沖縄経済処分―密約とドル回収

沖縄返還において日本にタナボタ的利益を与えまいとする米国

  • 日本が沖縄のドルを回収すると日本の利益となる
  • 米軍が整備したインフラをタダでは渡せない

沖縄とザール

 第二次大戦終了後フランス領となったザール地方の人々は、47年6月に通貨を「ライヒス・マルク」から「ザール・マルク」へと交換させられた。そしてその五か月後の47年11月、今度はその「ザール・マルク」が「フランス・フラン」へと切り替えられた。(略)
 さらにその後、ザール地方はドイツに返還されるのだが、それに合わせてザール地方で流通していた「フランス・フラン」は「ドイツ・マルク」へと交換された。米政府の交渉チームが注目したのは交換した後の通貨の処理だった。フランは廃棄されることになっていたのだ。
 その地方にだけ流通する「中間通貨」を導入するという方法。交換した通貨を相手国に廃棄させるというやり方。

塩漬け

[米国内で交わされた単語washとは、回収したドルを日本が廃棄することを意味した]
 ウォッシュや中間通貨導入に対する日本側の反対も考えて、米側は別の奇策を考えていた。回収したドルを第三者に預託してしまうというアイデアだ。(略)
 「回収ドルを引き出せるのは「日本の外貨準備がゼロに近づいたときだけに限る」など厳しい条件をつけて塩漬けにする預託契約を結ばせれば、日本は「良好な資産」を獲得したという立場を維持出来るし、このドルは日本の外貨準備にカウントされないので、米側からみれば「中立化」させることができる」
 このアイデアは「ニューヨーク連銀に25年間無利子で預け入れる」という最終決着と似ている。(略)米政府内には初期の段階から回収ドルの「塩漬け」という考え方があったことが分かる。

小笠原返還

 日本と米国の間で行われた通貨交換としては、奄美群島と小笠原の事例がよく知られていた。どちらも本土復帰のときのことだ。ただ、五三年の奄美群島の場合はB円と呼ばれる軍票と円の交換だったためあまり参考にならない。
 これに対して小笠原は六八年の返還時、島民が所有するドルを日本円と交換し、そのドルは日本政府の所有となった。そして日本側は回収したドルを使って、発電機や気象観測施設など米国の資産を三〇万九〇〇〇ドルで購入した。小笠原の人口は当時数百人で、一〇〇万人近くが暮らす沖縄とは規模が格段に違い比較にならなかったのだが、手法としては参考になった。(略)
 当初は現金払いで三億ドル、最終的には三億二〇〇〇万ドルと決まる資産補償は米国の国際収支に黒字として計上される。沖縄で流通するドルが一億ドルとすれば、日本が入手するドルをそのまま資産補償にあてても、米国はまだ二億ドル超の利益を得られる

沖縄の戦後は、通貨交換の歴史

 戦争終結後一年間、沖縄では事実上通貨なしの経済体制が続いた。(略)「労働の対価は、食料品や日常生活用品などか、もしくはのちに通貨と引き換えに回収された証書などによって支払われた」(略)
[46年4月B円導入、三か月後占領軍はB円を新日銀券と交換するとの布告]
47年8月再びB円も法定通貨に指定、新日銀券との二種類が同時に法定通貨として流通した。
48年、再び米軍はB円を「唯一の法定通貨」としたのち、58年9月、今度はドルを唯一の法定通貨とする布告(略)
B円からドルに変わるときは「これで米国の占頷が半永久化する」という反発と、「ドル圈に組み込まれた方が手広く活動ができる」という経済界を中心にした声が交錯していた。
 このドル時代が14年間続くことになるのだが、占頷下の沖縄の人々は戦後27年の間に五回も通貨が変わるという体験をした。

ニクソン・ショック

米国の政策が円切り上げにつながるのではないかと懸念を示した屋良主席に対して、総理府総務長官山中は趣旨以下のようなことを言っている。
 「切り上げは絶対にやらない。これまでも犠牲を強いられてきた沖縄が復帰するまではそんなことはさせない。閣僚会議でも日本の政策の犠牲に沖縄を追い込むことは絶対に許されないと言っておいた。誓って一ドル三六〇円のレートは崩さない」
(略)
沖縄は必死になって円切り上げ回避を願った。しかし、八月二七日、日本政府は変動相場制移行を決定する。(略)
[28日屋良山中会談]
山中「みんな円切り上げといっているが、一ドル=三六〇円が消えたわけではありません。(略)総務長官としてそのことは大蔵大臣に再三念を押してあります。したがって復帰時の通貨交換はその原則に立ってやるつもりです」

回収したドルの処理

 ひとつは、サンフランシスコ連銀職員を東京に招き、その立会いの下ににせ札の鑑定を済ませたうえ、ドル札はすべて焼却する。その「代わり金」はサンフランシスコ連銀からニューヨーク連銀の大蔵省ロ座に振り込んでもらう、という案だ。
 二つ目の案は、回収ドルの一切を日銀で鑑定しサンフランシスコ連銀へ輸送、代わり金を同連銀からニューヨークの大蔵省口座に振り込んでもらうという内容。
 三つ目は、回収ドルの一切を那覇または東京で外国銀行支店に引渡し、代わり金を大蔵省口座に振り込んでもらうという案だ。

通貨確認

 最終的には証紙を張るというアイデアは見直され、手持ちドルの全額を確認して、「あなたはいくらもっていました」という証書を発行するという方法に落ち着いた。(略)
[当時主計局長]相沢英之が心配したのは、投機的なドルが一斉に為替管理のない沖縄に向かえば、差額補填が巨額になってしまい、それが日本の財政負担に直結するということだった。
 だれを対象に差額を補填するのかという問題もでてきた。水兵ら外国人を除外することは決まったが、企業のお金はどうするのかなどという難問もあった。仮に個人のみを対象として法人を除外すれば、中小企業の多い沖縄では、法人名義の預金を下ろして個人名義に変えてしまうという事態も予想された。
 このような事態を阻止するためには、ある時点で抜き打ち的に金融機関の窓口を閉鎖し、預金凍結を強行することが必要になった。
 「個人がドルで借りている借金も円に直せば減額されるのに、預金だけ補償の対象としていいのか」という疑問も提起された。

 71年10月8日。屋良が午前11時から緊急記者会見を開いて声明を読み上げた。そして銀行など金融機関は午後1時をもって「琉球政府の命により」という紙を張り出してすべての窓口が閉鎖された。
 当初検討された証紙を紙幣に張ることは見送られた。その代わり、同じドルが複数回、確認場に持ち込まれるのを防ぐため、紙幣に「一九七二年祝復帰 琉球政府」と書かれたスタンプを押すことになった。
 那覇空港ではこの日たまたま沖縄を訪れた人々に対して500ドル以上の現金を強制的に地元金融機関に預け入れさせるという措置が発動された。(略)これで一儲けを狙った投機的なドルの流入は防げた。
(略)
[統治者・米国]は事前に何も知らされていなかった。当然怒った。
(略)
二度にわたるニクソン・ショックで、米側から何も事前通告がなく面目をつぶされた佐藤首相は、「頭越しというのはいいもんだね」とうそぶいたという。