なぜ山下達郎批判の足並みは揃わないのか|山下達郎・松尾潔・ジャニー喜多川をめぐる短い整理

ここ数日、トレンドに山下達郎の名前が挙がり続けている。

松尾潔氏によるジャニー喜多川、ジャニーズ事務所への批判と、それを受けた事務所の契約解除、続く山下達郎の声明が話題を呼んでいるのだ。

www.nikkan-gendai.com

 

newsdig.tbs.co.jp

 

詳しい説明は省くが、ジャニー喜多川の肩を持った山下達郎の声明は間違いなく批判されるべきだろう。しかし彼に対して寄せられた批判を並べてみると、内容にかなり幅があることに気づく。山下達郎を批判する者同士で牽制し合う光景すら目に入る。

特に、いわゆる左派の有名人による批判と、これまで彼の活動を追ってきた評論家やリスナーの批判にかなり差があることは間違いない。山下達郎について一家言ある人ほど、痛烈な批判はしていないように見えるのだ。私の見立てでは、これは評論家たちが思い出との間で板挟みになっているとか、利害関係があるとか、そういう話ではない。

私も山下達郎の音楽を聴き、10年以上レコードを集めてきた身として、そのあたりの立場の違いを手短に言語化してみたい。

 

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彼の録音を聴き、インタビューを読むと(読まなくとも)わかることだが、山下達郎は演奏者として、作曲家として、聴き手として、非常に深く音楽に通じた人物である。しかしその享楽的な作品の中に、いわゆる政治的なステートメントはない。信じられないほど高度なミュージシャンシップに彩られた楽曲のほとんどは、甘いラブソングや夜遊びについての軽薄な歌である。

しかし彼のバイオに目をやると、1968年を経、学生運動からの転向を経験している。ただたんに政治的でないというだけでなく、反政治的な態度を織り込まれたスタイルを長年貫いてきたことがわかる。交友関係についてや音へのこだわりについて、サブスクについて、近年のシティ・ポップの再発見について等、触れるべきことはいくらでもあるが、山下達郎についてごくごく簡単に説明するとこんなところである。

……こういう書き方をすると、山下達郎は主張や中身は何もない、空虚で反政治的な音楽家なのだと図式的に捉えられるかもしれないが、そんなに単純な人物ではなく、ニュアンスを伝えるのは難しい。

 

なんにせよリスナーとしては、あれだけ深く音楽に通じた人間が、参照点として軽薄で形式的なものばかりを選んで50年以上続けている、そのことに重みを感じてきたのだ。

ただ別な言い方をすると、彼が実際のところどういう精神性で音楽を作り続けてきたのか、ベールに包まれていたということでもある。それが今回の件を通して、視野狭窄な職人気質が見えてきたのだ。

 

もし今回の事件より前に、山下達郎はこういうとき人権意識に基づいた応答をする人なのかと問われたら、そこのところはこれまで「わからなかった」のである。だから、多くのリスナーにとっては、「信じていたのにショック!」という感じではなく、「まあ、とても残念だけどさもありなんという気もちょっとする、うーん……」みたいな反応がリアルなのではないかと思う。山下達郎が前から意識の高いアクティヴィストであったかのように失望するのも妙な話だし、ただ純粋に好きだったのに悲しいです、みたいな反応も浅い。

今回、社会派ご意見版みたいな人々がさまざま「失望」を表明していた。失望の裏には期待や信頼があるはずだが、山下達郎を追ってきた人たちから見ると、そもそも彼(女)らは「失望」するほどに期待や信頼を寄せていなかったように見える。聴いてもいなかったのではないか、政治的な主張のためのポーズではないか、と勘繰ってしまうのだ。

ごく倫理的に、「山下達郎の作ってきた音楽も日本のポップ音楽史も彼のこれまでの政治性も知らないし知るつもりもないが、彼の発言はとにかく問題である」とするのも一つの立場かもしれない。ただ、彼の半世紀以上のキャリアを一切無視するのも批判として不十分ではないかと私は思う。

 

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おわりに

この文章はいわば、「音楽への関心も敬意もないが、ただ政治的な闘争のために関心あるふりをする人」を文芸批評的な観点から批判したもので、それも重要だと思って書いている。だが、山下達郎の声明そのものについていえば、何よりも問題なのは、ジャニー喜多川への「尊敬の念」を表明することや、松尾氏のジャニーズ批判を「根拠のない憶測」とすることが、強烈な二次加害だということだ。決死の思いで訴え出た人がこれだけいて、何が憶測だというのだろう。

 

 

 

 

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本当にどうでもいい追記

思い返すと山下達郎をちゃんと聴くようになったのは19歳の頃だった。クラブから自転車で帰るときに、有村さん(後のトラックメイカー in the blue shirts)に勧められた。
「そんなにいいんすか?」

と質問したら、

「まじで全人類に勧められる音楽やで」

と返ってきた。本当にその通りだと思った。

いまでは全人類に勧める気にはなれなくなってしまった。実家のどこかにFor YouやSpacyがあると思う。積極的には考えないようにしているが、頭の隅で売価を気にし始めている。ヒーローはいつだって私たちをがっかりさせる。

 

やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?という話──サマソニにおける差別的な言動を通して

◉2022年のサマソニ


*1

2022年のサマソニについて。コロナ禍で、実に3年ぶりの開催だった。
出演者の男女比が半々でないフェスには出ない、と明言したThe 1975がヘッドライナーとして世界初公開の新曲を披露した。リナ・サワヤマがLGBTQの権利に言及し、素晴らしいパフォーマンスを見せた。個人的にはSt. Vincentで泣いた。

一方で、一部の日本人アーティストによる差別的な発言が話題となった。

King Gnuのステージでは、Måneskinのベーシスト、ヴィクトリアのニップレス姿をネタにした。マキシマム・ザ・ホルモンのステージでは、リンダリンダズのカタコトの日本語MCの真似をした。いやはや……。こういうことがあるとほんとうに暗澹たる気持ちになる。
King Gnu、マキシマムザホルモンという両バンドは、世代も音楽的な参照点もまったく異なるが、いわゆる「邦ロック」の売れっ子として活動してきたバンドである。同じフェスで別々にこのような言動が露見したのは、ただの偶然ではないし、個人の問題と言い切れるものでもないだろう。
種類の違う件ではあるが、コロナ禍のガイドラインに反してONE OK ROCKがシンガロングを強要したという報道もあった。

海外から招集されたアーティストの対比からも明らかなように、ここには個人の問題ではなく、明らかにシーンとしての問題が存在している。

ロックフェスを銘打ってアーティストを集めるときに、「邦ロック」の枠で国内から呼ばれる人々と、海外から呼ばれる人々は全然別な姿勢で音楽をやっているのではないか?傍目には同じステージに立っているが、性質がまったく異なるのではないか?というのがこの記事の出発点にある。片方は社会性を意識した表現者だが、もう片方はファンビジネスの外に出ていない。

 

そもそも音楽を聴くことの意義を考えてみたい。
ポップ音楽を聴くことで、聴き手に何が起きるかを言語化してみるならば、価値観の転倒が起きる、身近な誰か・見知らぬ誰かに想像力が届くようになる、アイデンティティの形成を助ける(あるいは迷子にさせる)、社会に対する見方を変える、たとえばこういう効果があるのではないか。
つまり、多くの人はポップ音楽を聴くことで、差別や表現や人間関係、社会について考えを巡らせるのではないだろうか。逆にいえば、ポップ音楽を聴いた結果、社会への無関心や差別を表明する人がいるのだとすれば、その人は音楽を聴いていない、大事な何かを聴き逃している、ということになる。


ポップ音楽を聴いた結果、日本へのリスペクトを持ったアーティストの日本語を茶化したり、弱者による社会的なステートメントを嗤ったりなんてことがあるならば、ポップ音楽は社会に分断や差別をもたらす存在なのだろうか?そうではないと私は言いたい。

 

◉日本語のMCを茶化した件


*2

 

だいたいリンダリンダズは、ブルーハーツの“リンダリンダ”が好きで、それをバンド名にしているアメリカ人のバンドである。自分たちが受けたアジア系差別を曲にして戦っているティーンエイジャーたちのバンドで、最年長が17歳。逆にどういう神経ならカタコトの日本語を真似できるのだろう*3。

 

他のアーティストへの敬意、慣れない日本語への敬意よりも、
「よーしステージでちょっと笑いとったろ、こんなことしてる自分ってオモロイやろ?」
みたいな態度が前に出てるわけでしょう。あとで「親しみを込めたつもりだった」などと釈明するのだろうか。そういうのは音楽に携わるアーティストというより、昭和の会社の宴会芸みたいな態度に近いのではないだろうか。

また、カタコトのMCを真似するのはマキシマムザホルモンのライブでは定番らしく、これまで大きな問題として扱われてこなかったことも、オーディエンスを含めたシーンの問題に連なっている。悪気はないのだろうが、多くの差別は悪気のない(というかその件について考えたことがない)、「いじったつもりだったのに」「むしろ褒めようとした」という類のものだ。

このタイミングで同時多発的にアーティストの言動が取り沙汰されるのは、サマーソニックをはじめとする国際的なフェスが控えられていた3年のあいだに、世間の潮目が変わった(はやりの言い方をするならば、価値観のアップデートが起きた)、という面も大きいように思う。

 

◉ニップレスについてもう少し説明

*4

ヴィクトリアのニップレスの着用について、もっとわかりやすく説明してみよう。彼女が仮想敵にしているのは、たとえば「女子のポニーテールは男子の欲情を招くので禁止」みたいな日本のイカれた校則であったり、ヌーディストビーチや混浴に「女の裸が見放題らしいぞww」みたいな態度で臨む輩のことだ(ようするにニップレスを面白がるKing Gnuのメンバーみたいな態度の人)。

 

そういうのがあまりに馬鹿馬鹿しいので、バンド全体でグラムロック風のアンドロジナスな装いをし、肌の露出をショウアップした上で、仕方なくニップレスをしている。そういう社会的なステートメントを持ったバンドである。本人たちによる語りを知りたい人はこちら*5。

 

◉ポップ音楽を聴くことには、音を聴く以上の意味がある。たとえば……

最初の話に戻り、繰り返すが、差別的なMCをした彼らは、ふつうポップ音楽の聴取によって学んだり、考えたりしていくはずのあらゆるエッセンスを素通りしているのである。差別について、異文化について表現が重ねられてきた歴史を無視している。
ポップ音楽を聴くことには、単に音を聴く以上の意味があるのに。たとえば……

  • クィア(特にゲイ)のアーティストを数多く知ることで、クィアな存在に関する認知・理解が深まる。

  • Arcade Fireã‚„Wilcoが歌うアメリカの政治の混迷から、アーティストが政治に言及する姿勢を知る。

  • 黒人音楽がどん欲に白人の市場を取り込むさまから、セルアウトの概念を理解する、黒人社会を動かす原動力と葛藤に想像力を巡らせる。

  • 他人種のカルチャーに傾倒する黄色人種として、アイデンティを見つめ直す。

  • 60年代のサイケ・ポップや一時期のマイルスから、人智を超えたものへのアクセスに挑戦する姿勢を知る、あるいはドラッグ・カルチャーについて知る。

  • 社会におけるドラッグへの扱いの差を知る。日本における「ドラッグで捕まった人の人生は徹底的に痛めつけて、抑止力として生贄になってねシステム」に疑問を持つ。ひいては“ドロップアウトした人”に対応した社会設計を意識する。

  • Hiphopにおけるビーフの応酬を知る。単なる誹謗中傷ではなく、韻を踏み、オーディエンスの前で批判し合う、いわば“批判におけるプロレス的作法”を学ぶ。

  • Avalannchesã‚„DJ Shadowのサンプリングから、歴史がリエディットされる音を聴く。創作と編集の間に明確な差がないことを知る。

  • Vampire Weekendが使ったアフリカのビートに「白人による文化搾取だ」という批判が起きる、その応答から文化搾取についての知見を得る。

  • ボウイやジョン・レノンが、高等教育と無縁な労働者階級から、ポップ音楽を通じて芸術家となった軌跡を知る。ひいてはポップ音楽が教育プログラムであることを知る。

いくらでもあるが、とりあえずはこんなところ。いちおうアーティストの固有名詞を書いてみたが、名前はいくらでも入れ替え可能だ。だって、私が2008年のVampire Weekendをきっかけに知った文化搾取の問題は、2022年にシティポップのサンプリングから考えることもできるし、1979年のTalking Headsから学ぶこともできるのだから。

 

海外のアーティストの話が多くなったが、別に日本より海外が優れていると言いたいわけではなく、日本のアーティストにも興味深い表現をしてきた人々がたくさんいる。

リアルタイムのリリースで例を挙げると、電気グルーヴの歌詞におけるアイロニカルな政治性(“ロボット歩きで選挙に出かけたの”)とか、ceroの曲におけるリズム・ダンスへの挑戦(「My Lost City」は3と5拍子しかないのに“ダンスをとめるな”という歌詞がリフレインされる・加えて、黒人音楽のリズムの再解釈にキャリアを通して真摯に取り組んでいる)とか。もちろん日本にも優れた音楽、鋭い思考はある。

 

ただ、商業的なダメージを気にしてなのか、ボケっとしたノンポリなのかはっきりしないが、日本のロック・ポップスの大半は、社会的なステートメントをほとんど発さずに、身辺雑記的なラブソング(それも比較的ステレオタイプで、語彙も不足しているような)ばかり歌っている。わかりやすい表出として、彼ら/彼女らは選挙の時期になってもなにも言わない。

 

別に音楽にそんな社会性も批評性を求めてないんですよ、心地よければそれでいいんですという聴き手もいるはずだ。しかし、ほんとうにそうだろうか。
自分が好きで何度も何度も聴いてきたミュージシャンが、息をするように差別や加害に加担しているとしたら?いままでどおり楽しく聴けるだろうか?

一例を挙げてみよう。2021年、Rhyeという海外のアーティストが、性暴力の告発を受けた。当時18歳だった前妻によるもので、性行為中の音のサンプリングや、意に沿わないセックスを告発するものだ*6。私は2013年からRhyeの音楽を熱心に聴いてきたが、この報道を知ったあとでは軽々しく再生できなくなってしまった。服屋で試着中に流れてきたときは落ち着かなくなり、逃げるように店をあとにした。

このような契機を経て音楽を楽しく聴けなくなる可能性が少しでもあるのなら、聴き手は心の底ではっきりと、音楽に社会性も批評性も求めている。音楽に連なった社会的トピックには無関係だと、別の世界の話だと言い切ることに耐えられないのだ。

 

◉やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?

まあ、ここらでサマソニの壇上の話に戻りますけれども……。サマーソニックという国内最大級のフェスに出るアーティストが社会と無縁だと言い張れるわけもなく、今回は、「邦ロック」シーンの無邪気な、あるいは差別的な振る舞いを見直すいい機会ではないかと思う。

日本にも素晴らしい音楽家がいること、社会的な意思表示を発し、新たな文化への架け橋となってきた音楽家がいることは承知している。いわゆる「邦ロック」の文脈においても自分たちの社会性に意識的な発信をしているアーティストもいる。

けれどもこういうことがあると、いわゆる「邦ロック」は、これまで世界中の音楽が積み重ねてきた表現や葛藤とはほとんど無関係に成り立っていて、社会性に無自覚で、そのくせ人より音楽が好きと自称する人のために生産されている思春期商売の肥大化みたいに思えてしまう。

「悪ノリで息をするように差別するアーティスト」と、「反差別や人権の尊重を前提としたアーティスト」は、まったく異なる態度で音楽に向き合っている。それどころか、片方にとってもう片方が加害者ですらありうるが、フェスという場では並列にアナウンスされてしまう。
片方が社会性を前提に音楽をやっているとしたら、もう片方は何をやっているのか?
音楽をやっている?ほんとうに?それって純粋なファンビジネスじゃないの?

 

もしこれがカルチャー系のwebメディアに載るような原稿であれば、タイトルは、

 

「社会性・政治性の希薄な日本のロック──マイクロアグレッション(意図しない差別)について──」


みたいなものに整えたと思われる。しかし個人のブログなので、昔からの偏見をアジテーションそのままに書いている。
「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?いや、マジでさ……。

 

※一部を加筆修正しました(話の運びや結論はそのままです)。また、記事内容が一部修正されたにもかかわらず、コメントが修正できないのはフェアではないという観点から、もともと公開していたコメント欄を非公開にしました。─2022年8/24(水)

 

補足

 



 

*1:引用元→

https://twitter.com/summer_sonic/status/1560973688987852800

*2:引用元→

https://pointed.jp/2021/05/31/the-linda-lindas/

*3:現地で観た人たちの中で、このMCを残念がる人たち(「リンダリンダズも言ってたよ!」ナヲ氏が後ろからコメントしたという内容)と、リンダリンダズについての言及はなかったとする人たちが両方見受けられる。おそらく掛け合いの中で発されたものと思われる。

*4:引用元→

https://twitter.com/gallerymaneskin/status/1549071752411729922

*5:ニップレスを着用していたヴィクトリアの姿勢については、この動画で解説されている(5分くらい〜)。

www.youtube.com

*6:

Rhye Accused of Sexual Abuse, Assault, Grooming by Ex-Wife – Rolling Stone

最近の日記(記憶に残っている日)

・花

友だちが引越し祝いに大量の花を持ってきてくれる。家じゅうの花瓶に生けてもまだまだ足りないので、深い鍋に生ける。それでも足りないのでフライパンにも生ける。部屋がほんとうに明るくなって嬉しい。

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・乳首が3つある人

三丁目の上海小吃で大声で話していた日、雷に打たれたように突然思い出した。私は「生存に影響を及ぼさない奇形」が好きだった。生存に大きく不利な奇形(脳がないとか、肺がないとか)の人は生きていくことが難しいので、現世で観測できるのは生存に影響を及ぼさないものばかりだ。
出会った数はあまり多くないが、漏斗胸の人、小さな小指が足の指が六本ある人、首の骨の節がひとつ多くて、言われてみると首が長くカーブしている人を知っている。

昔乳首が3つある人のAVを見たことがある。かなり面白かった。2つの乳首の真ん中にチャクラみたいな乳首があって、冒頭でこんな会話をする。

「乳首が3つあるってどんな感じ?」
「1.5倍気持ちよくてお得な感じ(笑)」

これはいま考えても相当おもしろいんじゃないかと思い調べてみたが出てこなかった。
記憶が確かなら、その女優は別のAVだと乳首2つ状態で出演していて、10代の私は「奇形の特殊メイクなんてやるんだ……!」と衝撃を受けた。本物の奇形のAVよりもそっちのほうがおもしろい気がするので、タイトルを知っている人がいたら連絡ください。

 

・やがて見えなくなる花

南方熊楠は死ぬ直前、「天井一面に紫の花が咲いている、医者がくると花が消えるから呼ばないでくれ」と話したそうだ。自分はいま社会的な去勢の過程にあり、紫の花が日によって現れたり消えたりするので切なく聞こえる。まだまだ余裕で見えているが。

 

・6000円のカット

2021年までずっと髪をなんとなく自分で切っていていたのだが、友だちに勧められて、人生ではじめて6600円(税込)のカットへ行ってみた。めちゃめちゃよくて感動した。

能力如何もそうだが、自分のために贅沢に時間を割いてくれることや、差し出される技術に安心して身を任せる喜びが嬉しかった。あとふつうに見た目がよくなった。みんなこの世界線にいたのか……?2022年はこういう感じでいきます。

 

・写真を始めると何が身につくのか

隅田川で満月を見ながら思ったこと。ピアノを習うと音感がつくし、そろばんを習うと目の前にそろばんがなくとも計算機器を出現させる具現化系の能力が手に入るが、カメラはどんな能力が体に残るのだろう。カメラが目の前になくても失われないパッシヴなスキルってなんなんだろうか。

いまのところの答え→
自分の視覚が所与のものでないことを自覚し、稀有な条件下で見えているだけだとわかる。計器がつく。

たとえば明るいところから暗いところに入った瞬間、「いまF値が1台になった」と気づいたり、露光量がおおよそわかったりする。「センサーが小さいからあまりボケないなあ」「AFめちゃめちゃ速い」などとヒトの視覚をメカニカルに捉え直すことができるようになる。当たり前のように見ている景色も、諸々の数値が少しずれるだけで供給されないことがわかる。

ということを、隅田川で満月を見ながら思ったのであった(月が綺麗ですね、ということはISOはまあ800くらいですね、みたいな……)。

 

・「美術館」と「アート」

Twitterには、興味のあるキーワードにチェックを入れて、それに合わせたレコメンド表示させる、いわゆるおすすめ機能がある。ためしに「アート」にチェックを入れると、とても「アート」に関係あるとは思えない投稿ばかり流れてくるのだが、「美術館・博物館」にチェックを入れると、そこそこの精度で関連のツイートが表示される。これはけっこう面白い話だと思う。

情報伝達や教育の再現性に関わる話なのだ。関連の投稿を呼び出しているのはAIだが、人間もあまり変わらない。身近やレベルでいうと、「アート」の階層で人に何か言っても伝わらないが、「美術館・博物館」の階層で言うと伝わるし、連帯もしやすい。まあもっと卑近な話だと、マッチングアプリで表示する趣味のタグは、「美術館・博物館」にチェックを入れるべきで、「アート」の優先度は低い。間違いない。

 

・風をあつめて

15歳くらいから思っていることだが、

“ひび割れた玻璃ごしに摩天楼の衣擦れが舗道をひたすのを見たんです”

みたいな歌詞を有り難がってたらいかんだろう、という気持ちを突然思い出した。カラオケにて。でも大声で歌いました。

 

 

・一方通行のコマンド、逃げる

湘南へ遊びに行く。釣りに挑戦する。友だちから進路(?)の話を聞く。
IT系の仕事をやめてフリーでしばらくやってみようと思うが、会社に本音を打ち明けてやめるやめないの話をするのは心が折れるので、やめざるを得ない理由を適当にでっちあげて(親の介護とか?)退職してしまおうかと思う、という内容だった。

自分は学生時代、バイト先に制服を返さずやめるタイプだったので、バックれ気味にいなくなってコミュニケーションを絶つやり方はよくわかるのだが、最近はたまたま別のモードだったので別な意見を言った。

その手の「逃げる」ムーブは逆行ができないタイプの動きで、転職だろうとコミュニティからの離脱だろうと、一回やると元々いた場所に戻れなくなる。自分は今までの人生だいたい逃げるムーブで動いてきたので身軽ではあるが、そろそろ可逆性のある動き?水平移動?なーんかそういうのを覚えた方がいいのでは?という声を無視できなくなってるんだよね、だから損しない程度にちゃんと言ってみたらいいと思う、という意見である。進路の話をしていた彼はなんとなく納得したようだった。まあほぼ自分への言い聞かせだった。

余談だが、私の考えだと、逃げるムーブに慣れた人間、自分は逃げた結果ここにいると自認している人間は、「自分は努力によって今の地位を得た」「努力によって可能性は拓ける」というネオリベ的な価値観と親和性がないので、人格的に信用しやすいなと思っている……。

 

 

・最後に思い出すもの

楽しみな予定を前に、美容院の予約をして(6000円のやつ)ゆっくり風呂に入り、仕事を片付けるべく夜中まで作業していたが予定そのものがなくなってしまった。やるせないぜと思いながらなんとなくONE PIECEとBLEACHを1話ずつ読んだら元気が出たのだが、こんなので元気を出していたらマジでやばいんじゃないかと突然思った。

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私は母方の祖父を5年前に亡くしているのだが、最期に抗がん剤の治療でせん妄状態になったとき、祖父は就職を断って故郷へ帰る場面に何度も立ち戻った。60年ほど前の記憶である。

祖父はまだ若く、記者志望で、新聞社から内定をもらっている。しかしいざ就職する段になって故郷の親が倒れ、家業を継ぐために戻るよう説得を受ける。彼は悩んだ末に故郷へ戻る決断をする。そこで新聞社の内定を断らねばならなない。彼が立ち戻るのはその場面なのだ。
「でも本当に家へ戻らねばならんのです……申し訳ありません……こんなによくしてくださったのに……あなたのお名前はなんというのでしょうか……?」と。

周囲の家族はその都度新聞社の役をする。素直に自分の名前を答えても、彼を混乱させることはない。なぜなら彼が就職する時点で、周囲の家族は──最終的に棺のまわりを囲む人びとは──まだ生まれていないからだ。彼が逡巡の末故郷に帰ったことで、この世に生を受けた人たちだからだ。
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せん妄状態で、わけがわからなくなった最後の最後で、人生の特別な分岐点に立ち戻るのはあまりに重く、私は最後の最期で彼の人生を痛切に受け止めた。のだが、これがなんの話かというと、人生の最後になにを思い出すだろうか?という話である。

深夜にPCに向かいながら、私はこのままいくと最後に出てくるのがONE PIECEやBLEACHなのではないか?というそれなりに切実な悩みを抱いたのだった。最近上司とほとんど同じ話をしたせいで日に日に不安が大きくなっている。

俺たちはやるよ。

 

ナイナイ岡村の「風俗」発言・矢部の説教は、何が問題なのか 〜性差別を正しく指摘するために〜

 

* ナイナイ岡村の「風俗」発言について

 

個人のブログにもウェブメディアにもまともな記事がほとんどなく、これならわたしが書いた方が全然いいじゃん、と思ったので書いています。岡村の発言についてよりも、矢部の説教についていろいろ書いておきたいことがある。

 

コロナ明けたら、なかなかのかわいい人が短期間ですけれども、美人さんがお嬢やります。これ、何故かと言うと、短時間でお金をやっぱり稼がないと苦しいですから。

(中略)

だから今、我慢しましょう。今は本当に我慢して。はい、コロナ明けた時に、われわれ風俗野郎Aチームみたいなもんは、この3カ月、3カ月を目安に頑張りましょう。

headlines.yahoo.co.jp

 

四月の末からこの発言が炎上していた。「コロナウイルスの自粛明けには経済的に困窮した美人が風俗店に在籍する。それを楽しみに今は自粛しよう(大意)」という内容だ。

問題点としては、品性のなさ、露悪性、非対称な社会構造に対する想像力のなさ、背後に見え隠れする芸人のホモソーシャルなノリ*1などが挙げられるだろう。
ただ、不愉快な発言であることはよくわかるが、直接的な差別でも中傷でもないので、表面的な非難(サイテー!下劣!)以上のクリティカルな批判が難しいように思う。

そもそも性風俗で働いている女性は、別に全員が強制されて/不本意な選択としてその職業を選んでいるわけではない。好きな職業に就く自由がある以上、「特別な経験を求められないから」「若さや美貌を効率的に金銭に変えられるから」などの理由で主体的にその仕事を選ぶ女性も少なくない。その一方で、非常に限られた選択肢のなか、不本意な労働で苦しむ女性もいる。
 

たしかなことは、風俗業界をなくせば済む単純な話ではないということだ。主体的に働いている人からすればなくなって困るのは当然であるし、不遇な人にしても別の問題がある。
仮に、困窮して家賃が払えず、ホームレスになるか風俗で働くかの二択だと思いつめた状態で風俗を選んだ人であれば、風俗をなくせばホームレスになってしまうわけで、教育や福祉が困難な人々をどこまでケアできるかという複雑な問題が絡んでくる。

何にせよ、岡村を批判する文脈で持ち出される「セックスワーカーは不遇な人々であり、風俗を利用する男性は差別的だ」という発言は、一部に当てはまる一方で、きちんと背景を踏まえないと、批判者がセックスワーカーに抱く蔑視を吐露するだけのものになってしまう。個人的な観測範囲だが、わたしのtwitterのタイムラインでは、風俗で働く女性数名が「岡村の発言は褒められたものではないが、岡村への批判の方により強い違和感を覚える」と発言していたことが印象深い。
主体的に風俗で働いている人からすれば、「あなたたちは搾取されている」と外野から突然言われれば戸惑うだろうし、彼女たちにとっては一銭にもならない。岡村を批判したいあまり、風俗で働く人々の尊厳を傷つけては元も子もない。結局この問題は、風俗の現場で働く人々の生活や幸福を抜きにして語るべきイシューではない。

 

いちおう性風俗についてのわたしの見解を述べておくと、

・職業選択の自由がある以上、風俗を含めた売春を全面的に禁止すべきではない。
・セックスワーカーの権利を手厚く保護すべき。
・風俗で働く人々も、風俗に客として通う人々も蔑まれることのない社会が望ましい。

くらいのもの。 

どんなふうに読まれるかわからないので断っておくが、ここまでの文は岡村擁護ではなく、岡村への批判批判である。

 

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* 矢部の説教について

 

岡村の発言を受け、相方の矢部が4/30にラジオ出演し、岡村に説教することとなった。個人的にかなりまともで誠実な内容だと思ったが、身の回りでも、ネットの有象無象でも批判が多かったため少し驚いた。以下は個人的に重要だと感じた箇所の抜粋。

 

一緒にいる時間が少なくなったことで、たまに会うと「おお、こんなこと言ってまうか」って思うときがめっちゃある。
たとえば、(矢部自身が)結婚生活の秘訣を聞かれたときに、「ありがとうと、ごめんなさいです」とコメントした。それに対して、「白旗上げたんか」って言ったときは、「女性を敵として見てるねんな」って思った。女性にコンプレックスあるのも、相手の女性も知ってるけど、そういうのも含めて岡村隆史の根本なんやなと思った。

 

(中略)

 

「マタニティマーク付けてるから席譲ってください」っていうのに対して、岡村隆史は「あれ、いる?見たら分かるやん」って言った、それも無意識に言ってた。あまりに怖いから流したけど。
あれは、3ヶ月、4ヶ月とか見て分からへん妊婦さんが分かるためにするためのもんや。女性と付き合ってたらそういうところも指摘されるし、子供にドキッとしたこと言われたりもする。

これをきっかけに結婚したら?チャンスもらったと思って。
番組でも困ったら風俗ネタに逃げることもあったやん、でもスタッフがカットしてくれるやん、しかもこの時代はもうウケへんやん。それやったら、「今気になってる子おる」ってエピソードの方がおもしろいし、しっくりくる。腑に落ちる。

全く女っ気ないとか誰も思ってないし、50歳で風俗の話ばっかりして、幽霊みたいな話やん。
反省してるのも伝わってるから、今もし一番近い女性がいたりするなら、相手のこと考えてるなら進展させるとか、無理やって思うんやったら解放してあげるとか。

 

(中略)

 

なんも怖くないから。恋愛なんかそこら中で付き合ったり別れたりしてるし、飛び込んでみたらええねん。49歳のおっさんに48歳のおっさんが言うことじゃない。恥ずかしいで。

1yomeblo.com

 

もう一度読んでも、やはりまともで誠実なアドバイスだと思うが、どうだろうか。矢部の発言については様々な角度からの批判があり、そのうちいくつかを取り上げて考えてみたい。

 

 

・既婚者マウント(?)の批判、未婚は半人前とする価値観への批判


大野左紀子氏の引用。これはおそらく、「人は結婚してこそ一人前」という旧来の価値観に対する批判だろう。特に妻帯者の社会的信用の内に「女性を一人所有し、言うことを聞かせてこそ一人前」というミソジニーを見出し、そこを批判しているのだろう(そう考えると理解はできる)。

「男は所有したがり、女は関係したがる」という言*3があり、男性の考え方が所有に寄りがちであること(それこそ「あなたを守ります」という愛の表現がそうだ)はこれまでにも批判を浴びてきた。

ただ、恋愛経験がないから女性のことがわからないのだ、身近に気になる人がまず恋愛してみるべし、という矢部の発言は、所有よりも関係の構築に重きを置いているように聞こえる。結婚も勧めているが、女性を性的客体としてモノにする(所有する)ことで男性の主権は保たれる、という昭和のオジサン的なよくある結婚観とは距離があるように思う。

 

 

 

・「なぜ女がセクシストの矯正をしてやらねばならないのか?」という定番の批判

「女性と関わりを持つことからはじめてみたら?」という矢部のアドバイスに対し、「なぜ女性を利用するのか」という批判が数多く見られた。まあ、なんていうか、歴史上何万回もやってきたやりとりだが、今回の件については正直あまりアクチュアリティがないと感じる。

ハナから女性差別的に出来上がっている社会に物申すとき、今まで女性たちは砂を嚙むような苦しみを味わってきた。最初は女性に参政権すらなかったことを思い出してほしい。偉い男のところへ行って、「女性にも参政権が必要です」と訴え、ほうぼうで「女に政治なんてわからない」「女には判断力がない」「どうせ夫と同じところに入れるんだから意味がない」などと非難されながら活動していたことを考えれば、「女性にだけ参政権がない状態が異常なのに、なぜ私たちが異常な女性差別者の男たちの元へ出向き、理解を求め、説得しなくてはならないのか。なぜ女がいつも男を矯正してやらねばならないのか」という怒りが生じるのは至極まっとうなことだ。

話を戻そう。女性と恋愛経験のない岡村が、女性への理解を深めるため、恋愛を望んでいたとする。それに対し、「なぜ女が矯正してやらねばならないのか」と批判するのは筋が通っているだろうか。
恋愛が女性への理解を深める唯一の手段とはいわないが、有効な手段であることは間違いない*4。

ためしに、「女性との関わりはほとんどないが、ジェンダーやセックスについて深い理解があり、女性とのコミュニケーションがきちんと取れる男性」という存在を想定してみよう。ありえないわけではないにせよ、かなり空想的な人間像であることは間違いない。自称ならもっとヤバい。仮に岡村が今後、「相変わらず女性との関わりはないですが、女性についてはちゃんと理解しました」などと言い出したら、そっちの方がよほど危険なはずだ。
だいたい、恋人として交際するのも、結婚するのも、全て相手の女性の合意ありきなんだから文句もつけようがないと思うのだが……。みんな今回どういう論理で「女に頼るな」と言っているんでしょうね。

 

 

・非モテ男性に「彼女を作れ」「結婚しろ」と言うのは酷ではないか?

矢部の説教は、いうなれば貯金も収入もないのに、「家を買え」と言われたかのように感じるから、非モテの男性にとっては酷なんじゃないか?と友人に指摘され、一理あると感じた。もちろん、人間の価値は異性からの評価で決まるわけではないので、モテないから人間として無価値だなんてことはない。
ただ、当人が彼女がほしい/結婚したいのであれば、女性から見た自分の価値を高める他ない。そのためにはやはり女性と関係を築き、互いをよく知る必要がある。

そもそも関係を築く以前の段階、デートに行く・デートに誘う・話しかけるなど、最低限の社会資本(容姿や年齢、社交性など)がないと嘆く人もいるかもしれない。しかし結局「女性のことをよく知るため、女性と関わりを持とう、そのために努力しよう」以外のことは言えない気がする。
別に酷なことを強いるわけではなく、「コミュニケーションは取りたくないが女にはついてきてほしい*5」なんて姿勢は都合がよすぎますよというだけのこと。

 

 

・女性蔑視は、女性と関わりを持つことで矯正されるのか?

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もうそんなに言いたいことはだいたい言ったので、この辺でちょっと別の角度から論じて〆としたい。

今回の発言をしたのが一般的な40代男性(恋愛経験なし)であれば、「女性とコミュニケーションを取ってこなかったのがよくないのだ、気になる女性を誘ってデートへ行って、話してみよう、まずはそこから」というアドバイスは妥当だと思うが、岡村はまあ一般的な40代男性(恋愛経験なし)とはかけ離れている。人と話すのが苦手でもないだろうし、お金も名声もある。おそらく、女性と食事に行って、面白おかしく話す能力は非常に高いだろう。しかし、だからこそ問題があるのかもしれない。

どういうことか。岡村は芸人としては否定しようがないほど傑出していて、「ここでこうすれば面白い」を並外れた感覚で嗅ぎつけるセンスがある。だからこそ、あらゆる会話やコミュニケーションを「ここでこのボタンを押せばウケる」規則の総体として、すなわち「音ゲー」として認識しがちなのではないか。したがって、利害や打算を二の次に、敬意を持って相互理解に努めるコミュニケーションがうまくできず、社会的なペルソナを脱ぐのが人よりずっと難しいのではないか。
ここまで書いて、「サイコパスの治療を試みようとグループワークや対話に参加させてみても、コミュニケーション療法のメタゲームがうまくなるだけでサイコパス的な気質は変化しなかった」という話*6をふと思い出した……。

まあだから、岡村の抱えている問題は、女性差別的なヤリチン(◯◯人斬りを自慢するタイプ、自傷と同じ感覚で女と寝るタイプ)と似たような分かり合えなさ、つながれなさなのかもしれない。ほんとうのところはもちろんわかりませんが……。

 

 

→twitter: @LeoLeonni

*1:これ、炎上が全く予期できなかったわけではなくて、“敢えて”ゲスい発言をすることで男性だけが笑える状況を作り、結束を強めようとする典型的なホモソノリですよね。

*2:

https://twitter.com/anatatachi_ohno/status/1256063044662132738

*3:社会学者の言葉だったと思うのですが誰だったか思い出せません。とりあえず斎藤環じゃないです。

*4:そもそも女性と関わらず、害を与えることなく生きていけという意見もあるかもしれないが、それはフェミニズムというよりミサンドリーであるし、「何を言ったらセクハラになるかわからないから何も言えない」に対して「何も言うな」と返すタイプの人(わりといる)に通ずるこいつわかってないなー感を感じます。クソリプ避雷針の註

*5:イケメンならそういう状態もあるだろうと書いててふと思いました。クソリプ避雷針で書いておきますが、「ただしイケメンに限る」は基本的にコミュニケーションを頑張ってない人の言葉です。

*6:ケヴィン・ダットン『サイコパス 秘められた能力』

戦争に反対する唯一の手段は……/文化的雪かき

 

 ・戦争に反対する唯一の手段は……

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戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。

吉田健一『長崎』

 

一月の末、夜中にtwitterを見ていたら、「ちゃんと生活したい。キーマカレーおいしく作れました。」という投稿が流れてきた。なんとなくその発言のツリーを見ると、こんな会話が続いていた。

 

「おいしそう!ちゃんと料理しててえらい!」

「ありがとう。吉田健一の言葉、『戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである』を忘れないで暮らしていきたいです。*1」

 

 

この手の引用は、「戦争に反対する唯一の手段は……」が引っ張り出される典型的な文脈で、特に珍しいものではない。個人が慎ましく暮らす生活のワンシーンに寄り添うイメージだ。

だがわたしはもう何年も、この言葉の使われ方に違和感を覚え、SNSでも言及してきた。そろそろ違和感の正体をはっきり言語化しておきたいと記事を書いている。

 

吉田健一の言葉の文脈を補うと、

戦争に反対するもつとも有効な方法が、過去の戦争のひどさを強調し、二度とふたたび……と宣伝することであるとはどうしても思えない。戦災を受けた場所も、やはり人間がこれからも住む所であり、その場所も、そこに住む人たちも、見せ物ではない。古きずは消えなければならないのである。


戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。過去にいつまでもこだわつてみたところで、だれも救われるものではない。長崎の町は、そう語つている感じがするのである。

になる。毎回引用される部分に加えて、戦争の悲惨さを宣伝することは有効ではない、という主張がつくのだ(話が枝分かれしすぎるので触れないが、この辺に糸井重里っぽさがある→*2 )。いったい何を意図していたのだろう。

『長崎』はちょっとググると全文出てくるが、論証や根拠を示す内容ではなく、ごく短い感傷的な紀行文として書かれたことが読めばわかるはずだ。文庫に収録されておらず、随筆集なんかにもあまり入っていないので、図書館へ行かないとなかなか紙では読めないかもしれない。

 

ともあれここで言いたいのは、吉田健一の言葉には、「戦争の悲惨さを宣伝するのは有効ではない」と付されていること。そして、「慎ましく暮らすこと・生活のメンテナンスをていねいに行うこと」としばしば関連づけて語られること。この二点が伝わればとりあえずは充分だ。

 

  

・雪かき

吉田健一の言葉と並列して、「雪かき」を紹介しておきたい。

内田樹の村上春樹論には、「雪かき」という概念が登場する。村上春樹作品本編の『ダンス・ダンス・ダンス』にも、「文化的雪かき」という言葉が出てくるため、かなり知名度が高い。内田樹の方を引用してみる。

 

雪が降ると分かるけれど、「雪かき」は誰の義務でもないけれど、誰かがやらないと結局みんなが困る種類の仕事である。プラス加算されるチャンスはほとんどない。でも人知れず「雪かき」をしている人のおかげで、世の中からマイナスの芽(滑って転んで頭蓋骨を割るというような)が少しだけ摘まれているわけだ。私はそういうのは、「世界の善を少しだけ積み増しする」仕事だろうと思う。
内田樹『村上春樹にご用心』

 

内田樹は、村上春樹の世界にはスケールの大きな面がある一方、「雪かき」を大切なものとして見つめる視線があると指摘する。

たしかに村上作品においては、料理や掃除などの家事をていねいに行うことによって、邪悪な存在がもたらす喪失に耐え、抵抗するモチーフが多い。家の内側において、家事はまさしく雪かきのように、「世界の善を少しだけ積み増しする」行為といえる。

 

市井のレベルでは、「これやって何になるんだろう」「誰が見てくれてるんだろう」と自問せざるをえない局面で、「これは雪かき仕事なんだ、些細だけれど世の中をよくしているんだ」と自分を鼓舞するような使い方を見かける。そして場合によっては、雪かきは大きな使命につながっている。たとえば大きな喪失、戦争などへの抵抗。

 

 

さて、こんな風に「雪かき」について書いてみて、なんて魅力的な思想なんだろう、と驚く自分がいる。

もしわたしが十代でこの思想に出会ったら、体に電流が走ったのではないかと思う。そして、「家事や雪かきのような行為で少しずつ世の中をよくすることができて、ひいては邪悪さに抵抗できるはず」と信じたに違いない。

しかし今のわたしはこの思想のスイートさ、思わず飛びつきたくなるやさしさを感じつつも、どこか嘘をつかれているような感覚を覚え、とっさに距離をとる。最初に挙げた「戦争に反対する唯一の手段は……」を見かけたときの違和感もそれに近い。

 

この記事で問題にしたいのは、そのような「やさしい抵抗」の態度を今掲げることの是非である。 

 

 

 

・慎ましい生活を免罪符にする思考回路

ここからは推論だが、「雪かき」や「各自の生活を美しくして……」などの「やさしい抵抗」に惹かれる人にはおそらく共通の精神性がある。思い切って約言してしまおう。

 

「戦争に反対するといってもアクティビストのような振る舞いはできないし、どんなことをすればよいのかもわからない。

ただ、自分が知覚できる範囲で善を積み増しできる行為、つまり家事や雪かき(比喩ではなく、ほぼそのままの意味での家事や雪かき)に勤しむことで世の中が悪くなることはないだろう。

とりあえず自分の生活をよくすることで、ひいてはひとりひとりの生活がよくなることで、世の中全体がよい方向へ向かうと信じたい」

 

「やさしい抵抗」は彼らにとって免罪符になる。なぜならこの思想に帰依しておけば、大声で戦争反対などと言わなくとも(そんなことは恥ずかしくてできない)、積極的に見聞を広めなくても(そんな暇はなく生活で手いっぱいである)、自分の楽しみを追求し、粛々と暮らしていれば戦争反対がセットでついてくることになるのだから。行動的でない人にやさしく、自信のない人にも唱えやすい。しかし、ほんとうにそれでよいのだろうか。反戦の助けになるのだろうか。

 

吉田健一のほうでいうと、「美しく」の部分に、周囲の暴力に対する徹底的な抗戦を読み取ったり、「執着する」のところに積極的な反戦活動(なんらかの署名活動をSNSでシェアするとか、デモに行くとか、ユダヤ人を家に匿うとか)を見出すことができれば違和感も感じないのだろうが、素直にあの言葉を読み、広まっていく文脈を見るに、「とにかく半径一メートル、半径ワンクリック圏内を快適な状態にしておけばあなたに責任はないですよ」と囁くだけの文句になっている気がしてならない。

 

差別や暴力について、とにかく放置して不干渉を貫けばなくなると考える人はいない。しかし奇妙なことに、戦争となると不干渉こそが正しいという風潮が広がり、消極的な「やさしい抵抗」が美しいスローガンとして持て囃される。しかもそれが、自国の利益を第一に考えるナショナリストからではなく、ヘイトスピーチや遠くの戦争を気にするはずの左派の文化系から聞こえてくる。

だが、そこにあるのは遠い他者への想像力ではなく、視野狭窄であり、パーソナルスペースだけを残した責任の切断ではないか。結局はただの逃避ではないか。自分が積極的な関わり方をしなくて済む思想に飛びついて、安全な部屋でまったり過ごしているだけではないか。

 

 

歴史的に見て、「やさしい抵抗」は、文化的な場所で繰り返し発信され、増幅されてきた。たとえば、「雪かき」は吉川宏志(歌人)の評論で引用され、短歌という文学の本質に雪かき仕事があると評されている*3。

「各自の生活を美しくして……」のほうはいわずもがな、ピチカート・ファイブの小西康陽が広めた言葉である。それぞれの創作活動と連なった説得力があり*4、彼らの指摘がまったくの的外れだとは思わない。しかし受容のされ方を見るに、功罪の両面があると言わざるをえない。

 

あからさまな政治的腐敗、未知のウイルス、中東の情勢不安……少し前には到底信じられなかった悪夢を書き割りにオリンピックへ急ぐ日本で、わたしたちはいかに反戦について考え、いかに生活を描写すればよいのだろうか。

途方に暮れた人々を甘言で誘う思想はいくらでもある。だが少なくとも、戦争を、生活を、想像力の届かない暗がりに隠してしまっていいわけがない。

 

→twitter: @LeoLeonni

*1:あまりにとばっちりだと思うので元ツイートのリンクは貼りませんが、その気になって検索すれば今でも見ることができるはずです。ちなみに作家のツイート。

*2:最近、コロナウイルスについての情報が錯綜するなか糸井が自身の過去の発言を再度発信し、話題を呼んだ。https://twitter.com/itoi_shigesato/status/466250875824898048

*3:震災後、と書いていましたが、正確には震災前の09年でした。訂正してお詫びいたします。

*4:余談ですが、ここで挙げた両名ともに多大な影響を受けています。わたしのOMGベストDJプレイはセカロイの周年イベントで7インチを暴力的に繋ぎまくる小西康陽のプレイですし、好きな歌人を尋ねられて真っ先に挙げるのが吉川宏志です。

上司の言うAIがAIじゃない率は異常

・上司の言うAIがAIじゃない率は異常

タイトルどおりです。最近はこんな話も出てきて、物騒な世の中になってきたなと感じるので書いておきたいと思います。

this.kiji.is

 

タイトルの「AIじゃない」体験でいうと、以前青山のデザイン事務所で働いていたころの上司が思い出ぶかい。難関私文出身のイケメンで、あまり人文書は読まないがWIREDを購読していた彼は、「AI時代になったら働かなくてもよくなるんだろうな」「もう少ししたらさ、頭にUSBケーブル挿して、記憶をハードディスクに保存する時代が来るんだろうね」などと自然なトーンで話すので、ときどき軽い疲労を覚えた。とても優秀な人だったが、優秀であることとそのへんの相場感はあまり関係ないのだなとしみじみ思った。

AIについては様々な言説──妥当なものから、希望的観測、SF的な想像力に支えられた終末論まで──が日々登場している。誤解が多いのもたしかで、「AIが意思を持った」「AIが小説を書いた」などの見出しに釣られて記事を読んでみると、結局は人間の指示どおりに動いていたり、見出しが単なる言葉の綾であったりすることが多い。身のまわりでも話題先行というか、あまりきちんと理解されていない気がする。

少なくとも、上司が発言する“AI”や、“シンギュラリティ”などの言葉はかなりの確率で実情とかけ離れている。おそらく全国的に。しかし、いったいなぜそんなことが起きるのだろうか。(まあ答えはわかりきっているのだが……。)

 

少し前に、哲学とロボットの両方を専門とする研究者の方からお話を聞く機会があり、そのときの内容の一部が、「AIじゃない」問題へのわかりやすい回答になっていた。重要な部分を書き出してみる。

 

 

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・トークイベント 

 

トークイベントの講師は小山虎さん(経歴*1 )。大学院まで哲学を学んだのち、ロボット研究で有名な阪大の石黒教授の研究所に勤務、現在は山口大学で時間学研究所(!)というわくわくする名前の機関に所属する方で、哲学とロボット、両方のフィールドに明るい専門家だ。

 

イベントは、小山さんが学生時代からどんなことに関心を持って研究してきたか、研究の根本にある疑問とはいったいなんなのか、という話からはじまった。そして、講義ではなくトークイベントだからということで、動物の生態や、人同士のコミュニケーションについて、自身が携わってきた様々な分野を横断的に語るものとなった。最後に設けられた質疑応答の時間では、わたしの隣に座っていた大学生が挙手し、こんな質問をした。

 

Q. わたしは現在大学四回生で、“恋愛するロボット”をテーマに卒論を書いている最中です。“恋愛するロボット”について、なにか思うところ、助言や示唆などがあればお願いします。

それに続く回答がこちら。

A. まず言えるのは、“恋愛するロボット”は、いまのところ“ロボット”の話ではなく、“ロボットの表象”の話だということです。“恋愛するロボットの表象”はたくさんありますが、恋愛するロボットは存在しません。もし仮に、“恋愛するロボット”がもう少しで実現可能で、数年のうちに実用化されるだろう、という段階にあるならコメントもしやすいのですが、まだまだ遠いと思われるので、ちょっとコメントしづらいですね。

仮にそういうロボットが出てくるなら、その手前であらゆるロボットが登場することが予想できますし、そういうキャッチコピーをつけたフェイクな商品が売り出されるはずです。

もし“恋愛するロボット”が修論なら、「その分野で研究していくのはちょっと大変かもよ」と止めるだろうと思いますが、卒論ですし、いろいろな可能性を広げていくのが大事だと思います。頑張ってください。

 

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・表象を区別する

“ロボット”と“ロボットの表象”の区別について、じつはイベントの序盤で言及されていた。「まずはっきり区別しておきますね、わたしは“ロボットの表象”ではなく“ロボット”の話をしますよ」ということを示すためのスライドがあったのだ。写真を撮っていないので自分で再現するが、こういうシンプルなものだった。

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こうして示されると当たり前に感じるかもしれないが、専門家のいない場所、市井の会話のレベルでは、実物と表象を区別して語られることはあまりない、というかほとんどない。だから、“恋愛するロボット”という言葉が出てきても「それは表象だよね」というツッコミが入ることはなく、「なんかありそうだよね」「そういう時代になってきてるのかなあ」とふんわり認識される。そのふんわりした認識から生じるのが、AIについて語る上司なのだ。

おそらく、表象をその都度厳しく峻別しながら認識する態度は、実のところ研究に打ち込んだり、メディア論や精神分析、哲学を学んだりを通じてようやく得られるものなのではないかと思う。そしていちど習得すると、区別が曖昧なまま話が進んでいくことに抵抗を覚えるようになる。だからすぐに「それは表象ですよね?」と質したくなってしまうのだ。もちろん世の中には、それをよくわかったうえで、AIの可能性を広げる創作や仕事に打ち込んでいる人も多い。ちょっとオーバーな見出しを書いている人だっておそらくそうだろう(と思いたい)。表象を区別することは重要だが、それは前提であって、その前提のうえで様々な可能性を考えることには意味がある。

 

と、いうわけで。これからもし上司が「AIが上司になったらさ……」などと話す場面に遭遇したら、「それは“表象”ですよね!?」と厳しく攻めて、その場を“本質的”にしてみよう!!

 

わたしは言いませんが……。

 

 

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・追記

トークイベントではわたしも質問しました。いただいた回答がおもしろかったので共有したいと思います。

 

Q. 人と会話するロボットの話を興味深くお聞きしました。先生からは、会話を文字に起こすと成立しているのに、物足りない、なにかが違うと感じさせる要素について、動物を例に様々な説明をいただきました。ただ個人的には、ロボットのぎこちなさは自閉症やアスペルガーなど、人間の対人系の障害を思い起こさせるものでした。そのような視点からの研究については関心がおありでしょうか。また、どのようにお考えでしょうか。

 

A. 人間の障害をベースにして、ロボットと人間についての理解を深めていく研究はこの業界では比較的王道です。研究するさいは、まずはうまく予算を獲得しなくてはなりません。そうなると、医療の分野に関連する研究は予算を得やすいため、多くの人がその道に進む事情があるのです。しかし個人的にはその方向に疑問を感じるところもあります。もとが医療目的の研究ですから、障害のある人を治して健常者に近づける目的を持つことが多いんですね。しかし、それがほんとうによいことなのだろうか?という疑問があります。実は健常者のほうが障害のある人に合わせるべきなのかもしれませんし、そもそも、健常者のことだってわたしたちはよくわかっていないわけですから。総じて、健常者/障害者の区別を自明としてロボットについて考えていくことには違和感がありますね。

 

小山虎先生、ありがとうございました……。

ちょっと宣伝です。イベント会場のajiroという場所は、いろいろな分野の専門家が入れ替わり立ち替わりやってきて、ワンドリンク込み千円という驚きの値段でお話が聞けるたいへん素晴らしい場所です。九州の方は普段づかいに、ご旅行の方も気軽にお立ち寄りください。

 

www.kankanbou.com

 

 

註.文章でそれが伝わると嬉しいのですが、小山虎先生は終始笑顔で、たいへん気さくな方でした。質問にも優しく答えていただきました。

註.質問した大学生の方が、ロボット/表象の区別に無理解だったと指摘する向きはありません(おそらくそうではないと思います)。

註.もともとトークイベントの趣旨はAI/AIの表象 の区別について語るものではなく、それを前提として様々な分野に及ぶものでした。

註.録音していたわけではなく、記憶を頼りに書き起こした文章です。事実と異なる点や、誤りなどがあればご連絡ください。

*1:1973年京都府生まれ。大阪大学人間科学部卒業。大阪大学大学院人間科学研究科を修了。博士(人間科学)。日本学術振興会特別研究員PD(慶應義塾大学文学部)、米国ニュージャージー州立ラトガース大学哲学科客員研究員、大阪大学基礎工学研究科特任助教などを経て、2018年度より山口大学時間学研究所講師。

12月14日の日記

友だちと立ち飲み屋で話していて、DVやモラハラの話題になった。

 

人が感じる精神的な苦痛は、ある特定の場で加害を受けている状態から、“ダブルバインド”の状態におちいることでさらに深刻なものとなる、という話をむかしNHKニュースで見たことがある。
たとえば、学校でいじめられている状態から、それを家庭で相談して「甘えるな、学校へ行け」と非難される状態への移行によって、板挟み(ダブルバインド)になることをここでは想定している。ニュースで流れたのは自殺とダブルバインドの関係についての映像で、そら逃げ出す場所がなくなったら自殺もするわなと思ったことを覚えている。

 

立ち飲み屋でこの話をしながらふと、洗脳や依存のメカニズムもこれに近いかもしれないと思った。というのも、前に友人から聞いた女性の話を思い出したのだ。

その女性は職場で上司からハラスメントを受けていたのだが、上司は、「使えない」「お前のせいで全員が迷惑してる」などと罵って自信を喪失させたあとで、「でもな、俺だけはおまえを絶対に見捨てない」という決め台詞を持ってくる人物だったらしい。
いやこの話、思い出すだけで笑ってしまう。新興宗教やDVなんかの典型的なやり口だから。ただ、その上司は効果的な手法とはっきり自覚して実行していたというよりも、ただ暴力を振るうだけの人間より社会的なため、結果としてわたしたちの目に触れやすいのだろうとなんとなく想像した。そういう悪人は、板挟みの状況を作ったのち、自分のところへ向かう戸口だけを開ける。そのやり方でサバイブしている。

 

もうひとつ思い出したのが『罪と罰』だった。「人間行くところさえあればいいんですよ、行くところがどこもないってのはつらいもんですよ……へ!へ!」と飲んだくれのマルメラードフが語る(うろ覚え)シーンだったが、あんまり飲みの場に合わないので口には出さなかった。

アル中はDVでも宗教でもないがもちろん依存症なのであって、患者から世界を見れば、酒への戸口だけが開かれて仕方なく逃げ込んでいるのかもしれない。アル中の人に言ってはいけないのは「酒やめろ、おまえは甘えてる」系のことだとよく聞くが、そらそうだよな……と勝手に納得する。少なくとも、加害に向かうことなく自傷として依存しているうちはそうだ。

 

= = = = =

 

で、帰りにずんずん歩きながら、自分に逃げる先があるかどうか考えていた。歩くうちにコートのポケットでずっとチャリチャリ鳴ってるキーホルダーに気がつき、五つ(!)も鍵がぶらさがっているのでかなり嬉しくなった。持っている鍵の数だけはとりあえず行く先がある。その気になれば四つの場所に立てこもれるし、残りの一つはクロスバイクの鍵だからかなり移動できる。やばい超安心!!!!旅に出ようぜ!!!!