無声慟哭

朝の5時半、寝ていた無珍先生が起こされた。

「いいかい、パパは今ドイツに戻る。無珍先生はネエネと日本で暮らすんだよ」

私はそう伝えた。無珍先生は目を見開いた。その目がみるみるうちに潤んでいった。たちまち大粒のナミダがボロボロと流れた。しかし表情はかわらず、目を大きく開けたまま、声も出さずにナミダだけがこぼれ頬を伝い寝間着に染みこんでゆく。一言も泣き声をあげずに、口を結んだまま。私は絶句した。産みの母親を生後二ヶ月半で失い、四歳になって一ヶ月、父親の私も離れていこうとしている。

私は玄関で靴を履きバックパックを肩にかけ、義理の妹がだっこしている無珍先生に向き直った。無言の私、無言の無珍先生。義理の妹も無言のままじっと無珍先生を抱きしめている。じゃあ、オーベン(肩車)してあげようか、というと、無珍先生はいつものようにうれしそうな顔で両手をめいっぱい伸ばしてきた。肩にのると、毎度のことながら私の頬をぎゅっとつねるようにつかみ、ひげをなで、耳をゆっくりとたしかめ、頭にふわっと抱きつく。もう少し小さい時にはこのまま私の頭を枕に寝てしまったりしたものだ。今のこの無珍先生、この無珍先生を肩車をするのはこの今だけなのだと私は思い、どうしようもなくなってしまった。無珍先生を義理の妹にふたたび預け、後ろを向いてスーツケースを手にとりながらなんとか耐えようとおもっていたのに私は声を抑えながら泣いてしまった。

なんで?

と無珍先生があの天使のような声できく。

無珍先生にバイバイするのが悲しいからだよ。

私はそう答えるのでやっとだった。じゃあね、と、やっとそういって私はスーツケースを持ち上げ、玄関を出た。

空港に向かいながら呆然としたままま本当にこれでよかったのだろうか。何度も自分に問うた。わからない。自分の理屈だけでは判断できないことであるから、私は児童心理が専門の精神科医に頼り、その助言に従った。何度も反芻した会話を再び思い出す。

− 父親は思春期になるまで子供には関係がないのです。いればよいのです。それだけです。しかし母親はちがう。息子さんの場合は幸運なことにあなたの義理の妹さんがいました。彼女がお母さんの役割を果たしてくれたお陰で息子さんはここまで立派に育ったのです。彼女から離してはいけません。

今、離したらどうなるのでしょう

− これから小学3年生ぐらいまでの母親との関係は、将来の自信に大きくつながっているのです。自己承認につながっています。父親にはそうしたことはありません。

八歳になったらまた私の元に戻してもよいのでしょうか

− うーん、そうですね、ギリギリです。

しかしですね、かくなる母性の重視は文化的なものではないでしょうか。ご存知だと思いますが、例えば国際結婚したカップルのうち、母親が日本人の場合、離婚して子供と勝手に帰国してしまい、父親がアメリカなどで訴訟を起こす例が知られています。母親という存在の重さの違いが明らかにある。このことを考えると、先生の意見は、文化依存的であって、日本にのみ特殊な話ではないですか。

− 確かにそうです。例えば土井先生が「甘えの構造」で明らかにしたのはそのようなことです。

だとしたら私がドイツで育てても問題はないのではないでしょうか

− 今まで彼を育てたのは、あなたと義理の妹さん、いずれも日本人です。彼にとっての母親の役割はやはり日本のそうした文化の範疇に入っているのです。

何度も考えた末に考えようのない話であるという行き止まりに何度もつきあたり、結局、専門家の意見に任せるしかない、ということでただただ、従った。文化のギャップさえそこにはあった。カルチャーショックでさえあった。感情的にはありえない、私には不可能である。しかしそれが無珍先生にとってはそれが一番なのだ、と。

  ほんたうにそんなことはない
  かへってここはなつののはらの
  ちいさな白い花の匂でいっぱいだから
  ただわたくしはそれをいま言へないのだ
     (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから)
  わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
  わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ

… どう彼につたえたらいいのでしょう、と私は精神科医にきいた。罪悪感はすべて父親が引き受けるべきです、精神科医は答えた。すなわち、私と別れることを私が無珍先生に命令すること。「お前はネエネと日本にいなさい」と。無珍先生に判断させては絶対にいけない、なぜならば、自分が選択した、という気持ちがずっと残ってしまうから。

義理の妹が日本に戻る、私とは暮らせない、ドイツでは暮らせない、という決意を表明したのは二ヶ月前だった。以降、一ヶ月間議論し、一ヶ月日本で過ごした。「いつドイツに戻るの?」と私に聞いていた無珍先生も、私が彼の元を去る頃には聞かなくなった。素直に運命を、あまりにすなおに受け止める様子は私を少しだけ安心させ、ひそかに悲しませた。無珍先生は精神科のクリニックをとても気に入って、「あそこに行こう」というととても喜んだ。プレイルームで広大な線路を組み立てた。肩車をして、寒い停留所でバスを待った。春はもうすぐそこだった。

そして罪悪感はすべてあなたが、と精神科医は言った。私は確かにそうして四歳になったばかりの無珍先生の沁み入るように静かに流れ落ちるナミダを壊れた映写機のように何度も思い出しながら自ら選んだ鉛の塊のような罪悪感に沈んでいる。悲しみは、悲しみがナミダに結びついて初めて泣く。無珍先生は泣いていなかった。声を立てず顔もしかめずに、ただただナミダを流していた。その主が帰らず遊びかけになったままのおもちゃのあれこれを前に私は立ち尽くす。