ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

家系ラーメンをたしかめた話

家系ラーメンのマインドシェアが低いという個人的問題

家系ラーメンのわたしのマインド中のシェアが低いことが、常々わたしの中で問題視されてきたのだが、その理由はふたつあった。
 
そもそも、立ち位置が定まっていないように見える。脂ぎっていることがアイデンティティなのかしらと思うが、そうでもなさそうである。わたし自身、脂ぎったものを食べたいと思ったときにはラーメン二郎→なければラーメン二郎にインスパイアされた店→なければ家系ラーメンという行動を取る。海苔やほうれん草がのっていることで、コンセプトのいっそうのゆらぎが感じとれ、和風にしたいの、それとも健康的なラーメンということにしたいの、などと、物言わぬ家系ラーメンに語りかけたくなってしまうのである。
しかも、世間では、家系ラーメンが、脂ぎった食事の代表のように扱われている点に違和感を覚え、わたしの心はますます家系ラーメンから離れていった。「ダイエット中だから家系ラーメンはがまんします」という発言があちこちで見られるが、それは「(ラーメン二郎や天下一品はくどいので、ダイエット中かどうかの如何を問わず食べることはないが)ダイエット中だから家系ラーメンはがまんします」という意味なのだろうか、と勘繰ってしまう始末である。
 
また、店の名乗りにも問題があると思っていた。横浜家系ラーメンの店は、発祥であるところの「吉村家」と特に関係がなくても「家系」と名乗っている店が多くある。その現象は、ラーメン二郎と比較してみると異常さが際立つ。客が「この店は二郎系だね」と言うことはあっても、店が自分から「二郎系の店です」と名乗ることはない。「郎郎郎」と書いて「サブロウ」と読ませるのがせいぜいである。商標権の侵害の問題を持ちだすまでもなく、普通は系列を名乗ったりはしないものだろう。さらに、名乗るのがよりによって「家」で、わたしだけでなく、個人主義者であるはずの弊ブログの読者のみなさまもまた、ラーメンという個人の食べ物にファミリーを持ち出す精神性に違和感を覚えているに違いない。むしろここでみなさまの気持ちを代弁しているくらいの気持ちで書いている。
 
―とはいえ、首都圏において、中途半端な場所で中途半端な時間に脂分の濃いものを食したいと思ったとき、筆で描いた「横浜家系」という文字列が輝いて見えて、消極的な選択の結果としてそこで腹を満たしてしまうこともある。
 

やはり本家を訪ねるしかないと決意する

「家系」と称したさまざまなお店に、再訪はしないにしても合計十回は立ち寄り、本物を知らないまま「家系」のキャリアを積み、「家系=おいしくもまずくもないラーメン」と定義し、上京したころに持っていた「横浜=おしゃれcity」のイメージも、すっかり「横浜=脂・海苔・ほうれん草city」の印象に塗り替えられてしまったのだったが、それはいくらなんでも吉村家や横浜に失礼ではないか……と思い、「吉村家 待ち時間」などと検索して、「行列を見て想像したよりは並ばない」との解に勇気をもらって、横浜まで行ってきた。
 
着いたのは日曜の14時である。ノーマルな人間は昼食を終え、ジャム入りの紅茶でも飲んでいる時間である。しかし吉村家のゲストにはティータイムなどという概念は存在しない。先に券を買うのがルールと聞いたので、事前の調査に基づいてチャーシュー麺のチケットを購入。ホープ軒と同じくプラスチックのチケットだった。
 
わたしは非常に親切なので、戸惑ういちげんさんに、「列の最後尾はこちらです、券を買って並びます」と何度か説明した。この獅子奮迅の活躍するわたしが案内されている人々と同じくいちげんさんであるとは、誰も気づかなかったはずである。
 

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しばらく、炎上中のサイトなどを見て過ごす。40分程度並んだらチケットの提示を求められ、ほどなくして着席することができた。
 
着席したら5分程度でチャーシュー麺がやってきた。

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まず、家系ラーメンというか家ラーメンの本体もまた、ほかのラーメンと同様スープであると考え、スープからいただいた。
いままでいただいてきた家系ラーメンのスープをハイレベルにした味で、これまで「横浜家系」で味わってきたスープから、家系ラーメンのスープのイデアのような存在を空想していたのだけれど、まさにその味だった。
写真の奥に各種の薬味が用意されているのが写っているが、思い描いていた家系のイメージと異なる。麺の硬さなどは指定できても、味そのものの印象が大きく変わるようなしょうがやごまが置いてあるのは意外だった。もっと唯我独尊な感じをイメージしていたのだが、客の好みに合わせてくれるようだ。
 
続いて麺をいただいたが、ふつうだと感じた。しかしこれを「ふつう」と感じられるのは、吉村家が苦闘のすえ作りあげてきた「ふつう」である。労働において交通費が会社支給が「ふつう」なのと同じ「ふつう」であって、意識することはあまりないが、大変ありがたい「ふつう」なのである。先日行った家系ラーメンの店に、麺は吉村家と同じ製麺所のものを使っている店があり、その店と同じ味だったが、スープとの関係性において、麺の魅力が最大限に引き出されているように思った。
 

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ここまでの体験であれば、「さすが吉村家のラーメンはおいしいなぁ」という感想のみだったのだが、驚いたのはあまり期待していなかったチャーシューである。これに度肝を抜かれた。いままで食べてきたチャーシューのどれよりもジューシーであり、しかも、すみずみから微かにスモーキーな香りがする。たしかにスープもまろやかで素晴らしいと思ったのだが、あくまでも想像の範疇ではあったのだけれど、このチャーシュー、単体で3000円分くらい食べてみたい。いきなりチャーシューしたい。イベリコ豚のホニャララみたいなのも足元にも及ばない味で、チャーシューを口にしたとたん、チャーシュー麺が、チャーシューwithスープに見えてきたのである。
 
なお、海苔とほうれんそうは、箸休めとして利用するもので、それ単体としての味のよさを求めるものではなないと理解した。
 

心の相互ブロック 

わたしの隣にいた夫婦と思しき中年男女のペアのうち、女性が、一口食べて「なるほどね~」と冷めた調子で言った。まず、40分並ぶほどの情熱がありながら、ラーメンを食べるのではなく評論しにきた的なスタンスを取るところが気に入らない。夫が、「いっしょに吉村家に行かなければ抗議の意味でソープに行くから!」などと脅迫して、渋々ついてきたという事情があったのかもしれないし、もしそうだったとしても吉村家の如何を問わず夫は別途ソープに行くだろうと予測されるが、そこで、「おいしい、並んだ甲斐があったね」などのコメントはできなかったのだろうか。もし、何がしかの納得が得られた結果「なるほどね~」と発音するに至ったとしても、「納得のおいしさだよね」などと言ってほしかったのだが、なるほどねオバサンもまた、わたしのように無言で並んで目を潤ませながら無言で食べるオッサンのことは嫌いだろうし、つまり心の相互ブロックのようなものである。
 

チャーシューを求める旅が始まった

家系ラーメンをたしかめることによって「本物の家系ラーメンはチャーシューが抜群においしい」という偏った知見を得たわたしは、「ラーメンの本体はチャーシュー」というイデオロギーにひとりでに染まり、わたしのチャーシューを求める旅が始まったのである。
 
翌日に新宿の「満来」に行ってきた。
 

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吉村家とは全く異なる路線だが、チャーシューのボリューム感と柔らかさが最高。ラーメン二郎の豚肉を限りなく高級化したらこうなるという味だった。
 

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また行きたいと思っているし、わたしのチャーシューの旅は果てしなく続くに違いない。
 
最後まで読んでくださったみなさまにおかれましても、気になる食べ物があったら、その源流をたしかめてみるといいと思う。想像以上の新たな発見があるはずである。
 
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