価値・体系の合理化に対して日本の宗教は寄与した。
 歴史を通じて政治と密接にかかわってきた神儒仏の諸宗教は相互に借用しあい融合され、「日本宗教」と呼べる要素を持つ。日本宗教には二つの神的な観念、“与えてくれる至高存在の観念”と“実在の内的本質”があり、それに対応して二つの宗教行為の型、“報恩”と“合一”がある。つまり、至高存在者の恵みへの返報と存在の本質との一体化を目指す行為の二つで、後者は“個人的な宗教的実修”といった隠遁形式と“倫理的行為、あるいは「愛の作業」”といった世俗義務の没我的な遂行という世俗内神秘主義的形式あがある。後者の世俗内神秘主義的形式が日本では主流になったが、両者とも“利己心は、外的な義務の正当な返済を妨げ、また、人間の内的な本性の真の調和をやぶる。”と利己心を最大の罪とみなすことで共通している。
 この宗教行為の型は“仕事に従事するならば、それは、仏法に奉仕するもの”と“自利-他利の教義”により労働と利益を正当化した蓮如後の浄土真宗を信奉した近江商人や、“天、地、人から受けた恩に報いる”と報恩により労働正当化し貯蓄と投資による経済回復を宗教的救済と融合させた二宮尊徳の報徳運動、“自己を捨て、道を行う”と禁欲主義と世俗的義務の没我的遂行を教えて江戸後期の都市を中心に広まった石田心学に現れる。
 これらは、身分社会の義務・上位者への服従を積極的に肯定し、宗教的に意味・動機付けを与えた。
 この日本宗教による政治合理化(特殊主義的遂行、集合体のための遂行を宗教化により合理化して強化)は、西欧でプロテスタントの倫理が経済合理化に果たした役割に類似し、機能的等価物として明治日本の政治主導の近代化の基礎となったとベラーは考えた。

⑥死に至る労働
 “自殺者が発生した場合、ほとんどの企業は、労働条件や労務管理の問題点を棚に上げ、自殺を労働者個人の責任ととらえる。そして遺族に対して、「会社に迷惑をかけた」として高圧的な態度をとり、遺族は「申し訳ない」とおわびする立場に立たされる。自殺の基本的な原因を作った加害者側が、自殺=被害者側を叱り付けるという、誠に本末転倒なことが繰り返されている。”

 過労死問題に取り組む川人博(東京弁護士会)さんは、「過労死110番」への相談事例に基づいて過労自殺の5つの特徴を挙げる。
 過労自殺は職種地位を問わず“幅広い範囲の労働者に広がっており”その多くは“長時間労働・休日出勤・深夜労働・劣悪な職場環境などの過重な労働よる肉体的負担、および重い責任・過重なノルマ・達成困難な目標設定などによる精神的負担”にされされ“うつ病などの精神障害に陥っていたと推定される”が精神科を受診しないまま死を選び、“実態がなかなか組織の外部に伝わら”ずに遺族は社会的偏見に晒されて孤立する。
 中高年は比較的長い遺書を残すが、その内容は家族と会社へのお詫びと自責。
 それが会社の保身に使われる。

 “業務命令とあらばどんな過重な労働でも受け入れて”死に至る中高年労働者。
 “就職前の予想をはるかに上回る仕事量、責任の重さに遭遇し、心身のバランスを崩して”拘禁反応のような自死に至る若年労働者。
 
⑦宿命としての死、回教徒の死
 “リスク社会においては、リスクを人為的な努力で完全に抑圧し、否認することはできるというかつての幻想は捨てねばならない”。
 “リスク計算を冷静におこなう一見合理的な態度と、宿命論とは実は紙一重ではないだろうか”、“リスクの回避に最善を尽くす”態度と“最初から起こりうる事態を運命として受け止め、腹をくくる態度”は、どちらもリスク社会の“日常性を生き延びるための合理性を有している”。
 “現在、「自己責任」―「リスクを受け入れよ」―のスローガンとともに若者に向けられるメッセージは、明らかに矛盾したダブルバインドのメッセージである。それは一方で「自分の将来や老後を自分で備えよ」(=国や企業に頼るな)である。しかし同時に発せられるのは「あらゆる長期計画(=長期的安定性)を放棄せよ」である。”

 「自己責任」で競争セクターから脱落し、住居を失えば「住所がない→保護が受けられない+就職できない」のループに嵌り“永続的な待機状態”へ。
 <人間としての権利>を実質的に保障するのが法的な市民権というより企業社会の地位である日本で、「国内難民」化し、「人間の生き方でないような」生を生きることになる。
 そこでも“適応できる前に打ち負かされてし”まえば、ナチス強制収容所で「回教徒」と呼ばれた人々―生きる意思、感情を喪失し死ぬに任せる―に類似する末路をたどる。
 
 “市場競争や収益性といった新たな要求に答えて生きることができない者たちは、死に廃棄されることを通じて社会的に内包されるのだ”。
 静かに、深夜の車道に横たわって。

⑧ゴミはゴミ捨て場に、美しい国へ。
 労働は大成功を収めた。
 ④で述べたように、労働はただ必要なものを賄うためではなく、「快」「喜び」の源や「自己実現」になった。たしかに、その反作用(面白くないからやらない)もあったが、成功には変わりない。労働と非労働の区別は曖昧になり、「遊び」こそが理想的な労働観となった。
“仕事が遊びになるとき、仕事は実質的に労働者の自由な時間を消滅するところまで侵食してくる。さらに、人間的な職場とは、ただの職場とは違う―つまり、そこには多くの創造的自由や、規律かされない労働時間や、娯楽ゲームはあるかもしれないが、雇用保険や賃金平等、経営管理といったものがなかったのだ。”(※)
 しかし、“この「苦境」は<コスト>としてではなく、むしろ仕事に付随する<特典>と解釈され、低賃金を正当化する口実となる”
 同時に、③で述べたように価値を決める中心が労働から消費へ変化し、価値と労働の結びつき―価値尺度は不確かになった。
 それは単なる労働の生産物の価値尺度の問題に止まらないものとなる。労働と非労働(遊び)、生産と生活の区別が曖昧化した社会では、人格の価値尺度の問題(人間力?)につながっている。
 “要求されているのは、個人の<実存>や<生>そのものの次元とでも呼ぶべきものを生産に投入することであろう。”
 この事態は二つのことを通じて新しい社会を回す。
 一つは、カルヴィニズムの予定説よろしく、不安を通じて「自己実現」というな名の労働と消費へと人々(私達)を駆り立てて社会を回す。消費社会では価値尺度が曖昧化し(しかも上述したように労働者との結びつきは人格にまで深化)ているため、生産社会だったカルヴィニズムの時代より天国(「救いの確証」)を得るのは困難。しかし、地獄への道はハッキリしている。
 この「やってることの価値は分からないけど、頑張ってね」というメッセージが引き起こす“永続する不安と消耗”に耐えるためにもう一つのことが必要となる。
 それが地獄、つまり競争セクターからの脱落、若しくは底辺に対する恐怖。
 自分が落ちるのが怖い、「ああはなりたくない」という意味のみならず、そこを犯罪予備軍の場所とすることで向けられる恐怖。
 その恐怖は対価に「自分のやっていることはあれよりはマシだ」という安心感も与えてくれる。
 さらに恐怖は、脱落や底辺を搾取対象することも正当化する。犯罪予備軍として貶めておけば、刑務作業中の囚人のように、いかようにでも扱っても良心が痛むことはない。
 ここで、経済学がたどってきた「分配の正義から交換の効率へ」という流れが逆転し、人格価値に基づく交換正義が復活する。人格価値(人間力?)の違いが、同じことをやっても違う報酬を正当化する。
 社会を競争セクター(「分からないけど、頑張ってね」)とゴミ捨て場(「死ねばいいのに」)に分けることは、政治(立法・行政)にとっても大変に都合がいい。
 競争セクターは人々がいつゴミ捨て場へ落ちるか分からないために内部で団結や抵抗ができない(競争相手と団結、立法活動の監視などする余裕がない)状態になり、ゴミ捨て場には競争セクターと隔離したの上で「生き残りの生産」に必要な程度の援助をして、勝手に荒廃してもらい外部へたまに噴出し恐怖を見せ付けて、援助支出に対して競争セクターが道徳的な怒りを感じるようにしてくれればいい。
 そのために、無関心では足りない、“確信犯的に「敗者」や「余計者」を敵視”するようにメディアを使って情報解釈の道筋を植えつけること。貧困問題を治安・犯罪問題に、政治問題を人格問題に、想像力は恐怖と怒りを感じるために、情報選択・操作をして無感動と忘却を生み出すこと。
 そうすれば、「公共=国家」として、“政治的なもの―敵対性―は存在し得ない”社会で“<対話>の可能性は前もって完全に封殺”し、“よき統治に従順な者となるか、あるいは統治されることを拒む犯罪者”となるかを迫って、“住民は政府にとって潜在的に危険な要因として位置づけなおされ、逆に政府が住民にとって脅威になったり、暴走するという可能性は前提の上で消されている”という美しい国が創れる。

⑨敗北を抱きしめて
 “勝ったのは誰か?ニューライトと呼ばれるリニューアルされた右翼である。”
 “より正確に言えば、家族的価値の回帰を唱える新保守主義、市場原理による福祉国家解体をねらう新自由主義、権威主義的ポピュリズム、これらの接合によって出現した新たな権力である。”  
 渋谷望(千葉大助教授・社会学)さんは、リニューアルされた右翼、ネオリベ・ネオコンが勝利した新しい権力ゲームで労働と産業という要素の果たした役割を⑧のように分析し、左派の敗北を記述する。
 (5)(6)で述べたような自己決定権による積極的安楽死の歴史、自己所有という発想をめぐる伝統的なリバタリアンとリベラルとの共闘の成果(言葉)は、ネオリベ・ネオコンに流用されている。
 もちろん、自己所有・自己決定を放棄してもなんら変わらない。
 「間柄主義」「間人主義」によって個が否定され、非人称・単数の「われわれ」に生が所有されるだけで結果は同じ。「われわれ」以外の生を敵視・恐怖する点でも新しい権力ゲームと変わらない。これは⑤で述べた特殊主義的遂行と同様に、組織犯罪を防衛行為という特殊(内部)倫理により正当化することにつながる。(※)
 この価値観は、新しい権力ゲームの要請するフレキシブルな主体に邪魔なように見えるが、新しい権力ゲームで要請される忠誠の抽象化・一般化は政治合理化(特殊主義の一般化)の結果とも言え、むしろ親和性が強い。リニューアルされた保守にとって日本的「伝統」は有効なアイテムとなる(なっている)。
 それは、⑥で述べたように、過労自殺が特殊主義(業務)の遂行に失敗したこととして捉えられている現状や、アメリカのアンダークラスが『葉隠れ』を生存の美学として流用していることからも分かる。

⑩戦争は希望に過ぎない
 『論座』の赤木論文は、“狂気と紙一重のいわば一発勝負”の表出。
 現実に、戦争は必要なゴミ捨て場にされている。
 ただ、量産される名誉負傷賞や青銅賞では慰撫されなくなってはいる。
 1ドルの報酬でこの不協和を解消するには無理があるし、ウェーバーも言うように、合理化の強力源泉である宗教(的な不合理)は合理化が達成・完成されると忘れられ、力を失い、心理的報酬を与えられない。 

 それでも、アルバイト・コンプレックスはいっそう刺激される。
 それはベラーが述べたように、社会が大きく変化し人々に緊張や挫折をもたらした時、旧来の宗教体系(社会道徳の基礎となる価値観への意味付与)では対処できず(緊張や挫折に納得するような意味を与えられない)、新しい宗教体系も生まれない場合、旧来の宗教体系が逆に“パターンを維持し、緊張に対処しようとする宗教の努力は、激しく、しかも組織的なもの”となる現象かもしれない。
 心底から信じているわけではない。“やりがいのない、しかも低賃金の労働を若者が率先して行うなど、いったい誰が本気で信じるだろうか。”
 労働倫理は、“内面化された自己理解の形態にあるのではなく、隣人の労働に投げかける私たちのまなざしにある。”(※)
 そして、まなざしは不安と恐怖に染められる。
 “<マジメ>なマジョリティに安心を与え、この格差を最終的に正当化するものこそ、勤勉を美徳とする労働倫理ではないだろうか。勤勉な主体としての自己肯定感は、<怠惰>への道徳攻撃によってはじめて可能となる。”
 
  自殺は苦痛からの逃避と解決の選択であり、苦痛の最たる要素は「苦痛がいつ終わるか分からない」という意識状態と焦燥にある。
 戦争は希望でしかないかもしれないが、希望は必要だ。生きる限りは。

⑪行き止まりとしての円環
 “生産を欲しているのは社会であり、負の生産を欲していないのは社会なのだが、社会とは私たちのことだ。”


続き→誰も私の名前を呼ぶことがなくなることが/自殺という過酷な自由を考えるために




引用・参照)
①③『労働と正義』有江大介著(創風社)
④※以上『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』マックス・ヴェーバー著
                                   大塚久雄訳
 ※以下『働かない』トム・ルッツ著 小沢英実+篠儀直子訳(青土社)+⑧⑩の※
⑤『日本人論・日本論の系譜』石澤靖治著(丸善ライブラリー)
 『徳川時代の宗教』R・N・ベラー著 池田昭訳
⑥『過労自殺』川人博著(岩波新書)
⑦⑧⑨⑩『魂の労働』渋谷望(青土社)
⑨※「集団と所有」斉藤純一著(ナカニシヤ出版『所有のエチカ』)
⑩http://blog.yomone.jp/kayano/
⑪『私的所有論』立岩真也著(勁草書房)
by sleepless_night | 2007-03-17 13:03 | 自殺
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