あの黒船に小舟で横付けし、
強引に乗り込み、
自分を海外に連れて行ってほしいと嘆願した男、
吉田松陰と言えば、
松下村塾を継ぎ、
日本史に大きな影響を与えた偉大な人物です。
時代が違えばテロリスト認定されそうな、
過激と言えるほどの活動の結果、
若干29歳でこの世を去ることになりましたが、
残された情熱はその後の国を動かし、
死してなお、後世に名を轟かせるほどの存在です。
知れば知るほど、視野が広く、
熱く行動力があり、人間味あふれる人物、
吉田松陰の生き様に学び、
この変化の早い現代をどう生き抜いていくべきか、
ヒントを得ていきたいと思います。
特に人の上に立つ方は、教育やビジネスに役立つ
気づきや考えを得られるはずですのでお役立てください。
1.吉田松陰はどんな人?
吉田松陰は、どんなことを成し遂げたのか?
なぜ、処刑されたにも関わらず、後世に語り継がれ、尊敬する人が多いのか?
その軌跡をご紹介していきます。
1-1.経歴をコンパクトにご紹介
1830年9月20日 旧暦8月4日 | 長州藩(山口県)の下級武士・杉 百合之助の二男として、萩の松本村に誕生。 名前:杉 虎之助または、杉 大次郎 |
1835年 | 叔父(吉田家)の養子になるものの、叔父の病死により数えで6歳のとき、吉田家の当主となる。 吉田家は、長州藩の兵学師範の家柄であり、松陰は兵学の勉強に励むこととなる。 |
1839年 | 長州藩の藩校である、明倫館(めいりんかん)で教師の見習いとなり、10歳にして、初の講義を行う。 |
1842年 | 13歳の頃には、アヘン戦争で清(中国)がイギリスに負けたことを知り、日本の未来に危機感を覚える。 |
1848年 | 19歳で明倫館の師範となる。 |
1850年 | 21歳で藩の許可を得て九州遊学。 (遊学とは:故郷と離れた土地で勉強すること) 長崎や平戸(九州本土西北端)、熊本へ旅に出る。 広く学ぶことで、これまでの学問に反省を加え、新しい実践的な学問を追求するに至る。 |
1851年3月 | 江戸に遊学。 同年12月、宮部 鼎蔵(みやべ ていぞう)達と東北の旅を計画。 藩からの関所通過書(身分証明書)が届かないまま出発し、脱藩の罪となり藩士の身分を剥奪される。 その後、松陰の才能を惜しんだ藩主から、10年間の国内遊学の許可が出て再び江戸へ行く。 |
このように、吉田松陰が吉田家を継いだのは、数え年で6歳のときで、幼いときからその才能は抜きん出ていたようです。
また、松陰の家学(かがく:吉田家で代々修めてきた学問)に対する、彼の精進はめざましいものがあったとされます。
その後、10歳のときには、早くも藩主の前で、兵法伝授書である「武教全書(ぶきょうぜんしょ)」を講義したほどです。
そんな幼少期の松陰の勉強好きについて、
松陰の妹である寿(ひさ)が、次のような回想を残しています。
「兄の松陰は、幼少の頃から『遊び』
ということを知らないかのようです。
年頃の友だちと一緒に凧を上げたり、
コマを回す等のお遊びにふけることは全く無くて
いつも机に向かって漢書を紐解くか、
筆を操るだけで、他のことはしないのです。」
このように、勉強に励み、若くして指導者として活躍し、長州藩に留まることなく知見を広げたことで、伝統的な家学の継承者という枠を抜け出たのです。
そして、実践的な幕末の思想家となっていきました。
また松陰はこの頃から、世界から見た日本の未来を真剣に考えていたとされます。
ここからは、松陰が海外への遊学を志し、黒船へ乗り込み、一時は斬首を免れたものの、安政の大獄で処刑されるまでの経緯を見ていきましょう。
嘉永7年 1854年 | ペリー2度目の来航。 長州藩・金子重之助と密航計画を企て、アメリカ軍艦に乗り込むが、失敗に終わる。 山口県の野山獄に幽州(幽州とは:閉じ込められること)。 |
安政2年 1855年 | 東北遊学で身分を剥奪されており、このときは、実の親である杉 百合之助の【育】であった。 松陰は獄を出て謹慎中だったが、家族の希望を受け「孟子」の講義を開始。 これがきっかけで、著書『講孟余話』が生まれる。 |
安政4年 1857年 | 叔父の玉木 文之進から、松下村塾を引き受ける。 この頃から、 後の海軍総督である高杉晋作や、 久坂玄瑞、吉田稔麿、入江杉蔵、野村靖、 明治維新の指導者となる人材を含む、 松下村塾は漢学を学ぶ塾であったが、 学びを元に、当時の世界情勢や日本の実情を踏まえ考察する、 |
安政5年 1858年 | 幕府が勅許(天皇の許可)なく、日米修好通商条約を結ぶ。 松陰はこれを非難し激昂。 老中・間部 詮勝(まなべ あきかつ)の暗殺を企てる。 (間部 詮勝は、井伊 直弼の手先として、日米修好通商条約調印の反対派を弾圧した人物) 長州藩は松陰の暗殺計画を警戒し、再び松陰を投獄することに。 |
安政6年 1859年 | 幕府による、安政の大獄。 幕府は、長州藩に松陰の江戸送致を命令した。 |
1859年11月21日 | 松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される。 享年30(数え年)。 獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。 |
幼いときから頭角を現し、その情熱のまま突き進んだ人生は、ここに、まとめきることはできないほど濃密ですが、
その中でも特にインパクトが大きいのは、やはり、ペリーが来航した際の密航の直談判でしょう。
この密航失敗から、安政の大獄で斬首刑になるまでを、もう少し詳しく見ていきましょう。
1-2.黒船に乗り込んでから最期をむかえるまで
※松下村塾
吉田松陰は、世界情勢を詳しく調べ、国家のために学ぼうと、海外に渡航することを決断し、黒船に乗り込もうとしました。
そして、この考えに同意した金子重之輔と共に、何度もアメリカ軍艦に近づくための策を考え、漁師にお金を渡し、船を出す約束を取り付けるなどしましたが、
直前で、波の状態や、刑罰を恐れて漁師に拒まれてしまい、なかなか実現できませんでした。
ですが、ある日の日中に上陸中のアメリカ人に手紙を渡すことに成功。
手紙には「国禁を犯してでも密航したいので、乗船させてほしい」という内容が書かれていました。
そして深夜、小舟でアメリカ軍艦に横付けすることに成功しました。
そうこうする中、アメリカ人が小舟を突き放そうとしたので、軍艦についている梯子に飛びつき、そのまま船に乗り込んだのです。
乗っていた小舟には、刀など重要な荷物を残したままでしたが、とっさに梯子に飛びついたので、小舟は波に飲まれて行ってしまいました。
1854年、松陰24歳のときのことです。
アメリカ軍艦には、日本語がわかるウィリアムズという人物がおり、以下の内容を伝えたとされます。
(サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズは宣教師で外交官。中国研究者。ペリー日本遠征随行記の著者)
- 2人が乗り込んできたことは、私と長官(ペリー提督)だけが知っており、心中ではたいへん喜んでいる。
- だが、横浜で日米間の条約を取り決めたばかりなので、条約を破る訳にはいかない。
- もう少し待てば、アメリカ人は日本に来るし、日本人はアメリカに行くことができるようになる。
両国の往来は、一国内のようになる道が開けるだろうから、そのときこそ来てほしい。 - 下田の役人の長である黒川喜兵衛が認めていないのであれば、同行を認められない。
- 夜が明けない内に帰れば、日本の者は気づかないだろうから早く帰ったほうが良い。
というわけで、苦労の末、決死の覚悟で黒船に乗り込んだものの、陸に送り返され、よくわからない場所で船を下ろされてしまいました。
そして夜が明ける頃、道もわからず困っている中で、
「うろうろしている間に捕らえられるのは見苦しい」と判断し、2人は自首したため投獄されたのです。
また、このときのことを、アメリカ側の視点で書かれた本もあります。
そこには、以下のような記載があります。
- 彼等(吉田松陰と金子重之輔)は、船にとどめ置いてほしいと非常に熱望しているらしい。
- 乗船の目的は世界を旅行し見聞したいので、アメリカに連れて行ってもらいたいとのこと。
- 立派な地位の日本紳士であることは明らかだが、衣服は旅にやつれた風である。
- 2人とも2本の刀を身につける資格がある者だが、1人は1本身につけているものの、残りの3本は小舟に残しており、漂流していってしまった。
- 彼等は教養のある人達で、漢字を流暢に形美しく書き、態度も丁重で極めて洗練されていた。
- ペリー提督は乗船の目的を知り、彼等をアメリカへ連れていきたいと切に思うものの、日米間の条約で連れていけないことを残念であると述べた。
- 彼等はあらん限りの議論で、アメリカ人の慈悲の心に訴え続けたが、陸に送り返された。
- 提督は、彼等が良くない策略をもって乗り込んだわけではないだろうと捉え、2人への刑罰を軽くされるよう日本側に望んだ。
- この事件は、教養ある日本人2人の激しい知識欲を示すもので、興味深いことだった。
- この不幸な2人の行動は、研究好きな日本人の特質から出たものであると信じ、また日本人が抱く激しい好奇心をよく示している。
(参照元:ペルリ提督日本遠征記)
このように、せっかく乗り込んだ黒船から陸に戻されたものの、アメリカ側からの働きかけもあり、なんとか斬首を免れて、山口県の野山獄に投獄されることになりました。
(この後で野山獄から出ることができ、後に江戸に投獄されるまでの間に、松下村塾で多くの門下生を育成するのです。)
そんな中、アメリカとの修好通商条約を、幕府が天皇の許可を得ずに調印しました。
これに松陰は衝撃を受け激昂し、死を覚悟で【老中暗殺】を企てます。
松陰は長州藩に暗殺計画を明かし、長州藩は驚きます。
さすがのことに弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎らも異議を唱えました。
そして、松陰が所属する長州藩からも、吉田松陰は危険だとされて、囚われることになります。
この後、幕府の命令で江戸へ送られることになるのです。
実は、幕府は別件で問いただす目的であったものの、松陰は自分の考えを幕府に伝える好機と捉え、自分で暗殺計画の詳細を明らかにした結果、斬首刑となりました。
1859年11月21日、松陰30歳(数え年)のときのことです。
余談:新島襄(にいじま じょう)について
松陰が亡くなった5年後の1864年、日本を近代化に導こうと志した新島襄は、幕府の監視の目が届きにくい函館から上海経由で、国禁を犯しての渡米を果たします。
そして、この時21歳であった新島襄は、アメリカで英語やキリスト教を学ぶことができたのです。
その後、1872年に岩倉使節団がアメリカに訪れた際に通訳として参加し、渡米から10年経った1874年、日本にキリスト教の学校を設立する目的で帰国し、同志社の創立者となられます。
こういった歴史を知れば知るほど、不器用とも取れる松陰の生き様に、胸を熱くする日本人は多いことでしょう。
安政の大獄とは?
江戸幕府の大老(たいろう:江戸幕府の最高の職位)である、井伊直弼(いい なおすけ)がおこなった大規模な処刑のこと。
日米修好通商条約を、天皇の許可なく締結したことへの反対勢力や、尊王討幕※運動を弾圧し、多くの者を処刑した。
これに反発を覚えた人は多く、松陰が処刑された翌年の1860年、桜田門外の変(井伊直弼が急襲に遭い、日本刀で殺害された事件)が起きたのです。
※〈尊王討幕〉は幕末期に広まった運動で、外国勢力を打破し、幕府を倒して、
本来の統治者である天皇が、政治を行う国家をつくるべきだとする考えによるもの。
2.名言からの学び
※山口県萩市 松陰神社
ここまで、吉田松陰の経歴を見てきまして、
もはやテロリスト?!と思われるほどの活動に驚きます。
その活動の背景には、
巨大な軍艦を持つような欧米列強と比較すると、
鎖国で発展が遅れている日本への強烈な危機感と
純粋に人を信じ、国を守り良くしたいという情熱があったことがわかってきます。
そして、いまAmazonで「吉田松陰」と書籍を検索すれば、軽く100冊ほどの書が並び、近年出版された新しい本もあります。
ここまでの影響力を、29歳で他界した人物が残しているのです。
ここからは、死してなお人を惹きつける、吉田松陰の名言をご紹介していきます。
吉田松陰は「吉田松陰 一日一言」という名言の本があるほど、多くの名言を残しましたが、その中から、15に厳選してお届けします。
すべての実践は、志を立てることから始まる。
人を信ずるということは、人を疑うということより、
はるかに勝るものであることはもちろんである。
だから僕は、むしろ人を信じて失敗しても、
人を疑って失敗することだけは断じてしたくないものだと心に誓っているのだ。
自分が道理をゆがめた生き方をしていて他者を真っ直ぐにした者は、未だかつていない。
罪を受けるのは身であり、恥をこうむるのは心である。
身に受ける罪は軽く、心に受ける恥は重い。
「誠」を実現するためには、実(実行)、
一(専一)、久(継続)の三つが大切である。
専一(せんいつ):一つの事柄に打ち込むこと。
心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。
そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。
旅はそのきっかけを与えてくれる。
一つの問題で、その人のすべてを否定するようなことはしない。
勝つことのできない原因は自分であり、これは心にある。
学問とは、人間はいかにあるべきか、
いかに生きるべきかを学ぶことである。
小人が恥じるのは自分の外面である、
君子が恥じるのは自分の内面である。
人間たる者、自分への約束をやぶる者がもっともくだらぬ。
死生は度外に置くべし。
世人がどう是非を論じようと、迷う必要は無い。
武士の心懐は、いかに逆境に遭おうとも、爽快でなければならぬ。
心懐爽快ならば人間やつれることはない。
命をかけて貫くまごころは、限りなく多くの人々を感動させる。
怒を蔵(かく)さず、怨を宿(とど)めず。
人と交わる場合、怨みに思ったり腹が立ったりすることがあったら、 すぐ相手に率直に忠告すべきで、これが道というものだ。もし忠告・直言できないならば、怨んだり怒ったりしないことだ。
もし怨みや怒りを心中に隠し胸中に蓄えておいて、 適当な時にこれをぶつけてやろうと考えるならば、 それは陰険で柔弱な小人のすることで、まことに臆病な話だと言わねばならぬ。
君子の心は天のようなものだ。
怨み怒ることがあれば、雷のような激しい怒りを爆発させることもあるが、 いったんそのことが解決すれば、また晴天に太陽が光り輝くように、 いささかも心中にわだかまりを残すことがない。これが君子の活き活きとした力強い徳である。
知識は行動のもとである。
正しい行動は、深い知識や理解によって実現するものである。
武士たる者は過ちがないことを誇るべきではない。
過ちを改めることが大事である。
国家多難の昨今にあたっては、容易にはできない足跡を刻むことは
過ちを補って余りあると言うべきだ。
松陰の名言とされることもありますが、こちらは松陰の師である佐久間象山から、 士籍剥奪のお咎めにあった松陰に送られた言葉です。 吉田松陰の大胆な行動の背景と思える、力強い言葉です。
親思ふ心にまさる親心 けふの音づれ何ときくらん
親が子を思う心は、子が親を思う心に勝る。
今日の処刑の知らせを、親はどのように聞くのだろうか。
これらの名言などを見ていくと、
吉田松陰の元に多くの人が集まり、
また松陰自身が死を怖れず、
情熱のままに突き進んだ背景には、
叡智を元にした、まっすぐで純粋な強い思いがあったことがわかります。
さて、この記事を作っているLife&Mindは、NLP-JAPANラーニング・センターという心理学のスクールが運営しています。
そこでは、人生や人間関係をより良いものにし、ビジネスで結果を出すための心理学を伝えており、スクールに通われている皆さんは、経営者や会社員の方々、主婦の方から学生といった様々な方がいらっしゃいます。
そして、ここまでご紹介した、吉田松陰の人生や名言から学べることは、実践心理学NLPの視点からも、大いに説明がつくものです。
それは、成功する方、何かを成し遂げる方々には共通して、高いセルフイメージや、強い信念・価値観があるのです。
セルフイメージや信念・価値観は、
才能を開花し、能力を上げるほどの力があり、
必然的に行動に影響を及ぼします。
行動が変わることで、連鎖的に、
自分の周りの環境も変わっていくのです。
吉田松陰のように、
自分は国を守る者だという自己認識があり
そのために必要な、
確固たる信念や価値観を持っていたことで、
黒船に乗るまでの行動に出るに至ったのです。
そして、吉田松陰と同じように、
志ある人々が集まる環境ができていたと言えるでしょう。
自分を何者と心得るか、
何を大切に生きて行くのか、
これらは人生を生きていく上で、
非常に重要な人間心理なのです。
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最後に
吉田松陰の没後13年となる明治5年(1872年)10月14日、日本初の鉄道が新橋・横浜間で開業しました。
鉄道開業を祝う列車には、
西郷 隆盛(薩摩藩)、大隈 重信(佐賀藩)、
板垣 退助(土佐藩)、後藤 象二郎(土佐藩)、
大木 喬任(佐賀藩)、井上 馨(長州藩)、
伊地知 正治(薩摩藩)、宍戸 璣(長州藩)、
山県 有朋(長州藩)、福岡 孝弟(土佐藩)、
黒田 清隆(薩摩藩)、陸奥 宗光(元紀州藩)、
河村 純義(薩摩藩)、土方 久元(土佐藩)、
江藤 新平(佐賀藩)、西郷 従道(佐賀藩)、
福岡 孝弟(土佐藩)、黒田 清綱(薩摩藩)や
渋沢 栄一と言った、
後世に名を残した人物が乗っていました。
乗車したメンバーのお一人である渋沢栄一は、一時は討幕の武士として、荒っぽい方法で国を変えようとしたわけですが、
改心により幕府の士官となり、没後92年経つ現代、新一万円札の肖像に採用されることが決まっています。
やり方や状況次第では吉田松陰も、この日本初の列車に乗っていたかもしれない・・・と思うと、
なんとも言えない無念を感じるわけですが、
それすらも、吉田松陰の純粋で情熱的な生き様の結果なのかもしれません。
そして、連なる名前を見ながら、確実に、吉田松陰の心は受け継がれて乗っていると確信しました。
渋沢栄一について、詳しくはこちらから。
↓
(参照元)
- [新訳]留魂録 松浦 光修(翻訳),出版社:PHP研究所
- 吉田松陰『留魂録』 (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ) 城島明彦(著)
- 講孟余話 ほか 吉田松陰(著),松本三之介(翻訳),松永昌三(翻訳),田中彰(翻訳),出版社:中央公論新社
- 吉田松陰 真の教え川口雅昭(著),出版社:太陽出版
- 感化する力:吉田松陰はなぜ、人を魅きつけるのか 齋藤孝(著),出版社:日経BPマーケティング
- 国立国会図書館 近代日本人の肖像
- 松陰神社(山口県萩市)
- 日本の鉄道事始め、新橋~横浜間の開業式典列車には誰が乗っていた?