トクヴィルが見たアメリカ

アンドリュー・ジャクソン

 トクヴィルがジャクソンを過小評価する理由のひとつには、フィラデルフィアでもっとも優れた反大統領派の大物のひとりであるニコラス・ビドルに強く感銘を受けたことがあり、ビドルは第二合衆国銀行の総裁としてアメリカの金融システムに並々ならぬ力をもっていた。連邦政府は紙幣を印刷していなかったため、個別の銀行がそれぞれ発行する銀行券が、長いこと為替のおもな媒体をつとめていた。だが銀行の破綻によって銀行券が紙クズ同然になることはよくあり、1819年の恐慌として知られる危機においては、常軌を逸した投機が統いた後の暴落から大量の失業や抵当流れが発生し、富裕層もほかも皆と同様に財産を失った。これによって痛い目に遭った者のなかにはトマス・ジェファソンとアンドリュー・ジャクソンもはいっており、ジャクソンはこの恨みを決して忘れなかったという。第二合衆国銀行は、実質的に現代の中央銀行のような役割を担うことによってシステムの安定化をはかるもので、景気周期の様子に応じて通貨供給量を増減させるのだが、それでもなお私企業であり、表向きの設立目的は株主に利益をもたらすことにあった。
 トクヴィルがアメリカにやって来る頃には、第二合衆国銀行およびその地方支店は大衆寄りの立場から強烈な怨嵯の的となっていた。あるオハイオ州上院議員は、同行が業務を「日の光のもとではなく、闇に隠れて、秘密の岩屋のなかでこっそりと」行なっていると難じた。実際問題として合衆国銀行の権限や手続きは訳の分からないほど入り組んでおり、ある歴史家が述べているように、ジャクソン的な論法の果たした重要な役割のひとつは、各個人が世の中を単純明快なものにするのを促進したことだった。見えなかったものを可視化し、複雑なものを簡略化し、雑然としたものを整頓し、人の顔をもたぬものに人の顔を与えたのである」。とりわけ、人の顔をもたないものにはニコラス・ビドルという顔が与えられ、敵対者たちは彼をロシア皇帝ニコライ一世と名づけた。

アメリカの原理、「利益の正しい理解」

フランス革命が自由・平等・友愛を謳いながらも結局は恐怖政治へ、そしてナポレオンの帝政へ行き着いたとなれば、過剰なまでの平等が自由の抑圧につながるおそれはないのだろうか。1830年代のヨーロッパでは、保守派とならんでリベラルの思想家も、多くがこうした危惧を抱いていた。ミルなどは、デモクラシーが「今の世の中で真の危険性をもつただひとつの専制――全員が平等ではあっても全員が奴隷である、孤立した個々人の集まりに対して、行政府の首長が絶対的な支配を行なうというもの――に堕してしまう」恐れが強すぎる、と警告を発している。
 十八世紀の啓蒙思想家も、その後継者である合衆国憲法の起草者も、社会を機能させるのは私利にとらわれない市民としての徳である、という古典的な理想像に依拠していた。モンテスキューは「政治的な徳とは、おのれを投げうつことであり、これはいつであってもきわめて苦しいことである」と述べている。これこそエルヴェ・ド・トクヴィルが生涯守り抜いた掟であり、アレクシの先祖にあたるマルゼルブもこの掟に殉じて国王を擁護し、ギロチン刑に処されたのだった。しかしアメリカでは、貴族的な建国者が掲げた市民としての徳とは正反対に思えるものが、これに取って代わろうとしていた。
(略)
[アメリカは]決まった故郷も、過去の記憶も、先入観も、慣例も、共通の思想も、国民性もない社会なのですが、それでも私たちの国より百倍は幸せです。私たちよりも徳が高いから? そうは思えません。つまり問題の出発点はここなのです。これほど多種多様な人びとを結びつけているのはなんなのか、こんな状態からひとつの国民を作ってしまうのはなんなのか? 利益、これこそが秘訣です。
(略)
この共和国の原理とは、個人の利益を全体の利益と一つにさせることであるように思える。賢明で洗練された利己主義のようなものが、この仕組み全体を転換させる要となっているのは明らかだ」(略)
 『デモクラシー』のなかで、彼はそうした洞察を「利益の正しい理解」という言葉で具体化した
(略)
フランスでは家柄のよい貴族が商いに手をつけるのは後ろ暗いことであり、アメリカではまさに金銭を稼ぐことによって名誉を授かるのである。

インディアン強制移住

 その光景全体に、破滅と崩壊の空気というか、もう戻ってくることはない永劫の別れに似た感じが漂っていました。胸を突き刺すような痛みを覚えずにこれを見続けることなどできないでしょう。インディアンたちは取り乱してはいなかったものの、暗澹として押し黙っていました。英語を分かる者が一名いたので、どうしてチョクトー族は自分たちの故郷を離れていくのかと尋ねてみました。彼は「自由になるため」と返事をして、それ以上の言葉を引き出すことはできませんでした。明日、私たちは彼らをなにもないアーカンソーの地に降ろします。

「アメリカ人は安楽な生活のなかでなぜあのように落ち着きがないのか」

 不平等が社会の共通の法であるとき、最大の不平等も人の目にはいらない。すべてがほぼ平準化するとき、最小の不平等に人は傷つく。平等が大きくなればなるほど、つねに、平等の欲求がいっそう飽くことなき欲求になるのはこのためである。民主的な国民にあっては、ある程度の平等を人は容易に獲得するが、欲するだけの平等にはついに到達しえまい。それは日ごとに目の前を遠ざかり、しかし決して視界の外に消えず、後退しながら、さらに人をひきつけて、あとを追わせる。今にもつかめそうにいつも思えるが、握ろうとする手から絶えずこぼれる。その魅力を知るには十分近くに見えるが、これを楽しむほどには近づけず、その甘みを心ゆくまで味わう前に人は死ぬ。民主的な国に住む人びとは豊かさのなかでしばしば特有の憂愁を表わし、余裕ある静かな暮らしのなかでときとして生きることへの嫌悪にとりつかれるが、その原因はこれらの点に帰すべきである。

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