GPLにまつわる10個の誤解
今回NewsForgeは、実際どのような誤解が蔓延しているかを確認するにあたり、Software Freedom Law Centerの弁護士で同ライセンス第3版の主要起草者の1人であるRichard Fontana氏、Software Foundationの元コンプライアンスエンジニアであり同ライセンス改訂作業の補佐を務めるDavid Turner氏、規約違反者を特定してその解決をサポートするGPL-ViolationsプロジェクトのHarald Welte氏という3名の専門家の見解を求めた。以下は、これらの専門家の意見を総合してまとめたGPLにまつわる主立った誤解であるが、その中には一方的な拡大解釈に基づくものもあれば、それなりの妥当性を持つ見解上の相違というものも存在している。
1. GPLにはウイルス的性質がある
GPLライセンス下にあるソフトウェアと関係を持ったすべてのソフトウェアは自動的にGPLが適用されるという誤解が存在するが、これはMicrosoftの上級副社長を務めるCraig Mundie氏が2001年3月にNew York University Stern School of Businessで行った講演がその発生源であると思われる。David Turner氏の説明によると、この一件以降、GPLソフトウェアをインストールするだけで、そのコンピュータ上に存在するその他のソフトウェアもGPLライセンス下に置かれると、多くの人間が信じ込むようになったらしい。また極端なケースとなると、こうした誤解に起因して、社内におけるあらゆるGPLソフトウェアの使用を禁止している企業もいくつか存在していると、Turner氏は語っている。
こうした誤解の大元になっているのは、おそらく現行のGPLのセクション2にある、GPLソフトウェアの改変版に対してもGPLライセンスが適用されるとした規約であろう。もっともこのセクションでは、特定のプログラムが「それら自身別の独立した著作物であると合理的に考えられるならば」GPLは適用されないことおよび、保存先についても「一巻の保管装置ないし頒布媒体に収めても、その他の著作物までこの契約書が保護する対象になるということにはならない」と明示されている。なおFontana氏が指摘しているように、派生著作物の定義についてはより明確化する余地が残されており、その点は同ライセンスの第3版で改められるべきであるが、一般的な原則については誤解の余地はないだろう。
2. GPLに強制力はない
GPLにはウイルス的性質があるという誤解の対極にあるのが、GPLに強制力はないというもので、Turner氏の言葉を借りると「連中はヒッピーの集団に過ぎない。そんな人間のやることに我々を従わせる強制力がある訳がない」ということになるそうである。Turner氏の意見によると、違反行為を無条件に弁護士や法廷に処断させるのではなく、違反者に対してはライセンスへの準拠を求めようとするFree Software Foundationの活動方針も、こうした誤解を生んでいる土壌の一部となっているとのことだ。ただしこうした方針については、どのような違反者も裁判に訴えるよりライセンスに準拠する方を好むという事実があるため、逆に言えば同ライセンスには強制力があると信じられていることを示す強力な証拠とも見なせるだろう。より重要なのは、少数の事例ではあるが、GPLに関する訴訟が行われたドイツにおけるWelte対SitecomおよびDrew Technologies, Inc.対Society of Automotive Engineers, Inc.などで、これらのケースでは直接ないし間接的にライセンスの有効性が認められている。
3. GPLソフトウェアに対しては課金できない
GPLの冒頭には「私たちがフリーソフトウェアと言うとき、それは利用の自由について言及しているのであって、価格は問題にしていません」という記述がある。Free Software Foundationによる、同ホームページなどでの度重なるコメントにもかかわらず、フリーソフトウェアコミュニティの中においても、GPLソフトウェアに対する課金は違法行為になると誤解している者がいる。それが間違いであることは、Red HatやNovellなど多数の企業がフリーソフトウェアに対する課金活動を行っていることからも明かである。
GPLで課金行為に言及している箇所はセクション1の「あなたは、物理的に複製物を譲渡するという行為に関して手数料を課しても良いし、希望によっては手数料を取って交換における保護の保証を提供しても良い」および、セクション3bにおけるソースコード頒布についての「頒布に要する物理的コストを上回らない程度の手数料と引き換えに提供する」という部分だけである。
4. 「自由か死かの選択」条項は無制限に適用される
GPLのセクション7は「死を選ぶ自由」の規約とも揶揄されることがあるが、それは、裁判所命令あるいは特許侵害をめぐる判決が下りてGPLライセンスの条件と矛盾する制約が課された場合でもGPL条項が免除される訳ではない、という旨がここに述べられているからである。そして、そうした制約とGPLの規約を両立できない場合については、プログラムの頒布ができなくなるとされている。
ところがFontana氏によると、このセクション7については多くのユーザが拡大解釈をしすぎているということである。このセクションが適用されるのは、GPLの定めるすべての権利をユーザに与えることを妨げる特許ライセンスについてだけなのであるが、Fontana氏によると、「一部の人間はこのセクションを読んで、サブライセンスを認めないあらゆる特許ライセンスを優先してGPL下にあるコードの頒布を禁じている、と誤って解釈しているのです」ということだ。その他にも「適用される可能性のある特許または、関連して適用されるかもしれない何らかの法的規制が存在するだけで、問題の規制が適用されることを懸念している」というケースも見られるという。実際にライセンスの本文を読んでみれば、いずれの解釈も成立しないことが分かるであろう。
5. ディストリビューションには変更したコード部のみを同梱しておけばよい
GPLのセクション5では、「『プログラム』(あるいは『プログラム』を基にした著作物全般) を改変ないし頒布することにより、あなたは自分がそのような行為を行うためにこの契約書を受諾したということ(中略)についてこの契約書が課す制約と条件をすべて受け入れたということを示したものと見なす」と規定されている。そしてここで言う条件には、頒布する著作物のソースコードを提供する義務というものも含まれているのである。ところが派生ソフトウェアの多くのメンテナは、オリジナルの著作物側でソースコードの頒布が行われているのであれば、自分たちは変更した部分のソースコードのみを提供すればよいと、都合良く解釈をしている。以前のNewsForgeの記事でも指摘してあるように、こうした誤解はGNU/Linux系の派生ディストリビューションのメンテナたちの間で特に広まっているよう見受けられる。確かに、すべてのソースコードを頒布するのは無駄であり繁雑な作業であるよう感じられるかもしれないが、残念ながらGPLではそうした例外的行為を認めてはいない。またTurner氏の説明によると、将来的にもそうした措置が執られる可能性はないようだ。
6. 頒布時に必要なのはソースコードの提供のみで、それらの使用手段まで用意する必要はない
GPLのセクション3を見ると、ソースコードの提供は頒布する者に課せられる義務の一部でしかないことが分かる。実際このセクションでは完全なソースコードの定義として「モジュールすべてのソースコード全部」に加え「関連するインターフェース定義ファイルのすべて」と「ライブラリのコンパイルやインストールを制御するために使われるスクリプトをも加えたものを意味する」と記述してあり、つまりは、こうしたソースコードを利用する際に必要となるツール類も提供しなければならないのである。確かにフリーソフトウェアコミュニティの住人であれば、そうしたツール類を自分で取りそろえている人間は多いだろうが、頒布をする者は、すべての人間がそうであることを前提にしてはいけない。
7. 頒布時にソースコード提供の用意があることを明記しておく必要はない
GPLのセクション3を読むと、バイナリファイルに添付する形でのソースコードの頒布をするか、あるいはソースコードを提供する用意のある旨を表記しておけばよいことが分かる。よって、これらをいずれも実行せずに相手側からの要求を待つというのは、作業的には楽であるかもしれないが、明白な違反行為になるのである。
8. 頒布時のソースコード提供は、直接のカスタマに対してのみ行えばよい
ソースコードの提供をする場合、セクション3bによると3年間は有効な書面が必要とされているが、その対象には「いかなる第三者」もが含まれている。そしてこの場合、商用カスタマと、そうしたソースコードに興味を示す可能性のあるその他の人間に対する区別は規定されていない。
9. 頒布時にはライセンス条項へのテキストリンクを張っておけばよい
GPLライセンス条項へのリンクだけを用意することは、頒布する者にとっては作業的な負担を軽減することになるだろうが、そうした行為はGPLソフトウェアの頒布に関するセクション1にある「それぞれの複製物において適切な著作権表示(中略)を目立つよう適切に掲載」する限りという条件に違反することになる。Welte氏の説明によると、こうした条項が必要であるのは、すべてのユーザがインターネットにアクセスして該当するライセンスを閲覧できるとは限らないからである。ライセンスを読むことができなければ、どのような条件下でソフトウェアの頒布が行えるかも理解できないことになる。
10. 条文の解釈は読む人間ごとに異なる
Richard Fontana氏が指摘しているように、GPLにまつわる混乱のごく一部は、誤解に基づくものではなく、見解上ないし法解釈上の相違に起因したものである。同氏によると、「おそらく根本的な食い違いが存在しているのは、著作権法的な意味において、ソフトウェアの“著作物(work)”が何を指すかに関するものでしょう。GPLとしては、そうした問題については該当する法体制によって合理的な解答が得られることを前提としています。ここで言う著作物(work)には、プログラマが客観的に見て、当該プログラムの一部であると判断できるものも該当します」ということになる。ただし、理念ないしアプローチを異にする人間にとっては、こうした著作物の定義はまた異なるものであって、例えば使用されているファイルなどをそうしたものと見なすような場合もあり得るだろう。
同じく、GPLに規定されている著作物の“頒布”に関しても、この用語が法的には異なる意味と見なされる可能性をFontana氏は指摘している。例えば同氏の説明によると、「アメリカ国内においても、この用語が著作権法における頒布について語られている場合と、一般的な商業上の慣例における頒布について語られている場合とでは、意味が異なってくる場合があり得ます」ということである。さらに適用される国家によっては“頒布”および相当する行為の規定が著作権法に定められていなかったり、あるいは異なる意味で使われている場合もあるだろう。
改訂版GPLの最新草案における主要な目標の1つとして挙げられているのが、文言中の用語を改め、ライセンスの冒頭に用語の定義を明記することで、こうした曖昧さを緩和することである。例えば既に“頒布”を示す“distribution”という単語は“propagate”および“convey”という表現に改められている。とは言うものの、2007年初頭に予定されている第3版の完成までは、用語の定義に関する問題は現状維持するしかない。
将来的に発生しうる誤解
次期バージョンのGPLライセンスにおいては、その意図する内容をより明確化する労力が払われているため、こうした誤解の多くが解消ないし軽減されることになるであろう。またTurner氏は、今回の改訂作業では広範な協議が行われていることから、ユーザ側を啓発する効果も期待できるとしている。「ライセンスに関する検討過程を公にされているというのは、ユーザ側にとっても1つのチャンスなのです。討論の過程が知らされるということは、どのような経緯によってFree Software Foundationが最終的な決定に至ったかを理解できるということですからね。こうしたものは、いわば情報のプールとして機能するのですよ」。
一方で、今回の改訂作業に伴って、新たな誤解を生み出す表現が取り込まれたという可能性も否定できない。つまるところ改訂作業が行われるのは、BitTorrentを介した頒布のように、現行の条文が制定された当時には存在しなかった新規の概念に対応することが、主要な理由の1つなのである。また用語上の変更は、他の法律に対する同ライセンスの関係を明確化する反面、従来の条文に親しんだ人々を混乱させかねない。実際Turner氏も指摘しているように、従来の用語が「今後も残留し、仮にそれが潜在的な意識下だけに限定されるとしても、新たな混乱を引き起こす要因となる」ことが懸念されるのだ。
Turner氏も認めているのは、最終的にある程度の混乱は避けられないだろう、ということだ。「誤解をする人々というのは常に存在するものです」というのが同氏の結論であり、「ライセンスの文言をどれだけ単純化したとしても、そうした事態は変わらないでしょう」としている。
Bruce Byfieldは、コースデザイナ兼インストラクタ。またコンピュータジャーナリストとしても活躍しており、NewsForge、Linux.com、IT Manager’s Journalに定期的に寄稿している。
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