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    インパール作戦後の牟田口廉也について


     「人生は任務なり。人生を全うするということは任務を全うすることだ」
    これはインパール作戦の後、予備役を経て昭和20年1月に予科士官学校の校長になったときの牟田口廉也中将の訓示である。なお、ビルマの第十五軍司令官時代にも同様の訓示をしている。


    ※ 河邊正三と牟田口廉也については役職・階級などが変わった時、引用箇所等を除いて原則「河邊」「牟田口」で統一する。他の人物は階級や役職等をつける。戦後の記述についても「元大将」「元参謀」などとは表記せず「大将」「参謀」などと表記する。
    ※ [ ]内は補足するために必要に応じて作者が加えた。



    インパール作戦の失敗と河邊・牟田口の更迭
     3月に開始したインパール作戦は、4月6日にインパール北方の要衝コヒマを占領したものの行き詰まっていた。
     秦彦三郎参謀次長一行がビルマへ視察に来ていた昭和19年5月2日、秦次長から「いまの状態ではインパール作戦は中止した方がよいと思うがどうか」と問われたビルマ方面軍司令官河邊正三中将は「中止せざるを得ないかも知れぬ」と答えた。しかしここでは中止の判断はされず、「最後迄頑張るの一手」「航空力増強なき限り一度引掛かった現状の回復は押しの一手以外手のなきことを話し」たと河邊は日記に記している。だが戦局はこの後も好転せず6月1日にはコヒマにいた第31師団が独断で退却を始めた。師団長の佐藤幸徳中将は作戦開始前に連絡に来た第十五軍の若い参謀に「コヒマ確保にとどまらず、アッサム州の首都ディマプールまで一気に突入するのが我が師団本来の役割だ」と言い、山道を歩いて足を慣らすなど作戦に積極的な態度を示していたというが[※1]、第十五軍と約束した補給が本当に届くのかを気にしていた。しかし届くのは師団の実情を考えていない命令だけだった。もともと牟田口と折り合いが悪い上に第十五軍が約束した補給を送って来ないことを理由として、悩んだ末に独断で退却を行った。
     5月25日にラングーンを発ち第十五軍の前線視察に来ていた河邊は6月5日、第十五軍の戦闘司令所が置かれていたインダンギーで第十五軍司令官牟田口中将に迎えられた。翌6日の朝食後、河邊と牟田口は一時間以上の懇談を行った。河邊の日記には、この時の最重要事項が第十五師団の山内正文師団長の病状悪化[※2]による更迭だった事、遠慮がちに兵力増加を求められた事が書かれているが戦後、この日記を基に回想も交えて書いた『ビルマ日記抄録』には「(註)牟田口司令官の面上には尚ほ言はんと欲して言ひ得ざる何物かの存する印象ありしも予亦露骨に之を窮めんとはせずして別る──この感想は遂に当年の日記にも誌しあらすと雖、情景は今尚彷彿す─」と回想を記している。
     牟田口もこの時のことを「私は河邊将軍の眞の腹は作戦継續に関する私の考を察知すべく脈をとりに来られた事は十分に察知した。私は最早作戦断念の時機であると咽喉元迄出かかったが、どうしても将軍に之を吐露する事は出来なかった。私は只私の風貌によって察知して貰いたかったが河邊将軍は後日、当時を述懐されて牟田口の顔貌では之を察知することが出来なかったと申し」ていたと回想録に残している。
     インパール作戦末期の6月22日にコヒマ─インパール道が英軍に突破された。河邊は6月25日の日記に
    「午後青木、不破両参謀帯同来訪「林」の状況急転を報す
    即ち「祭」電に依れは
    コヒマ─インパール道敵に打通せらる 松村と宮崎との連絡ならす
    仍て林に対して飽く迄積極的に敵後方連絡に妨害を加ふへきを示す電報を発送せしむ
    嗚呼斯くてImphal遂に攻略成らすと諦めさるを得さるか!」
    と書き作戦の失敗を認識した。[※3]
     翌26日、牟田口も意を決し「チンドウィン河西岸高地よりモーレイク西方高地を経て、ティディム附近に亘る線に後退せしめらるるを適当と思惟す」と暗に作戦中止を河邊に具申した。ところが方面軍からの返信は「方面軍としてはただ任務に基く攻勢あるのみ。軍としても一意現任務達成に邁進せらるべし」というものだった。
     この電報を河邊軍司令官からの激励と受け止めた牟田口は、決意を新たに作戦を開始した。その一方で河邊は南方軍に青木参謀を送り作戦中止の意向を伝えた。そして7月2日、南方軍は正式にインパール作戦の中止を決断した。
     インパール作戦中止の後にビルマ方面軍、第十五軍の両司令部人員は事実上更迭される形で替えられた。8月30日にビルマ方面軍司令官河邊正三中将と第十五軍司令官牟田口廉也中将は参謀本部附に、参謀達も順次別の部隊への異動が行われた。この日、インド国民軍のチャンドラ・ボースとビルマ国首相バーモウも招いて河邊軍司令官送別の宴が行われた。
     9月2日、参謀本部附となったものの新司令官の木村兵太郎中将の到着が未定だったため河邊はまだラングーンにいた。情報主任参謀の金富与志二少佐に8月1日から行わせていたインパール作戦の研究を読み、8月7日に提出された第一稿より相当深く切り込んでいると感想を持った。先に中参謀長が注釈を書いていたが続いて河邊も深夜まで注釈を加えた。ようやく9月11日に新司令官が到着し申送りを行うと、『ビルマ方面軍より観たるインパール作戦』[※4]と題された金富参謀の研究を携えてビルマを離れた。途中マニラで寺内軍司令官と会い、マニラホテルで河邊をねぎらう会が行われた。
     牟田口も九月初め、内地帰還を命じられ後任の片村四八中将に申送りを行った後に、シンガポールとマニラを経由して帰国した。[※5]


    ※1 『昭和史の天皇9』p88-89
    ※2 『昭和史の天皇9』p83 によれば肺結核が悪化していたという。
    ※3 戦史叢書『インパール作戦』p593 にも『ビルマ日記抄録』を出典として書かれているが、防衛研究所所蔵の『河邊正三大将日記(翻刻)』の表記に従った。
    ※4 『ビルマ方面軍より観たるインパール作戦 其の1 昭和19.9.10』(アジ歴:C14060173200)
    ※5 この更迭について複数の関係者の回想等が残っている。南方軍総参謀長だった飯村穣中将は、「南方軍からは河邊と牟田口の交代の申請を出しておらず中央と総軍の気分が一致した」と回想している。参謀本部作戦課にいてビルマに派遣された瀬島龍三中佐は、河邊の追悼録である『河邊正三』に「ビルマ方面全体の統帥組織人事を一新することが先決であると考えた。[中略]私の電報文には「河辺方面軍司令官は交代の上内地帰還」が必要と判断する旨書いてあった。[河邊]大将[当時は中将]は他の部分については一言も言われなかった。只このような事態になって誠に申訳ない。と述べられ、自ら筆をとって大将御自身の部分を「内地帰還待命」と待命の二字をつけ加えられた。私はいろいろ申上げたが聞き入れられず結局、待命をつけ加えて発電した」と回想を残している。人事局長の冨永恭次中将は『木村兵太郎を外地に出すべき意圖を大臣から知らされた。木村を出すとすれば、どうしても方面軍司令官である。「『インパール』作戰の責任もあり又腹をこわし、赤痢のような病状でやせ衰えて居るとの情報も得て居る河邊を歸し、それの代りにやったらどうでせうか」と云う冨永の進言に大臣は同意した。梅津に話した所これもすぐ同意した。[中略]木村轉出のため押しださるヽ河邊の内地召還に就ては、木村を出すために、河邊を返すと云うことでは理由がなりたたぬ。やはりインパール作戰の失敗と云うことがとりあげられければならぬ[原文ママ]。そうなれば單に河邊だけでは済まされぬ。河邊がはじめはインパール作戦に対していやがるのを、無理に決行するよう強硬に主張した牟田口、それに作戰のやり方が軍司令官の意圖を奉ぜず、不軍紀な行為をしたからと云う罪名の下に佐藤幸徳や柳田元三師團長の罷免さえ要請した牟田口、そしてあんな悲惨な結果に陥って了った当の軍司令官、これを河辺と一所に処置しなければならぬ事は当然のことである。この要旨を冨永から杉山、梅津に話した時皆、同感を示した。これが牟田口召還の真相である。』と回想録に書いている。昭和19年7月に東條内閣が総辞職すると東條に近い人物は徐々に中央から追い出される事になった。木村兵太郎も東條が陸軍大臣だった昭和16年4月から陸軍次官を勤めていた人物なので東條に近い者を追い出したい杉山陸相や梅津参謀総長の意向が働いた、と冨永は推測している。この人事を決めた冨永自身も直後に中央から追い出されフィリピンの第四航空軍司令官となっている。



    予科士官学校長と終戦
     10月1日に帰国した牟田口は翌日、参謀総長の招宴に出席し一足早く9月18日に帰国していた河邊と再会し元気な顔を見せた。10月5日正午、河邊は寺本熊市中将、柴山兼四郎中将など二十人の帰国者と共に宮中で陛下との陪食の栄誉に浴した。その中にはインパール作戦を師団長として戦ったものの更迭された柳田元三中将の姿もあった。
     9日、牟田口は河邊のもとを訪れた。河邊は牟田口に上奏案を提示し、更迭された参謀らの情報を交換した。河邊の上奏は9月29日に済んでいることと、この2日後に牟田口が上奏していることから牟田口の上奏案を河邊が用意、あるいは河邊が上奏した内容を提示したものと思われる。
     11日9時半、牟田口は元第三十二軍司令官の渡辺正夫中将と共に皇居で陛下に上奏を行った。その後参謀本部で河邊と偶然会い昼食を共にしている。
     12月1日に河邊は中部軍司令官に、翌2日に牟田口は予備役となったが翌年1月12日、牟田口は召集され埼玉県の朝霞にあった予科士官学校長となった。着任式に現れた牟田口校長は「『願わくば我に七難八苦を与え賜え』の意気と覚悟で、この戦局を切り開く気概が必要である」と訓示した。
     牟田口がインパール作戦で敗北したことを下士官筋の情報で知っている者もいたが、多くの生徒は知らなかったと思われる。
     当時第61期だった生徒は、ある日牟田口が「各中隊生徒と直接話し合いたい」とのことで集められ、畳の上で車座になり牟田口の話を聞いたとき「私が悪かった。私の不徳だ」とウワゴトのように繰り返していて「病人のようだ」という印象をもった、と回想している。その後も機会があれば、牟田口は生徒達にインパール作戦の事を語った。
     1月14日、風邪で引籠る河邊に牟田口からの年賀状が届く。河邊が牟田口の予科士官学校校長就任を命課通報で知ったのは2月2日で、その数日後に就任の挨拶状が届いている。
     3月6日に河邊は中部軍の人事異動の報告を受けた。その冒頭には河邊が3月9日附で大将に進級することが内示されており、河邊は「勿体ないと云う外なし」という感想を持った。9日午後2時、内示通り大将への進級が発令されたがこの日、女婿の澁谷忠三[※1]の戦死公報が届いた。河邊は「彼の霊も来りて予の進級を祝ふものか」と日記に残した。
     4月5日に河邊は新たに新設される航空総軍司令官に任命されることになったとの報告を受け「寝耳に水」と日記に記した。この航空総軍は北海道を除く本土、朝鮮の航空作戦其の他を統率するものだったが河邊には航空部隊勤務の経験はなかった。参謀長の田副登中将はビルマ時代に第5飛行師団長だったので知らない仲ではなかった。
     河邊が航空総軍司令官に就任した4月7日、予科士官学校は中島飛行機の工場を目的とした空襲の被害を受け将校三人、生徒九人が戦死した。12日には校葬が行われ、牟田口は「廉也等、君が後に続く者 上に御稜威を頂き憤激を新にして誓って最後の勝利を獲得せんことを期す」と祭文を霊前に捧げた。[※2]
     この頃の予科士官学校では本土決戦に備えて戦車に肉薄攻撃する訓練が行われており、5月16日には生徒が戦車にひかれ死亡する事故も発生している。
     校長に就任して七ヶ月、8月15日を迎えた。大講堂に集まり玉音放送を聞いた助教ら、そして牟田口は涙を溢れさせ男泣きに泣いた。
     その二週間後の24日、終戦に反対する生徒たちが川口放送所を占拠する事件が発生した。この対応にあたるため、武装した助教らを現地に向かわせるとともに牟田口自身も現地に赴いた。東部軍司令官田中静壱大将も到着しその日のうちに事件は解決された。その夜、牟田口は田中大将のもとを訪れしばらく歓談した。田中大将はこの直後に自決を遂げている。
     29日に予科士官学校も解散、復員することになり東校庭で学校閉鎖式が行われた。牟田口の訓示の概要は「大念願を持て。皇統護持の大念願の前には、己一身の地位、名誉等は無である。如何なる職につくとも、その様なことは問題ではない。一意誠心不可能を可能となせ」というものだったが、蘆溝橋事件とマレー作戦の話にも触れたともいう。昼にお別れの会食が行われ牟田口校長として最後の訓示の趣旨は「今後は教育が最も重要になってくる。教育を誤ると大変なことになる。日本を救うのは日本人であり、その教育である」と涙ながらに伝えた。
     復員する時にも各中隊生徒と牟田口校長が集ったが牟田口はにこやかに「故郷へ帰ったら体に気をつけて、よく勉強しろよ」と話した。
     12月12日、シンガポール華僑粛清事件に関与した疑いで牟田口は逮捕、巣鴨プリズンに収容された。同じ日には河邊や畑俊六大将、豊田副武大将らが収容されている。昭和21年9月シンガポールのチャンギー収容所に移送されたが不起訴となり昭和23年に帰国、釈放された。
     河邊は終戦の前日、恩賜の軍刀を三振りの短刀に改めたものを片倉衷少将と副官の小川中尉にそれぞれ一振与え、残る一振を自決用として用意した。しかし陛下から「敢えて生恥じをさらして、終戦処理を完了するよう」諭され思い止まったという。ビルマ方面軍後方参謀だった後勝少佐の回想録には「昭和二十二年(一九四七年)五月、アメーバー赤痢の重症で、病院船有馬山丸で帰国した。そのとき私の留守宅に、一振りの短刀が、[河邊]司令官から贈られているのを知った。その短刀には、「頒恩賜」と書かれており、司令官が、天皇陛下から賜ったものを、お贈りいただいたものと思われたが、祖国再建の胸中を託された、古武士のような司令官の心にふれる思いがした」と書かれているが[※3]、河邊が自決用に持っていた物を贈ったのかも知れない。9月30日に航空総軍が復員された後、河邊も戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容された。東京裁判に証人として出廷[※4]もしたが昭和22年9月18日に不起訴釈放されている。戦後の河邊は、陸士同期で戦犯として刑死となった本間雅晴中将の命日には毎年遺族を訪問し、様々な団体で慰霊活動を行っていた他は企業などから誘いがあったものの職につかず清貧生活を送った。


    ※1 階級など詳細はわからなかった。
    ※2 『陸軍士官学校第六十期生史』p329
    ※3 『ビルマ戦記』p154
    ※4 『木戸幸一日記 東京裁判期』によれば昭和22年4月22日等に出廷している。



    非難を受ける牟田口
     牟田口廉也批判がいつ頃から始まったかは定かではないが、昭和28年に江戸川区小岩の牟田口宅を訪れた秦郁彦は『実証史学への道』に、「駅前の交番に聞くとインパール戦の戦死者遺族が恨み言を言うために立ちよる」と書いている。昭和27年頃に牟田口は第十五軍参謀だった藤原岩市中佐の家を訪ね助言を求めているようなので、この頃には耐えられなくなるくらい批判があったと思われる。この時藤原は「閣下は生涯黙して語らずに、只管自責の悟道に徹してください。そして麾下戦没将兵の冥福を只管に祈念精行してください」と答えたという。しかしこの数ヶ月後、再び藤原宅を訪れた牟田口が「自分の立場を表明もせずに世を去ることは、後世の史家を誤らせる」と主張した。これに対し藤原は「30年非公表を前提に国会図書館に回想録を残してはどうか」と提案した。その後、昭和31年に防衛研修所戦史室が発足すると、戦史編纂の資料として回想録を求められ『インパール作戦回想録』を納めた。この回想録では後年主張した弁明とは異なり、作戦を反省する内容となっている。この執筆には藤原も関わっている。この頃の牟田口は『丸』などの雑誌にマレー作戦や盧溝橋事件についての記事を書いているが、公にインパール作戦のことを書くことはなかった。しかし自宅に訪れた秦郁彦が行った盧溝橋事件の聞き取りに対し、話を変えてインパール作戦の話をしようとするなど話したい気持ちはあったようだ。
     『特集文藝春秋 1955年12月号』の記事『本土決戦の構想(将軍座談会)』で、インパール作戦について河邊は次のように語っている。
     「私はあの敗戦の原因を二つ考えておる。第一に兵力の集結が中央の約束よりおくれた為、二ヶ月作戦がずれ、雨季に突入してしまった。それから第二に、これは牟田口君よりももっと私の責任をせめてもらってもいゝのだが、あんな頽勢をしりながら中途で、止めなかったということです。困難は知りつゝも朝野からの「もう少し、もう少し」という聲におされてしまった。これは牟田口君の一存でも、私の意見でもどうにもならなかった。」と、牟田口を擁護している。
     ビルマ方面軍作戦課長だった片倉衷少将も、河邊と雲南をまわっているときに毎晩「東京を出るとき、東条さんに、インド独立運動の援助のことと合わせて、この辺で一つ大きな戦果をあげてくれといわれた。だから、おれとしても、出来ることならインド進攻作戦をやりたいんだよ。それにきみも知っている通り、牟田口はあの盧溝橋のときのおれの下の連隊長だった。いまでは俺の下のたった一人の軍司令官だ。ああいって涙を流して意見具申をしている。なんもとか牟田口をもり立てるようにしてやってくれないか」と言われたことを回想している[※1]。河邊の情に流されやすさや決断力に欠ける性格は、人事局長だった冨永恭次中将や額田坦中将も指摘している。
     一方で大田嘉弘の『インパール作戦』に拠れば河邊が「(牟田口は)まだそんなことに悩んでいるのか」と述べていたという。インパール作戦後は大将に、戦後は僧籍となり部下の遺族を訪問していた河邊とは対照的に、インパール作戦後は予備役となり戦後は遺族が自宅に訪れ、恨み言を言われる度にタタミに頭をつけて詫び陸士の同期生にも罵倒される牟田口とでは温度差があった。
     インパール作戦当時ビルマ方面軍参謀で、戦後は戦史叢書の編纂を行った不破博大佐は「(牟田口は)インパール作戦の全責任を一身に負わされていることについて、河辺大将に対しても釈然たらざるもののあるのが感ぜられた」と回想している。


    ※1 『昭和史の天皇9』p23



    パーカー書簡
     昭和34年2月26日、インパール作戦で牟田口と激しく対立した佐藤幸徳が国立第二病院[※1]で亡くなる。『昭和史の天皇9』で佐藤の長男は「父の告別式は二子玉川の慈眼寺でやりましたが、そのときは牟田口中将も、宮崎繁三郎中将もおいでになりました。そのとき牟田口さんは母(ふみよ夫人)やわたしたち遺族の前で、タタミに頭をつけ、『私が悪かったため、すまないことをしました』といわれました。いまは牟田口さんもすでになく、どうこういう気持ちはありませんが、ただ一つ心残りは、父が死んでから、それまで沈黙を守っていた牟田口さんが、インパールで戦った英軍のパーカー中佐から牟田口さんあてに来た書簡を契機に、インパール作戦について弁明をはじめられた。当然、父のことがひき合いに出されたわけですが、もうそのとき、父は死人に口なしで、ひとことも反論出来なかったのが残念でした」と述べている。
     ビルマ方面軍作戦参謀だった不破博中佐の手記によればこの告別式の数年後、河邊の意向を受け第十五軍参謀だった橋本洋大佐が佐藤中将の命日に当時の関係者が集まるよう奔走した結果、墓前に佐藤夫人、河邊、牟田口、宮崎繁三郎中将、橋本大佐が集まった。参集者は夫人の前で「われわれは過去の感情を、一切捨て心から佐藤中将の冥福を祈り、かつ、お詫びするために集まった。中将の生前に、この機会の持てなかったのは残念だが、どうか、われわれの微衷を了察願いたい」と語り、夫人は涙とともにその厚意を謝したという。[※2]
     インパール作戦について黙して語らずを続けていた牟田口にとって、転機は昭和37年7月25日に届いた一通の手紙だった。江戸川区から調布市に転居していた牟田口は当時、長い間の精神的苦悩を原因とする激しい痙攣に襲われ二週間病床に伏せっていた。そこに届いたかつてビルマで戦った敵国、イギリスのアーサー・パーカー中佐の手紙には執筆中の『デリーへの進軍』の参考にするための七項目の質問があった。その内容は「英軍がインパールから撤退したなら、次の作戦は何だったか」「佐藤中将がコヒマに牽制部隊を残して、そのままディマプール方面に主力を進めれば英軍が防御する前にアッサムに進攻出来たのではないか」等、牟田口の意を得た質問だった。これに返信し、「英軍がインパールから撤退した場合には、防衛線をインパール付近の堅固な地形に託してビルマの防御を堅固にしたでありましょう。しかし、大東亜戦争全般の形勢を有利に展開することは、もとより希望するところであり、このため印度に対し、政略的効果を期待する微妙な機運が、私の心中に伏在しておったことは否定出来ない心境でありました。従って機会に乗ずべきものがあった場合には、ディマプールに一挙進出を企図したでありましょう」「コヒマを占領したとの報告に接し、かつコヒマ方面の英軍の配備が予想した通り薄弱であることを知り、敵の不意に乗ずる作戦目的が功を奏したのを非常に喜びました。そこでわたしは直ちに佐藤中将に対し、敗敵を急追してディマプールに突進する命令を与えました。[中略]しかしながら、ディマプールへの進撃は、方面軍司令官よりわが第十五軍に課せられていた作戦任務を超越するものであり、河辺将軍が、私の企図を承認されなかったのもやむを得なかったものとあきらめて、その命令どおりに実行し、更に意見を具申することなく、佐藤中将に対し進撃をやめさせたのであります。戦後になってディマプール方面の英軍の配備が薄弱であり、あのとき私の決心通り攻撃しておれば、英軍の不意をつくことが出来、大きな戦果を収め得たであろうことを知り、残念に思われてなりません」と答えた。その後もパーカーとの手紙のやり取りは続き、交信は昭和39年1月までに7回に及んだ。
     この頃の牟田口について、後勝少佐は「三十九年か四十年か、日時ははっきり覚えていないが、靖国神社でビルマ関係戦没者の慰霊祭があったとき牟田口さんに会いました。そのとき牟田口さんはわたしの手を握り、『後君、英軍の将軍たちがわしのとった作戦をほめてくれたんだよ。わしのやった作戦は間違いじゃなかったんだよ』といって、握った手をいつまでもはなそうとしないんです。そういう牟田口さんの一徹ぶりを見ていると、なんだかあわれにも、気の毒にも思えてきたものでした」と語っている。
     パーカーとの交信の後、雑誌などでインパール作戦の自己弁護を開始するようになった。昭和40年の国会図書館での録音もその一つだった。国会図書館の実施した30年間非公開を前提にした政治談話録音(オーラル・ヒストリー)の求めに応じ、昭和38年に盧溝橋事件についてインタビューを受けた牟田口は予定になかったインパール作戦についての録音を希望した。望み通り昭和40年に録音は行われたが聞き手無し、用意した資料を読み上げる独白という異例の形で行われた。この録音に使われた資料は、同年の第十八師団関係戦没者合同慰霊祭で配布されたのを初めとして以後、機会がある度に配られ自身の葬儀で配られたことでも知られる。
     昭和史の研究者に自ら電話をかけインパール作戦の正当性を語り、第一師団長になっていた藤原岩市にも「幹部の前で講演をさせてくれ」と頼んだこともあったが呆れられ断られた。
     長年の抑えてきた気持ちを解き放つように精力的に自己弁護を行う牟田口は、作家の山岡荘八氏との対談では次のように答えている。
    山岡 インパール作戦は、大本営ではあまり乗り気ではなかったのでしょうか。
    牟田口 そういうことはないと思います。
    山岡 しかし閣下が要求された車両にしても、食料はあのとき問題になったわけですが、そういう輜重の方面でも、兵員のとどき方でも、すべて閣下の考えていたようには少しもいかなかったような気がするのですがね。それを世間では、大本営はあまり気乗りじゃなかったが、なんといっても牟田口がやるというので、大へんムリとは思いながらもやらしたというのですがね。
    牟田口 それは私一人に責任を負わせるためですよ。なぜそういうかというと、方面軍の参謀長は、インパール作戦では第三十三師団と第三十七[原文ママ]師団とをならべて北進にやった方がよろしいということを、方面軍から牟田口にいったが、牟田口司令官がどうしてもきかなかったと報告に書いてある。
    ところが私はそれを参謀長から聞いたおぼえがない。それで私は戦史室にたのんで、[中略]どういうときに参謀長からきいたか、十五軍の参謀長と一しょにきいたのか、私がきくときに誰か同席していたのかしらべてくれとたのんだのです。それで河辺さんにきいているんです。牟田口司令官のあの部署はどう思いますかときくと、河辺さんは、「あれは同意だった」というんです。同意の者がわざわざ方面軍の参謀長を使って、そんなことをいわせるはずがない。そういうぐあいなんです、罪は牟田口にとらせようということは、私は推察しております。」と身内であったはずの軍人たちも、自分に全ての責任を押し付けようとしていると考えていたし、かつての上官である河邊に対しての批判も露骨にしていった。
     だがパーカー書簡により自説の正しさを強固に確信する一方で、最晩年に取材した相良俊輔には「数万の部下を死に追いやった事実は消えない」とも語っている。

    ※1 現在の国立病院機構東京医療センター。
    ※2 『偕行 昭和47年5月号』p6



    晩年の牟田口廉也
     昭和40年3月2日、長く関わりがあった河邊が亡くなった。遺言には「骨をビルマに撒くように」指示があったが果たされたかは不明である。今村均大将が葬儀委員長を務め、牟田口も弔辞を奉読した。
     4月18日にパレスホテルで開かれた河邊大将を偲ぶ会には岡村寧次や菅原道大、後宮淳などの元大将を含むそうそうたる面々が集まった。その席で牟田口は支那駐屯軍時代、盧溝橋事件以前に中国軍といざこざが発生し初めて他国軍と交渉をする牟田口に河邊が与えた助言、統率についての思い出を語った。なお、インパール作戦時の河邊については片倉衷少将が話している。
     同じ年に亡くなった宮崎繁三郎中将の通夜に牟田口が弔問に訪れた時の様子を宮崎の長女、増澤道子氏は「話はビルマ戦線時代のことに及び、繰り返し繰り返し詫び、気の毒な程、しきりに弁解しておられた。幾らか脳軟化傾向だったのか、趣旨も滅裂で、言葉もはっきりとは聞きとれない程だった。[中略]剛気といわれた将軍も、今は憔悴し、老衰し、罪の意識にさいなまれつづけておられる姿に、哀れを催した」と回想している。
     昭和40年ごろの8月19日[※1]、偶然電車の中で大島浩中将に会った相良俊輔はその日に蓮光寺で行われるチャンドラ・ボースの慰霊祭に誘われた。本堂の広間には第二十八軍司令官桜井省三中将やビルマ方面軍参謀長田中新一中将など将軍や参謀十数人が集っていた。挨拶をして何気なく濡れ縁に出ると、肩をつぼめてケヤキの大木を見上げる牟田口の姿があった。大島中将の紹介で名刺交換をすると二週間後、「一度懇談の機をえたいので、折りよき日にご来駕ありたし」とはがきが届いた。その三ヶ月後、相良氏が牟田口家を訪れたるとパーカー書簡を広げ「戦後から今日まで、私には心から語り合える友がいなかった。私はいつも孤独だった。誰もそのことについて、私に問いかけてくれる人はいなかった。いや、私の心の傷にふれまいと、ことさら避けてくれたのかもしれない。でも、私は訴えたかった。誰にもわかってはもらえまい、と思いながら──そうした心の鬱憤に耐え、語りあえぬままに、今日にいたってしまった。それだけに、パーカー中佐の手紙をみたときはうれしかった」と涙ぐみながら語った。[※2]
     昭和41年、陸士60期卒で東京医大病院に勤めていた山本照夫医師がある病室の前で立ち止まると「牟田口廉也殿」と記されていた。予科士官学校の校長と同名だ、と思った山本医師が看護婦に尋ねたところ「昔軍人だったらしい」だと教えてもらった。直ちに病院の各科にいる同期生に声をかけると、すぐ4人が集まり病室を訪れ「60期生で当院の医師であります」と告げた。牟田口の目から涙が横溢した。この時も30分間にわたりインパール作戦が間違っていなかったことを語った。
     退院後も山本医師のもとには牟田口夫人から病状経過の手紙が送られてきた[※3]が同年8月2日、牟田口廉也は脳出血によりこの世を去った。
     葬儀には軍関係、一般合わせて数百人の参列者が集まった。同期を代表して弔事を奉読した猿谷吉太郎中将は「戦後、世情は一変、昨是今非、軍はあらゆる面で批判の焦点に立たされた。君の如きは、最も風当たりが強かった。しかし、それらは、いずれも根拠なき感情論や誤解に基づくものが多く、固より、そのために君の真価を傷つけるものではなかったとはいえ、一部の悪質な人身攻撃的な批判に対し、君としては心外に堪えなかったであろう」と悼んだ。
     こうして牟田口廉也は波乱に満ちた77年という長い任務を全うした。


    ※1 相良の記事には「昭和40年ごろだったかと思うが、私には、はっきりした記憶はない」と書かれているが本文中に河邊もいたとある。昭和40年8月だと河邊の死後なので記憶違い、或いは昭和39年より前の出来事と思われる。
    ※2 『歴史と人物1977年8月号』p158-167
    ※3 『偕行 昭和54年2月号』p27




    『インパール作戦後の牟田口廉也について』のあとがきと参考文献

    コメント

    Secret

    ご存じであれば

    初めてメールを差し上げます。
    当方は東京新聞社会部に所属する記者です。「澁谷忠三」なる人物を調べています。この人は昭和の初め、日本にフェンシングが導入された創世記に普及に努めた人物です(澁谷忠三で検索していただければ、片りんが分かります)。
    貴ホームページの「インパール作戦後の牟田口廉也について」の「予科士官学校長と終戦」の項で、河邊正三の女婿に「澁谷忠三」なる人物が登場します。さらに戦死したと記されています。
    この澁谷氏と当方が探している澁谷忠三氏が同一人物であるかどうかは定かではありません。ただ当方の探している澁谷氏は戦死したとされ、この点が共通するので、問い合わせました。
    澁谷氏は法政大学経済学部の出身です。昭和十一年に卒業、フェンシングの団体に所属し、法政大フェンシングを創設しています。
    どうしてもこの人物について知りたく、ネットを検索中に貴ページに行き着きました。
    なにかご存じであれば、ご教授願えませんでしょうか。突然のお願いで大変申し訳ありません。当方の趣旨をお酌み取りののうえ、よろしくご検討ください。

    No title

    東京新聞社会部
    加藤行平様
     初めまして、お尋ねの記事「インパール作戦後の牟田口廉也について」を書きましたkkと申します。
     コメントを頂きましてありがとうございます。質問について改めて確認し分かる範囲でお答えさせていただきます。
     前提として、当該の法政大フェンシング部を創設した澁谷忠三氏と河邊正三の女婿の澁谷忠三氏が同一人物であるかはわかりませんでした。
    確認した資料は以下のものです。
     『河邉正三大将日記(翻刻) 5/5 昭和19.8.1~19.10.5』防衛研究所所蔵(登録番号:中央-作戦指導日記-270_3)
     『河辺正三参謀本部付日記(抄録)昭19.10.6~19.11.30』防衛研究所所蔵(登録番号:中央-戦争指導重要国策文書-852)
     『浪速日記抄録(中部軍司令官時代)』防衛研究所所蔵(登録番号:文庫-依託-263)
     『河邊正三』軍事研究社 http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/24786507.html

     河邊正三は昭和20年3月9日に陸軍大将に昇進していますが、同日の日記に女婿の澁谷忠三氏が戦死した公報が届いたと書いています。記事に書いた部分は『浪速日記抄録(中部軍司令官時代)』昭和20年3月9日です。
     [前略]此日女婿澁谷忠三戦死公報(註 内報は昨秋受理)到達ノ報アリ、彼ノ霊モ来リテ予ノ進級ヲ祝ウモノカ

     それ以前の河邊正三の日記(『河邉正三大将日記(翻刻)』『河辺正三参謀本部付日記(抄録)』)で澁谷家について書かれている箇所を改めて確認したところ、以下の記述が確認できます。
    昭和19年9月18日の日記からの引用
     [前略]留守居皆元気渋谷家の和子も来て快活に出迎ふ[中略]和子の話に依り忠三君か琉球に在りしことを知る 之を予め知りても会ふことも出来さりしなりしも予の飛行機か同地に二泊せしこと既に何等かの縁ならんと思ひ切に其安泰を祈る[以下略]

    昭和19年9月23日の日記からの引用
     吉祥寺より和子が忠三君の従弟有坂君に荷物を手伝はせて午後匆々来訪、有坂君来春早々航空通信学校に入るとて張り切る俉し猛烈なる操縦志願か上りたるものなり[以下略]

    昭和19年10月2日の日記からの引用
     [前略]渋谷家にては「源さん」大門を開きて向ひ入れ和子門前まで出て迎ふ 老未亡人と若婦人との二人暮しの大邸宅如何にも静寂なり 仏壇を拝して予の留守中故人となりし権之助氏に敬意を表す 此人一種風格を備へたる男、殊に其侠気は何としても平凡ならさるものあり 之から大に親類として心頼みにせしに今遺霊として詣つること心淋し。未亡人窶れて見ゆる所当然なから之亦寂しさを増す。夫ても何彼と心を尽して歓迎の意を表せらる 野平君亦来りて接伴役を相勤む 店から電話来りて立つこと再度に及ふ 此番頭今や渋谷商店の柱石なり[以下略]

    昭和19年10月11日の日記からの引用
     [前略]昼食近く渋谷母堂来訪、入営中なりし儀助君同伴す 聴けば事故退営を命せられしか如し 母堂頗る朗らかなり[中略]大本営発表にて琉球を中心に昨日400機の艦載機の執拗なる来襲あり 地上船舶に若干損害ありとのこと~親として忠三君の身の上を思ふ~。[以下略]

    昭和19年11月9日の日記からの引用
     [前略]午食は和子を加えて三人にて取り午後有信の土産なる珍肴鶫を自ら処理し和子にも手伝はせ居る所へ野平君の来訪を告く 妙な時刻に来たものたと思ひしも別段の予感もなく 出て会へは之か予に取りての大悲報を齎らせしものなり 即ち澁谷忠三君七月四日父島附近にて乗船待機中壮烈なる戦死を遂けしことを其部隊長より通報し来りし由なり 乃ち純子及和子の母子を呼ひ静かに之を告けて心を堅めしめ直ちに野平と共に和子をも随へ吉祥寺へ行き部隊長通報なるものを直接閲読、渋谷母堂に吊みを述へ夫から野平君を中心として不取敢の処理を談合し 明十日読経 十四日午後二時近親間にての葬儀 儀助君病気治癒後本葬施行のことを定む

    昭和19年11月10日の日記からの引用
     吉祥寺へ赴き読経に詣つ 予定より大分遅れたるも内輪にして心づくしの吊意を表するを得たり 和子紋服、純子はモンペは羽織を着く~
    斯くて愛婿忠三君遂に佛となる「顕彰院殉忠日悠大居士」


    昭和19年11月13日の日記からの引用
     予より尋ね遣りたる盾三八五五部隊の源名(独立高射砲第八大隊)及大将は大尉清水一氏なること[以下略]

    これらのことから分かったのは、
     澁谷忠三氏は河邊正三の長女和子の婿、渋谷商店の社長?(『河辺正三参謀本部付日記(抄録)』昭和19年11月9日の註に社長応召中の旨記載あり)。父は権之助、兄弟に儀助、従弟に有坂という人がいる。
     昭和19年7月4日に父島附近で戦死、所属部隊は独立速射砲第八大隊。戒名は「顕彰院殉忠日悠大居士」。
     和子は戦後に杉本正久と再婚(杉本春吉陸軍少将の息子、『河邊正三』掲載の家系図を参照)。

     日記の昭和19年8~11月までを改めて確認しただけなのでそれ以外に記述があるかもしれませんが、現状で確認出来たのは以上となります。
    御参考までに。

    訂正

    × 予より尋ね遣りたる盾三八五五部隊の源名(独立高射砲第八大隊)及大将は大尉清水一氏なること[以下略]

    〇 予より尋ね遣りたる盾三八五五部隊の源名(独立高射砲第八大隊)及隊長は大尉清水一氏なること[以下略]

    たぶん

    牟田口廉也はマレーで戦果を挙げたらしいがそれは英国の整備した道を通ったからだろう。インパールは上層部が承認したと言っても無能すぎる指揮官に違いないだろう。精神病患者扱いして解任した師団長が死没してから正当化工作するなど汚すぎる。しかし、ラバウルやニューギニア見ても日本軍が愚か過ぎるのも事実だろう。
    プロフィール

    kk

    Author:kk
    『「神は中隊の数の多い方に居る」と云う仏蘭西の諺にもあるが、歴史の事実も亦、之を証明している。横隊戦術時代の如く一回の衝突で勝敗が定まらぬ今日では、十分の兵数(部隊の数)を持つことが、一層必要となった。』
    (国民皆兵論(現代ノ軍制ト統帥)/コルマル・フォン・デル・ゴルツ元帥著)

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