新訳 初期マルクス・その2

前日のつづき。
的場昭弘による「ユダヤ人問題によせて」解説編。訳と解説が交互するので、区別できるように、冒頭に[訳]と[解説]をつけました。

バウアーの課題

[訳]

 したがってバウアーは、一方でユダヤ人は国家市民として解放されるべく、人間はユダヤ教を、宗教一般をやめるべきだと主張しているわけである。他方でその結果的な形だが、彼にとって重要なことはもっぱら宗教をやめるために、宗教を政治的にやめることである。宗教が前提としている国家はもはや真の国家でも、現実の国家でもない。「当然だが宗教的幻想が国家にお墨つきを与えている。しかしそれはどんな国家に対してか?どんな種類の国家に対してなのか?」(略)
誰が解放するべきなのか?誰が解放されるべきなのか?を追及するだけでは十分ではなかったのである。(略)こう問われねばならなかったのだ。どんな種類の解放が問題となっているのか?

[解説]

バウアーの課題は、キリスト教国家を超える、政治的に解放された国家を実現することである。宗教性をすべて逸脱した理念的国家がその課題である。その意味で政治的解放へ至るには、宗教と癒着している国家から解放され、キリスト教徒も宗教性から離脱しなければならないと述べる。それが課題解決である。しかし、政治的解放というものの実態については語らないというわけである。(略)国家そのものの問題を等閑しているということである。

政治的解放の限界

[訳]

 政治的解放の限界は、すぐに次の点に現れる。人間の方はその限界から現実に自由にならなくとも、国家はその限界から自由になるという点、人間が自由な人間にならなくとも国家は自由な国家となるという点である。
(略)
、圧倒的多数がいまだ宗教的であってさえ、国家は宗教から解放されたと言いえるのだ。そして圧倒的多数は、私的に宗教的であることで宗教的であることをやめてはないのだ。
(略)
国家と宗教との関係、すなわち自由な国家と宗教との関係は国家を形成している人間の宗教との関係にすぎないのだ。そこから次のことが出てくる。人間が政治的に限界を突破できるのは、国家という媒体を通じてであり、その点において人間は自らと矛盾し、抽象的、かつ限られた、部分的な方法でこの限界を乗り越えるのである。さらに次のことが出てくる。人間が解放されるのは、たとえ必然的な媒体を通じてであれ、回り道、媒体をつうじてであり、その点において人間は政治的に解放されるのである。
(略)
人間はたとえ国家という媒体を通じて無神論者であると宣言しても、すなわち人間が国家を無神論者であると宣言しても、なおかつ宗教的に偏見をもったままでいられるということだ。なぜなら、それはまさに人間が自らを認識するのは媒体を通じて、回り道を通じてでしかないからだ。宗教とはまさに回り道での人間の認識である。つまり媒介をつうじた認識である。国家は人間と人間の自由との媒介者である。キリストが、人間が完全な神性、完全な宗教的偏見を課されている媒介者であるように、国家は完全に神性のない、完全に人間的な公平さを移し入れられている媒介者である。
(略)
[普通選挙をハミルトンはこう解釈する]「大衆が所有者や貨幣の富に対して勝利をしたのだ」と。持たざるものが、持てるものに対する立法者になれば、私的所有は理念の中では廃棄されたということではないか?
(略)
 しかしながら、政治的な私的所有の廃棄では私的所有は廃棄されてはいない。そればかりか、むしろ前提にされている。生まれ、地位、教育、職業を非政治的な差異であると考え、こうした差異を考慮することなく、人民のすべての構成員を平等の人民主権の参加者として呼び出し
(略)
国家は、こうした実際の差異を廃棄するどころか、逆にそれらが存在する限りにおいてのみ存在するのであり、こうした自らの固有の要素と対立してこそ、自らを政治的国家だと感じるのであり、その一般性を問題にできないのだ。

[解説]

 政治的な私的所有の廃棄とは、政治的権利、すなわち公的権利において私的所有それ自体が意味をもたなくなることである。その意味で私的所有はあくまでも私的生活における権利にすぎない。おなじく地位の高さ、教育の高さ、職業なども私的生活の領域に入る。近代国家は、市民社会の領域の問題を私的領域として公的的空間から取り去ったといえる。だからこそ、選挙権において私的生活における立場がまったく考慮されなくなるのである。

福音書

[訳]

福音書を政治という文字で、聖なる精神である聖書の文字以外で語らせる国家は、たとえ人間の目の前でないとしても、人間独自の敬虔的な目の前では冒涜の罪を犯している。キリスト教を最高の規範として、聖書をその憲章として認める国家に、聖書の言葉をぶつけねばなるまい。なぜなら聖書は一言一句神聖なものなのだから。国家をつくっているごみのような人間は、もし、「その国家が完全に解消しないかぎり、守られないだけでなく、一度として守ることができない」という当該の福音書の言葉が示唆されれば、宗教的意識という点から苦痛の多い、乗り越えられない矛盾の中に入る。そしてなぜ国家は完全に解体しようと望まないのか? 国家は自らにも、他者にもその問いに答えることはできない。公的なキリスト教国家は、自らの意識の前では、その実現が不可能な当為であり、ただ嘘によってしかその存在の現実を自ら確信することができず、したがっていつも自ら疑いの対象であり、不確実な、問題の多い対象のままなのだ。『聖書』に基づく国家を意識の狂気だと無理やり考えるとすれば、批判はまったく正しいことになる。そこでは国家はもはや現実と妄想との区別さえ知らず、宗教を隠れ蓑とする世俗の目的の破廉恥さは、宗教こそ世界の目的であると考える宗教的意識の誠実さと解決しがたい葛藤に入るのである。この国家は、カトリック教会の手先となる場合にのみ、その苦痛を解消することが可能になるのである。この国家は、世俗の権力こそ自らの役立つ身体だと考えるカトリックに対して無力であり、宗教的精神による支配を望む世俗的権力は無力である。

前日引用した

「革命的実践を正しい関係の〜」についての解説

[解説]

フランス革命史を研究していたときに、マルクスが遭遇した問題はまさにここにあった。フランス革命がなぜ急進化せざるをえなかったのか。そしてなぜブルジョワ革命は、それを超えて新しい革命へと進まざるをえなかったのか。人権と国権との間の矛盾である。個人的な自由は公的な自由との闘争に入ると、廃棄されねばならない。革命中の公的意識の中では、逆立ちして個人的自由は不都合となるのか、公共の安全という手段が、それ自体自己目的となり、自由という目的が、規制されることで手段となるのか。この難しい革命期の疑問については、その後も長く彼の脳裏から離れない問題となる。

[訳]

すべての解放は、人間的世界、関係の、人間それ自体への復帰である。
 政治的解放は人間を一方で市民社会の成員に、独立した利己的個人に還元することであり、他方で国家市民、法的人間に還元することである。
 現実の個人が抽象的国家市民を自らの中にとりもどし、その経験的生活の中、その個人的労働の中、その個人的関係の中にある個人として、類的存在となったときはじめて、人間がその「固有の力」を社会の力として知り、かつ組織し、したがって社会的力がもはや政治的力の形態をして自らを分離しなくなったときはじめて、人間の解放は完成されたことになるのである。

[解説]

 結局政治的解放の行き着いた先は、世俗的世界という市民社会と、聖なる世界という政治的世界の分離であった。ユダヤ教はまさに前者を得意とし、キリスト教的世界は後者を得意とする。ということは、市民社会への解放とは積極的にユダヤ教的になるということであり、逆に政治的になることはキリスト教的になることになる。当然ながら、市民革命は前者なのである。つまり市民革命の後に起こる宗教問題は、社会をユダヤ教化することになる。しかしマルクスはここでとどまっているのではない。バウアーのユダヤ教批判が実はユダヤ教的実利主義を批判する一方で、この政治的生活と市民社会的生活の分離を乗り越えようとする。
 それが最後の段落である。とはいえこの解決はあまりにも抽象的である。具体的にこれがどういうことなのかまだマルクスもわかりかねている。利己心に固まった市民社会の人間が政治的立場をとりもどすにはどんな方法があるか。それは労働の中にある。後年のマルクスのテーマともなる労働を契機にした類的世界の問題がここにはじめて登場する。フォイエルバッハは愛の共同体を説くが、マルクスは労働の共同体を説く。社会と政治、私的生活と公的生活を結ぶ環、それが労働である。労働を通じた解放の世界については、「ヘーゲル法哲学批判―序説」で詳しく語られる。