エコは宗教性をオープンにすべきだ

前回のつづき。

環境保護運動はその宗教性をオープンに表現すべきだ

 環境保護運動が一皮めくれば宗教的な性格を帯びていることは、敵味方双方にとってしばしば困惑の種であり、恥だとまで言う人もいる。(略)
だが私たちはそうは考えない。環境保護主義の核となっている宗教的な感情に私たちは敬意を払うし、共感もする。しかしこの感情は、科学を隠れ蓑にせず、オープンに表現すべきだ。隠すのは誠実さを欠く行為であるし、将来に禍根を残すことにもなろう。というのも、成長が持続可能だと判明した場合(その可能性はある)、持続不可能性だけを根拠とする成長不要論は拠りどころを失ってしまうからだ。これは、キリストの復活は近いとの信念を根拠としていた初期キリスト教の立場に似ている。
 環境保護主義者が思い出すべきことは、まだある。災厄の予言は昔から繰り返されてきたが、成長を断念させるよい方法とは言いがたいことだ。こうしたやり方は、愛されない。もうすこし不便な生活も悪くないし、それ自体望ましいと示すほうが、もっと親切だし、おそらくは効果的だろう。過激な人々は恐怖をかき立てて目的を達成しようとするが、人は喜ばしいことを理由に説得されたいものだ。

「温暖化否定論者」ではないけれど

 地球温暖化の科学的見解を巡っては、「ホロコースト否定論者」に倣って「温暖化否定論者」なる言葉がよく使われる。だが私たちは否定論者ではない。私たちが疑っているのは温暖化と経済の関係であって、温暖化の科学的根拠ではない。気候学は比較的若い学問分野で、不確実なことや議論の余地のあることがまだまだ多い。しかも賛否いずれの側にも産業界や官僚の利権が絡み、政治に利用されやすい。世界一流の気候学者が結集する気候変動に関する政府間パネル(IPCC)でさえ、政治と無縁とは言い切れないのである。イギリスの貴族院は、2005年に発表した気候変動に関する報告の中で「IPCCはある意味で知識の独占集団と化し、異端的な意見には耳を貸さない傾向がある」と指摘した。
(略)
環境問題で人気獲得を狙う政治家は、どうしても最も極端な筋書きに目を奪われる。政治家に取り入ろうとする顧問連中もそうだ。となれば、おなじみの演出や単純化が始まるのは避けられない。
(略)
たとえば、IPCCの六通りのシナリオのうち最も悲観的な予想が2006年スターン報告の基礎資料となり、次にはそれに基づいてトニー・ブレア元首相が欧州連合首脳に公開状を出した。そこには「破滅的な臨界点を回避するために必要な手段を講じる時間は、あと10年から15年しか残されていない」とある(略)
 破滅的な「臨界点」つまり「もはや引き返せない点」が存在するという考えは、実証的な根拠を欠くとして、大方のまともな科学者からは却下されている。「破滅という言葉は科学の言葉ではない」とマイク・ホルムは述べた。

「現在中心主義」

[環境保護主義者は]たとえ災厄が二百年先であっても、それを防ぐために、将来払うのと同じだけの犠牲をいま払わなければならないという。これは直観的に受け入れがたい。ほとんどの人は、いま生きている人の幸福をまだ生まれていない人の幸福より大切にする。つまり「現在中心主義」である。
(略)
 過激な環境保護主義者は、将来の幸福を現在価値に割り引くことに強硬に反対する。2000年でなく2100年に生まれたという理由だけで、どうして彼らの取り分を勝手に減らすのか。これは人種差別や男女差別と同根の世代差別ではないか、というわけだ。
(略)
 スターン報告を貫くのは宇宙的な平等主義の倫理である。彼らにとってはどの時代も現代であり、過去、現在、未来を問わずすべての人間は等しく一人である。だが私たちは、宇宙より低次の人間の立場をとる。そして、時間の流れにおける固有の地点から世界を眺め、この立ち位置に応じて共感を分配する。だから、孫よりも子供の幸福を大切に考え、曾孫より孫を、玄孫より曾孫を大切に思う。
(略)
スターンはいま生きている人とまだ生まれていない人を同等に扱っている。存在する可能性があるというだけの人々の幸福を、血の通った人間の幸福と同じものさしで測っているのである。
(略)
 地球温暖化を成長抑制に結びつける主張は、ひどく根拠薄弱である。そのような主張が長らく寿命を保っているのは、おそらくもっと深い理由があるからにちがいない。それを探すのはむずかしいことではない。過激な環境保護主義者の大半は、前世はクロムウェルかサヴォナローラだったのではないかと思えるほどに、強欲や贅沢を心底憎んでいる。環境保護主義者の書いたものを読むと、己を律し己を苦しめることが大好きであるらしいとわかる。
(略)
 以上をまとめると、こうなる。環境保護主義者が唱える成長抑制論は、既知の事実に対する現実的な反応とみなすことはできない。彼らの訴えは情熱や信念の表れにほかならず、事実などはほんのおまけにすぎない。

環境保護運動の元祖

カリスマ的なドイツの哲学者にして詩人のルートヴィヒ・クラーゲスは(略)1913年に書いた。「進歩はありとあらゆる形の生命を攻撃している。森を切り倒し、生物種を絶滅させ、土着の人々を死滅させ、商売のために景観を台無しにし、残った生き物も家畜のように単なる商品に貶める」。マルティン・ハイデッガーもやはり絶対的な技術否定論者だった。(略)[1953年の論文で]
「水力発電所は、数百年にわたり岸と岸とをつないできた木造の橋とは異なり、ライン河の中に建設されたわけではない。河は塞き止められて発電所に流れ込む。いまや河は水力供給装置として発電所の心臓部を形成する。……だが、ラインはまだ自然の中にある河なのだろうか――たぶん。しかしどのような河かと言えば、旅行産業が送り込む観光客が感心して眺める物体としての河なのである」
 反ユダヤ主義者のクラーゲスとナチス信奉者のハイデッガーは、そうと認められてはいないが、今日の環境保護運動の元祖である。彼らの思想は、第二次世界大戦後に哲学者テオドール・アドルノやマックス・ホルクハイマーによって左寄りに作りかえられ、アドルノの同僚だったヘルベルト・マルクーゼによってアメリカに持ち込まれた(マルクーゼはいつもの断定的な調子で、「環境保護運動は既存の権力層の意識改革だけでなく、われわれの資源を無駄遣いし地球を汚した組織や企業の徹底的な変革をもめざすべきである」と訴えた)。

エコも(浅く:深く)の二つに分けられる

シャロー派は自然を人間が活用する資源とみなし、将来世代の利益を考慮して管理すべきだと考える。ディープ派は人間にとっての有用性とは無関係に、自然それ自体を価値あるものとみなす。
(略)
 スターン報告を始め多くの調査報告に見られるシャロー派の手法は標準的な費用便益分析であるが(略)その根拠となっているのは、おなじみの平等主義である[現世代の幸福を将来世代より優先すべきではないetc]。
(略)
ディープ派は、シャロー派の思想を批判して、地球は人間の利益のためにだけ存在すると考えていたロックの恥ずべき古くさい思想の亜流にすぎないと、一蹴する。そして、長期短期を問わず人間のいかなる利益とも無関係に、「人間以外の生命の繁栄」をめざすべきだと説く。だがそうなると今度は、解決困難な新たな問題が生じる。
(略)
灰色リスが繁栄すればアカリスは駆逐され、ダニが繁殖すれば犬は犠牲になる。となれば、「人間以外の生命の繁栄」を実現するにはどうしたらよいのか。
(略)
ディープエコロジーの提唱者であるノルウェーの哲学者アルネ・ネスは、「生きて繁殖する平等の権利」だという。だがこれはこれで、また別の問題を引き起こす。この「平等の権利」を特つのは誰なのか。植物、菌類、バクテリアも含まれるのか。(略)
人間はユキヒョウを救うためにも、アメリカケアリ亜属の小さなアリを救うためにも、同等の資源を投じなければならないのだろうか。(略)天然痘のウィルスはどうなのだろう。
(略)
ネスのような「生物界平等主義者」からすれば、自己本位の好き嫌いや見た目の理由からある種を贔屓して他の種を押しのけるのは、「人間中心主義」の本性を現すことにほかならない。人間は自然に対して私情を挟んではならないという。
(略)
 環境倫理学の先駆者であるアルド・レオポルドは、ディープエコロジーのもう一つの路線を示している。「生物共同体の完全性、安定性、そして美が保たれているのが正しく、そうでないのはまちがったあり方だ」(略)
人間はこの共同体全体の幸福を最大化しなければならないというのだ。(略)
[ガイア理論提唱者の]ジェームズ・ラブロックも、こうした全体論の伝統に則っている。ガイアは病んでいる、熱っぽい、老いてきた、彼女の健康を回復するために、まだできることをやらなければならない……。(略)
 こうしたレトリックは、先ほども指摘したが、危険だし混乱も招く。生物共同体にせよガイアにせよ、生命体ではないし生命体に近いものですらない。だからそれは健康にもなり得ないし病気にもなり得ない。花開くこともなければ枯れることもない。
(略)
[ディープエコロジストの誤りは自然の]価値は人間の視点とは無関係だとしたことにある。これは論理の飛躍であり、正しくない。あらゆる価値は、手段としてであれ本質的であれ、人間の視点から見たものになる。

「グッドライフ環境保護主義」

第一に、環境に配慮した生き方を求めはするが、それは自然のためでもなければ、将来世代のためでもなく、私たち自身のためである。グッドライフ環境保護主義は、現世代の私たち自身のために、地域の植物や動物についてよく知ること、また地場の食物についてよく知り、できれば釣りや園芸などを通じて生産に参加することを奨励する。
(略)
 第三に、グッドライフ環境保護主義は、同じ絶滅危惧種でもアリよりユキヒョウを保護したい、と堂々と認める。理由を詰問されたら、あっさりと答えよう。ユキヒョウは何と言っても美しい動物だし、美術や紋章にもよく登場してなじみ深いからね。

人格または自己の確立

修道会あるいはフーリエが提唱した革新的な自給自足共同体といったものを想像してほしい。そこでは財産はすべて共有され、すべてのことが公開され、誰もが公益のことだけを考えている。このような共同体では、メンバーはお互いに尊敬し合っているとしても、自分というものを持っていない。人格とは「店の後ろの部屋」のようなものだとモンテーニュが言ったように、自分の私室であり、そこでは自分をさらけ出し、自分自身に立ち帰ることができる。それは公を慮る理性や義務の呼び声に逆らって、内面に向かう自由なのである。
(略)
人格が否定され、個人が無抵抗無反省に社会的役割を受け入れるような社会は、もはや人間の社会ではあるまい。おそらくそうした社会は、SF映画よろしく、知性と社会性を備えた昆虫のコロニーのようになるだろう。
 今日の自由主義においては、個性を、あるいはよく言われるように自立性を高く評価し、他の資質はすべてそこから発するとみなす傾向がある。すでに触れたように、こうした傾向が、ロールズ、セン、ヌスバウムが目的を論じたがらない原因の一つとなっている。だが、このような姿勢は誤りではないか。自主自立は好ましいけれども、他に優先して好ましいわけではない(略)
倫理的配慮という広い視野を失った自主自立は、「無関心の自由」に堕落しかねない。そうなったらあらゆることが許され、一切の配慮がなされなくなるだろう。最近よく耳にする「価値選択」という表現は、この混乱の一つの表れである。正しく理解していれば、選択は価値に応じてなされるものだ。そうでないから、選択が恣意的になるのである。

ベーシック・インカム

最初の提唱者は17世紀のホッブズであり、18世紀にはイギリス出身の社会哲学者トマス・ペインが、19世紀にはフランスの哲学者シャルル・フーリエの後継者が続いた(ジョン・スチュアート・ミルも好意的に言及した)。ジェファーソンの系譜に連なるアメリカの思想家も、ベーシック・インカムを支持した。その後も、クエーカー教徒、社会主義者、経済学者のジェイムズ・ミード、サミュエル・ブリタン、社会哲学者のアンドレ・ゴルツらがベーシック・インカムに賛同している。1943年には、リベラルな政治活動家リース・ウィリアムズ女史が「社会配当制度」を提唱した。所得税を財源として、所得の多寡を問わずすべての世帯に支給し、国民所得が増えれば社会配当も増額されるしくみである。もっと最近では、たとえばミルトン・フリードマンの「負の所得税」も社会保障の安上がりな提供方法とされている。負の所得税は、所得が下限を割り込んだすべての人に支給される一時払いの現金である。