アウトサイド・インサイダー
最近、伊勢田勝行「ロザリオにおねゲッ CHU」など見ている。先日ひとから即売会で買ったというディスクを貰って、それがきっかけだったんだけど妙に後引くねーこれ。「決して一人では見ないでください」的な念押しされたんだけど、夜中一人で何度も見てるよ。おもしろいっていうか、なんていうか、よくわからん。アニメーション作品としての品質は客観的に低いわけなんだけど、いやでもこれクオリティ低いっていう言い方正しいのかなー、ちょっと違う気がすると思う。そういうのと無関係ではないところに、独特の魅力はある。息切れしてる部分まで含めて情熱が叩き込まれてるかんじだから、見ていて手に汗握るんだよね。しかも時々へんなところから剛速球が飛んでくるので、(オタ感受性の)いい運動にもなる。あと本編終わったあとの実写シーンがよくわからん。ともかくこのひと動きの中のエンタテイナーなんだなーという部分はなんとなく伝わる。縦ノリでモノを作ってる。
オタ界隈では、こういう作品を指してよく「アウトサイダーアート」というわけなんだけど、一般語としてのそれとはちょっと違う。Wikipedia によると、本来の「アウトサイダーアート」とは以下のような意味だ。
アウトサイダー・アート(英:outsider art) とは、フランスの画家ジャン・デュビュッフェがつくったフランス語「アール・ブリュット(Art Brut)」を、イギリスの著述家ロジャー・カーディナルが英語表現に訳し替えたものであり、その意味は、特に芸術の伝統的な訓練を受けていなくて、名声を目指すでもなく、既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現したという作品のことをいう。特に、子どもや、正式な美術教育を受けずに発表する当てもないまま独自に作品を制作しつづけている者などの芸術も含む。なお、デュビュッフェの作品をアール・ブリュットに含める場合もある。
オタの場合には、「特に芸術の伝統的な訓練を受けていなくて、名声を目指すでもなく」は継承し、「既成の芸術の流派や傾向・モードに一切とらわれることなく自然に表現した」の部分が違う。オタ語「アウトサイダーアート」の場合は、既成の(それも多くの場合は「かなり古い、または時代遅れの」)漫画アニメの影響を色濃く受けている場合が多い。そして、それを正しく継承するために必要な技巧が備わっていないがゆえに、アウトサイダー化する。また特にインターネット以降には「発表する当てもないまま独自に作品を制作しつづけている者」も違ってきていて(ネット以前から雑誌の読者投稿欄で活躍したオタク・アウトサイダーアーティストとしては、三峯徹氏などが有名だろう)、コミュニティ形成によって「ある意味での」名声を得る可能性さえ出てきたように思う(といってもやっぱり物凄く確率は低い)。
ともあれ、押さえている文脈や技巧は決して優れていたり先鋭的だったりせず、でも「単なる下手」とは違うなにか、みたいなものが、そう呼ばれる。たぶん「それを作る行為」とか、もうちょっと広い、あるいは身体的な部分で、見え方が変わってくるんだと思う。そういう作品を見るときの気分は、「アート作品を作るよりも先に、自分がアートになっちゃったようなひと、の足跡を辿る」…ようなかんじ。感性が早すぎて体がついていかない、その速度が縦ノリで表現されてるんだよ多分。きみの速度がぼくに似ているんだよきっと。低周波の発生源を個々のデータでシミュレートしても無意味だったんだ。固有振動が一致するもの同士共鳴現象を起こせば、相互に干渉しあって増幅されて、おれのハートも BABEL まみれという按配よ。「ネタ」みたいなかんじで笑って受け流すことは容易なんだけど、どうも本質的にはそこではないなーという気分がある。たとえば荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」とか、さいとうたかを「ゴルゴ 13」とかって、オタ同士でネットで情報共有するぶんには、あれらは「おもしろ」カテゴリに属してしまうわけなんだけど(ゲームの場合でいうと、往年のインターネットではスペランカーが「クソゲー」カテゴリだったりしたよね)、でもネット切り離してあれらを一人で読む場合には、もともと「かっこいい」カテゴリの漫画なんだよね。たぶん、先に「おもしろ」カテゴリから入ると、「かっこいい」カテゴリには迷い込めないようにコミュニティが出来上がってるかんじするので、ここいらへんはタイトル個別の経路の組み方なのかなーと思うんだけど、でもまあ、なんか、そんなかんじ。おれにディスクをくれた N さんの「決して一人では見ないでください」という言葉は、まさしく「個として向き合おうとするな」という意味だったのだろう。おれは約束を守らない。
なんか消費する気分についてのモヤモヤが残っているので、たぶん後日もうちょっと続く。
最近の SNS
- いやー、Filn は一体どうなってしまうんだっていうか、どうなってしまったのだろうかってかんじだったけど、先日退会した。Filn 2 以降のゴタゴタで、だいたい「そろそろ退会かなー」という気分にはなっており、でも今すぐというほどでもなかった…んだけど、退会処理ってどうやるんだっけと予行演習気分でボタンぽちぽち押してたら、いつのまにか実際に退会してしまっていたという。ちょっとあせったけど、まあよし。日記とか写真フォルダとか、かなり前からだいたい消してあったし、管理していたコミュニティも(退会を予定して)解散し終えていた。死にアカウントとしてしばらく残すか、今すぐ消すかの違いでしかなかった。サッパリした。
- 代替になるものかどうか、方向性がいまいちわからんのだけど、アマテラスに先日参加したことでもあるしな。アカウント持ってるオタ SNS はこれで pixiv / Otaba / AMATELLUS の三つで、これに Filn も加えるとさすがに多すぎというかんじだった。システム的には、Filn や Filn 2 には結構好感を持っていて(←早くからエントリの公開レベル設定がいろいろあって「これどっちかっていうと mixi ってより VOX みたいなサービスと競合することを目指してるのかなー」とか思えたり、あと「ほぉ」ボタン(はてなスターとか Twitter の Fav とかに相当するのか?)の実装も早かったし、あと Filn 2 でも地味に可変カラムだったり、いろいろ細かいところではポイント押さえたサービスだったと思うんだよなー)、それと同じような好感材は、おそらくアマテラスに見つけることはむずかしいだろう。
- Twitter 関連
- 自分の中ではだいぶ follow 数も増えたなというかんじになって、数えてみると 100 人近くだった。60 人くらいでもう全部追うのはきつい且つ全部追う以外の用法はあんまやりたくないなー的なスタンスで居たわけだから、そこから 40 人分程度捌ける情報量が増えた、ということになる、のかというとそうではなくて、おそらくあれから follow リストに死にアカウント(飽きるなどして新規発言をしなくなったひとなど)が結構出てきて、そのぶん数字上で実際より余裕が出てきているように感じられてるんじゃないかなー多分。
- と思ったけど、よく考えてみるとおれ小学校からこっち同学年の生徒の名前とか 100 人も覚えたことなかったよな。だからべつに脳キャパ増えたとか減ったとかじゃなくて、もともと少ないんだろう。
関係と距離
揉め事に首をつっこみがちの J さんに反応する P さんとの会話ログから(おれ側の発言だけ抽出して)適当に増補改訂メモ。特になにがどうこう、というところまでは行ってない。
- なんか視界内で自分に関係はないけど無関係ではない、程度の界隈についての声が聞こえたら反応する、という態度は、それはそれで自然だと思っている。無視は面倒を呼び込まないけどコストもかかるから、場合によっては必ずしもかしこい方法というわけではない。
- (無視は面倒なのか?という質問に対して)無視というのは、「それがあることを知っていながら、それがないものとしての振る舞いをする」ということだから、無視しているものを監視しつつ、かつ「それがない場合の視界」を想定しつつ振舞うという、現状認識を二重に行う行為、というかんじだから、結構レベル高いっていうかコストかかる。
- 「関係ないけど反応しちゃう」の心理は、関係・無関係だけでは説明がむずかしいかも。この場合はー、関係と距離の二つのレイヤで考えればよさげ、つまり、「接点はないけど近距離にある」というような。自分が無視していても相手が絡んでくる場合もある。「相手と自分の無視の我慢比べ(先に絡んだほうが負け)」みたいな、無駄に疲れる状態がいちばん良くない。
- 遠距離(と感じた)ものは無視するほうがコスト低く対処できて、近距離(と感じた)ものには接点持ってコントロールしたほうが結局安上がり、みたいなかんじは、あるんじゃないかなーと思っている。もちろん、接点を作れば、影響を与えるだけでなく不本意な影響もある程度は受け入れざるをえなくなるわけだから、それも重荷にもなる。まあそうなったらそういう縁だったとして受け入れる以外ない。
- あとはまあ、J さんは独自語がわりと刺激的だからなあ。「ぶん殴る」とか「ぶっ掛ける」みたいな。「このひと「ぶ」が好きだな」みたいな。たぶん「(レコードを)Dig る」的な用語感覚を自分なりにカスタマイズしたアレなんだろうけど。そういう「ぶん」とか「ぶっ」とかいう強調表現に酔ってるような部分はあると思う。言い方はアレだけど「言いっぱなすことで満足を得る」みたいな対処法。SBM のタグ付けとかで、これに似た対処法を適用してるひとは多そう。
- ネットと暮らしの違いは大きい。つまり、暮らし(オフ)においては、相手を観測し、言及するためには、相手から観測される、言及される距離に近付かねばならないが、ネット(オン)においては、必ずしもそうではない、世界中のひととかなり等しく遣り取りを行える環境、つまり「距離」を曖昧にする技術だから。たちあがってくるのは速度とかより言語の壁という。
- そういうネットの特性は、暮らしの特性に対して、「それが暮らしの特性と違うから(暮らしの特性を仮想的に適用すべきだから)」という理由で、必ずしも抑圧されるべきではないだろうなーと思いる。具体的には比喩表現あたりから暮らしの感覚はネットに持ち込まれやすい。「ホームページは家のようなもの」とか。「空気」に関する諸問題は、暮らしの特性とネットの特性を混ぜこぜにしてしまっているのでより一層扱いが面倒にもなった。
- …という考えのうえでは、「言及するが、縁を引き受け(たく)ない」という一方通行は、卑近には、あんまりいい状況を作ってないようにも思うけど、でもそれを単純否定はしたくないというか、否定するのは、それこそ無視のように「コストが高い」スタンスだと思っている。そういう態度で一貫性を保つのは、アンテナを広げれば広げるほど難しくなっていく。まあ、それなら一貫性を捨てればいいという話になるんだけど(じっさい、一貫性はネットに持ち込まれた場合に「よくない影響」を振る舞いに対して与える気もするかなーとは思っている)。