憐れみと縛り首―ヨーロッパ史のなかの貧民

憐れみと縛り首―ヨーロッパ史のなかの貧民

憐れみと縛り首―ヨーロッパ史のなかの貧民

 

脱落したエリート救済

 喜捨や教会施設への献金で特徴的に表現される慈善の行為は、日常生活で犯した罪の償いを実践する形式となった。権力の行使に伴う義務――王宮や封建領主の居館で一定数の貧民を食事に招いたり、あるいは道中施しを行ったりすることがならわしとなった――、また、金銭を扱う職業、たとえば道徳的にアンビヴァレントな刻印が重くのしかかっている高利貸しのような職業に伴う義務についても、高度に儀礼化され、制度化されていった。慈善を施す対象は、とりわけ教会であった。
(略)
 12世紀から13世紀にかけて、西欧のキリスト教諸国では、慈善の額が飛躍的に増大していたことが報告されている。(略)
この一連の動きは、マリー=ドミニク・シュニュが「福音のめざめ」と定義した新しい宗教感情によって鼓吹されたものであった。敬虔な信徒と教会によって――かなりの部分はもちろん教会によってであるが――提供され管理された施療院網が、中世においては巡礼路沿いに整備され、敬虔な巡礼者に一時的であれ貴重な避難の場所として開放されていたのである。この時代、慈善は、教会施設と個々の社会集団との絆を強めるものでもあった。(略)
それぞれの都市に信徒団が現れ、信徒団が自分たちの負担で病院や救護施設をつくり、やがてこれらを自らの管理下に置くようになった。慈善団体は、信徒自身による社会組織である。たとえばヴェネツィアの慈善団体は、エリート的生活を維持する役割ももっており、彼らは、都市エリートの古典的諸施設のなかで自分の居場所を失った仲間のためにエリートにふさわしい空間を設け、地位と名誉を与える役目も果たしていたのである。
(略)
彼らが援助を受ける資格をもつということは、いわば彼らの「恥」の証拠なのであり、家柄のよさが本人自らが物乞いに出ることを控えさせ、むしろ物乞いをしないことが彼らの倫理的支えとされていたのである。
(略)
キリスト教的「友愛」を実践するということは、アメリカの中世史家リチャード・トレクスラーが指摘しているように、自分の帰属する身分のために行う扶助であり、エリート社会から脱落した「貧しい部分」を優遇することであった。(略)
援助を受ける貧民を描く図像の場合には、社会的エリートの貧窮化したメンバーが真っ先に描かれる。(略)
 12世紀初頭から、キリスト教の慈善をめぐる教義では、貧困は神学的考察によってふたつの型に区別されていた。(略)
ゲルホーホの理解では「ペテロと共にいる貧民」と「ラザロと共にいる貧民」が区別されていた。前者には、貧民の形姿をとらなければならない聖職者が入る。このドイツの神学者が教会の教義と修道院生活の規範に含めようとした自由意志による貧困は、「教会の権威」を正当化し、「自己完成」のための、神との交流の媒体となる精神的価値とみなされていた。後者の貧民のグループを象徴しているのが、ラザロの乞食姿である。乞食としてのラザロの形姿は、世間一般にある物質的貧困を象徴し(略)保護を与えるべき対象として扱われている。
(略)
しかし、一般的に貧困の賛美を過大評価することは、現実の正しい認識から逸脱することであり、現実には、貧民はまさに社会的な恥辱を体現しており、援助を受ける対象としてのみ扱われていたにすぎなかった。
(略)
ボローニャのルフィヌスが公式化したように、乞食を「誠実な者」と「不誠実な者」に区別したのである。労働する能力がありながら、働くことを拒み、乞食をしたり盗みを働くことを好む者が「不誠実な乞食」であるとされた。自分自身はおろか家族さえも扶養できないと判断された貧民にだけ、援助の手が差しのべられなければならないのであった。この神学論争では、「極度の必要の場合」には窃盗さえ犯罪ではなく、貧民の当然の権利であるという主張さえ現れてきた。飢えている者には(略)どんな境遇にあっても援助が受けられる、未亡人、孤児、囚人、狂人と同様の権利が与えられていた。これらの集団が施しを受ける権利をより一層強くもつにつれ、それに比例して、彼らの実際の法身分や生活条件は弱まっていったのである。
(略)
施療院施設は、障害者、辱めを受けている者、貧民を収容する施設であり、巡礼のための避難所であった。これらの施設で社会保護を受けている者の多くは、社会的に逸脱し、物質的に没落した者とみることができる。もしこのなかに上層身分出身の巡礼がいたとすれば、彼らは自発的に恥辱を求めたのであり、自分の身分を捨てたということである。したがって、施療院患者の大多数を構成していたのは、本当の貧民だったということである。

「貧民」への非難

 13世紀のモラリストと説教者が貧民集団(略)をみる目は、宗教教育を施して厳格に矯正しようとする、一方的なものであった。(略)
彼らの説教に込められた批判的で辛辣な皮肉は、全体として世俗社会に向けられていた(もちろん、司祭、修道士、信徒団の悪行の数々も遠慮なく指摘されている)。しかし、批判の原点となっているのは、世俗社会の罪は貧困とともに富からも発生するという確信であった。(略)
12世紀までの教訓文学においては、貧民階級を非難する内容は、自分の境遇を甘んじて受けようとしない傲慢な乞食に関するものが主であった。(略)
13世紀には早くも、「貧民」を非難する調子が現れてくる。フランスの諷刺詩人ギョーム・ド・クレルクは『神からの金貨』で(略)貧民は「裏切り者で、嫉妬深く、悪口を言い、高慢で、妬みと欲で一杯の輩で、仕事のときは詐欺を働き、仕事をするといってはさぼるだけさぼり、せびれるだけ金をせびり、暴飲暴食に明け暮れているからだ。」

乞食の団体

 14世紀から15世紀にかけて、都市の行政当局は、貧民保護を調整する措置を講じはじめた。この時代の南ドイツ諸都市の自発的なとり組みは、16世紀にはじまる慈善改革のモデルとさえみてよいものであった。すでに14世紀には、ニュルンベルクの市当局は、特殊な金属製の鑑札をもたぬ者には物乞いをさせないとの条例を定めていた。(略)乞食を登録し、半年ごとに彼らの生活状態を検査したのである。(略)
[しかし]本格的な乞食の統制と独自の社会政策へのとり組みは、中世末期を待たなければならず、この規制が文字通り現実に適用されることはなかった。多くの場合、とられた処置は、都市の施療院と施しの施設を効率よく運営することであり、よその町から乞食が流入するのを阻止することであった。伝染病対策として市当局が乞食に対してとった措置も、同じような性格をもっていた。乞食の移動を禁止することは、公衆衛生の古典的な方法のひとつである。
(略)
ともかく、物乞いを正当化する論拠は、何といっても、肉体的な損傷に由来するものであった。だからこそ、あえて外見上の障害や病弱を装い、それを強調することは、物乞いを正当化し、人の憐れみを誘う自明の手段となった。
(略)
 やがて乞食たちを身分団体と認め、社会生活に配所することが是認される方向に進んでゆく。それは、実に様々なかたちをとった。なかでも盲人の団体が有名である。14世紀のバルセロナとバレンシアの盲人の掟では、団体内部を規制する種々の連帯と相互扶助が定められていた。手を引いてくれる案内役には給与が支払われること、病気のときには見舞いをし、得た施しは平等に分配すること、などが定められていた。(略)
シュトラスブルクでも1411年に「盲人貧民」の団体が生まれ、20年後には早くも「シュトラスブルク乞食団」として活動していた。(略)
1443年にクトナ・ホラの乞食たちが在地の教会の近くに設立した職業組織も、同じような団体としての性格をもっていた。このタイプの乞食がもつ信徒団の形式は、乞食どうしの結束を固め、自分たちにふさわしい共同生活や相互扶助の形式の保証、また、中世の職人社会一般に固有の原則である身分団体による独占と競争の禁止、という原則の実現をめざすものであった。
(略)
[乞食身分の専業化が進み貧困(つましさ)が安定した固有の状態を示すようになったが、大量の貧民の発生がその安定を脅かした]
貧民の大群が施しの機会を求めて彷徨い、貧困と労働のあいだの不安定な境界線上を往き来しはじめるのである。

「貧民」の概念

 中世の人々の意識にある「貧民」の概念は様々な意味をもって現れ、それが意味する範囲は、封建社会の特権的エリート層に属さないすべての者を対象としていたのが、徐々に、生活基盤を施しや社会保護に依存している部分へと限定されてゆく傾向がみられる。しかし、この概念の範囲がもっとも広く扱われていた時期においては、その対象は、必ずしも位階制社会の最底辺層を指していたわけではなかった。というのは、この「貧民」の概念は、先に述べた「富者と貧者」という二分法のなかで機能していたのみならず、ある意味で「下から」の者を一般的に指していたためである。たとえば、カロリング朝時代の「貧民」は、自由人との関連で用いられ、不自由民に対置される存在であった。この「貧民」という語が進化してゆくなかで、社会の解体がしだいに大きな意味をもっていったことが観察できるのである。「貧民」の対象となったのは、本人およびその家族がそれまでの生活スタイルを維持できなくなったか、あるいは、自分の所属身分にふさわしい生活状態を確保できなくなった人間である。中世後期になって、物質的貧困やデクラッセすることが貧困の概念上の意味をもつにつれて、貧困化のプロセスもまた顕在化してゆくのである。

相互扶助

 こうした働く者の貧困に対しては、中世のつましさのエートスや、施しや施療院などによる援助システムはまったく無力であり、効果はなかった。効果をあげたのはただ同職組合、家族や隣人関係による相互扶助のみで、それも、貧民の数が限られているあいだだけであった。慣習法により一定の社会扶助の形態がつくり出されていたイングランドでは、自分の土地耕作ができなくなった、子供のいない老人たちには、農場の一部だけを手元に残し、それ以外の農場は他人に委ねさせ、新しい農場経営者が耕作の義務を負うものとされていた。未亡人は(再婚するまでは)用益権を支払わなくとも農場を継承する権利を保持できた。都市の身分団体は、自分の構成メンバーのために、労働や偶発的事故の際に社会保障をする一定の形態をつくり出した。これは、本来、都市の各団体の機能に属すものであった。しかしこれとて、生きてゆく必要最小限の部分を保障するだけの、つつましい援助でしかなかった。

エンクロージャー

 中世後期の都市人口の研究によれば、貧民や乞食とみなされていた者の数は平均して15%と20%のあいだを上下していた。都市でも農村でも、全体の住民数の見積もりが可能となる16世紀や17世紀になると、住民の五分の一が公的もしくは私的な援助を受けるべき貧民のカテゴリーであったと算定される。
(略)
 貧困のもうひとつの尺度となっているのは、14世紀の危機から脱却してゆく近代的モデル、すなわち資本主義的発展への方向転換とわれわれが定義した農業構造の転換である。(略)[土地所有の再編は]農業小生産者のかなりの部分を貧窮化せしめ、自立した経済生活を営む可能性を失わせた。(略)
[生産手段・土地の集中、農産物価格の上昇と実質収入の低下]
 16世紀の農村における本源的蓄積の過程は(略)農民社会の階層分化を際立たせたという理由ばかりでなく、地主貴族が農民を経済的従属下に緊縛することに無関心になったことにより、多様な性格を帯びることになった。
(略)
やがて土地不足が深刻化し、貧窮化した小農民や土地無し農民の数が増大すると、エンクロージャは陰鬱で劇的な光景を示すようになる。土地の囲い込みに狂奔する農場主は、全体の利益を忘れ、穀物畑を羊の放牧地に変えている不逞の輩とみなされるようになった。こうした彼らの行為こそが、穀物価格の高騰、農業における雇役労働の需要減少(放牧の方が農耕よりも手間がかからない)、生活手段をもたない貧民の数の増大の原因だとみられがちであった。しかし、現実はもっと複雑なのであり、イングランドの農業を近代化させ、人口の圧力に対処する処置を講じさせた錯綜した状況が、無用となった大量の人々を農村から追い出した、というのが事実なのである。

都市と農村

 近代の社会変化の全体像を理解するには、都市と農村の条件のちがいにたえず目を向けるべきであろう。本当の意味での貧困は、農村においてこそ発生したからである。都市についていえば、都市の城壁内で群れる貧民の出身地を明らかにできる史料をみると、かなりの部分が農村から移住したばかりの者だったことがわかる。都市それ自体の内部でも、貧困化が進行していった。貧窮化していったのは、従来の手工業職人集団であった。彼らは自立性を失い、商業資本が組織する農村および都市の生産活動とは競争できなくなり、原料を仕入れて製品を販売することができなくなった。手工業職人は雇役労働者の水準に身を落とし、税台帳は、これを貧民の水準への転落の証拠とみなしている。

パリの貧民

 ひとつの場所に貧民がたむろすることを恐れる雰囲気が、パリの議論のなかにはありありと窺えた。(略)ジャン・ブリソネによれば、路上で物乞いをする連中の多くは、本来は生活するために働きたいのであって、仕事がないがゆえに乞食をしているにすぎない。(略)しかし、たとえ公共労働を企画する決議がなされても、「もしも貧民が巨大な群衆となれば、盗賊団に変じるおそれがある。あるいは六百人か七百人が仕事にありつけば、二日もすれば二千名以上に膨れ上がり、その結果、反乱が起こりかねず、都市社会が略奪の危険にさらされるであろう」といった懸念が、つねにつきまとっていた。(略)
興味あるのは、仕事の機会を与えれば、群衆を引き寄せてしまう、という主張が繰り返されていた点である。
(略)
 高等法院とパリ市自治機関による貧民問題をめぐる討論は、なお延々と続いた。「よそから来た貧民」を城壁内に入れない様々な措置、失業者の雇用、この目的実現のための安定した基金の創設などが、徐々に輪郭を整えられた。(略)
とはいえ、高等法院の見方では、状況はほとんど変わらなかった。高等法院には、パリ市の自治機関が「貧民税」という財政上の裏付けをもった公共事業に、自分が必要とする者だけを優先的に雇用している、といった不安に満ちた苦情が寄せられていた。

地方都市

 一般的にいって、社会保護の改革に中央権力が大きくかかわったとか、自発的にとり組んだとか、ということを過大に評価してはならない。これまで扱ってきたすべての例では、改革はせいぜい地方レヴェルでとり組まれたものであった。貧民保護と医療システムの再編は、社会変動の壮大なドラマに反応しつつ、個々の都市で少しずつ実施されていたのである。

イングランド

 1569年以前から早くも若干の都市がロンドンの例に倣い、予防措置ならびに組織的対策に乗り出していた。(略)
リンカンでは1543年、市当局は、すべての貧民に判事の前に出頭することを命じ、貧民の生活状態が援助を受けるに値するかどうかの裁定を下していた。(略)
 1570年代になると、公の場所での物乞いを一掃する一方、「本物の貧民」を組織的に援助し、安定した税によって貧民の面倒をみつつ、教区を守ってゆこうとする志向が強まった。1579年のロンドンの条例は、教区の貧民監督官は貧民および障害者に援助を保証すること、市当局は浮浪者を労働に駆り立てる役目を負うこと、と定めた。教区の役人は自分の地区に住む貧民を厳しく監視し、とくに彼らが何らかの職種をもっているのかどうか、労働能力があるのかどうかを審査した。貧民の家々を日々監視下に置くことが強く打ち出された。
(略)
[ノリッジでは]
 女性と子供を雇用する場合、特別の女性看守が任命され、この女性看守には市から賃金が支給された。彼女たちは、ひとりにつき6名から12名を監視し、また子供たちに読み書きを教える義務も受けもった。もし、自分で用具と原料を確保できるものがいれば、自分の労働による製品を販売し利潤を得てもよいとされた。そのほかの場合は、女性看守が定める賃金で満足しなければならなかった。女性看守は、自分の保護監督下にある者に思いのままに懲罰を加える権限ももっていた。(略)
 この保護システムの導入とともに、市当局は懲罰をもって威嚇しながら、物乞いを完全に禁止する布告を出した。施しをした者には、罰金刑が科せられた。
(略)
社会保護システムを機能させていたのは厳格な強制と弾圧であり(略)矯正のための恐るべき「労働の家」であった。

監獄

監獄というのは、本来地下牢や独房があるだけで十分であり、一時的に収容するところ、あるいは好ましからぬエリートを隔離する場所にすぎなかった。18世紀中葉のあるフランスの法律家は、監獄というのは懲罰の場所ではなく、一時的に囚人を収容する場所であった、と述べている。アンシャン・レジームの崩壊に到るまでフランスの刑法を規定し続けた1670年の王令には、つぎのような順序で刑罰が列挙されている。死刑、拷問、終身漕役刑、終身追放、時限付漕役刑、鞭刑、晒し刑、時限付追放であった。このなかには監獄はなかった。監獄への収容というのは、広い意味で教会裁判が下した罰であり、世俗権力の側からみると、漕役刑送りにできない老人や女性、負債を払えずに逮捕された者、瀆神罪の罰金を払えない者を収容したのが監獄であった。監獄とは、要するに生活維持能力の程度に基づいて設けられた施設だったのである。囚人が物的手段を行使しなければ、食物はもらえなかった。罰は、自由の剥奪ではなく、飢えであった。
(略)
 監獄が大規模に犯罪者を処罰する手段となる以前は、近代ヨーロッパは、乞食に対する社会政策を実施する手段として監獄を利用したのである。中世に行われた強制的な癩病患者の隔離に続いて、ペスト患者の隔離が実施され、そのあと狂人と乞食の隔離へと移行していった。

「矯正の家」

[オランダのユマニストが1587年の論文で]社会政策を懲罰に応用して自由の剥奪と強制労働とを連結しなければならないと述べている。アムステルダムの貴族社会にはこうした思想を広める者や継承者が現れ、まず男性用の労働の家、ついで女性用のそれがつくられた。男性用の労働の家では、主としてブラジルから運ばれた木材の製材が行われ、女性と子供を収容する施設では糸紡ぎと裁縫が行われた。アムステルダムの労働の家に続いて、産業発展の著しいオランダ各地で続々と労働の家が建てられていった。これらの労働の家は、安価な労働力の提供という利潤に基づく形態に変質し、慈善という本来の機能は徐々に薄れていった。労働は、集団生活を営む建物内で行われ、報酬が支払われた。時間割りが厳密に規定され、一日の日課として、祈りと宗教書の音読が義務づけられた。最初からアムステルダムの施設は懲罰的性格をもち、貧民のみならず、若い犯罪者をも収監したのである。(略)
 貧民の「怠惰」を一掃することが、労働の家のひとつの役目であった。これは、徹底したやり方で行われた。アムステルダムの労働の家では、怠業をやめさせるのに、つぎのような方法が用いられた。貧民が労働を拒否したとき、この男を地下牢に閉じ込め、少しずつここに水を流し込む。閉じ込められた貧民は溺死したくないので、そこに備えつけられているポンプで水を汲み出さねばならない。このような方法が怠惰を矯正し、労働癖をつけるために大きな効果を上げる方法と考えられたのである。(略)
オランダのとり組みに続いて、ドイツでも強制労働の家が相次いで誕生した。

総合病院

[フランスでは]貧民を隔離する計画は、17世紀に「総合病院」という形態で実現をみることになった。
(略)
トゥールーズの総合病院の建設プランを示した文書には、「出生のゆえに富者に仕えなければならない貧民」は、若いころから長いあいだ怠惰や浮浪という堕落した悪習に身を委ねてきた者である、とはっきり記されている。「社会的鍛錬」という動機づけが、ここでは明瞭に展開されている。
(略)
総合病院は、貧民すべてを収容したのではなく、その代わり貧民すべてに監獄という恐ろしい生活条件を示すことによって畏怖させたのである。典獄は収容者に対し、労働規律に違反したとか、宗教上の掟を守らなかったという理由で鞭打ちを加えたり、晒し者にしたり、地下牢につなぐ権限を行使できた。総合病院に収容された者は灰色の服をまとい、頭巾をかぶっていた。灰色の服には印が付けられ、個人番号が縫いつけられてあった。
(略)
実際に、作業場における貧民の強制雇用は、総合病院にいかなる純益ももたらさなかったばかりか、その運営費に余計な負担さえかけていた。(略)社会的・宗教的な教育課題の方だけは実現した。(略)
 総合病院における監禁と強制労働は、恐怖と威嚇と暴力をもって労働のエートスとその普遍性を保証したのである。近代の社会保護が確立される過程でとられた弾圧的措置のもつ光景は、それ自体が固有のイデオロギー的機能をもっていたのである。
(略)
[一方、その刑罰的性格に嫌悪と不安を抱く直接の企画者もいた]
ヴァンサンド・ポールは、貧民を監禁することが神の意志にかなうものかどうかに確信がもてず、総合病院の運営を拒否するに到るのである。この政策に関しては、17世紀と18世紀を通じてフランスの宗教界でたえず様々な異論が出されている。そればかりでなく、民衆のあいだでも、監獄への収容に抵抗する乞食を助ける気運が生じ、収監にあからさまな憎悪を示す者が出てきた。(略)
貧民の側に立って喧嘩や騒乱をけしかける人々のなかには職人、奉公人、従僕、労働者がおり(略)
彼らには、社会的帰属の面で共通の感覚があり、救貧院の作業場がもたらす不当な競争に対する怒り、不服従を貫く収容者への共感と当局に対する憎しみがあった。それとともに、貧困に共鳴する伝統的な姿勢、すなわち貧民を聖なるものとして崇めようとする伝統的な態度がなお生きていたことも観察できる。
(略)
1758年に、賃金の支払いを受けるために道ばたにたむろする250人の道路工夫の一団が、警察の手から乞食を奪取しようとして騒ぎに発展したことがあった。あるいはまた、捕まった乞食が、「石工よ、助けてくれ!」「仲間たちよ、助けてくれ!」と叫んでいた例もあった。
(略)
 フランス大革命のさなか、1789年9月はじめに、パリの群衆はいくつかの監獄に侵入し、独自の人民裁判を行い、一部の者を解放している。彼らは、百年来刑罰的性格と暗いイメージでみられていた総合病院の各棟にも侵入したのであった。(略)
[レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは救貧院から解放された少女たちについて、こう記述]
学校ではいつも女警吏が鞭をふるい、彼女たちは永遠の独身生活を強いられ、劣等でまずい食事しか与えられていない。

グリフィス『イントレランス』(1916年)は

都市の貧民社会の慈善の光景を皮肉を込めて描いたものであり、博愛家や慈善施設のもつ偽善をあばき、慈善のプログラムと貧民の期待するものとのあいだのすれ違いを浮き彫りにした作品である。グリフィスの描写で特徴的なのは、社会保障には必ず弾圧行動が付随し、貧民集団の生活スタイルや日常生活における道徳性や行為、宗教活動への参加、個人の健康管理に厳しい監視が伴っている、という点を暴露したことである。この点こそ、本書の序文で貧民の集団的イメージとして指摘した、恥辱の刻印を固定化するものにほかならない。(略)
慈善行為は、それを推進する者の意志とはかかわりなく、しばしば貧民集団の不信と憎悪の的となり、また社会主義運動に敵対するものとなった。

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