この胸のときめきを サイモン・ネピア=ベル自伝

「この胸のときめきを」を作詞

[映像制作会社経営にも飽きがきていた65年頃『レディ・ステディ・ゴー』出演者手配をしているヴィッキー・ウィッカムと友達になり音楽業界仕事を薦められる]

 数日後、彼女が電話してきて言った。「チャンスよ。ダスティー・スプリングフィールドが歌詞を欲しがっているわ」

 本当の話、私はそれまで歌詞を書いたことはなかったのだが、かなり簡単なことのように思えた。(略)メロディーはもう決まっているのでそれに合うものでなければならないとのことだった。

(略)

我々は[夕食の]デザートを終えてからヴィッキーのアパートに戻り、傷のある古いアセテート盤から流れてくるイタリア語の唄に耳を傾けた。

 私は言った。「これはイタリアの曲だ。言葉はロマンチックでなきゃならない。"I Love You"で始まるべきだね」

 ヴィッキーはちょっと考えると、「"I Don't Love You"ではどう?」と言ったが、私にはちょっとキツすぎるように思えた。

「いや、それじゃあんまりだ。"You Don't Love Me"じゃどう?」この方が、ドラマチックだしイタリア的だったが、やや非難がましかったので少々和らげた結果、"You Don't Have To Love Me"となった。

 しかしそれではメロディーにぴったりしなかったので二つの言葉を付け加えた。"You Don't Have To Say You Love Me"(「この胸のときめきを」)グレート!これだ。

(略)

私はヴィッキーに言った。「やっぱり作詞家業は嫌だな、夜の予定が混乱するからね」「それならグループのマネージメントをやったら?」

(略)

[ダイアンとニッキーの写真を定形外の大きさに引き伸ばし]

二百枚の封筒を秘書に発送させた。もちろんレコードもいっしょに。翌朝七時、すべてのTV、ラジオ局のプロデューサーたちは郵便配達に叩き起こされるハメとなった。「すみませんね、郵便受けに入らないもんで」(略)

「あのレコード、聴いていただけました?すごいでしょう?いつそちらのショーで流してもらえますか?」

 彼らは躊躇する。「ええと……その……今のところ本当にたくさんレコードがあって……」

 私が口をはさむ。「ちょっと待ってください、あなたは偏見を抱いているんじゃないんですか?(略)彼女が黒人で彼が白人だということが問題なんでしょう?もしあのレコードをかけないというのなら、サンデー・タイムズかオブザーバーに電話してすべてをぶちまけますからね。あなたは汚い人種差別主義者だって」

 これはまったくひどいやり方だったが成功した。(略)七つのTV局のうちの六つの局がOKを出し、ラジオ局は総ナメだった。

 もちろんそのレコードは駄作だったのだが、にもかかわらず二ヵ月後にはダイアンとニッキーは有名になっていた――そしてこの私も。

ヤードバーズ

 ある日ザ・ヤードバーズが電話してきた。「サイモン・ネイピア=ベル?ダイアンとニッキーのすばらしいプロモーションをした人?僕たちのマネージングをやってもらえます?」(略)

 その頃、世界中のグループの中でどこから見ても押しも押されもしないグループが四つあり、ザ・ヤードバーズはそのうちのひとつだった。

(略)

 新しい仕事はえらく簡単なもののように思えた。(略)プロモーターから問い合わせを受ける。エイジェントはそのグループのスケジュールに従ってイエスかノーを出し、次いで料金を提示する。(その頃トップ・グループで一晩五百ポンドだった。)それからロード・マネージャーがいて、グループを会場まで運ぶ輸送機関の手配や彼らの機材がちゃんとセットされ動く状態にあるかどうかを確認する。マネージャーには契約者にサインするほかはほとんどすることがないわけだ。

 私の取り分は二〇パーセントだ。だから、一晩四百ポンドのコンサート契約にサインすると八十ポンド入ってくる計算になる。平均して週六回コンサートがあったから、週給五百ポンド余りになる。(略)

 しかしやがてよくない面も見え始めた。グループの連中がやって来てこう言うのだ――「俺たち家がいるんだ(略)住むところがないんだ。前のマネージャーは一ペンスもくれなかったんだ。で俺たちひとりずつに住むところをあてがってほしいんだ」

 それは要求というよりは嘆願に近かった。

(略)

私はEMIレコードに出向き(略)前金二万五千ポンドでなら、再契約を考えてもよいと言った。(略)当時のイギリスではそれまでにレコード会社がアーティストに払った契約金の最高額であり、そもそもそれまでは前渡金などなかったのだ。しかしどっちみち、ヤードバーズが世界中で売ったレコードの数を考えてみれば、EMIが一年足らずでもとを取るのは明らかだった。(略)

[EMI]には選択の余地がなかった。ヤードバーズは売れてるバンドだったのだ。

(略)

[家を手に入れたメンバーたち]がやって来た。

「シングル盤を作る時期なんだけど、どうしよう?」(略)

 私はロック・ミュージックのことなど何も知らなかったので、彼らの三枚のヒットレコードを買ってきた。(略)新しいレコードはこの三枚に含まれている要素のすべてを少しずつ混ぜ合わせたものがいいだろうという、分別ある結論に達した。彼らもこのアドバイスめかしいものに賛成したので私はスタジオを予約した。

(略)

グループは楽器の用意をし、適当なリズムを創り出そうとしばらくゴタゴタやっていた。(略)

[エンジニアは]時々私にどう思うかと尋ねた。私は彼の御機嫌をとっておきたかったのでかなりいいと答えていたが、彼があまり気をゆるめすぎないように、もうひとつピンとこないという答えも混ぜるようにした。(略)

グループがちょこっと演奏すると、ベースプレイヤーのポール・サミュエル・スミスがすごいバッキング・トラックができたと言った。彼と私は共同プロデューサーだったので、私は彼の意見を信じて次に進むことにした。

 次はヴォーカルだということだったがあいにく誰もどうするか考えていなかった。(略)[ポップスなんて]必死に頭を悩ませるほどのことはない(略)まったく意味のないフレーズを唄ったらどうかと勧めた――上にいって、下にいって、横にいって、後方、前方、四角に丸……てな具合に。そして私は紅茶を飲みにいった。

 戻ってくると彼らは私が言ったようにやり終えていて、とても楽しいものに仕上がっていた。しかし何となく私は自分があまり製作に携わったような気がしなかったので、曲の始めに一、二回"ヘイ"と叫んでみたらおもしろいんじゃないかと提案してみた。私の意見はかなり尊重されていたらしく、彼らはヴォーカル・ブースに入って曲のいたるところで"ヘイ"と叫び、とうとうそのまま録音された。

(略)

[完成した]テープを聴いていると、ヴィッキーが電話してきた。「『この胸のときめきを』がトップ・テンに入ったわ!」そして、私はヤリ手の作詞家でもあるという評判を得た。(略)

ヤードバーズと作ったシングルがチャート入りし、「この胸のときめきを」が第一位になると、あらゆる種類の人々からインタビューの申し込みが殺到した。私はシーンの新しい陰の立役者であり、音楽業界に殴り込んできた男であった。

(略)

初め私は本当のことを話そうとした。(略)

「まさか。そんなはずはない。そんなに謙遜しないでくださいよ。どうやってこのハードな業界でトップに躍り出たのか、本当のところを聞かせてくださいよ」

 彼らがあんまりしつこく聞きたがるので私はでっちあげの話を聞かせてやった――いかにして流行の音楽の傾向を分析し、いかにして適切なアーティストを選択し、いかにしてイメージを作りあげて交渉を成功させるか――これすべて嘘八百。

 彼らは言った。「『この胸のときめきを』ですけど、遠まわしな言い方であなたが言いたかったのは、今日ではロマンスなどというものは古くさいもので、そういった古い見せかけなど抜きでもセックスはOKだということですか?」

 私はそんな風に考えたことはまったくなかったが、なかなかよさそうに思えたので、言った。「まったくその通り!バカげたことはすべて捨てて楽しくやりなさい、ということさ」

 彼らは言った。「オオ!あなたっていう人はまったく、六〇年代を先取りしたような人だ!」

(略)

 私はロック・グループのことも音楽業界のこともほとんど何も知らなかった。私はただラッキーで、おしゃべりがうまかっただけだ。(略)

"口達者のサイモン"は最高に愉快な時を過ごしてたってわけだ。

ザ・スコッチ・オブ・セント・ジェイムズ、映画『欲望』

 "スウィング"のその夏の震源地は、ザ・スコッチ・オブ・セント・ジェイムズという飲んで踊れるディスコで、アドリブにとって代わってナンバー・ワンにのし上がった。第二位のクロムウェリアンよりいくぶんシックな店だった。(略)

[すぐ近くに]バッキンガム宮殿があった。ドアをノックすると誰かが覗き穴からチェックする。その人間が数少ない選ばれた者たちのひとりなら、素早く中に入れられてきらびやかな世界のゴシップ欄を飾る一員となるのだ。

 照明は暗く、雰囲気はもっともらしく、音楽はウィルソン・ピケットかオーティス・レディングだった。ミック・ジャガーとキース・リチャードが、似通った細身の金髪女性たちに囲まれていつも隅の方に陣取っていた。至るところに顔を出すジョナサン・キングも常連で、バーのカウンターにもたれて賢い年寄りのフクロウみたいに眼鏡の奥で瞬きしている。(略)彼は恐ろしいほどの禁酒主義だった。そしてたいていエリック・バードンが側にいて、これがまた耐え難いほどのおしゃべりで、酒のグラスを手離したことがなかった。

(略)

いちばん大きなテーブルにはライオネル・バートが、常時少なくとも五人くらいの若い男のコを従えて、まるで皇帝のように坐っていた。(略)

レノンとマッカートニーはクラブに住みついているようだったし、ストーンズのマネージャーのアンドリュー・オールダムも同様だった。そして、トム・ジョーンズ、キンクス、ゲリーとペースメイカーズ、ザ・クーバズ、クリーム、ムーディー・ブルース、ホリーズ、ジョン・ボルドリーと、彼のことをいつも「お母さん」と呼んでいたロッド・スチュアート、ザ・サーチャーズ、スウィンギング・ブルー・ジーンズ、といった英国音楽業界のありとあらゆる有名人たちと、映画界の有名人たちが集まってきていた。

(略)

夜中の十一時から朝の三時までの音楽産業界の溜り場だった。そこではゴシップが産み出され、もっともらしい顔をした客たちの間に危険を含んでばらまかれるのだった。(略)

 毎晩たいてい二時頃には、私は階下のディスコ・フロアーにいた。(略)

たいていはトム・ジョーンズがダンス・フロアーのスターだったが、実物はメディアを通して受ける印象より三インチほど背が低く見えた。彼は風車みたいに腕を振りまわしてその点を補ってはいたが、ほとんどいつも、彼の頭を優しく見おろすくらいの背丈の女のコといっしょだった。

 ある夜、アメリカからもうひとりのダンサーが到着した。"The Eve Of Destruction"の大ヒットを出したばかりのバリー・マクガイアーだった。彼は、太腿まであるブーツをはいて、狂ったナチのようにダンス・フロアーに踊り出た。同じ晩、上の階ではハンブルグからホルスト・シュマルツィーがやって来ており、ドイツ音楽産業界の進出が始まろうとしていた。彼はポリドールの経営を引き継ぐためにロンドンに滞在していたが、ロバート・スティグウッドと同席して、ザ・フーの「マイ・ジェネレイション」をリリースしてリアクションという新しいレーベルを発足する話をしていた。それは共同経営の始まりであったが、のちにドイツ人に音楽業界を牛耳られる結果を生む発端でもあった。

 またある夜、場違いなスーツを着た、灰色っぽい不健康な顔色のむっつりした中年の紳士が、踊り狂う集団をまっすぐに見つめながら何時間もつっ立っていた。(略)

「あれがアントニオーニよ、映画監督のね。彼は"スウィングするロンドン"を映画にするために来ているのよ」

 数日後私はサヴォイ・ホテルで彼に会うハメになり、映画「ブロー・アップ」にヤードバーズが出演することになったのだった。それは初めザ・フーがやるはずで、"スウィングする"状況に対するアントニオーニのニヒリスティックな見方を、楽器をぶっ壊すことで表現しようとしたものだった。

(略)

テーブルの脚の間をもがきながら私の方に這ってくる男がいた。ジョン・レノンだった。(略)

「何をしてるんだ、ジョン?」

 彼は長い間真剣な眼差しで私を見つめていたが、「僕の精神を捜しているんだ」と言うと、くるりと振り返って再び這っていった。

ヤードバーズ、『欲望』きっかけで

 ザ・ヤードバーズはみじめったらしいバカみたいな奴らだった。本当にそうだった。(略)

[家もヒット曲もやったのに]

彼らの不平不満はやまなかった。彼らはツアーもTVの仕事も嫌がった。

 いちばんやっかいだったのはベースのポール・サミュエル=スミスだった。ギグの時はいつでも酔っ払っていて、会場のことや観客やサウンドのことや、グループのメンバーのことまでぶつくさ言った。彼のようなのが平均的なロック・スターなのだと知るようになったのは、もう少しあとのことだったので、その頃はまったくとんでもない代物を抱え込んでしまったと思ったものだ。

(略)

[グループとの契約を]読み返してみた。それは私の弁護士が代行したものだったので私の側に有利なものだろうと思っていた。が、実際はだいぶ違っていて、契約書には、私がグループを所有しているのでもなければ雇っているのでもないことが明確に記されていた。グループが私を任命して、私が彼らのために働いているのであって、彼らが私のために働いているのではないということが強調されていたのだ。

(略)

ヤードバーズの連中を集めて告げた。「キミたちに大儲けさせてやろうじゃないか。ワールド・ツアーに行くんだ」

「でもそれは俺たちがしたいことじゃないよ」と彼らはいっせいに言った。「レコーディングに集中したいんだ。もっと曲を作る時間をとってアーティストとしての充足感を得たいんだ」(略)

 グループには、公演、レコード製作、作詞作曲という三つの主な収入源があった。公演に関しては私次第で金額をつり上げることはできたが、向こう一ヵ月間は彼らが休みに入っているからこの件から金は生まれない。レコードを作ることでレコード会社から支払われるアーティスト印税については(略)EMIから二万五千ポンド引き出しているので少なくともあと一年は問題外だ。で、唯一臨時収入がありそうな(略)作詞作曲印税に目をつけ、音楽出版業界の調査を始めた。

 作曲家は、普通、出版社に印税の五〇パーセントを支払っていることがわかった。これは、一九二〇年か三〇年代頃、まだヒット曲を出すのにかなりの時間と手間のかかった時に決められたものがそのまま続いているだけだった(略)

しかし今日、自分で曲を作るスター相手では、出版社のすることといえばPRS(演奏権協会)にその曲を登録するだけなのだ。(略)作曲家兼歌手にとって自分独自の出版社を作った方がいいのは明らかだった。その運営は、もっと少ないパーセンテージで本物の出版社に任せればいい。それで私はヤードバーズのために出版社を作った。これで少しはホッとできるかと思ったのも束の間、まだやることがあった――アルバムを作る時期だった。

 アルバム作りは苦労ばかりであまり楽しいことではなかった。まず、彼らはスタジオに入るまでに曲を作ってくるということをしない。ただ楽器を持ってやって来て、コードとリズムとリフをいじくりまわすうちに少しずつ曲になってゆくのだった。(略)

[他もそうだと]知らなかった私は、ずいぶん素人っぽくて要領を得ないやり方だと思った。

 それから、ジェフ・ベックと他のメンバーとの間のもめごとがあった。ジェフはグループの中でも際立った才能の持ち主で、本当にいいギタリストだったが、他の連中が彼にその才能を発揮できるだけの自由を与えなかったので、ジェフは始終いら立っていた。後に私は、ロック・ミュージックが持つ炎のような質と攻撃性はグループ内部の緊張関係からくるものであり、それ故に、グループ内部のあつれきを解決しようとすることは必ずしも賢明なことではないということを学んだ。

(略)

 あるブルース・ナンバーでジェフがソロのパートを与えられた。他のメンバーはそのことについて、まるでそれが彼らからの気前のよいプレゼントであり、ジェフにチャンスを与えてやったかのような話し方をしていた。その寛大な処置に対してジェフは、ソロの間中、たったひとつの長い音を出し続けていた。

 メンバーは皆嘲笑った。「ワオ、お前にせっかくソロを弾かしてやったのに台なしにしやがって。ちょっとしたリフもやれないのかよ」

 ジェフは不機嫌にドサッと腰を下ろし、その件はそれで終わった。しかし結局そのいわく言い難い一音のソロはアルバムのハイライトのひとつになってしまった。そして、それはそのもととなった不機嫌な感じなしにはできないことだったのだ。

(略)

[「ブロー・アップ」出演]

 トラブルはそれから起きた。ジェフは楽器を壊すことを非常に楽しんだ揚句にやみつきになってしまい、ギグのたんびに、ギターやアンプをぶち壊し始めたのだ。

 次に、ポール・サミュエル=スミスがやめていった。(略)「もし何かをすることが世界中の何よりも嫌になったら、あんたはどうする?」と彼は言った。

「そうすることをやめるね。何かい?そんな嫌なことがあるのかい?」

「ヤードバーズにいること」

(略)

彼は四週間後にやめると通告し、その間ずっとロック・ビジネスを嫌うありとあらゆる理由をしゃべり続けて、他のメンバーを落ち込ませた。そして彼は去り、そこで彼といっしょに憂鬱や怨恨も去ったので、彼はいい奴になった。残りのメンバーは相も変わらず不平不満の虫だった。

(略)

ジミー・ペイジが加わった。彼は動作も話し方も穏やかな人間だったが、グループに加わってからは、ポールがそうであったように緊張と不安に巻き込まれていった。

ロック・グループのイメージ戦略、激怒アンドリュー・オールダム

 今日までに私はロック・グループに関してもう二、三のことを学んだ。一つは、音楽を売るのではなくてイメージを売るのだということ。若者たちは感情移入するための、手っとり早いパッケージングされた生活様式を求めている。それは自分たちの感じ方、生き方を表わしてくれる簡単な象徴であり、すがることのできる何かである――それは手の届くものでなければならない。

(略)

彼ら自身の望みを代行しているイメージを持ったグループを選べばよい。(略)ローリング・ストーンズ→暴力的で退廃的。ザ・フー→反逆的で攻撃的。ヤードバーズ→内攻的で気難しい……。

(略)

ファンをひきつける第一の要素はそのイメージであることをグループは学ぶべきである。しかしたとえそのイメージが暴虐的で尋常ではないものでも、やる音楽は聴きやすく覚えやすい流行のものにしなくてはならない。有名になるためには、時流に合ったスタイルで近づきやすい音楽を作りあげ、そこに普通ではない、という外見上のイメージをほんの少し付け加えるというやり方がベストであるからだ。音楽業界ではあるひとつのグループに目をつけたならまずそのグループのイメージを決定する。セクシーで売ろうと思ったら、寛大なる大衆を憤慨させるくらいセクシーに作りあげるのだ。ズボンにバナナを描いてもいいし、ステージで胸をはだけてみせてもいい。暴力的にしようと思ったら、同様にサッカーの会場で暴力沙汰を起こさせたり街なかで年配のレディを蹴っ飛ばさせたりすればよい。そうするうちに大衆はそういった噂を聞きつけてそのアーティストの最初のレコードを心待ちにするようになるのだ。彼らはそれが危険でスキャンダラスであることを期待し、発売と同時に耳を傾ける。しかしその音楽自体は暴力的であろうがなかろうが、時流に合ったありふれたものでない限りヒットはしないのだ。

 ヤードバーズのよかったところは、そういう聞きやすくて覚えやすい曲をシングル・ヒットさせることの重要性を理解していた上に、ミュージシャンとして優れているという評判を維持したことにある。それは主にジェフ・ベックの優れたギターの才能によるものだったが、今ジミー・ペイジが加わって彼らは二人の優秀なギタリストを得ることになった。その上、ジミーは他のメンバー以上にグループのイメージの重要性を理解していた。

 ヤードバーズはストーンズといっしょにイギリス・ツアーをした。まったくセンセーショナルだった。ジェフ・ベックとジミー・ペイジがステージの両端に陣取って、レコードで有名なジェフのソロ・プレイのすべてをステレオ版で演奏したのだ。

(略)ギグのあと、レポーターがジェフに訊いた。「ストーンズには観客が押し寄せたのに、あなたたちには誰も寄っていかなかったという事実をどう思いますか?」

 ジェフは、多分ジミーがそばにいたからだろうが、いささか尊大で神経過敏になっていたので愚かしくもこう答えた。「押し寄せた?ストーンズのマネージャーが金をやってステージに駆け上がらせたあの三人の女のコたちのことを言ってんの?」

(略)

アンドリュー・オールダムはアタマにきた。(略)「我々はキミたちを名誉毀損で訴えるぞ」

 私は冗談だろうと思ったのでこう言った。「それはいいや、いい宣伝になるよ。さっそく会ってプランを練ろう、費用は半々でどうだい?"ストーンズ、ヤードバーズを告訴"なんてきっとすごい注目を浴びるよ」

 アンドリューは怒って電話を切ってしまった。(略)共通の友人が電話してきて、「アンドリューがキミを痛い目にあわせようと恐いのを送ったらしいぜ」と教えてくれた。(略)

秘書にその"恐いの"が来たらお茶を出して丁重に扱うよう指示した。「"ネイピア=ベルはすぐに戻るはずです"と言ってくれ。(略)」

 私が出たあと、恐いお兄さんたちが予定通り現われた。彼らはお茶を出されて秘書とおしゃべりした。彼女はそいつらのカリフラワーみたいな耳や、つぶれた鼻に気づかないふりをしていた(略)彼らは日当で雇われていたので私が事務所に戻らなくてもあまり気にせず、中止命令が出されるまで十日間も居坐り続けた。まったくおかしなことに、その後アンドリューに会った時彼はとてもにこやかだった。自分のしたことなど、すっかり忘れてしまったらしい。

(略)

[アメリカ・ツアー]

ニューヨークの空港に着いたとたん、ハーマンズ・ハーミッツが専用ジェットで到着するところを目撃。(略)

 さて、我がヤードバーズはどうすると思う?そう、もちろん、「俺たちも」と言い出す。そして、ひとりしかいないステュワーデスをメンバーのひとりが独占したらどうなると思う?……

 というわけで、我がヤードバーズは専用ジェットで移動することになった。ひとりにひとりずつ専用ステュワーデス付きで。

(略)

 次のささいな問題。

「アントニオーニ、あなたに感謝します」……ジェフは完璧にアンプ壊し中毒になっていた。(略)

 一週間経ち、アンプは底をつき、ジェフは「ノー」と言った。従ってグループは四人でやっていくことになり、私はやっとアンプの手配から解放されてカリフォルニアに休息を取りにいった。

(略)

マーク・ボラン

 私は事務所の方にテープを送るように言ったが、彼はちょうど私の家の近くにいるから持って行ってもいいかと尋ねた。十分後にドアのベルが鳴り、首からギターを下げた彼が入ってきた。

「本当のことを言うとテープは持ってないんだ。でも今ここで歌ってみせるよ」

 そういうやり方は私の好みではなかった。(略)

とはいえ私は彼に歌わせるしかなかった。なぜなら彼を一目見た瞬間、私はピンときたのだ。

(略)

 五フィート二インチ、黒髪をもじゃもじゃのカーリー・ヘアにして、ディッケンズ時代のわんぱく小僧といった服装のマーク・ボランは自分が小柄であることをむしろ喜んでいた。(略)自分を小さな妖精のようなロック・スターだと見なしていた。

 自分をいっそう小さく見せようとするかのように、彼はいちばん大きな肘掛け椅子に足を組んで坐った。そしてギターにカポタストをつけながら言った。「ギターはあまりうまくないんだけど、曲はとてもいいよ。きっと気に入ると思う」

(略)

 一曲終える毎に、彼は私に、「どお?」と訊いたが、私は五十分余りも聴き続けてやっと彼にストップを出し、電話を取ってスタジオを予約した。我々はすぐにスタジオに出かけ、また最初から曲をやり始めた。夜の八時だった。

 彼は独特なゆらめくような声を発明しており、それと巧みな言葉遣いが産み出す世界とがいっしょになって、どの曲にも彼の小妖精のようなイメージと完全にマッチした奇妙な雰囲気があった。……彼は本当に、自分のことをよく理解していた。

(略)

 デザートを食べている時、彼が訊いた。「セックスに関しては?あなたはどういうタイプ?」

「私のセックス・ライフは完全に独立したものとして存在しているよ」と私は言い、なぜこんな質問にも怒らずにいるのかと自問した。

(略)

 彼は私に言った。「たいていの人々は肉体的な問題としてセックスを話題にするけれど、僕はセックスとは完全に精神的なものだと思うんだ。例えば僕が誰かにキスする場合、それは肉体的行為ではない。僕はその誰かの精神にひかれているんだ。その誰かの頭の中にあるものを、僕は手に入れようとしているわけだ」

「神よ!彼は獲物の知性を食って生きる小さなバンパイヤだ。だからこんなに頭がいいんだ」と私は胸の中で思った。

 彼は言った。「またやって来て、あなたと一晩過ごしたいと思うんだけど」

 次第に居心地が悪くなってきた。私は言った。「それはあまりいいアイディアじゃないと思うよ。きみは私の脳ミソを盗むかもしれない」

「でも、ひと目見たら必ず返しますよ」

「キミの脳ミソの二〇パーセントを付け加えてね」と私は彼に言った。「マネージャーが欲しいなら必要なものは払わなくては、ネ」

(略)

 彼は主張した。「でも、僕たちはポスターを発表するだけでいいんじゃない。皆、僕の写真を見ればすぐに騒ぎ出すよ。大衆は僕みたいなのを求めているんだ」

(略)

 私は彼に、まず一般的なやり方に従わなくてはならないということを説明した――最初にシングルを作って、そしてヒットを出す。

 最後には彼も承知して、シングル用の曲をひとつ選ぶことになった。それが「ヒッピー・ガンボ」で、ナルシシズムあふれる自己承認の歌だ。

――男に会った。いい奴だった。その名をパラダイスといった。その時は気づかなかった、彼の顔と精神は僕のそれだったとは(略)

ヒッピー・ガンボ、彼は最悪。焚き木にしてしまえ。

(略)

 次の仕事は、彼にその曲にはアコースティック・ギターの他に何らかの楽器が必要だということを納得させることだった。(略)彼のギターのフレーズに合ったスタッカート・コードをストリングスで控えめに入れる。ベースもドラムもなし。

 いったんそのアイディアがマークの気持をとらえると、それは彼独自のものとなった。

「本当にいいものになるよ。このストリングス・パートは木々を意味しているんだ。そして僕はその森の中で迷い子になった子供みたいなものだ。人々にはそう聞こえるよ。彼らはこんな美しいレコードを作ってあげたことで僕に感謝するだろうな」

(略)

 我々はシンプルなストリングスが欲しいと言ったのに、アレンジャーはまったく耳を貸さず(略)"メシア"とベートーベンの"第九"が混ざったようなヤツを披露した

(略)

[レコード会社全部を回ったが低評価]

「なあ、キミはアーティストだ。(略)

レコード会社の連中はごく普通の一般的な道理に添った人間だ。(略)

彼らがキミの芸術性やビジョンに興味があるかないかなどと考えてもしょうがない。彼らはそのプラスチック盤を売るための売りやすい音楽が欲しいのさ。そしてキミは彼らにそれを与えようとはしていないというわけだ」

 マークはすっかりしゅんとしてしまった。彼は、世界中で愛されるという確信があったのだ。私が話しているうちに、彼の顔は蒼白になり身体が震え出した。(略)

「OK、どうしたらいい?彼らが望むことは何でもするよ、あなたが言うことは何でもその通りにする」

(略)

「バカなこと言うなよ。あいつらは腐った奴らなんだ。自分のしていることを信じろよ。あいつらの言うことになど耳を貸すな」

「違う、僕たちはあの人たちの言う通りにやらなきゃならないんだ。あなたにも芸術うんぬんですべてをぶち壊してほしくない。僕はスターになりたいんだ!」

 唇を固く結んだマークは恐ろしいほど真剣で、"スター"という言葉を言う時には握りこぶしでテーブルを叩いた。それから彼はトイレに駆け込んだ。吐いているのがわかった。

 彼は二十分ほどもトイレにいた。戻ってきた(略)

 彼は言った。「あなたが正しいよ。僕は何も変えないよ。奴らはただの無知なアホウどもだ」

(略)

マークは、ジェイムズ・ディーンのイメージとその死後に育った伝説をこよなく愛していたので、私はジョンズ・チルドレンに入ることを説得するのにそれを使おうと思った。私は言った。「グループに加わると、スターダムへの道がひらけるんだよ。ジェイムズ・ディーンのようになってポルシェを手に入れたかったら、早いとこ金持ちにならなきゃならないだろう」

「違う、違う」とマークは言った。「ポルシェは僕には向いてないよ、僕は小柄だからミニがぴったりだと思ってるんだ。僕が自動車事故で死ぬのならミニに限るね。そんな気がするんだ。そしたらすごいだろうなあ」と彼は言ったのだ。

キット・ランバート

ザ・フーはコンスタントにヒットを出すようになっていたが、キットは金が入ってもすぐに、途方もないプロモーションを思いついてそれに使ってしまうので、相変わらずいつも破産寸前だった。

 ある朝、キットがレコード・プレイヤーを抱えて出かけようとしているところにぶつかったことがある。初め彼はプレイヤーを修理に出しに行くのだと言っていたが、すぐに質に入れにいくところだと認めた。グループに一週間分の金を払うために。そうしないと、彼が"グループの代表者"と呼んでいるベーシスト、ジョン・エントウィッスルの母親のコワい訪問を受けるハメになるのだった。

(略)

 キットの父親はコンスタント・ランバートという作曲家だった。彼はアルコールのとりすぎから、四十三歳でその輝かしい経歴半ばにしてこの世を去ったが、キットはこのことを、一種華々しい死去と受け取っており、自分自身の人生にも似たような出来事を起こして、人々にインパクトを与えたいという野心を抱いていた。単に成功するだけではつまらない、と彼は言っていた――成功したいのは、破滅させるための実体が欲しいからであり、とてつもない不幸を創造することが最終的な勝利だ、と。

(略)

[ザ・フーの楽器破壊を批評家は]アナーキーだとか暴力を煽動しているとか見なしたが、本当はそういうものではなかった。彼らの攻撃は外部に向かったものではなかった。彼らの壊した機材は彼ら自身の延長であり、象徴的な自殺行為だったのだ――楽器を破壊することによって、自分たちと聴衆とのコミュニケイションの手段を破壊するわけだ。事実それは、キット・ランバートの父親の酔いつぶれた自己破壊のさまをグラマラスにステージ化したものだ。

 それでもまだキットは満足せず、その父親の自己破壊行為を、自分自身にも適用した。ただし酒ではなく、ドラッグを使って。

 彼は一日を晴れやかにするためにコカインをたっぷりひと息吸い込んで目覚める。そしてタクシーの中でブランデーを四分の一壜ほどあけて、朝十一時にオフィスに到着し(略)ジョイントに火をつける。次に、引き出しからピルの入った皿を二つ取り出し(略)それぞれの皿には、気分をハイにさせるのとダウンにさせるのが入っている。

(略)

 彼の秘書がブザーを鳴らす。「デレク・ジェイムズがドイツからかけてきています」

 キットはパニックに襲われる。「大変だ(略)今はとても彼とは話せそうもない、ハイになりすぎてる」

 彼は鎮静剤(ダウン)の方のピルをひとつかみ取り、ブランデーで飲み下して言う。「ちょっと待ってもらってくれ。(略)」

そして数分後には、ボンヤリと静かになっている。(略)

[OKを出すと]秘書が言う。「キット、ごめんなさい、彼、待っててくれなかったの。切ってしまったわ。でも今また別の電話が入ったの。ボビー・スタインよ。(略)」

(略)

「ボビー・スタインを相手にするにはハイな時じゃないとダメなんだ。かけ直してもらってくれ」(略)

皿からアンフェタミンをつかみ取って無理矢理喉に押し込む。(略)

 再び秘書の声が言う。「ごめんなさい、キット、彼、今すぐにあなたと話さなきゃならないと言うのよ」(略)

あと一分待ってもらうよう頼み、乱暴に机の引き出しを開けてコカインを取り出すと、残っている分を全部やってしまう。(略)

 用意ができると、ボビー・スタインの電話を受ける。すると再びデレク・ジェイムズがかけ直してきて、また鎮静剤を飲み下すハメになる、というわけだ……

(略)

私の車の助手席に沈み込んだキットは、もう限界だと言い始めた――金は出ていくばかりで満足に入ってこない、支払わねばならない給料と買わねばならない楽器。ザ・フーの連中には彼の経済的問題などわかろうはずもなかったし、銀行も同じだった。彼はみじめだった。(略)

 彼がハンカチを取り出すと、紙切れが私の足もとに落ちた。拾いあげてみると、オーストラリア・ドルで七千ドルの小切手だった。(略)

「アー!何てことだ!去年のオーストラリア・ツアー以来ずっとそこに入ってたんだ。もうずいぶん長いことこの服を着てなかった!」

 彼はくすくす笑い始めた。(略)

「すごいや、まったくすごい。こいつは祝杯ものだ。行こうぜ、クレイジー・エレファントに連れていくよ」

 だが私は彼といっしょにいて疲れ果ててしまって、もうたくさんだった。

 彼は私がその誘いを断ったので傷ついた。「じゃ、いいや。オレひとりで行くよ。でも、少し金を貸してくれないか?今夜はこのチェックを現金にできないだろ?」

(略)

私は彼に三十ポンドやって家に帰り、彼は車を降りてタクシーを拾った。

 一時間後、私は玄関のベルで起こされた。キットだった。夜中の一時半だ。

 彼の顔は蒼白で、うっすらと汗をかき、震えていた。

(略)

「オレは宗教的な体験をした。(略)

魔法の顔だ。(略)若さと美と知性がひとつになった(略)

生まれて初めてオレは完璧な人間を見たんだ。天使だ。(略)」

[キットとクラブに戻ったがそんな美少年はどこにも見つからない]

だしぬけに言った。「でも彼らはみんなとってもかわいいじゃないか。どれがそうだったのかはとても決められないよ」そして彼の喉の奥のどこからか、例のレーシング・カーの笑いがこみあげてきた。(略)

次回に続く。

 

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レッド・ツェッペリン オーラル・ヒストリー その4

前回の続き。

長過ぎるソロ、崩壊する人間関係

サム・アイザー 彼らがステージに立つべきじゃなかった状況も何度かあった。ジミー・ペイジがトイレで眠ってしまった時は、それはもう大変だった。

ベンジー・レフェブル ジミーにカフェインを注入して、なんとか彼をまともに動けるようにするためにあれこれ手を尽くして、もう何時間遅れかも分からないほど時間が経過してからステージに立ったこともあった。それでジミーの合図に合わせてスポットライトが後ろから彼を照らすと、彼はダブルネック・ギターで〈永遠の詩〉を弾き始めるんだ。でも時々彼は12弦の方でコードを押さえつつ、6弦の方をじゃかじゃかかき鳴らすこともあってね。そういう時のロバートはとにかくうんざりした顔をしていたよ。

 ある晩のこと、ジミーが例の30分にも及ぶエゴ丸出しの自意識過剰のくだらないソロをやっていた時――(略)ボンゾのソロもやはり同じような代物になっていた――ロバートが言ったんだよ。「レディース・アンド・ジェントルメン、ミスター・ジミー・ペイジです」と。そしてそのままそこに突っ立って彼を見ていた。いつものロバートならステージから降りて、ブロー・ジョブをしてもらうのにさ。

ロバート・プラント 何をやっていたのかはさておき、あれはとにかく私にとってはちょっと長過ぎた。それほど良いものじゃなかったと言っているわけじゃないよ。ただあれが始まると私は自分がやるべきことを考え始めなくちゃならなかったんだ。というのも、(ソロに合わせて頭を振るなどのアクションをしていても)しばらくすると、何かのインドの商人みたいに自分の頭をぐらぐら揺らしているただの間抜けみたいに見えてくるからさ。

ロス・ハルフィン 一度、〈幻惑されて〉の途中でロバートがステージ横にやって来て言ったんだ。「あれを見てみなよ。ありゃ単なる長いギター・ソロだ。で、オレに何をしろって言うんだろな?」と。でもその時ピーターが彼に言ったみたいなんだ。「このバンドが誰のものなのかちょっと思い出してみろ。クソッタレのお前のもんじゃないだろ」とね。

(略)

ゲイリー・カーンズ ステージ上の4人全員がまともな時の彼らは無敵だった。でも、4人全員がまともというのはかなり珍しいことだった。プラントが次の曲を紹介しても、ベイジが間違った曲を始めるということも時々あったしね。シカゴでのショーでペイジが冒頭の数曲を終えた途端に座り込んでそのまま気を失ったことがあった(略)あの日のショーはそれで終わりだった。

ヤーン・ユヘルスズキ シカゴのショーを打ち切らなければならなかったのは、ジミーが腹痛に襲われたからだった。でもちょっとしたイライラは至る所にあったわ。人間関係にひびが入りつつあるのが目に見えるようだった。それと、ロバートとジミーの間の緊張関係がだんだん酷くなっていくのもよく分かった。

ベンジー・レフェブル ステージの前の方でアコースティック・セットをやった時、後ろでボンゾがタンバリンを叩きながら(ドラッグの影響で)意識がもうろうとしていたことがあった。彼とジミーは、個人的にもの凄く大きなフラストレーションを感じていたと思う。彼らはなぜ自分たちが以前のようにちゃんと演奏できないのか、理解できていなかったからね。

ジョン・ポール・ジョーンズ テンポがあまりに遅くて、なんとか力づくでそれを速めなければならない夜もあった。それから時々ジミーが変な曲の始め方をすることもあった。

ジミー・ペイジ (ドラッグについては)まったく何も後悔していない。なぜなら本当に集中しなければならない時の私はちゃんと集中していたからね。

(略)

ベンジー・レフェブル はっきりと二つの集団に分かれていた。ボンゾとジミー、そしてジョンジーとロバート(略)

荒れ狂うボンゾ

ジャニーン・セイファー 私がスワン・ソングを辞めた時、彼らはかなり不服そうだったわ。(略)あれはマフィアみたいだった。私はロックパイルやエルヴィス・コステロやスティッフ・レコーズのために仕事がしたかったの。なぜって、あの時はそれがクールだったからよ。私がジェイク・リヴィエラにー――その後にニック・ロウに会ったのは、エドモンズが紹介してくれたからだった。ジェイクは、私の人生で出会った人の中で誰よりも優秀な人間の一人だった。マーケティングの天才で、ヴィジュアルに関してはとてつもない才能に恵まれていた。でもあっという間に、彼の大きく見開いた目のような純真さが、恐ろしくて気持ちの悪い何かに変わるのを目にすることになってね。彼はいつも信じられないくらい攻撃的だった――皮肉にもコールやビンドンのように。私が思うに、エルヴィスが彼をクビにしたはずで、そしてその理由は――これも推測だけれど――彼が耐え難い存在になったからだろうなと思う。

(略)

パメラ・デ・バレス ボンゾはやさしくて、愛くるしくて、間抜けな男だった。ただしそれは酔っぱらうまでの話で、その後は彼を避けるに越したことはなかった。私は彼が私の友人のミシェル・マイヤーのアゴをげんこつで殴るのを見たもの。

(略)

エイブ・ホック ボンゾは人でなしだと、私は思ったよ。(略)彼の内面奥深くに潜んでいる獣が、とにかく反社会的行動を引き起こすんだ。(略)私の父はアル中だったが、アル中患者の近くにいると、何か怖い感じがするんだよね。

スティーヴン・ローゼン(『ギター・プレイヤー』の記者) 最近ボーナムに関して書かれたものはどれも(彼に対し)好意的だよね。でも、実際の彼は醜いろくでなしだったんだ。ゼップと一緒にいた時の私は、彼がいる方向を向くのすら怖かった。みんなはそうした部分はほとんど話さないけどね。

サイモン・カーク 驚いたことに、彼はそれでもちゃんと演奏していたんだ。メンバー間ではそれだけ高いプライドが共有されていたんだ。つまりショーの間に演奏不能になることは、とにかく御法度だった。

(略)

ただし、ギグが終わってからのジョンはすべてにおいて無責任な男になった。(略)ただ大騒ぎするのが好きだったんだ。

(略)

オーブリー・パウエル 最後のアメリカ・ツアーの際、私は何かのアートワークについて検討しようと思って、プラザのボンゾの部屋のドアをノックしたんだ。するとミック・ヒントンが出てきて、「ええとね、今日はそんなに調子が良くないから、気をつけろよ」と言った。実際、ボンゾは人を疑うような目つきで、支離滅裂で、完全に自制心を失っていた。彼がコカインをやっていたのは明らかだった。意識が飛んだかと思うと、また戻って来る、という感じでね。これは真っ昼間の話だったけれど、とにかくまともな会話が成立しなかった。基本的に彼は退屈していたんだね。だから時間をやり過ごすために、彼はヘロインやアルコールに頼ったんだ。

デニス・シーハン ショーとショーの合間の日々にボンゾはもう耐えられなくなっていた。もし彼の手に家に帰るためのジェット機があったらなら、彼はそうしていただろうな。

(略)

グレン・ヒューズ 私とジョンの関係は酷い形で終わりになった。『狂熱のライヴ』のプレミア上映がLAで行われた時(略)私たちは一杯飲んで、ちょっとコカインを吸った。楽しく過ごしていたんだ。ある意味でね。それで私たちはビバリー・ヒルトンに戻り、ジミーと一緒にちょっとコカインを吸った。

(略)

[プレミア上映の]パーティー会場に赴くと、子どもだったジェイソンがドラムを叩いていた。それで私はバーに行ったんだけれど、その時、視界の片隅に5~6メートル先に紛れもなく"ボンゾ・モード"になったボンゾがいたんだ。そしてあろうことか、彼はクマのように飛びかかってきて、私のアゴに一撃を食らわせた。それはかなり酷いケガで、下の歯が1本、大きく欠けてしまった。(略)

外にはロールス・ロイスが6台並んでいてね。ボンゾはそのうちの1台が私用だと思ったみたいで、そのフロントガラスにレンガを投げて粉々にした。私が彼を目にしたのはそれが最後だった。あれについては今でも悲しく思っている。私は彼のことをとにかく愛していたから、酷く胸が痛んだよ。

オークランド事件

[グラントの7歳の息子ウォレンがトレーラーの正面についている標識が欲しいと駄々をこね、ビル・グレアムのセキュリティ・スタッフがそれを取り上げ、ウォレンが倒れ、それを目撃したボンゾが股間にキック]

ジム・マットゾルキス ピーター・グラントはずっと、「(お前は)私の息子にそういう口の利き方はできないはずだぞ」と言い続けていた。

(略)

グラントはとにかく私を殴りまくった。

(略)

ジャック・カームズ 私はあのドアの外側にいたんだ。文字通り、袋だたきになっているかわいそうな彼から1・5メートルくらいのところにね。あの一件が示しているのは、あの時点の私たちがどれほど現実離れした世界に生きていたかということだね。(略)

ミッチェル・フォックス (略)あれはビル・グレアムとバンド(略)との巨人同士の激突だった。要するにすべては、あの時誰が誰の縄張りに足を踏み入れていたのか、という話だったんだ。

サイモン・カーク もちろんあれの根底にはドラッグがあった。Gはいつもはみんなを説得して落ち着かせる役目だったんだけれど、ただし、彼もみんなと同じくらいコカインをやっていたから、平常心を常に保てていたわけじゃなかった。

ジャニーン・セイファー ビンドンがいなくてもオークランド事件は起きていたかって?絶対にそれはないわ。(略)あの一件の責任はすべてビンドンにあると思う。その火を煽ったのがリチャード・コールで、それにピーター・グラントの妄想が拍車をかけたのよ。(略)

ビンドンはケンカがしたくてうずうずしていたし、リチャードもそれは同じだった。(略)ピーターに、「これを受け入れるつもりか?」と言って彼を挑発して、それでドラッグが招いた狂気と妄想にかられた彼は、ほんの1分半の間に、「お前ら、奴をつかまえろ!」となったのよ。

(略)

ピーター・バルソッティ(ビル・グレアムのスタッフ) あそこにいた人間の中で、唯一まともなのはプラントだけのように見えたな。ただし、あの状況には無実の奴なんて一人もいなかった。一人もね。

ロバート・プラント 私は、部下の愚連隊が酷い態度でうろついているという事実にヒヤヒヤしながら、〈天国への階段〉を歌わなければならなかった。あれは二つの暗黒勢力がぶつかって生じた出来事だった。(略)

ジミー・ペイジ 私は現場にいなかった。だから何が起こったのかは知らないんだ。そのことを聞いたのはあの会場を離れてからだった。だから私は知らないんだ。これについては特に話したくもない……。

(略)

ユニティ・マクリーン (略)本来彼らは、「ウォレン、二度とそんなことはするな。(略)」と言うべきだった。でもピーターはウォレンにそうは言わなかった。そしてビンドンとコールが喜ばせたいと思っていたのはピーターだった――ロバートとジミーじゃなくてね。

(略)

ヘレン・グラント あのオークランドの一件のせいで、父とバンドの間にはかなりの悪感情が芽生えてしまったと思う。特にロバートとの間にね。

ジャニーン・セイファー (略)ホテルにはビンドンとコール、それにグラントとボーナムに対する逮捕令状が届いていたの。それで私たちは真夜中にそこから逃げ出したんだけれど、確か誰も訴追はされなかったと思う。スティーヴ・ウェイスが"何か"をやって、それで話が収まったのよ。でもビル・グレアムは絶対に彼らを許さなかった。

プラントに悲劇

[オークランドからニューオリンズに飛び、プラントは息子の死を知る]

ロバート・プラント (略)ある瞬間にニューオリンズにいて、新しい世界の人気者になって、そして何の予告もなく突然一本の電話を受け取ってみればいい。息子が死んでしまった、っていうね。歌う意志をすべて失ってしまわなかったことが、私にとっての幸運だった。(略)

ジャニーン・セイファー (略)ニューオリンズからニューヨークまでの移動には私も(ロバートに)同行した(略)

ジミーとジョン・ポールとピーターがお葬式に行かなかったのは信じ難かった。

リチャード・コール ジョン・ポールとは連絡が取れなかったんだ。(略)ジミーの居場所は誰も知らなかった。

(略)

ニック・ケント ペイジとジョーンズとグラントが葬式に来なかったことにプラントが苛立っていたと聞いたよ。それは、レッド・ツェッペリンはもはや家族ではない、ということを意味していた。

ベンジー・レフェブル ロバートがジミーとGに葬式に来てもらいたいと思っていたとは私は思わない。彼は人生にだまされたように感じていたと私は思うね。(略)

彼は自分たちの頭がおかしくなっている時にツアーに出掛けたことについて、自分自身に腹が立っていた。

マイケル・デ・バレス ジミーとピーターがカラックの葬儀に参列しなかった理由を今になって推測したところで、どこを向いてもヤク中患者だらけだったあの状況を誤解してしまうだけさ。あれは別に愛情や敬意が欠けているとか、そういうこととは何も関係がなかった。

(略)

サイモン・カーク カラックが亡くなった時、私はボンゾの口から奇妙な言葉を聞いた。「クソッタレのジミーとあの魔術のクソめ」とね。まるでジミーがオカルトに手を出していたことが、あの子の死に何か関係があるかのようだった。たぶんあれはボンゾの反射的な反応だったんだろうけれど、でも、悪い宿命の黒い雲が、彼らを覆っているように思えたんだ。(略)

ロバートはあのことから今でも完全には立ち直っていないと私は思う。

(略)

クリス・ウェルチ オークランドやカラックの死といった話題には誰もが近寄り難かった。それについて質問することが怖かったしね。でも私は一度だけ、ジミーに"悪しき宿命"について質問したことがある。そうしたら彼はとにかく神経をピリピリさせながらこう言った。「オレたちは音楽を作る単なるミュージシャンだ」と。

『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』

ロバート・プラント レッド・ツェッペリンには2~3度、大きな転換期があった。1970年のあの素晴らしく快活なノリは、すべて神経症みたいな感じに変わってしまっていた。(略)

1977年のツアーが終わったのは私が子どもを亡くしたからだったが、しかし、実際のところ、あのツアーは終わりになる前から終わっていたんだ。とにかくすべてが滅茶苦茶だった。あの時、あらゆる物事の中心になる軸はどこにあったというんだ?(略)

みんながみんなから断絶していて、自分の欲望の世界を広げようとしていた。

(略)

家族のところに戻った時には、ボンゾがいろいろな面で支えてくれた。けれどもメディアがあの件に大挙して群がってきて状況を更に悪化させたために、苦しい思いを強いられてね。(略)

サセックスのフォレスト・ロウにある教員養成大学のルドフル・スタイナー・センターでの仕事に応募したんだ。あの状況から抜け出したくてね。

(略)

その後ボンゾがジンを手にしてやって来て、私をなだめてくれた。何かかなり笑えることをやったりしてね。(略)あれにはとても助けられたよ。そして彼が言ったんだ。「さあやろう。オレたちみんなでクリアウェル・キャッスルに行って、何か書いてみようじゃないか」と。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ クリアウェルに再び集まった時はちょっと変な感じだったな。私としてはあまり居心地が良くなかった。自分から、「なぜオレたちはこれをやるんだ?」と言ったのを覚えている。私たちは精神的な面でも体調の面でも良い状態じゃなかった。

(略)

ジミー・ペイジ (略)アバがポーラーという名称のスタジオを所有していて、そこをぜひ国際的な知名度のあるバンドに使ってもらいたがっていると聞いたんだ。おまけに彼らは3週間分のスタジオ使用料を無料にすると言ってね。それで私たちはそこ(ストックホルム)に行ったんだけれど、雪が降っていてとんでもなく寒かった。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ ロバートと私の関係は以前よりも少しだけ近くなっていた。(略)いつもどこかでビールを飲みながら、「オレたちは何をやるんだ?」と話し合っていた。そしてそれが『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』へと発展していったんだ。基本的にあのアルバムの曲を書いたのは"私たち"だった――つまり、彼と私の二人だけだったんだ。それから私の手元には真新しい機材もあった――"ドリーム・マシーン"と呼んでいたヤマハGX1がね。あれが私のインスピレーションを刺激してくれたんだ。(略)ボンゾが現れ、そしてジミーが姿を見せた頃にはほぼすべての曲作りを終えていた。

ジミー・ペイジ 『プレゼンス』の時、ジョンジーは実質的に何も(曲や曲のヒントを)思いつけなかった。だから彼に対しては"何か提供してくれよ"という気持ちがあってね。それであの"ドリーム・マシーン"がとにかく彼には刺激となり、そしてそれが幾つかの曲に繋がっていったんだ。

(略)

ロバート・プラント ジョンジーと私はそれまで一度もお互いに引き寄せられたことがなかったのに(略)なぜか気が合い始めていたんだ。ちょっと不思議な感じだったけれど、でもそのお陰ですべての物事がそれまでとは違う感触のものになった。それが〈オール・マイ・ラヴ〉と〈アイム・ゴナ・クロール〉だった。私たちは〈コミュニケイション・ブレイクダウン〉の焼き直しを作るつもりはなかったけれど、でも〈イン・ジ・イヴニング〉はかなり良い出来だと思ったね。

(略)

サム・アイザー もしも彼らが〈オール・マイ・ラヴ〉をシングル発売していたら、ナンバー・ワンを獲得できたはずだった。あの時のラジオでどれよりも頻繁にかかっていたのがあれだったからね。

ロス・ハルフィン 私としては、ジミーは『イン・スルージ・アウト・ドア』を恥ずかしく思っていると思うんだ。彼は〈オール・マイ・ラヴ〉を毛嫌いしていた。でもあれはカラックのことを歌った歌だったから、彼も批判はできなくてね。

ジミー・ペイジ 自分が80年代に今正に足を踏み入れていくような感じがして(『イン・スルー・ジ・アウト・ドア』を聞くと)ちょっとゾッとするんだよね。(略)あれはとにかく身の毛がよだつ時代だった。

(略)

ロバート・プラント ペイジと一緒に書いた〈ウェアリング・アンド・ティアリング〉は大好きだった。私たちはとにかくパンクの連中が言う、「ああした金持ちのクソ野郎たちに何が分かるんだ?」という発言にむかついていたんだ。(略)

私たちはサイコビリーとヘイゼル・アドキンスの精神病的な面については彼らよりもよく知っていた。

ネブワース

デイヴ・ルイス ピーターから言われたんだ。「いいか、もしオレたちがカムバックするんだったら、とにかく何よりもどでかい形でやらなくちゃいけない。もしそれがネブワースだっていうなら、オレたちはネブワースでやるぞ」と。あの年、確かフーがハマースミス・オデオンとレインボーでやったんだ。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ ロバートはネブワースをやりたがっていなかった。その理由も私には理解できた。でも私たちは本気であれをやりたいと思っていたし、彼も実際にやれば楽しんでくれるだろうと思ったんだ。とにかく私たちが彼をまたライブの場に引き戻すことができれば、とね。

ゲイリー・カーンズ (略)

 彼らはデンマークでやる(ウォームアップ・ギグの)ショーをブッキングした際に変名を使ったんだ。ジミー&ザ・ブラックヘッズみたいなとっぴょうしもない名前でね。それで私たちは現地に行って、誰も聞いたことがないバンドのために、大量の機材を会場に運び込んだ。そうしたらいろいろな人が私に近寄ってきて、「このバンドは誰なんだ?」と訊くんだよ。でもスタッフは誰も口を割らなかった。ピーター・グラントの怒りの鉄槌を頭に食らいたくなんかなかったからね。

 バンドの面々はナーバスになってちょっとビビってもいた。なぜって、彼らはもうずいぶんと長い間、人前で演奏していなかったからさ。ショーの初日、会場には60~80人くらいしか客がいなかったけれど、全員がとにかく熱狂していた。次の晩のコペンハーゲンでは、もう制御不能だった。

ロバート・プラント ネブワースに向けた準備期間中、私たちはとにかく神経質になっていた。でもまた自分たちが一つに戻れたのは素晴らしかった。

(略)

ベンジー・レフェブル サウンドチェックの際、ボンゾはジェイソンを自分のドラム・キットの後ろに座らせて、それで自分はその音の調子を確かめるためにミキサーがあるタワーにやって来たんだ。彼は私に言ったね。「なんだよこいつは、おい。こんなのは今まで聞いたことがないぞ。素晴らしい音だ」と。それはほとんどのミュージシャンに共通する問題だった。つまり、彼らは自分たちの音をまともに聞いたことがないんだよ。

ロバート・プラント ネブワースの会場が近づいてきた時、初日のショーのためにチケットを買った22万人の人波が目に入ったんだけれど、あれには度肝を抜かされたね。

(略)

ジミー・ペイジ 私には嬉しい気持ちなんてまったくなかった。2回目の週末の時は調子が良くなかったしね。(略)

でも実際のあのイベントは素晴らしかった。ヘリコプターに乗って会場入りする際、あの巨大な人間の波が見えたんだ。息を呑むような光景だったよ。

終焉

フィル・カーソン リチャードは本当に気だての良い奴だった。でも彼はピーターのせいである時点で完全におかしくなってしまったんだ。

リチャード・コール 最終的にピーターを動かして私を追放したのはロバートだ。(略)ペイジーやボンゾを追放するよりは私を追放するほうが簡単だったからね。

(略)

ロバート・プラント リチャード・コールは何年にもわたって――まったくなんの権限も持たせてもらえない立場に置かれていることに、激しいフラストレーションを感じていた。彼はツアー・マネージャーではあったが、問題を抱えていてね。(略)

どんどん頼りなくなっていって、そして悲しいかな、グループの首にぶらさがる重荷になってしまったんだ。

(略)

ベンジー・レフェブル ロバートは無理矢理連れ戻されたんだ。それで彼はバンド活動への参加に同意するための諸々の条件みたいなものを用意してきた。それはたとえば、「とにかく自分たちの曲だけをやろう。オレたちには本当にあの30分のギターソロが必要か?」といった感じのものだった。あれは時代の移り変わりを自覚しよう、という試みだった。それと、"それまでとはちょっと違うやり方でスタートを切る必要がある"、ということをね。あのヨーロッパ・ツアー全体が、果たしてアメリカで上手くいくのかどうかを確認するための一種のテストだったんだ。お互いがお互いに耐えられるのかを試すためのね。

(略)

サム・アイザー 最後のあのツアーは、彼らにとっての転換点だった。彼らは本当に素晴らしいショーをやれるようになっていてね。彼らはギターソロを省き、ドラム・ソロもお払い箱にしていた。演奏時間は2時間で、しかも内容は素晴らしかった。シェリーから聞いたんだけれど、「ピーターがあれは素晴らしかったと言っていた」、らしいよ。

(略)

デニス・シーハン ボンゾは時々ちょっと好戦的になることがあって、そういう時は彼を落ち着かせる必要があった。(略)

ルームサービスはもう終わっていて(略)外に行って、ハンバーガーやフライドポテトを買ってきたんだ。私がそれを手渡すと彼は包み紙がされたままのそれにかぶりついてさ。「ボンゾ、包み紙がそのままだよ!」と私が言うと彼は、「それでもやっぱり上手いぞこれは!」と言ってね。

デイヴ・ルイス 1980年のツアーは時代に無視されたツアーだった。彼らは14日間のショーをやったのにイギリスのメディアにはレビューが1度しか載らなかったんだ。今それを思うと信じられないけどね。あれは20万人が目にしたネブワースの後のツアーだったのにさ。ジミーにはどうすべきか分からなかったし、ピーターもそれは同じで、とにかく彼らはやり続けなければならなかった。自分たちのオーディエンスがそこにいるはずだと、彼らはそう願うしかなかったんだ。

 かなりの量のドラッグが行き渡っていたのは私も知っている。でも彼らが下した決断の幾つかが良くなかったんだ。あのヨーロッパ・ツアーはイングランドを避けていた。その理由は、彼らがメディアに対し不安を感じていたからだった。でも彼らならハマースミス・オデオンで5回はやれたはずだし、そうすればオーディエンスを呼び戻すことができていたんだ。

 あれは滑り出しが良くて、その後ちょっと落ち込むというおかしなツアーだった。ボーナムはニュルンベルグで倒れたんだけれど、でもその後は少し持ち直したし、彼らの音楽も良かった。あれだったら彼らはアメリカにも行けていたと私は思う。

(略)

ジミー・ペイジ ボーナムと私は次のアルバムをどんな風にするのかを話し合っていた――力強い激しいものにしよう、とね。1980年のツアーではいろいろなことがかなり興味深いことになっていたが、骨の折れるものでもあった。たぶん(あそこで)バンドは解散していたのかもしれない。分からないけれどね。でも分かっていたこともある。それはボーナムと私は絶対にあれ(次回作)をやりたいと話し合っていた、ということだ。

ジョン・ポール・ジョーンズ あれは単にまた一回りしてきたようなものだった。もう一度再生するみたいな感覚があってね。全員がまたあのバンドをちゃんとしたレールの上に戻そうと、懸命にがんばっていた。最低の時期を経験して、その後でまた浮上しつつあったんだ。

(略)

トニー・アイオミ つねに何らかの事故が今か今かと待ち構えているような状態だったんだ。吐いた後にまたコカインを吸って飲み始めるジョンを私は何度か見ていたからね。

(略)

グレン・ヒューズ 最後の頃の彼は本当に酷い飲み方をしていた。彼をとことんまでむしばむ何かがあったんだ。アルコール中毒が彼を破壊したんだね。そのせいで彼は孤独になり、偏った行動へと導かれ、そしてダメになったんだ。彼は不幸だった。どれほどの金を持っていようと、クルマを何台持っていようと関係ないのさ。アル中はその人間を破壊するんだ。あれは酷かった。

フィル・カーロ ツェッペリンは十字路に差し掛かっていたんだと思う。(たとえ続けていても)もう長続きしなかったと思うね。ジミーとボンゾはヘロインをやっていたんだ。(略)ロバートはすでにドラッグを断っていて、そうしていない自分以外の面々に苛立っていた。

(略)

ロバート・プラント 私たちがクルマでリハーサルに向かっている時、(ジョンは)それほど嬉しそうじゃなかった。彼は、「もうドラムを叩くのはうんざりだ。みんなオレよりも上手いんだからさ」と言ってね。(略)

サンバイザーを引きちぎって、それを窓から放り投げたんだ。そして言った。「よし、こうしよう。リハーサルに到着したら、お前がドラムをやる。それでオレが歌う」とね。

(略)

ベンジー・レフェブル ロバートとジョンジーと私はロンドンにあるブレイクス・インに泊まっていた。それで翌朝、ブレイにクルマで向かう道すがら私が、「ジミーの家に寄って、みんな起きているか確認してみるかい?」と言ったんだ。(略)(到着したら)ジミーがうろうろしていてね。「ボンゾは起きてる?」、「いや」、「彼はどこで寝ているんだい?」、「らせん階段の上の部屋だ」と言うので私は、「了解。オレが彼をベッドから引っ張り出してくるよ」と言ったんだ。ジョンジーは私の5~6歩後ろにいた。私たちはその階段を上がっていった。すると、そこに死んでいるボンゾがいた。

(略)

ヤーン・ユヘルスズキ ボンゾの遺体がジミーの邸宅で発見されたことを認めたこと自体、私には驚きだったわ。彼らならそんなことはひた隠しにすると思っていたから。

(略)

ハーヴェイ・リスバーグ ピーターはボーナムの死に本当に心がずたずたになっていた。あの時点での彼が、他のメンバーよりもボーナムに近い存在だったのかどうかは私には分からない。でも彼は絶望的なまでに落ち込んでいたから、(彼は)他のメンバーとは違った関係をボンゾとの間に築いていたんじゃないかと私は思うんだ。

ピーター・グラント たぶん(ボンゾは)私の人生における最高の友だったと思う。そう、確かに私は彼がホテルを破壊するのを目撃したことがある――私もそれを手伝ったんだからね!しかし彼は常にバンドのためを思ってくれていた。そして彼自身の家族のためをね。

(略)

ピーター・グラント 迷う気持ちなんてまったくなかった。これっぽっちもね。グループの面々はジャージー島に行って、そこで決断した。(略)私は、「やれるはずがない」と言ったんだ。(略)"バン!"となってそれで終わりだった。

ロバート・プラント 通りの角に立って、ボンゾと過ごした12~16年間の自分の人生を束にして、その思いを胸に抱きつつ息が詰まるような思いをしながら目には涙を浮かべて、それなのに自分がどっちの道に進むべきなのか分からない、という状況は、とにかくありえないほど奇妙な体験だった。ただし、ほかの諸々のことはさておき、ツェッペリンと共にあった夢のすべてが終わったのだと、それは分かっていた――何の前触れもなくね。

不遇の80年代前半

デジリー・カーク ジミーとピーターは『愛の嵐』を何度も何度も見ていたわ。あの二人はあの映画に出演しているシャーロット・ランプリングに取り憑かれていたの。

(略)

クリス・ウェルチ ジミーが瀬戸際で踏みとどまって戻ってきてくれたことは嬉しかった。ファームはセラピーみたいなものだった―――ただし自分だったなら自分のセラピーの一部としてポール・ロジャースを選んだかどうか、分からないけどね。最大の問題はチケットの売れ行きだった。フィル・カーソンは思ったよりチケットが売れないことに本当にイラついていた。

(略)

コニー・ハムジー (略)

彼が"ロバートと上手くいっていない"と言うので私がその理由を尋ねると、彼は、「ロバートはジョン・ボーナムの死を私のせいにしているからね」と言った。「どうして?」と訊いたら彼は、「なぜなら彼が私の家で死んだからだ」と話していた。ジミーはヘロインはまったくやっていなかった。彼はもうやらないと言っていたわ。彼は既にヘロインで地獄を見ていたのよ。それで私が彼のスイートのベッドに横になったまま単刀直入に、「どうしてあのドラッグに手を出すようになったの?」と訊いたの。彼ははっきりと、キース・リチャーズが彼をそれに向かわせたと言っていたわ。

フィル・カーロ 最初のツアーが半分くらい終わった時点でジミーはヘロインをやめていた。でも彼には飲むべきクスリが他に101種類くらいあった。彼は別のものをやっていたんだ。言うまでもないが24時間彼につきっきりでいると、こっちの頭がおかしくなってくる。

(略)

デイヴ・ルイス ファームの仕事はしんどかった。あの頃は、"ジミーは彼自身の潜在能力に匹敵するプレイができていない"と気付いていただけにね。

(略)

トニー・フランクリン ジミーはファームのセカンド・アルバムが前作より受けが良いわけじゃなかったことに落胆していた私たちみんながそうだった。でもショーのチケットは売り切れていたし、ツアーは順調だったから、それはそれほど私たちに影響はしていなかった。

ジミー・ペイジ あれはとにかく私が"こういう風に続けていきたい"と思っていた形じゃなかったんだ。ポール・ロジャースは近寄り難い男だった。どのバンドよりもここは居心地が良いぞ、というんじゃなかったんだ。特に最後の方はね。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ 最初のうちは自分が仕事にありつけないなんて思ってもいなかった。レッド・ツェッペリ以前の私はテレビ、ラジオ、映画のすべてに関する仕事をしていたんだからね。だから"まともな仕事を手にしなければならない"といった不安はまったく感じていなかったんだけれど、でも80年代にはそれがなかなか難しかった。

 最初に私が"何か仕事をもらってこよう"と決心した時には、誰も私を真剣に受け取ってくれなかった。私は、「いやちょっと待ってくれよ。オレはプロのミュージシャンでありアレンジャーでありプロデューサーだぞ。あんたが想像する以上に多くの人たちとオレは仕事してきたんだ」と思ったね。一度ミッションの仕事をやってからは状況がましになったけれど、でもそれでも当時は厳しかった。ジョン・ハイアットのアルバムをプロデュースしたいと思った時には、レコード会社の人間から、「私たちにはあなたとジョン・ハイアットの関連がまったく想像できません」と言われたのを覚えている。

 私はアレンジの仕事が好きなんだけれど、それは(略)短時間でやるもので、しかもそれが本当に楽しく思えるからなんだ。アーティスト側からもらう指示は、大半が私が『オートマチック・フォー・ザ・ピープル』のアレンジを手がけた時のような感じでね。あの時マイケル・スタイプは手書きのちょっとしたメッセージを私にくれたんだけれど、そこには、「私たちはあなたがやっていることを気に入っています。もしも〈エヴリバディ・ハーツ〉の真ん中くらいから入ってくるストリングスをあなたにお願いできたら、素晴らしいのですが」とあった。

デイヴ・ルイス 80年代初期がどんな感じだったのかを話す時は信じられない気分になるね。なぜならライヴ・エイドまではツェッペリンは消えた存在だったんだからさ。彼らのカタログはカーペットの下にしまわれてしまっていた。みんなはデフ・レパードやカルトを追っかけていたんだ。その状況をライヴ・エイドが少しだけ変えてくれて、それでロバートがツェッペリンの曲をやり始めるようになったんだ。80年代中盤になってみると、いつの間にかビースティ・ボーイズが彼らをサンプリングしていて、それでまたそこから人気が戻ってきたんだ。その後、1990年にリマスター盤が発売になった。

ライヴ・エイド

ジョン・ポール・ジョーンズ ライヴ・エイドの時はね、会場入りした時は最高の気分だったんだ。でも私は無理矢理自分にあれをやらせたんだ、実際はね。ああいうことをやる時に私に声がかからなくなったのは、あの時以降だと思う。

ベンジー・レフェブル 私たちはロバートのツアーの真っ最中でね。あれはとにかくすべてがちょっとトチ狂っていた。ジミーは脳みそが混乱していて、そのせいで彼は自分の指に対して出すべき指示を送れなかったんだ。(ジミーは)信じられないくらいナーバスになっていたけれど、でも彼は自分の力を証明したがっていた。

フィル・カーロ (略)

リハーサルの休憩時間の時、ロバートが、「〈天国への階段〉はやりたくない」と宣言したんだ。ジミーは私に言った。「こうなるだろうって、オレには分かっていた。オレたちは今日の午後は最後までこのゲームに付き合わなければいけなんだ。明日の朝になって奴が"やっぱりやる"と言うまでずっとね。これは単なるくだらないゲームなのさ。で、奴はクソッタレの老いほれの尻軽女というわけだ」と。それでライヴ・エイドのクイーンのテレビ中継をロバートの隣に座って見ていたら、彼は、「クソッタレめ!オレたちはあれを上回ってやるぜ」と言ったんだ。

フィル・コリンズ 私は控え室で彼らに合流したんだけれど、まるで自分が新人のような変な気分だった。トニー(・トンプソン)は素晴らしいドラマーだが、ただし、複数のドラマーと一緒に演奏する時にはちょっと自分の態度を考えておかなければならない。一歩引き下がって、自分のエゴをあまり出さないようにしないといけないんだ。

(略)

フィル・カーロ あれは最悪だった。フィルが演奏に参加したんだけれど、でも〈天国への階段〉の時には彼のマイクを全部オフにしなければならなかった。なぜって、彼はあの曲を演奏できなかったんだ。事前に彼にはテープを渡してあって、私たちが何をするのか伝えてあったのにさ。彼は、「謝るよ。君たちの曲がどれほど複雑なのか分かっていなかった」と言った。

ロバート・プラント あまりに自分たちの音が酷くて、そのせいですべてを文字通りぶち壊してしまったんだ。私の声はしわがれていてまともに歌えなかったし、ペイジのギターはチューニングが狂っていて、しかも自分のギターの音が聞こえなかったんだ。でもその一方であれは驚愕の状況でもあった。というのも、またしてもかすかな望みがありがたくない方向に行ってしまったわけでね――数多くのレッド・ツェッペリンのギグとまるで同じようだったんだ。ジョンジーはまるで死んでるみたいにその場に静かに佇むだけだったし、二人のドラマーはそれ(再結成なんて無理なんだということ)を証明していた……、まあ、つまりはさ、だからこそレッド・ツェッペリンを続けなかったんだ。あの規模の観客から感じる興奮がどんな感じなのか、私は完全に忘れていたしね。

フィル・カーソン ライヴ・エイドの後、ミードウランズでロバート・プラントのショーをやったんだ――チケットは完売だった。それでそのショーに私がジミー・ペイジとポール・シェイファーとブライアン・セッツァーを招待してね。ジミーがステージに登場した時には、会場の天井が落っこちるかと思うほどのもの凄い歓声だった。ホテルへ戻る際のロバートはちょっと不機嫌だった。彼は、「ジミーがステージに上がるといつもああなのか?」と言った。それで私は、「いや、ああなるのは彼が君と一緒にステージに立つ時だけだよ」と答えた。

(略)

ジミー・ペイジ [1988年のアトランティック創立40周年記念]パーティーでは、あまり触れられたくないことがたくさんあったな。ジョンジーと私はジェイソンと一緒にリハーサルしたんだけれど、それ自体はかなり良い感じだったんだ。私たちは演奏曲目についても同意していたのに、最後の瞬間になって……、ロパートが〈天国への階段〉をやらないと決め込んでしまってね。それで文字通り最後の瞬間まで混乱が続いて、辛らつな言葉の応酬が続いてしまって、それが私をかなり動揺させた。本当にね。

ピーター・グラント (ライヴ・エイドは)かなり酷い出来だった(略)とはいえ、アトランティックの記念ライヴに比べれば、全然ましだった。

再編劇、『ノー・クォーター』から排除されたジョンジー

ジミー・ペイジ レッド・ツェッペリン用の曲を書いていた時は、どんな手法を使うべきか、正確に分かっていたし、頭の中にあるロバートの声を前提にして書いていた。『アウトライダー」が少々不安定だったのはそういう部分だったのかもな、と思う。

ジョン・カロドナー (略)ジミーは本気でツェッペリンを再結成したかったんだ。でもそれが実現できなかった時、彼は自分の中にツェッペリンの曲をアメリカのキッズのために演奏するツアーをしたいという衝動があることに気づいたんだ。(ジミーとカヴァーデイルは)3月末にニューヨークで会い、すぐに意気投合できたので、そのままレノに行って曲を書き始めた。

(略)

 まず言えるのは、デヴィッド・カヴァーデイルはロバート・プラントを更に良くしたシンガーだということだ。レッド・ツェッペリンの曲を歌うデヴィッドを一度聞けば、もう議論は無用だろう。

(略)

ガイ・プラット (略)

カヴァーデイルは機会があればいつでもプランティを口撃していた。(略)

彼とジミーはかなり波長が合っていた。私たちがホワイトスネイクの曲を覚えなくちゃいけない時も、ジミーの音を拾う能力は素晴らしかったよ。もちろん私は、彼がかつて究極のセッションマンだったことを忘れていたわけだけど。そういうスキルはすべて血肉となって彼に完全に同化していたんだ。

デヴィッド・ベイツ ジミーはファームとカヴァーデイルと『アウトライダー』(略)を試したわけだけれど、何一つ上手くいかなかった。彼には、シンガーが必要なんだとはっきりと分かっていた。しかもブルース・ロックを歌える声を持っているシンガーがね。でも、ロバートの後に一体誰を持ってこれると思う?

(略)

 ビル・カービシュリーが言ったんだ。「ロバートとジミーをもう一度組ませるというアイディアをどう思う?」と。

(略)

 ジョン・ポールの名前は挙がったかって?ビルと私の考え方としては、「一度につき一つずつ取り組んでいこう」という感じだったと思う。単にロバートからジミーに話してもらうことだけでも、大きな障害だったしね。

(略)

ロバート・プラント 自分がジミーを恋しく思っていることに気付いたんだ。彼の演奏をね。でも私はなんらかの形で"どんな形であれレッド・ツェッペリン再結成には何もかかわらない"という自分自身のこだわりに言い訳を見つけなければならなかった。そのこだわりは実際のところかなり偽善的でもあったけどね。なぜなら私は自分のバンドでツェッペリンの曲をやっていたんだからさ。

(略)

 避けるべきは、自分たちが間違った人間の手に落ちて好き勝手に扱われて、結局は、なんというか、やけに生き生きとしたピンク・フロイドみたいになってしまうことだった。(略)

何かを回顧する目的のための単なるお遊びなんてご免だったんだ。

グリン・ジョンズ 90年代のペイジとプラントによるジョン・ポールの扱い方は恥ずべきものだったし、気分が悪くなった。股間を蹴り上げられるのは、いつだって一番良い奴なんだよな。それでも彼は十分に幸せだとは思うけどさ。

ジョン・ポール・ジョーンズ なぜ彼らがあれをやったのか、私には今でもよく分からないんだ。ある時どこかのジャーナリストから、「『ノー・クォーター』をどう思いますか?」(略)と質問されたのを覚えている。それで私は、「あれは私が書いた曲の中で最高の出来映えの一つだと、ずっと思っていたんだけど」と答えた。

ベンジー・レフェブル "アンレデッド"のプロジェクトにジョンジーが参加しなかった件は、たぶんロバートには何も関係がなかったと思う。あれはすべてをコントロールしたがるジミーによるものだったはずだ。

バネッサ・ギルバート あの一連の出来事の後、私がジミーやロバートに会うと必ず最初に彼らの口から、「ジョン・ポールから何か聞いてるか?」という言葉が出てきた。私も、なぜ二人は彼を除け者にしたんだろうと思ったわ。あれは単なる"エゴ"と"恐れ"だったんでしょうね。彼を相手にしないほうが話が簡単だ、っていう。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ(ロックンロールの殿堂の殿堂入り記念式典にて) 自分一人でサウンドチェックをやったのを覚えている。そこには他のメンバーの影すらなかった。だからそういう部分については、たいして何も変わっていなかった。ジェイソンがドラムを叩くことに関しては、またしても一部からちょっとばかりうるさい声が聞こえていた。すべてはピーター・グラントのせいだと私は思っている。

温和になったピーター・グラント

エド・ビックネル みんなからよく、「どうやったらピーター・グラントと友人でいられるんだい?」と訊かれるんだけどね、私はいつも、「ああ、私が知っている彼は、私が何かで読んだ彼じゃないんだよ」と答えるんだ。

(略)

彼はボ・ディドリーやリトル・リチャード絡みのとびきりの話をしてくれた。恐らくそれは、彼らの方が実際のところレッド・ツェッペリンの面々よりも人間として大きかったからだろうな。

 ピーターは近所では"温和な人"として認識されるようになっていた。

(略)

毎日イーストボーンの海岸沿いを散歩していた。「60歳の誕生日までに~キロまで落とすんだ」と言ってね。彼は孫たちの存在をとても喜んでいた。

(略)

アーメット・アーティガン 彼が私のホテルの部屋に会いに来たんだ。その姿を目にした時は、それが"あの彼"だとは信じられなかった。110キロ以上は落としていたはずだ。仕立ての良いスーツにカッコいいネクタイをしていて……、まるで銀行マンのようだったよ。彼は完全な別人になっていたけれど、ただし、あのキラキラする目ととても温かみのある笑顔は相変わらずだった。

エド・ビックネル 彼は、ロード・ジョン・グールドという男と一緒に結婚式用のクルマを手配する仕事をしていたんだ。帽子と制服で身を包んだ彼が(略)教会まで新婚カップルを連れて行って、その後またイーストボーンにあるグランドホテルに彼らを送り届けるんだ。

ロード・ジョン・グールド (略)カップルが結婚式をあげている間、私たちはサンドイッチをぱくつきながら外で座って待っていて、その後彼らをクルマで送ったんだ。それぞれが現金で30ポンドもらった。その時ピーターが彼独特の言い回しでこう言ったのを覚えている。「ああ、クソったれめ、ジョン、数年ぶりに手にした現金だよ……いいもんだな!」とね。

エド・ビックネル ある晩、彼が、「イーストボーンの桟橋で行われる芸能コンテストの審査員をやってくれと頼まれたんだけれど、お前も一緒にやらないか」と言ってきたんだ。それでその2週間後、(元)レッド・ツェッペリンとダイアー・ストレイツのマネージャーが、桟橋の端っこでどうしようもない酷いバンド連中の審査員を務めたってわけだ。

(略)

サイモン・カーク 彼に最後に会ったのは1994年のバッド・カンパニーのショーでだった。(略)[ホテルに戻って]クラブ・ソーダをちびちびやりながらお互いと昔話をしたんだ。私は(最後に)涙目になりながら彼を抱擁し、そして大好きだったと伝えて、上の階に上がっていった。それっきり、彼と再び会うことはなかった。彼は私が一緒に仕事をした中で最高のマネージャーだった。

ロバート・プラント 最後にピーターと会ったのは1995年、ロンドンのウェンブリー・アリーナのバックステージでだったな。彼は優しくて温かくて弱々しい男になっていたけれど、とにかく素晴らしい思い出を幾つも甦らせてくれた。70年代の終わり頃に私が目にしていた男とは別人だったね。彼はクリーンだったし、思考も明晰だった。彼は自分の手で大きな山を幾つも動かしたことを知っていた。アーティストたちのために、自分の手で世界を変えたことをね。

スティーヴ・アルビニ

ジミー・ペイジ オーガニックな演奏をするバンドにとって最大の問題はそれを録音する人間を見つけてくることなんだ。私たちにはスティーヴ・アルビニがいて幸運だった。というのも、彼はマイクを使う際のEQの方法を本当によく理解していたからね。録音のための古いテクニックをさ。それと、アビイ・ロードのあの素晴らしいスタジオで仕事をするのは最高だったな。

スティーヴ・アルビニ 『ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル』でのジミーとロバートは、恐らくレッド・ツェッペリン時代以上にお互いと協力し合っていたと思う。ツェッペリンはジミーのバンドだったし、彼がロバートをシンガーとして雇った形だった。でもその後、ここまで来る間にロバートはソロとしてかなりの成功を収めてきたわけでね。ジミーはその実績を尊重していたんだと私は思う。そして今度は仲間として、同僚としてのロバートと彼は仕事をしていたんだ。唯一の作者として、あのレコードの責任を一人で負うんじゃなくてね。

 二人とも無益なツェッペリンの亡霊を呼び覚まさないよう、かなり意識していたね。でもあれは彼らがかなり自然な形で導き出した共同体験だったんだ。それにしても、ジミーの趣味の幅がとてつもなく広くてね。彼はいつもプロディジーの溢れ出すような攻撃性とアドレナリンがどれほど気に入っているのかを話していた。

 

 

レッド・ツェッペリン オーラル・ヒストリー その3

前回の続き。

衣装

ジョン・ポール・ジョーンズ (略)

実際にステージに上がるまでは、お互いが着ているものについて絶対にコメントしない、というのがツェッペリンの伝統の一部でね。だから時には3人がジーンズなのに、一人だけ白いスーツということもあった。それでキラキラ光る衣装を探してくるようになったんだ。私があのポンポン(飾り玉)が付いている笑えるジャケットを着たのは、ペイジの竜柄のスーツを作った連中がライトバンに服をどっさり積んでやって来たことがあって、その時にあのジャケットを見つけて、「おい、こいつは間違いなく楽しそうだな……」という話になったからだった。

ベンジー・レフェブル (略)

歌がないパートになると、ジミーはジョンジーをボンゾに近寄らせなかった。肝心なのは彼とボンゾだったんだ。ジミーはずっとドラム・セットの前に立っていた。彼はボンゾに指示を出して、どっちに向かうかを彼に伝えていたんだ。ジョンジーはただそこに立っているだけで、彼らの後ろから付いていく感じでね。あれができたのは、彼が本当に素晴らしいミュージシャンで、どんなことにも対応できたからだ。

 あの音楽のエネルギー(の源)はジミーとボンゾだった。あの頃のツェッペリンの何かの映像を見てみると、バスドラの前にいるジミーが身体を使ってボンゾに合図を送っているのが分かるだろう。また、ボンゾのタイムキープはそれこそ非の打ち所がなかったから、お陰でジミーはなにかとんでもない方向に行ったとしても、テンポはしっかり保つことができたんだ。ミュージシャンとしてのジミーとボンゾの間のテレパシーは、ドラッグの摂取レベルにまで及んでいたように私は思う。つまり、「どこまでラリッたら、ちゃんと演奏できなくなるんだろう?」っていうね。

(略)

ジル・コーリガン=デブリン ロバートのあのよく知られている青いブラウスに関するいきさつがちょっと面白いのよ。あれはただその辺に置いてあったブラウスで、ある女の子が私にそれにラインストーンを付けるやり方を見せてくれたのね。そうしたらビープがどこかの工場に行って、ラインストーンを山ほど手に入れてきたの。私たちは飛行機の中で座りながらそれをあらゆるものに縫い付けた。その後、コリイという女の子がシカゴのザ・ドレイクにやって来て、たくさんの惑星が描かれているジミー用のスーツを持ち込んだの。それとポンポンが付いているジョン・ポールのジャケットも一緒にね。

総括:終焉へ

 1973年終盤、1年にわたりグルーピーとドラッグとプライベート・ジェットのもやの中を航行してきたレッド・ツェッペリンは、自分たちの音楽によって解き放たれた狂気の有様を振り返っていた。(略)子どもたちと過ごす充実した時間を切望するジョン・ポール・ジョーンズは、グループ脱退の意志をピーター・グラントに突きつけていた。

 この内省の時期から生まれたのが、『フィジカル・グラフィティ』(略)であり、そしてスワン・ソング・レーベルだった。

(略)

75年アメリカ・ツアーは規模が更に巨大化していたが、一方で、その代償としてペイジの体調維持がますます難しくなり、"獣"ボンゾの酒癖もいっそう悪化してしまう。ツアーのクライマックスとなったロンドンのアールズ・コートにおける1週間におよぶ公演で、ツェッペリンは自分たちが到達できる限界まで自らを高めた。だがそこからすべてがほころび始める。

 まず、ロードス島でロバートとモウリーンが交通事故に遭遇。モウリーンは瀕死の重傷を負い、またロバートは数カ月間、松葉杖生活を余儀なくされる。(略)

[重税を逃れバンドはロスへ逃亡]

LAでうつ状態になったペイジは、常にカーテンを閉じたままヘロインに浸り切る。ようやく4人が再結集し(略)『プレゼンス』を制作した時には、もはや彼らの内面で燃えていた炎は完全に消えてしまったように見えた。(略)

[ピーター・グラントとリチャード・コールがヤクにはまり]

ツェッペリン帝国の監視体制は極度の機能不全に陥る。バッド・カンパニーを除けば、スワン・ソング傘下のアーティストたちは宙ぶらりんのまま放置され、レーベルのロンドン・オフィスはこそ泥かそれ以下の人間の巣窟と化してしまった。

(略)

ペイジは、ドラッグと並行して足を突っ込んだオカルト趣味のせいで苦境に陥っていた。

(略)

 1977年のアメリカ・ツアー(略)被害妄想があらゆる人間にはびこる一方で、グラントの右腕はそれまでのリチャードコールではなく、精神異常者のジョニー・ビンドンに代わっていた。

 こうした問題のすべてが、7月のある週末に悲惨な形で一気に表面化する。コカインでがんじがらめになったグラントとビンドンが、オークランドにてプロモーターであるビル・グレアムの部下を殴り殺す寸前の騒ぎを起こしてしまったのだ。更にはその2日後、プラントの息子のカラックがブラック・カントリーで(略)ウイルス感染により死去する。

 一連の出来事により、「ツェッペリンも、もはやこれまでか」と思われた。しかし、同じミッドランド出身のボンゾがプラントをなだめすかし、なんとか彼をバンドへと連れ戻す。

(略)

 だが、そのアメリカ・ツアーが実現することはなかった。(略)

ボンゾが自分自身の吐瀉物でのどを詰まらせ、死亡。その1週間後、"レッド・ツェッペリンは終わった"ことが発表された。

(略)

ジミー・ペイジ 最後のツアーから戻った時の私は、自分がどこにいるのかすら分からなかった。自分がどこに行くつもりなのかも。(略)とにかくもう……、私は完全に、どうしようもないくらいにからっぽだった。

(略)

ピーター・グラント ある日の午後、(ジョン・ポール・ジョーンズが)私の家を訪ねてきて言ったんだ。「もうたくさんだ」と。そして、「ウィンチェスター聖堂の聖歌隊指揮者になる」とね。

ジョン・ポール・ジョーンズ とにかくもうツアーはうんざりだった。私がピーターの家に行って、「この状況が変わらない限り、もう辞める」と言ったのは確かだ。家族にとても大きなプレッシャーがかかっていたんだ。

『フィジカル・グラフィティ』

ジョン・ポール・ジョーンズ 私がふとクラビネットで〈トランプルド・アンダー・フット〉を演奏し始めたら、(ジョンが)あのドスンという重みのあるドラムでそれに加わってきたんだ。そのフィーリングは最高だった。彼は曲のビートの前でも後ろでも、必要に応じて、演奏することができた。〈トランプルド・アンダー・フット〉には、いばって歩くような雰囲気があった。あれはバンドにとっても、それまでとは違うタイプの曲だったな。

ジョン・ボーナム ジョン・ポールとジミーがリフをやり始めたんだけれど、そのあと自分たちにはちょっとソウルっぽすぎるなということになった。そこで少しばかり変えてみたら、私にとっては最高になったんだ。ドラマーにとってあれは最高のリズムだった。とにかくペースがちょうど良い感じで、こっちはフィルをたくさん入れられたからね。

ジミー・ペイジ 『フィジカル・グラフィティ』には今の人たちにはできないようなあらゆる類のことが詰まっている――私たちにはできたんだけどね。私たちはいつも前向きな姿勢でコンスタントに仕事をしていて、しかも、良い音楽を作ること以外の目的なんて何もなかった。(略)

ロン・ネヴィソン ジミーは本当に仕事熱心だった。彼はよくモバイル・トラックの中に入ってきて、録音済みのすべてを聞いていた。当時の私は、彼は自分のギターが気に入らないんだと思っていた。でもその後、彼は今私がやっていることをやっていたんだな、と気付いた。つまり、ドラムの音をがっしりとさせるため、ギターを控え目にするっていうね。

 私にとってツェッペリン全体の何が肝かというと、実はあのギターについていくジョン・ボーナムなんだ。彼はギターのリフを拝借して、それをドラミングの一部にすることができた。〈シック・アゲイン〉や何かを聞けば、彼がリフに耳を傾け、そしてそれをドラミングに取り込んでいるのが分かるだろう。単に4分の4拍子を続けながらベース奏者と一緒にリズムを刻むんじゃなくて、その代わりに、彼はギター奏者に合わせていたんだ。

フィル・カーロ ジミーがオリンピックのエンジニアのキース・ハーウッドと一緒にフラットに来た時があってね。二人は〈カシミール〉をやり終えたばかりで、ジミーはあの曲のありとあらゆる部分に心底から興奮していた。それまでに手がけたどの曲よりも、あの曲には満足しているように見えたよ。

バッド・カンパニー

 エイブ・ホック スワン・ソングは基本的には、ジミーに(ツェッペリンの)カタログの所有権を与えるためのものだった。スワン・ソングは彼らのマスター・テープの直接かつ第一所有者で、基本的にはそれをアトランティックに貸与する契約になっていた。

(略)

フィル・カーロ ある日、クライヴ・クールソンが私のフラットにやって来て言ったんだ。「今、バンドを作っているところなんだ。バンド名はバッド・カンパニーになる(略)このバンドはとんでもなくでかくなるぜ」とね。クライヴはサイモン・カークと一緒にその計画全体をまとめ上げた。

(略)

サム・アイザー クライヴはそれまでジミーのローディーだったんだ。彼は聡明な男で本当に立派な奴だった。あの時彼は人生を賭けるチャンスを嗅ぎ付けたんだよ。

(略)

ユニティ・マクリーン クライヴはバッド・カンパニーに誰も近づかせなかった。バッド・カンパニーは彼のバンドであり、彼の秘蔵っ子だったのよ。誰かが何かをやろうとすると、彼はすぐに「お前は何をやっているんだ?なぜお前は邪魔をするんだ?」と突っかかっていた。彼は自分のご主人様から学んだのね。

ベンジー・レフェブル (略)ポール・ロジャース(略)はいつもケンカ腰のつまらない奴だったけどね。

デジリー・カーク(サイモン・カークの元妻) ポールはプリマドンナ気取りだった。バンドの他のメンバーの準備ができている時でもポールの気分が不安定な日には、全員が彼を待つことになった。それに彼は気性が本当に荒かった。彼が自分の奥さんの顔を殴って前歯をへし折ったのを見たことがあるわ。そうしたことのすべてはウイスキーが原因だった。

(略)

ベンジー・レフェブル バッド・カンパニーはどうやったってツェッペリンのようにビッグになれるはずがなかったけれど、それでも本人たちは必死でそうなりたがっていたし、その可能性はあると考えていた。(略)

クライヴはピーターになりたがっていたが、しかし、そのチャンスはゼロだった。彼は人々がピーターに対し示している敬意がうらやましかったんだと思う。(略)

グラントの歩んだ道を後追いした彼は、残念ながら、間違ったことばかりを学んでしまっていた。

リチャード・コール

グレン・ヒューズ コールは私の人生で出会った中で誰よりも恐ろしい人間だった。(略)

「お前をつぶしてやるぞ!」と言っている時の彼はまるで、「オレがお前を殺しても、誰にも気付かれやしないんだからな」と言っているかのようだった。

ジャニーン・セイファー リチャードは育ちが悪かったのかって?(略)

とにかく彼の態度は、「くたばれ、この野郎」という感じだったのよ。(略)

でも彼をクビにしてバンドが知らない別の人間を雇うなんてことは考えられなかったし、そんなことは不可能だった。

マリリン・コール 私たちはプレイボーイ・クラブで結婚して、ピーターがすべての費用を払ったの。(略)

私はリチャードにどのくらい稼いでいるのかを訊いたの。それで彼の答えを聞いた私は、「なんですって?」と言った。「それで私は大丈夫だけれど、リッチ、あなたはどうやって暮らしていくの?」と。彼らは誰よりもケチな人間だった。リチャードはピーターを崇拝していた。ピーターは彼の父親であり神であり指導者だった。そしてそこに足を踏み入れたのが私だった。

ジャック・カームズ ツェッペリンの人間たちは、リチャードが別の人間に雇われることなんてありえないと思っていたはずだ。でも、エリック・クラプトンの461オーシャン・ブールバード・ツアーの際、私は彼をツアー・マネージャーに起用したんだ。

マリリン・コール ロバート・スティグウッドは、エリックを隠居生活から引きずり出すために、リチャードにツェッペリンの1年分の報酬の3倍を提示したのよ。2ヵ月間の仕事に対してね。リッチは私に、「ううん、でもオレは彼らから離れられないから」と言った。それで言ってやったのよ。「あんた、一体どういうつもりなの?これを断ったら、もうお終いよ」と。愛しきリチャードには、自尊心というもののかけらすらなかった。

(略)

リチャード・コール 報酬はツェッペリンが私に支払っていた額より圧倒的に多かった。100倍くらいあったかな。8週間で1万6000ドルとかそのくらいだった。アーメットに相談すると彼は、「やるべきだ」と言ってね。決断の前にピーターに電話をかけて、「オレがやった仕事すべての報酬として、スワン・ソングの一部をオレにくれるつもりはあるか?」と訊いた。彼がノーと答えたので私は言ったんだ。「そうか、じゃあオレは明日の朝から離れるよ」と。

ジャック・カームズ あの頃のリチャードは相変わらずしょっちゅうドラッグをやっていて、一方のクラプトンはそれから抜け出そうとしていた。だからリチャードは微妙なバランスの上を歩かなければならなかった。

(略)

クラプトンのツアーには、本人がカムバックの途中段階にあったために、ある種の弱々しさが伴っていた。でも彼は良い仕事をした。ツアーを成功させるため、プロとして十分な仕事をしたんだ。

リチャード・コール 信じてもらいたいんだけど、アーメットはずる賢い年寄りのクソ野郎だったんだ。(略)彼が、「来年、ツェッペリンがまたツアーをやるのを知っているよな」と言うので私が、「その話は聞いている」と答えると、「お前はやるんだよな」と言うんだ。「いいや、奴らなんかどうでもいいさ」と答えると、「お前はやらなくちゃいけない。お前以外に誰がやるんだ?」と言うんだよ。彼がピーターに話をしたのかどうかは知らないけれど、でもその後ジミーとロバートがパングボウンまで私に会いに来たんだ。

マリリン・コール ジミーとロバートとピーターが私たちのあばら屋に来たのよ。それまで一度もそんなことはなかったのにね。リチャードはもちろん女王を歓待するみたいに彼らを出迎えた。(略)

結局彼らはリチャードの給料を4倍にして、ジャガーを一台彼にあげて、経費用口座の金額も大幅に増やした。

(略)

クリス・チャールズワース あの目に見えない不快感は本当に無用だった。彼らは世界最大のロックバンドだったんだ。彼らはストーンズとフーよりも人気があった。(略)

そういう立場にあったバンドの中で、ああした潜在的な暴力が付いて回ったバンドは他にはなかった。(略)

フーの場合、酷いギグの後に控え室で口論はあったけれど(略)相手を威嚇するようなそういうネガティブな雰囲気とはまったく違っていた。ツェッペリンはまるで自分たちこそ相手を支配する法律のように振る舞っていた。ギャングを周辺に置いて自分たちを守っていたし、望むことならほとんどすべてやることができた――殺人以外はね。

(略)

ダニー・ゴールドバーグ (略)リチャード・コールに逆らわないのは当然のことだったが(略)誰よりも暴力沙汰を起こしやすかったのは酔っぱらった時のボーナムだ。(略)その彼をなだめるのがリチャードの仕事だった。

凶暴ボーナム

ニック・ケント ボーナムはコカインをやることで更に飲めるようになっていた。

(略)

みんな彼がヘロインにハマるのを心配していた。「何があっても、彼にヘロインだけはやらせるな。彼ならいっぺんに全部吸って、オーヴァードーズしてしまうからな」と。

(略)

ジョン・ボーナム(1975年の発言) 以前より悪くなっている――いつも酷い気分なんだ。いったんロックンロールを始めてしまえば問題ないんだけどね。(略)

酷い演奏をしてしまうことが不安なんだ。バンドの全員が同じさ。(略)

デイヴ・ノースオーヴァー リモに乗ってギグの会場から帰ってくる時、誰もが疲れて切っているのにボンゾだけは極度の興奮状態にあった。彼が静かにベッドに向かうなんてありえなかった。彼は明るくなるまで絶対に眠らなかったよ。

ジョン・ポール・ジョーンズ ボンゾが飲むのには理由があった。家から離れていることが大嫌いだったんだ。(略)それに飛行機での移動をかなり怖がっていた。

(略)

ジャニーン・セイファー 個人的にボンゾに恐怖を感じたことは一度もなかったわ。彼はまるでお人形のようで、誰よりも優しい人間の一人だと思っていた。パットが一緒に付いていない時は、可哀想なくらい不幸だった。あまり聡明ではなく、知的な方でもなかった。バンドの4人の中で踏ん張る力が一番弱かったのが彼ね。彼はドラムを叩くのが好きで、奥さんを愛していた。でも彼女がそばにいない時には、完全にたがが外れてしまっていた。

マリリン・コール ボンゾにはグルーピーの存在がうっとうしかったのよ。彼はそういう女の子たちを、「あの腐った売女」と呼んでいた。彼は彼女たちを受け入れることができなくて、その存在自体に怒りを感じていたわ。

クリス・チャールズワース (略)[機内で酩酊から目覚めたボンゾが]キャビンアテンダントを暴行しようとしたんだ。文字通り、後ろから馬乗りになってね。その瞬間まで私たち全員が楽しく過ごしていたのにさ。ジョーンズがオルガンを弾いて、みんながそれに合わせて歌ったりして、楽しく飲んでいたんだ。でもボーナムの登場と(略)行為によって突然雰囲気が変わった。

(略)

ニック・ケント ボーナムとコールよりも振る舞いが酷い人間には人生で一度も会ったことがない。一度、彼らが何の理由もなく男を叩きのめして、その後その男の顔に金を放り投げていったのを見たことがある。プラントがボンゾのことを"最高の変人だ"と言っているのを聞いた時は吐き気がしたね。なぜって、彼はまるで『わらの犬』から抜け出してきたかのような、統合失調症の獣だったんだから。

(略)

デイヴ・ノースオーヴァー ハイアット・ハウスで私のスイートはジョンのスイートの下だったんだ。それでドアをックする音がして、開けてみたらそこにキース・ムーンがいた。(略)

[ボンゾが部屋に入れてくれないから、外からよじ登ると言い]

キースがバルコニーの上に立って、私は彼の足首を握った。彼が、「よし、上げろ!」と言った時私は、「もし私が手を離したら世界中でニュースになるだろうし、オレの命はないな」、などと考えていた。でも彼は上手くバルコニーをよじ上ってジョンのスイートに突入したんだ。ジョンは驚きおののいて、トイレにすべてを流してしまった。そうしたら次に私の部屋に電話がかかってきてね。「もっとブツを手配してくれ」と頼まれた。

 どういう理由か知らないけれど、ジョンはあの部屋に小型のアップライトピアノを用意させていて(略)ドカン、ガラガラ、という音がして(略)ガッシャーンというでっかい音がそれに続いた。彼らはそのピアノをバルコニーから落っことしたんだ。下に停まっていたリモ直撃まで、あと3mくらいだったな。

グレン・ヒューズ (略)ジョンがポケットからコカインのでかい塊を取り出してさ。彼はそれを両手に全部乗っけると、そのままそれを顔面で受け止めたんだ。私たちはぼろぼろ崩れ落ちるそのコカインの粉を受け止めてね。

(略)

ベンジー・レフェブル あれほど大量のコカインなんて見たこともなかった。あの道に踏み出してしまうと、決してこれで十分ということがなくなって、常にもう少しだけ更に多く欲しくなるんだ。

ニック・ケント ハリウッドには数えきれないくらいコカインのディーラーがたくさんいて、バンドにはタダでコークをくれていた。なぜって、彼らは、「先週のフォーラムでのツェッペリンを見たか?実はね、彼らは"オレの"コカインでハイになっていたんだ」って言いたかったんだよ。

(略)

ベンジー・レフェブル (略)1973年は疑いの余地なく最高に素晴らしくて楽しい年だった。1975年のツアーでは、それとは逆に、ジミーがあまりにやり過ぎてしまって、演奏できないほどだった。

(略)

ピーター・クリフトン ピーター(・グラント)はとにかくジミーを愛していて、彼に対しては信じられないくらい優しかった。(略)

ピーターが突然飛び上がって、慌てて部屋から出ていった(略)キャロル・ブラウンに、「どうしたんだ?」と訊くと彼女は、「ジミーがドアに指を挟んだ」と教えてくれた。あれはまるでサッカーチームの監督とそのお気に入りの選手のようだった。ジミーは壊れやすい天才だった。彼には白く光り輝くような美しさと、無力感が同居していた。

対等になったロバート・プラント

ベベ・ビュエル ロバートのことは最後まで良く分からなかったけれど、でも私にとっての彼はいつも優しくて、本当にラヴ&ピースな感じだった。彼はお気に入りの女の子一人と籠っちゃったら、二度と姿を見かけなくなるタイプだった。彼はどこに行っても、自分の"家族"をまた作ろうとしていた。

(略)

マリリン・コール (略)ジミーとピーターとリチャード(略)はいつも"パーシー"の後ろで彼のことをからかっていた。もしかしたら彼らは単に嫉妬していただけかもしれないけれど、でも彼はスケープゴートだったのよ。ブロンドの髪で、ちょっとしたブラウスを着てたフロントマンの彼がね。(略)

彼は他の面々よりも自分に確信があって、そういうことに対処できるだけの寛容さがあったのかもしれない。彼は、あの神秘とか魔法とかの話には巻き込まれなかった。彼がコカインの山の前に座っていることなんてなかったわ。彼は家に帰っていたもの。一方でピーターとジミーはお互いに対してもっと深くかかわっていた。

マイケル・デ・バレス ロバートには乱闘騒ぎの上空を飛んでいける白い羽根があったんだ。彼はその上を飛んで、それを見て微笑んだり、笑ったりしていた。彼には運転手は必要なかったし、召使いも必要なかった。彼とジミーの違いは、彼の場合、一歩外に出て状況の全体を観察できたという点だね。彼は超越的なものの見方をしていた。

(略)

ダニー・ゴールドバーグ (略)最初の頃、ジミーは実質的に人間関係を完全に支配していた。彼はグループの創設者にして、レコードのプロデューサーであり、また、作曲者でもあり、グループのメンタル面の中心だった。そして基本的にはある程度のところまでロバートのことも支配していた。ただし、ロバートには彼自身の人生と自分がやるべきことがあった。二人の関係でより強かったのはジミーの方だ。なにかについて意見が分かれることがあっても、もしジミーがそれを強く主張すれば、ロバートはそれに同調していた。

 でも時が進むにつれ、ロバートも歳を重ねてどんどん自立していって、そしてついに今ではロバートの方が強くなったんだ。明らかに彼の方が成功しているしね。でも、私としては、ツェッペリンの最後の方では、ロバートは自分はジミーと同格だと断言できるくらいの自信を手にしていたと思う。

ニック・ケント プラントは自分のことは自分で仕切りたいタイプの人間だった。彼に関して重要だったのは、アメリカにおいてほんの短期間のうちに彼がセックス・シンボルになったということだ。(略)

確かにペイジはレッド・ツェッペリンのリーダーだった(略)

でも、プラントがあそこまで人気になると――彼はロックのバイキングの王子だった――突如としてジミーは彼にあれをしろこれをしろと指図できなくなったんだ。例の、「オレがヤードバーズにいた頃、お前はまだウェスト・ブロムウィッチで道路を直していたんだ」というそういう態度ができなくなったんだ。プラントもそのことを認識していたし、突然、周囲の人間も彼をグランそれまでとは別の形で扱うようになった。ピーター・グラントももはや彼に指図はできなくなった。なぜって、もしプラントに何か気に入らないことがあれば、彼はそれについて言葉にするようになっていたからね。しかも、もしも更に状況が悪くなれば、プラントはバンドから抜けることだってできたんだ。

(略)

ジャニーン・セイファー ジョン・ポールは信じられないくい聡明で、いつだって4人の中では一番大人で、他の3人からは切り離された存在だった。

(略)

マリリン・コール ジョンジーは最後まで、レッド・ツェッペリンの一員にはあんまり見えなかったわね。彼はまるでロック・ミュージシャンに囲まれたクラシックのミュージシャンみたいだった。

ジャニーン・セイファー 音楽面でジミーとぶつかるのはジョン・ポールだった。バンド内でそんなことをするのは彼しかいなかった。彼はよく、「いや、それは響きがよくないな」ということを言っていた。その場合、彼ら二人は少なくともそれについて話し合っていた。ジミーは彼に対しては横柄じゃなかった――ほとんどの人間に対してはそうだったけれどね。

ロードス島での事故

ベンジー・レフェブル ロバートが生きている世界は、ロードス島での交通事故の瞬間から、すべてが変わり始めたんだ。ああいった身体的な(ダメージを負う)経験をした時というのは、"自分は何者か?"とか"自分は何をやっているのか"といったことを考えざるをえなくなる。27歳だったらまだどんなケガからだって回復できると思うかもしれないが、でも、彼はそうはならなかった。今でも彼は腕を完全には動かすことができないんだ。

(略)

ガイズ病院に運び込まれた時、モウリーンは臨床的には死んでいた。

(略)

オーブリー・パウエル ロバートと私の友人としての関係は、彼が車椅子や松葉杖の生活を送っていた時に本当に強固なものになったんだ。彼が(それまでの生活から)距離を置きつつあることがはっきり見て取れたね。女装する日々は過去のものになっていた。(略)彼は自分の人生に起こったことに関して、少しばかり恐怖を感じていたと思う。

『狂熱のライヴ』、パンク登場

ミック・ファレン あの映画を見に行ったんだけれど、あらゆるナンセンスが頭に入り込んでくるみたいな感じだったな。ギャングとかクロウリーとかイギリスの精霊とかさ。楽しめるものじゃなかったし、支離滅裂だった。彼らに対して少しばかり残っていた共感がすべて消え去ったのもあの時だった。

(略)

私は本気で彼らがパンクロックを作り出したんだと思っている。なぜならあれこそ正に、「このクソみたいなのをやめろ!」っていう話だったからさ。あの頃の音楽はどんどん簡潔になり始めていた。ピストルズからロックパイルに至るまでのすべてが、一点に向かって引き戻されていたんだ。ロックンロールは突如として再び人間サイズになったんだ。(略)

パンク・バンドはフーに敬意を示す必要があったけれど、それは彼らが必死になってフーから盗んでいたからだった。それと、パティ・スミスはキース・リチャーズのTシャツを着ていたしね。でもパンクはゼップからは何も盗まなかった。

(略)

ラット・スケイビーズ (略)彼らの長ったらしい曲はどれもまったく好きになれなかった。〈幻惑されて〉は私をブルース嫌いにしただけだったしさ。でも彼らにも本当にクールな短いリフを使ったロック・ソングがあって、そういう曲はポジティブなエネルギーを振りまきながら突っ走って行く感じがした。1975年には、私たちも〈コミュニケイション・ブレイクダウン〉にはパンクのエネルギーがある、と認めていたかもしれないな。(略)

 1976年になると、ツェッペリンのようなバンドが好きだったことがあるなんて、絶対に口にできなかった。

(略)

ポール・シムノン レッド・ツェッペリン?オレに彼らの音楽を聞く必要なんてない。オレがやらなくちゃいけないのは、どれでもいいから彼らのアルバムのジャケットを見て、吐きたい気分になることだけだ。

(略)

アラン・カラン 音楽業界で誰かと話すと、そのほとんどは"くたばれ、レッド・ツェッペリン"という態度だったね。(略)

でも(略)ツェッペリンの面々はよくオフィスに来ては、「セックス・ピストルズのニュー・シングルは本当に最高だ」とか言っていたんだ。

ダン・トレーシー(テレビジョン・パーソナリティーズ) 私たちの最初のシングルは私がスワン・ソングで働いて貯めた金で作ったんだ。867枚刷ったけれど、それが私たちの予算の精一杯だった。ある日私がオフィスで『サウンズ』に載っていた私たちのシングルの記事を読んでいると、そこにジミーが入ってきてね。彼は、「お前、自分のバンドを持っているんだろ?お前はパンクスか?」と言った。私はすべてを――録音もマスタリングもラベルの印刷も――自分たちでやっていることを説明したら、彼はかなり興味深げだった。

(略)

ジョン・ポール・ジョーンズ パンクを初めて聞いた時は好きになれなかったな。(略)自分が初めて組んだバンドのギタリストがソロに挑戦した時のことを思い出したよ。ただし、パンクは確かにもやもやした雰囲気を吹き飛ばしてくれたし、お陰で私たちは自分たちの物事の進め方に目を向けることにもなった。自分たちがなっていた姿がどんなものなのかを確認するためにね。

(略)

BP・ファロン 私はダムドを見に、ロキシーにロバートとジミーとボンゾを連れて行った。彼らはみんなあれを気に入っていた。というのも、ダムドの音楽は彼らがそれまで聞いてきたものを凝縮したようなものだったからね。つまり、アーカンサスから生まれたワイルドで粗野なロカビリーってやつだ。

(略)

ラット・スケイビーズ 私たちがステージに出る直前にジェイクが入って来て言ったんだ。「レッド・ツェッペリンが今入ってきたぞ」とね。それでステージで演奏しながら彼らを探したら、会場の後ろの方にあの長髪のシルエットが見えた。

ジョン・ライドン ロバート・プラントがロキシーに行った時、彼は5人くらいの取り巻きを連れていた。バンドの半分とその他の連中さ。全部で20人くらいいたな。彼らは隅っこに陣取って、それで気取った態度で通り過ぎる人たちに悪態をついていた。まるで"オレたちは特別な存在だ"と言わんばかりにね。

(略)

ラット・スケイビーズ ロバートと話したのを覚えているよ。その後で、年寄りのヒッピーと話したっていうだけでマーク・ペリーから散々なことを言われたけどね。「なんのためにあのマンコ野郎と話してたんだ?本来オレたちは彼を蹴飛ばしてやるべきだろ?」とね。

『プレゼンス』

ジミー・ペイジ 『プレゼンス』はグループに定住する場所がなくて、ジプシーみたいに過ごしていた時に録音したアルバムだ。拠点もなし、帰れる家もなし、だった。自分に関係があることと言えば、新しい地平線とスーツケースだけっていうね。そのせいで、とにかく移動が多くて、とんがった気持ちになっていた。そういう状況に自分が置かれていることに対するネガティヴな感情でいっぱいだったんだ。

ジョン・ポール・ジョーンズ (略)バンドは時間通りに約束の場所に現れる人間と、そうじゃない人間に二分されていた。もちろん、最終的には私たち全員が集まって、あのアルバムを作ったわけだどね。でも初期の頃ほどお互いに対してオープンな感じじゃなかった。

(略)

あの時の私たちは(略)「いや、ちょっと待てよ。オレたちは必要以上にバラバラになってきているな」と思い始めていた。

エイブ・ホック (略)ロバートは杖をつきながらひょこひょこ歩いていたけれど、ベッドに横になっていることが多かった。彼は新作のために歌詞を書いていたんだけれど、その"新作"とやらはいつまでたっても作れそうになかった。なぜって、ジミーが目覚めていなかったんだ。

(略)

ロバート・プラント 〈アキレス最後の戦い〉は、暴走したプログレッシヴ・ロックみたいで素晴らしかった。私たちがあれを書いた時のことを覚えているけれど、あれは本当に美しい曲だった。あの曲はモロッコに戻って、それでまた大切なものを取り戻すことがテーマだった。曲は素晴らしかったし、あれをライヴでやった時は信じられないくらい良かったことが何度かあった

(略)

エイブ・ホック ある日、ジミーの目が覚めて、髪をくしゃくしゃにしながらスタジオに入って、それでギターをいじり始めたんだ。その音が建物全体に響き渡って、みんなに伝わった――"彼がスタジオの中にいる"ということがね。ジョンジーとボンゾは気が狂ったみたいに地下に走って降りて行った。彼らは一緒に演奏して、食べ物を持ってこさせて、そしてその17日後、私たちの手には、でき上がったこのレコードがあったんだ。

(略)

単なる見物人の目にとってすら驚くべき光景だった。なぜって、一見するとただのジャム・セッションに見えていたのに、実はそうじゃなかったからさ。あれはすべてがしっかり練り上げられたもので、どの曲も細かな部分に至るまでしっかり考え抜かれていた。しかも、歌詞~ブリッジ~歌詞という構成じゃないのに、あの曲を聞いた後は歩きながらハミングしたり歌詞を口ずさんだりできたんだ。あれはそれまで目にしたことのある何よりも奇妙なものだった。

ジミー・ペイジ みんなが、「ああ、ジミーは調子が良くないんだな」と言う時期があった。(略)でも私が事実として知っているのは、『プレゼンス』の録音と仕上げとミックスが3週間で行われたということだ。しかもそれは意図的だったんだ。あれこれいじり回してしまわないようにね。

スティーヴ・ウェイス

ピーター・グラント スワン・ソングに関して私が後悔しているのは、あれをまともに経営できる人間を連れて来なかったことだ。(略)

エイブ・ホックでは上手くいかなかった(略)

もしも最初からアランを起用していたなら(略)上手くいっていたんじゃないかと私は思う。結局彼もスティーヴ・ウェイスのエゴと衝突してしまったけどね。

アラン・カラン スティーヴはニューヨークでただ一人のイタリアン・マフィアのユダヤのホモだった。それと、あの組織の中で唯一、麻薬常習者じゃなかったのが彼だったと思う。彼はあの集団におけるサリエリだった。とにかく物事を妨害するのが彼だった(略)

ウェイスのエゴはピーターとジミーを悩ませていた――アトランティックに対しツェッペリンを利用してふざけたまねをしたりしてね。

(略)

ユニティ・マクリーン スティーヴはとても賢い人間だった。とても人当たりが良くて、とても格好良かった。謎に満ちた人で、たぶんあのレーベルのすべての活動の陰のブレインだったんだと思う。

(略)

サム・アイザー スティーヴは嫌な奴でね。食事に招待したいな、なんて思える人間じゃなかった。彼はエゴイスティックで、情緒不安定で、他人を何かといじめる男だった。

(略)

ニック・ケント ペイジはウェイスに我慢ならなかった。彼はいつも、「クソッたれのスティーヴ・ウェイスはここで何をやっているんだ?」と言っていた。レッド・ツェッペリンの世界で陰の実力者気取りでいる彼を彼らは好きじゃなかったんだ。

ジェイク・リヴィエラ

ユニティ・マクリーン よくデイヴ・エドモンズのマネージャーのジェイク・リヴィエラに会いに行くことがあったの。彼は誰よりも皮肉屋で付き合い難い男だった。彼はピーターが大嫌いだった。デイヴがあんな風に扱われていたせいで、とにかくピーターを毛嫌いしていた。

(略)

数多くのパンク・バンドがツェッペリンに対し突きつけていたあの敵対心は、ジェイクから派生したものなんじゃないかなって私は思うの。

(略)

アラン・カラン ジェイクに関して不運だったのは、彼自身がピーターと張り合わなければならない、と思っていた点だ。「オレはピーター・グラントと同じくらい重要な人間だ」といった感じでね。ある意味、ピーターはとてもまったりした人間なのに、ジェイクの場合、やって来くるとやたらに偉そうな態度をするんだよ。

サム・アイザー ジェイクは史上最高の怒れる男だった。あれは、彼対スワン・ソング、彼対世界という構図だったんだ。でも時にはそういうのも必要なんだよ。デイヴ・エドモンズにはそれが必要だった。なぜなら、彼は基本的に他人に食い物にされていたからね。

ジェイク・リヴィエラ ユニティをはじめとするあの辺の人たちはみんな良い人だったよ。でも彼らには何もできなかった。彼らは手足を縛られた状態でいつもピーターとジミーを待っているんだ。アラン・カランは良い奴だったけれど、無力だった。私はスティッフ・レコードの出身だったしね。あそこでは、もし気に入ったアーティストがいれば、パスウェイ・スタジオに行って録音して、次の日にはレコードを出すことだってできた。でもスワン・ソングでは、デイヴのアルバムが1ヵ月も発売延期になったりするんだ。それも、ジミーがジャケットのデイヴの髪にエアブラシで悪魔の絵柄を追加するためだけのためにね。

ユニティ・マクリーン デイヴに関してピーターはとにかく投げやりだったし、あれは悲劇だった。だから、ジェイクがあれほど腹を立てていたのも私には理解できたわ。

ジェイク・リヴィエラ (略)

私は28歳で、そして世界の頂点に立ち、"自分はちやほやされている"といううぬぼれがあった。そして[ピーターから]電話がかかってきたんだ。(略)

私は、「ああ、こんにちは。グラントさん」と下手に出た。すると、「やあ、ジェイク。オレたちはちょっと話をしないといけないと思ってね」と言ってきた。私は打ち合わせのためにホースランジズに呼び出された。

(略)

ニックはピーターを死ぬほど恐れていたな。アーメットとジェリー・ウェクスラーは良い人たちだったが、ただし、スティーヴ・ウェイスはとにかく信用ならない生き物だった。

(略)

エドモンズを契約から抜け出させるために(略)何でもやる覚悟だった。

 [迎えの]リチャード・コール[は](略)運転手付きのロールスロイスで登場した。私は、「これは脅しだ。でも、ジェットコースターに乗りたいのなら、料金を払わなければならない」と思った。

(略)

ホースランジズにクルマで入って行った時は、「なんだってオレはデイヴ・エドモンズのクソ野郎のためにこんなことをしているんだ?」と思ったね。

(略)

1時間待った頃、ロンが戻ってきて、「彼はまだ準備中だ」と言った。それからさらに1時間半待った私はなんとか冷静でいようとがんばった。

 そして遂に日本のゆかたみたいなのを着たピーターが現れた。140キロ近い体をした飢えた、そして明らかに不愉快そうな男だった。彼は座るなりコカイン入りの大きな茶色の瓶を取り出した。そして、「どうも、ミスター・パンクロックさんよ。お前さんはちょいとばかり自分が賢いと思っているみたいだな、ん?」と言った。私は、「自分はかなり頭が良い方だと思いますけど、でもせいぜいあなたと同程度ですよ、ピーター」と返した。

 彼は、「フィル・カーソンから聞いているが、お前さんは知らないふりをして他人のものを漁る奴だそうだな」と続けた。(略)

 彼が、「オレたちはロックパイルと契約したい」と言ったので私は、「それは良い話だけれど、でも、残念なことにコロンビアは絶対にニック・ロウを契約から解放しないでしょうね」と答えた。ピーターとのやり取りは2時間続いたんだけれど、話しの基本は、「私は若くて、震えています。私は20年前のあなたです」ということだった。私は、「あなたは私のヒーローです。私はスワン・ソングと同じくらいクールなレーベルを作りたいと思っています。デイヴ・エドモンズはバカ野郎で、あなたは面倒な話はご免ですよね。ですからどうか彼のことは私に預けてもらって、あとはご自分のお仕事をやってください」と話した。

 彼は、「お前はオレたち全員を過去の遺物だと思っているのか?」と言った。私は、「いえ、とんでもない。ジミーとロバートはダムドを2回見に来ましたが、あれには敬意以外の何も感じていません。私はただのイーストコウト出身のモッズです。自分には小さなレコード・レーベルがあり、そしてこれはそんな私にとって大きなチャンスなのです」と答えてこう続けた。「もし私たちがこれをやらなかったら、ロックパイルなんてものは存在しなくなりますし、あなたはデイヴと一緒に袋小路にはまることになります」と。私は淡々とこちらの理由を並べていった。すると驚いたことにピーターがこう言ったんだ。「良いだろう。お前が気に入った。お前にそれをやらせてやるよ」と。私たちは握手して、それで私はその場から離れた。あの時の私は興奮のあまりあそこの堀をジャンプして飛び越えることだってできそうな気持ちだったよ。

ユニティ・マクリーン すべては一番上にいる人間から始まるのよ。人に対し攻撃的な態度を取るのが大好きなのはどれも下っ端の連中で、みんな、「そうだ、やるんだ。オレがお前に金を払ってやる。最悪を尽くせ」と命令されるのが好きなのよね。

エド・ビックネル もしも何かの責任者が完全に脳みそのくさった迷惑な奴だった場合、そいつの下にいる全員も結局くさった奴らになってしまうんだ。

(略)

オーブリー・パウエル 私がスワン・ソングに行くと、出迎えたリチャードがこう言うんだ。「おい、おマンコ野郎、一体お前は何が欲しくて来たんだ?」。それで私が、「ロバートとの打ち合わせに来ただけだよ」と答えると彼は、「お前はあの長髪の間抜けと一体何を話したいっていうんだ?」と言ってね。あれはもう、とにかく狂気のエネルギーで満たされた場所だった。

ジェイク・リヴィエラ 彼らがどこからあの連中を掘り出してきたのか、私には見当もつかない。彼らはまるで未開の原人みたいだった。マグネットと呼ばれていた男がいたんだけれど、彼は一言話すたびに汚い言葉を挟むんだよ。(略)

私がちょっとイライラした態度を見せると、「オレに偉そうな口を利くんじゃねえぞ、このおマンコ野郎!」と言われた。私は、「こんなクソみたいな状況はオレには無用だな」と思った。デイヴも自分がそうした状況に囚われの身だと知っていた。ただし、彼はロバート・プラントからどれほど自分が素晴らしいのかという話を聞くのがとにかく好きだったんだ。

(略)

ユニティ・マクリーン ジョニー・ビンドンはフラムのアイルランド人の大家族の生まれで、私が思うに、子どもの頃、かなり酷い扱いを受けたんでしょうね。(略)

[ピーター達は]自分たちが地獄にいるとんでもない生き物の鎖をほどいて世に放ってしまったことを理解していたとは思えない。

(略)

ベンジー・レフェブル ビフォ(=ビンドン)がオフィスに入ってくる時や、彼と一緒にウォーター・ラットに行く時はいつも本当に怖かった。でも、ある程度までは信じられないくらい面白くもあったんだ。

アラン・カラン 彼らが初めて殺しの脅迫を受け取った時がツェッペリンの大きな転換点だったと私は強く思う。(略)

ビンドンのような人間(略)ならもし何かまずい状況になった時でも、自分たちの代わりに銃弾を身体で受け止めてくれるだろう、という考えがあったんだ。

(略)

マリリン・コール ピーターは絶望的なくらい孤独だったわ。(略)そこにビフォが登場したのよ。(略)とにかく頭が切れたし、人を楽しませるのが上手かったのよ。突然自分のイチモツをさらけ出す彼とはまったく別の面もあった。(略)シェイクスピアを暗唱したりしたのよ。しかもとても流暢にね。ただし彼は非常に不快で危険な人間でもあった――精神異常者なのかと思うくらいにね。

(略)

パメラ・デ・バレス  彼らは間違った人間ばかり採用していた。ストーンズがオルタモントでヘルズ・エンジェルスを雇ったみたいにね。

(略)

BP・ファロン ビンドンは酷かった。私たちが存在していたのはああいうことのためじゃなかった

次回に続く。

 

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