〔注意〕
以下の文章は自殺に関するものです。具体的な描写や事例についての記述があります。ご自身の体調・状態等を考慮のうえで、お読みください。 ************************* “これでやっとわかった。もう“デカイ一発”はこない。22世紀はちゃんとくる(もちろん21世紀はくる。ハルマゲドンなんてないんだから)。世界は絶対に終わらない。ちょっと“異界”や“外部”にさわったくらいじゃ満足しない。もっと大きな刺激がほしかったら、本当に世界を終わらせたかったら、あとはもう“あのこと”をやってしまうしかないんだ。” 『完全自殺マニュアル』(太田出版)鶴見済著 “私たちは自殺する自由を持っているが、その自由は過酷である。” 『自由死刑』(集英社文庫)島田雅彦著 “「増池さんは考えたこと無いんですか?」 名前を読んでもらえたのが増池は嬉しかった。 「僕は、死ぬのが怖い。だから自殺なんて考えたこともない」 増池は力を込めて言った。 「生き続けることは怖くないんですか?」 返答に窮した。” 『自殺自由法』(中央公論新社)戸梶圭太著 “死が希望の対象となる程に危険が増大した場合、絶望とは死にうるという希望さえも失われているそのことである。” 『死に至る病』(岩波文庫)キェルケゴール著 斉藤信治訳 (1)はじめに/自殺へのまなざし “残された者たちが味わう悲しみは、往々にして屈辱感と自己嫌悪がつくりだす沈黙によってふたをされてしまう”(※) かつて、自殺者が私の親族にもあるかもしれないと口にしたら、話し相手から真顔で「そういったことは口にするものではない」とのお叱りを受けたことがあります。 もし、それが癌で死んだ者が親族にある、心臓病で死んだ者があるとの話を口にしたのなら、そのようなことはなかったでしょう。 自殺遺児の手記のタイトルが『自殺って言えなかった』(※1)というのであることが示すように、自殺というのは、他の死とは扱いが大きく異なる、禁忌的なもの、本人だけではなく相当広い親族や関係者にまで社会的な影響を与える死であるようです。 ダメなものに決まっていると大声で断言するにしても、善悪ではなく、むしろ「個人の勝手」的なスタンスを示すにしても、灰色の重苦しい霧で押し包み、語る言葉の響きを奪うような、それ以上の言葉を重ねることを許さないようなことが、自殺(の扱い)にはあると感じられます。 しかし、毎年約32000人、毎日約90人、毎時間3~4人がこの国では自殺をしていることは事実です。(※2) ですから、自殺について、ただ口を噤み、気まずいため息を吐く、顔を強張らせて拒絶する前に、知ること、考えること、語るべきことがあるはずだ。そして、それは、麻薬追放キャンペーンのコピー(「ダメ、絶対」)の合唱指導のようなもので済ませるべきものでも、自殺や自殺予防のハウツーで済ませるべきものではないと、私は考えます。 “自殺について話をすることは危険だ。自殺を話題にすると、その危険のない人まで自殺においこんでしまいかねない。 自殺を話題にすると、「寝ている子を起こす」ことになりはしないかという心配をしばしば耳にします。しかし、自殺を話題にしたからといって、自殺の考えを植えつけることにはなりません。自殺したいという絶望的な気持ちを打ち明ける人と打ち明けられた人の間に信頼関係が成り立っていて、救いを求める叫びを真剣にとりあげようとするならば、自殺について率直に語り合うほうがむしろ自殺の危険を減らすことになります。自殺について言葉で表現する機会を与えられることで、絶望感に圧倒された気持ちに対してある程度距離を置いて冷静に見ることも可能になります。” 『自殺の心理学』(講談社現代新書)高橋祥友著 以下が、読んでくださった方々の考察と対話の土台構築に少しでも役立ち、自殺が語られるものされる一助となれば幸いです。(部分部分のつながりが相当悪く、不足箇所があるので、徐々に改訂します) (2)自殺とは何か/定義と基準 ①思考と判断のための実例 ・藤村操/1903年 “悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以って此大をはからむとす。ほれーしょの哲学意に何等のオーソリチィーに価するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉す、曰く不可解。我この恨を懐て煩悶終に死を決す。既に巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。始めて知る、大なる悲観は大なる楽観に一致するを。”(※3) ・青木伊平/1989年 “遺体は、ベッドにあおむけの状態で事切れていた。首にはネクタイがまきつけてあったり、ネクタイには腰紐が継ぎ足されていた、その端が寝室のカーテンレールにつながれていた。青木はパジャマ姿で、左手首に両刃のかみそりによる切り傷が十七ヶ所もあった。布団は血の海だったが、すでに乾き始めていたという。”(※4) ・コルチャック/1942年 “泣いている子供もいたが、この積換場で、このような光景を目にすることは決してありえなかった。旗を先頭に、整然と四列に並んだ行列が、やせこけた老人に引率されて到着した。 「これはいったい何なのか」 SS指揮官が問いただした。 「コルチャックとその子供たちだ」 誰かが言った。指揮官は、その名を思い出そうと努めていた。子供たちはその間にすでに貨車に積み込まれ始めていた。 「この人があのコルチャック?あなたは『小さなジャックの破産』を書いたかね」 「そう、書いた。でも、そのことが、なにか、この移送と関係があるのかね」 「いや、しかし、あれは良い本だ。私は子供のころ、あの本を読んだことがある」 「………」 「あなたは乗らずにここに残ってよろしい」 「それで、子供たちは?」 「ああ、それは、不可能だ。子供たちは行かねばならない」 コルチャックが叫んだ。 「あなたは間違っている。まず子供たちを…」 彼は自ら貨車へ入っていった。”(※5) ・オーツ大佐/1912年 “南極からの帰路、オーツは病に倒れた。食料も乏しくなった探検隊の全身を遅らせてはならないと、彼はひどく心を痛めた。彼があとに残ることに、スコットが決して同意しないことは分かっている。そこである晩、猛吹雪の中を、彼は探検隊の宿舎をこっそり抜け出した。その後、再び彼を見たものはいない。”(※6) ②そもそも、自殺とは何か? 私たちの大部分は、真に望めば、自殺することができます。 しかし、自殺とは何なのか、自殺を自殺ではないものと分ける点はどこにあるのか、については実は分かっておらず、分からないままに「自殺をできる」という自信の上に胡坐をかいて論じる・肯定する・否定する・非難するをしてしまっている、そして、土台を抜かされたそれは結局、自殺をしない者達が自殺者を遠目に行う戯れに終始したものなのではないかと、私は感じます。(※7) ①で挙げた四つの実例の最初の二つ、明治時代に華厳の滝で投身自殺した一高(第一高等学校:現在の東京大学)の学生・藤村操の例と、竹下登元総理大臣の秘書で金庫番だった青木伊平の例に関しては、自殺であると通常は判断されると思います(報道では自殺とされていますので)。 しかし、後者二つに関しては、多くの抵抗、否定(自殺ではない、自殺とは表現されていない)という判断がなされるかと思います。 コルチャックは、ポーランドの医師にして、小説・戯曲作者、孤児院の設立者にして運営者、教育者、著名なラジオ教育番組の出演者であり、自らはナチスから特赦を受けており、何度も海外の協力者から助命の申し出を受けた身であるのに、孤児院の子供たちと共にナチスの収容所(トレブリンカ収容所)での処刑を選んだ人物。国連の子供の権利宣言にその思想が生かされている、20世紀を代表する思想家・教育者といえる人物です。オーツ大佐は南極点初到達をめぐり争った探険家ロバート・スコットに同行した人物で、重度の凍傷と食糧不足から、自ら隊を離れた(といわれる)人物です。 さて、前二者と後二者を分ける判断基準はどこになるのでしょう、若しくは、このような判断は基準(判断結果から読み取れる基準)に整合性があるのでしょうか。 ③少し考えてみること 藤村操の例は、特に自殺する外的な理由(脅迫などの外的圧力、死ななければならない社会的理由)はなく、彼の死が自殺である、自らの意思と行動による死であることに異論を挟む人はいないでしょう。 そこで、後三者の例を重点的に検討してみます。 まず、三者にはそれぞれ外的な理由が見られます。 青木伊平はリクルート事件に関する国会への釈明報告においてミス(献金ではなく貸借形式で5千万を受け取っていたことを報告書に書かなかった)したこと、それを端緒に検察の捜査が自身を通じて竹下に及ぶことを防ぐため(と考えられている。一部殺害説も)。 オーツ大佐は自身が進行と食糧消費の重荷となることを防ぐため。 コルチャックは子供たちが死に際して不安がらないため。 しかし、三者とも自らの意思で死を選んでいます。 青木伊平は、仮に犯罪を立件され、さらに竹下やその他の政治家へと捜査が及んでも、死刑になることはなかったでしょう(ただし、暴力団などの組織から殺される可能性はあったかもしれませんが)。したがって、その時点で死ぬことは選択肢の一つであり、死は選択的行為だったと判断されます。 オーツ大佐は、スコット隊の結果を見れば、そのままいても助からなかったかもしれません。しかし、結果としての餓死や凍死・病死と異なり、オーツは(結果の変化の有無は措いて)自らの意思で極寒の場所へと出て行くことで死を選択したと判断されます。 コルチャックは、より単純で、確実に命が助かる機会が幾度も提供されていたのを意思的に放棄することで死を選択したと判断されます。 ただし、三者とも藤村とはことなり、死なないで済むなら死なないことを選んだでしょう。 つまり、死の願望はなくとも、外的な理由によって死を選択し、それでも自殺か自殺とは言わないかに違いは無いということです。 次に、自殺行為の態様を見てみます。 青木伊平は手首の動脈切断の未遂で、頚動脈圧塞による心停止による死。 オーツはおそらく、凍死(低体温による生理機能の低下・変調による心停止)。 コルチャックは、毒ガス吸引により死亡。 青木とオーツは積極的に自己に対する加害行為がありますが、コルチャックの場合は殺されていますので、消極的・受動的です。 また、青木とオーツを比較すると、青木には能動的な加害行為がありますが、オーツの場合は外に出て死を待つという受動性があります。 とすると、自殺と自殺ではないとされる場合を分けるものは、能動性と受動性ということになるのでしょうか。 しかし、この判断基準では受動性をどの程度まで認めるのか明らかではありません。 たとえば、手首の動脈を切ったとしても、死因は失血ですので、血液が流れ出るのを死ぬまで待つとも表現できます。 さらに凍死だけではなく入水自殺が自殺という概念から省かれることになります。 では、行為の目的から考えてみるとどうなるでしょう。 コルチャックは子供たちの不安を和らげるために一緒に死へと向かい、オーツは他の隊員の生存可能性を増やすために死にました。 青木はボスである竹下やその関係者の秘密が漏れないためとミスの引責目的で自殺しました(と考えられます)。 三者とも自分以外のだれかのために死んでいます。 しかし、青木伊平だけが自殺だと思われ、評価されています。 となると、違いはどこにあるのか。 たしかに、コルチャックの場合は罪の無い子供たちのためですが、オーツは無謀で不十分な準備しかしなかった冒険に自発的に参加した上でのものです。犯罪が関係しているかどうかということなのでしょうか。 しかし、たとえば約束した上での後追い自殺というのは、他人のためであり、犯罪とも関係していませんが、文字通り自殺と評価されるでしょう。 結局、自らの意思で死を選択したか否か、積極的か消極的か、直接的か間接的か、目的が自分以外の存在のためか、というぱっと思いつくような基準、一般的な用法から導かれる幾つかの基準らしきものでは自殺を判別することができそうにはありません。 ④デュルケム詣で(※8) 自殺といえばこの人、デュルケムへと詣でて、定義を巡る議論の整理のとっかかりとしてみます。 デュルケムは、日常使われる自殺という言葉が科学的取り扱いに耐えられない曖昧さをもっているとして、“十分に客観的であって注意深い観察者なら誰しもそれと認め、十分な特殊性をそなえているためにそれによって類別しても他種の死と混同するおそれがなく、かつ一般に自殺というな名のもとに考えられている現象に十分近いのでこの言葉を使っても慣用をそこなうこともない”ものであって、“一般の人々が自殺についていだいている観念を多少とも正確に表現することではなく、自殺という名称でよんでもいっこうにさしつかえない、しかも客観的な根拠のある対象の範疇、いいかえれば、事実のある明確な本質に対応しているそのような範疇を構成する”自殺の定義を次のように述べています。 “死が、当人自身によってなされた積極的、消極的な行為から直接、間接に生じる結果であり、しかも、当人がその結果の生じうることを予知していた場合を、すべて自殺と名付ける。” そして“自殺率は、死亡率よりもはるかに各社会集団に固有なものであり、社会集団を特徴付ける一つの指標となる”ことから、この自殺率の原因となるのは何かを検討しています。 まず自殺の原因として考えうる非社会的要因に関し、アルコール中毒を含む精神疾患については“いかなる精神異常も、自殺とのあいだに規則的で明白な菅家をたもっていない”こと、人種については“同じ人種に属する諸民族の間でも極端なひらきがみられ”、遺伝(ここで言う遺伝は気質の伝達ではなく、“ある種の自律性を備えた心理的メカニズムの一種”のこと)については、その発現と見るには不十分な資料しかなく、気候や日照と自殺に相関性が見られるが“直接の作用は、自殺の月ごと、季節ごとの増減を説明できない”と結論付け、模倣については“自殺が個人から個人へと伝染するのは確かであるとしても、自殺の社会率に影響をおよぼすようなかたちで模倣が自殺を伝播させるのはみられたためしかない”“模倣はそれ単独の力に還元されてしまえば自殺になんの影響もおよぼすことができない”と結論付けています。 そして社会的要因に関し、まず宗教について、カトリックとプロテスタントの比較で前者のほうが自殺率が低いことから、プロテスタントの“自由検討”が宗教の社会統合機能を失わせていると指摘し、これを教育の普及率(教育が普及するほど自殺率が高い)と照らして補強しています。 家族については、未婚・既婚・寡婦(夫)の自殺率の比較から結婚が自殺率抑制に効果があるといえるが、早婚者はかえって自殺率が高く、二十台の未婚・既婚では自殺率の差が大きいこと、男女差が大きいこと、さらに子供のいる夫婦といない夫婦の比較、子供のいる寡婦(夫)といない寡婦(夫)の比較から、本質は“家族の結合の影響にもとづいているのであって、夫婦の結合によるものではない”と結論付けています。 さらに、政変・戦争について、その時期に一時的に自殺者が減少することを“種々の活動は同じ一つの目標にむかって集中し、すくなくとも一時期には、より強固な社会的統合を実現させる”からだと結論付けています。 これら三つから、“自殺は、個人の属している社会集団の統合の強さに反比例して増減する”、つまり“個人はあまりにも深く社会生活のなかに参加しているため、社会が病態におちいれば、個人もまたそれに冒されないわけにはいかない”という人間の社会的存在としての結果であり、“直接に自殺を思い立たせる、決定的条件に見える私生活上のできごと”は“偶発的な原因”であると述べています。 デュルケムは、社会的統合性が社会の自殺に決定的な影響を及ぼすものだという観点から、自殺を、自己本位的・集団本位的・アノミー的の三つに分類します。 まず、“自己本位的自殺”とは、“自己自身にのみ依拠し、私的関心にもとづく行動準則以外の準則を認めなくな“って、”社会的自我にさからい、それを犠牲にして個人的自我が過度に主張されるような状態を自己本位主義とよん”だ場合に、“常軌を逸した個人化から生じるこの特殊なタイプ”のこと。 その特徴は、“行動への活力を弱める憂鬱なもの思わしさ”にあり、自分以外に関心が向かず、やがて思索の糧が失われ、空虚の無限に飲み込まれたり、耐え切りれなくなったり、もしくは無力であることを予期して欲望を単純化させたりするとされています。 次に、“集団本位的自殺”とは、“自己本位主義”とは逆に“社会が個人をあまりにも強くその隷属下においている”ことから“自我が自由でなく、それ以外のものと合一している状態、その行為の基軸が自我の外部、すなわち所属している集団におかれている状態”で生じる自殺のこと。 集団本位的自殺は“義務としてなされる”が、義務的でなく、自発的であっても生への無頓着さが賞賛される“個人が独自の利害関心をもたないかぎりにおいて初めて維持される”道徳によって訓練された人間によってなされるものも含む。 その特徴は“強烈な感情にねざしているため、かならずある主のエネルギーの発揚をともなう”“能動的な自殺である”点にあると述べています。 そして、“アノミー的自殺”とは、欲求がそれを満たす手段との均衡を保つ安息した状態を人間社会に作り出す外部的な力(権威)が無力になったとき、“何が可能であって、何が可能でないか、何か正しくて、なにが正しくないか、なにが正統な要求でや希望で、なにが過大な要求や希望であるか”が分からず、無力な(正当性が認められない)権威による制限があれば耐え難く、神格化された限りない欲望が“つねにあらたにおそってくる責苦”の情熱(受難)となることで生じる、現代の商工業社会の自殺のこと。 その特徴は、“無限という病”がもたらす“怒りであり、また失望にともなってふつう芽生えてくるあらゆる感情”であると述べています。 ⑤ほかにも色々(※9) デュルケムの他にも自殺の定義を試みた人々はいます。 “自殺は、当人が承知の上で、しかも自分の意志で、危険な環境に自己をおくことによってもたらされた死である。”(R・G・フライ) “外部からの強制のない状況で、事故に自分の意思で死をもたらす行為が自殺である” (トム・ボウチャン) “自殺とは再帰性の、つまり、自分に帰ってくる形式をとるしである。自殺は、自分を殺すか、自分を殺させるか、自分が殺されるのをそのままにしておくのかのいずれかの形をとる。さらに、この再帰性の死において、当人は、自分に死をもたらす何らかの行為、ないしは行動をする。”(グレン・グラーバー) “(1)彼らは死のうとした(殺されようとした) (2)彼らは自らの死を招くような行動をした (3)彼らは死ぬという意図の達成をはかるような行動に出た これらすべてをある人物の死について偽り無く言えるとき、彼あるいは彼女は自殺したのである。”(スチュアート・ピッケン) 機関的な定義として “致命的な結果を伴う自滅行為(自滅行為とは、ざまざまな致命的意図を伴う自傷行為)” (世界保健機関) “死者が自分自身に加えた傷害、服毒、窒息による死で死者自身が自分を死に至らしめることを意図した(明白な、あるいは絶対的な)証拠が存在するもの” (アメリカ疾病管理予防センター) ⑥あらためて考えてみること(※10) まず、デュルケムの定義からすれば、①の四つの実例はすべて自殺に当てはまります。それを、特にコルチャックの例を汚職をかばってのものと同じ名称で呼ぶと言ったら黒柳徹子さんは怒るかもしれませんが、“それとても科学的にはひとつの自殺”ということです。 ほかの定義からも全て自殺に当てはめることができます。 しかし、④で挙げた一人、スチュアート・ピッケンは例外としてオーツ大佐、そしておそらくコルチャックも、自殺から除外するでしょう。 ピッケンは、“オーツに必要だったのは、仲間の保護からのがれることだけである。だから私は、彼が自殺したとは認めたくない。”と定義のうちの“意図”の部分を用いた例外を認めています。 これは、殉教を自殺と分けるために用いられる「二重の結果」ですが、この論理を用いることを許すのは定義として妥当なのか。 これを用いることで同一の行為を汚辱の死と栄光の死と分けてしまうのではないか。 その両極のどちらへ入れるかを、漠然とした世論や声の大きな言論機関、さらには、国家機関の恣意へと委ねることになってしまう。 “会社の永遠を信ず”(※11)と言って死んだ会社員は自殺で、その遺族は自殺の負い目を背負い、“神の栄光を讃える”ために死んだ宗教者は賞賛される(しかも、その神はただの神ではなく、人民寺院のような社会から認められない宗教の場合は含まれない)。 好きなだけ検便容器を壊せばいい/藤原正彦と特攻の精神で述べたメコネサンスと同様に、一つの言葉の両端を知らずの裡に横切らせてしまう。 それでは、現状と何も変わりません。 続き⇒自殺の定義 続き 追記:二重の結果) スコラ哲学の完成者、トマス・アクウィナスは著書『神学大全』で、意図した結果と予見される意図せざる結果を分けた。 これを自殺にあてはめると、何のために死んだのかが問題とされ、それによって自殺か否かを決められることになる。 つまり、善い目的で死ぬのはその目的実現のためであり自殺は意図せざる結果であり、悪い目的の場合はそうではい、とされる。 これは結局、善いことをするのは善く、悪いことは悪いというトートロジーしか導かない。 必要なのは、自殺とは何かということを、善悪の前にある自殺を考えることだと考え、二重の結果理論による区別を否定する。 関連して、積極的手段を採るか・消極的手段を採るかの区別について。 他殺の場合の故意と過失の区別、認識ある過失と未必の故意の議論と重なる。 結論から言えば、手段が消極的でも、死ぬ行動の蓋然性がる事態を放置すること、その事態に対して回避・救助行為をとれば相当の蓋然性をもって防ぐことができるのに放置することは、倫理上積極的手段を採ったことと同等だと考える。 法的には、そのような事態を引き起こしたことに関与したり、救助義務がなければ責任を問うことは困難だと考えられるが、倫理的には責任を問いかけることができる。 自殺の場合、事態を放置するのは自分であり、他者の困難を放置する場合と異なり、防ぐことの効果が明確であり、放置したことをもって積極的自殺行為と同等とみなすことができる。
by sleepless_night
| 2006-07-26 00:30
| 自殺
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