あらゆる小説は模倣である。

あとがきから

「無知な模倣」

初歩的な書き手だと、マンガやアニメで見た話や設定をそのまま小説に取り入れてしまうことが少なくない。
 それこそ「無知な模倣」あるいは「下手な模倣」というものだ。
 一方で、小説に限らず創作の世界には「オリジナリティ」という、一種の信仰のような観念がつきまとっている。真に才能のあるクリエイターは他人の真似などしないし、誰とも違うオリジナルな創作ができるはずだ、という近代的な観念である。
 しかしこの考え方は、とても危険だ。まったく無邪気にごくありきたりな創作をしても、それを「オリジナル」なものだと信じてしまう「無知な模倣」と背中合わせなのである。
 それを避けようと考えていくと、「オリジナリティ」に依拠した思想そのものが、じつは壁になっていることに気づかざるをえないのだ。
 本書が示そうとしたのは、その袋小路から脱出する道に他ならない。
 いいかえれば、小説が近代小説から脱皮する道を模索することでもある。

で、こういうことを言う人たちはパクリを問題にする一般人を遅れた人間であるかのようにバカにしたりするのですが、著者自身にも以下のような体験が。

パクられたかもと悶々

私がまだ評論家としてデビューする前、同人雑誌に小説を発表していた時代に、ある新人作家の作品に私の作品とそっくりの部分を見つけたことがあったのだ。いくつかの場面にことばづかいまで類似した描写があって、その場面が主人公の心理に及ぼす効果も同じように用いられていた。
 たまたまある出版社の編集者と話す機会があったので、私は疑惑の箇所の対照一覧表を彼に見せて相談した。すると、似ているといわれれば似ているようにも思えるという返事で、これではまた判断がつかず、いよいよ悶々としたものだ。インターネットもまだない時代だったから、結局のところ私は何もアクションを起こさなかった。というよりアクションのすべを知らなかった。するとしばらくして、その新人作家は名古屋のさる有力同人雑誌が主催する文学賞を受賞したのだが、同じ作品を商業文芸雑誌に二重掲載するというトラブルを起こしたのである。同人雑誌の主宰者が寄せた苦言が、地元の新聞に掲載された。それでも才能のある彼は書きつづけ、やがて芥川賞候補に挙げられるまでになった。そうして将来を嘱望されている最中に、なぜか彼は突然首吊り自殺してしまったのである。
 私のたんなる自意識過剰な思い込みだったのか、あるいは小説が書けずに悩んでいる新人作家の悪癖だったのか、当人がいなくなった今となっては、真相は永久に分からない。ちなみに最近になって、熱心なファンの努力によって、彼の作品集が復刊されている。文芸評論家として客観的に見ると、彼は瑞々しい可能性に満ちた作家だったと思えるのだが、私の胸中は今も少し複雑である。

ケータイ小説

ユーザーが楽しんでいるのは、ステレオタイプを打ち破るオリジナルな個性などではなく、むしろ分かりやすい「タイプ」を積極的に共有すること、共有しうる「タイプ」を素材にコミュニケートすることだったのである。もちろんそこに形成されるのは匿名を前提としたうえで、ありきたりな励ましや共感の言葉を交換するにとどまる擬似的コミュニティなのだが、真の自我の理解やコミュニケーションなど誰も最初から期待してはいないのだ。「真の自己」や「真の気持ち」はむしろコミュニケーションの障害でしかなく、それこそが孤独の源であるという経験が底にある。「自己」の無価値さや孤独さをよく知っている若者の階層こそが、ケータイ小説の基盤なのである。
 このような擬似コミュニティ感覚で結ばれた彼らが一番恐れるのは、むしろ弱い裸の自己が孤独なまま外界にさらされることに他ならない。近代文学はその種の孤独を文学的記号として発見して、すすんでそれを自覚し露出するところから出発した。逆にケータイ小説は、共有と交換がきわめて容易なステレオタイプな物語の鋳型で自己を覆い包むことによって、本当の孤独を外界から見えないように抹消しているのだ。
(略)
 ケータイ小説は、はっきりいって作家を志す者にとってはほとんど参考にならない、最も安易に稚拙に書かれた小説である。しかし、ケータイ小説に潜んでいるこの自己の抹消と保護という両義的な側面は、じつは今日のデータベース社会で書かれる小説にとって、重要な意味を持っている。

平凡な中年オヤジである私が、柄にもなくやおいのことにまで話題を進めたのは、べつにおたくよりもやおいのほうが進んでいるとかポストモダン的だとか力説したいからではない。素材を借りながら自在に作り替える二次創作というもののゲリラ的な本質が、より端的に表れているからである。つまり本書が提唱する模倣の可能性のなかの、先鋭な一サンプルと見ることできるのだ。