AmazonのリコメンドAIは 確実に私の関心事を捕捉しているらしい・・・ その誘惑(?)に気をつけているつもりなのだが いつのまにか棚に本の山ができている。 ということで、夏休みは恒例の「積読(つんどく)」解消。 ・ニ […]

コーヒーブレイク コラム

知識社会のおぞましい正体 〜2045年まで続く憂鬱な世界〜

掲載日-2019年8月 ※記事は当時の掲載日をご確認ください。現在の製品情報や価格、技術についての最新情報ではない可能性があります。ご了承ください。

AmazonのリコメンドAIは
確実に私の関心事を捕捉しているらしい・・・
その誘惑(?)に気をつけているつもりなのだが
いつのまにか棚に本の山ができている。
ということで、夏休みは恒例の「積読(つんどく)」解消。

・ニュータイプの時代(ダイヤモンド社)山口 周 (著)
・繁栄のパラドクス(ハーパーコリンズ・ノンフィクション)クレイトン・M クリステンセン (著)
・上級国民/下級国民 (小学館新書) 橘 玲 (著)
・「空気」を読んでも従わない(岩波ジュニア新書)鴻上尚史 (著)
・わが子を「居心地の悪い場所」に送り出せ(プレジデント社)小笠原 泰 (著)
・直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN(ダイヤモンド社)佐宗 邦威 (著)
・アフターデジタル(日経BP)藤井 保文 (著)、尾原 和啓 (著)

あ、あと漫画、マンガ・・・

・傘寿まり子(10) (KCデラックス) おざわ ゆき (著)
・AIの遺電子RED QUEEN(5)完(少年チャンピオン・コミックス)山田胡瓜 (著)
・服を着るならこんなふうに(9)(KADOKAWA)縞野やえ (著)

AIの遺電子RED QUEENは、
テーマや着想は物凄く面白いのだけれど
ストーリー構造に詰め込みすぎがあったようで
若干わかりにくい点が惜しまれる。次回作に期待。

さて、これらの中で、興味深く読んだものが
橘氏の「上級国民/下級国民」。
著者は「お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方」等の
ファイナンスリテラシーをテーマにした著作で有名だが
近年は、社会批評、人生論的な著書が増えている。

今回はそれを取り上げるのだが
その前に触れておきたい一冊がある。

それは2002年に刊行された。
「ネクスト・ソサエティ」。著者はP・F・ドラッカー。
彼はそこで、来るべき社会とは
知識を中核資源とする「知識社会」であり、
その担い手は「知識労働者」であるとした。

***************************
知識社会としてのネクスト・ソサエティには、三つの特質がある。
第一に、知識は資金よりも容易に移動するがゆえに、
いかなる境界もない社会となる。
第二に、万人に教育の機会が与えられるがゆえに、
上方への移動が自由な社会となる。
第三に、万人が生産手段としての知識を手に入れ、
しかも万人が勝てるわけではないがゆえに、成功と失敗が並存する社会となる。
「ネクスト・ソサエティ 第1章」より
***************************

ドラッカーは2005年に95歳で亡くなっているが、
これらの特質によって、高度に競争的な社会が出現するとした指摘は、
今でこそ慧眼と言えるが、この本の発刊時は、
ちょうどITバブル崩壊の後。
知識社会を象徴するIT企業群の醜態を目の当たりにして
その主張を多少鼻白む雰囲気はあった。
しかし、その後は彼の予言の通りになったと言える。

知識社会で勝ち残る「知識労働者」になるには
自分の知的能力を向上させることが必要。
当時の日本企業は1990年代(バブル崩壊)から始まった
リストラの嵐の最中で、このドラッカーの指南は
従来の年功序列主義に代わる能力・成果主義の導入の
錦の御旗となったはずである。

スキルアップし結果を出せば勝ち組になれるぞ。
これがあるべき実力主義だ。
そう信じて当時のサラリーマン諸氏はこぞって能力開発に走った。
自己啓発ブームのはじまりだ。
様々な経営論、マーケティング論、
大手コンサルの分析手法(ロジカルシンキング等)を
習得するための書籍や有料セミナー、
MBAや中小企業診断士等の資格取得が
持てはやされたことは記憶に新しい。

かく言う私も、一時どっぷり浸かった一人。
そもそも本好きであったので、
年に数百冊読んだこともあった。趣味と実益を兼ねて・・・
当時は電子書籍の普及前で、そうこうしていると
本が部屋を埋め尽くす事態になった。
しかし、それは自分の努力の証(見える成果)であり
自分の知的能力の高さを客観化したようなものだから
まあ、悪い気はしない。俺は頭が良くなっているゾ・・・
明らかに自己満足、思い違いなのだが。

それから10余年。知識社会とやらはどうなったのか。
それが「上級国民/下級国民」という社会分断だと。

2019年4月、東京池袋で起きた交通事故。
87歳の男性が運転する自動車が暴走し
31歳の母親と3歳の娘が死亡した。
運転していた男性は元高級官僚、いわゆるエリートであった。
それが報じられる一方で、なぜか容疑者と呼ばれず逮捕もされない。
一方同じ頃に起きた市営バスの交通事故では
運転手が現行犯逮捕されたことから、
池袋の事故は「上級国民だからにちがいない」
市営バスの事故は「下級国民だから逮捕された」
という言説が飛び交うようになった。

これは、よく調べれば誤解であるのは明白なのだが、
皆が薄々感じている「日本には知らされない国民階級がある」という
分断の疑念を裏打ちする事件として受け止められたのだ。
また史上初5月の10連休については、
「10連休なんて上級国民様の催しでしかないのです。
下級国民は労働奉仕なのです」などという発言もあった。

上級国民と下級国民・・・
それは自虐ネタであり
単なるネットスラングではないのか?

表向きでは日本は階級社会ではない。
しかし「ハイソ」「エリート」や「セレブ」という言葉はある。
「ハイソ」は前時代(貴族)における固定的な格差であったが
同様に上流を意味する「エリート」や「セレブ」は、
努力次第で成り上がれる(クラス移動できる)もの。
だが、「上級国民/下級国民」については
個人の努力ではどうしようもない冷酷な「自然法則」のように
捉えられているのではないか、と。

いったん「下級国民」に落ちてしまえば、
「下級国民」として生き、死んでいくしかない。
幸福な人生を手に入れられるのは「上級国民」だけだ・・・

「下流(社会、老人、中年等)」というワードは以前からあった。
それらは家族論、教育論、福祉政策、
そして多くは自己責任論の文脈で語られる。
「下流化」は当人の意識や知識、努力不足による結果。
運や不測の事態もあるが、注意深く行動すれば
回避できる事故や病気と同様なものだと。
(現実はそんなことはないと思うが・・・)

しかし「上級国民/下級国民」については
当人の意識や努力ではいかようにもならない
「人間としての価値が違う」という論理であるらしい。
そしてその価値観は「正社員対非正規」であったり
「高学歴対低学歴」、「高収入対低収入」といった
対立構図のかたちで現実社会に現れる。

しかしここで疑問がおきる。
教育や雇用、その結果である年収も
本人の希望、選択の結果という場合もあるから
必ずしも不可抗力での「望まなしくない状態」とは言い切れない。
にもかかわず、結果によってのみ問答無用に
その人の人間的価値(絶対的な優劣)が決まるとは、
それは単なる差別ではないか。なんと馬鹿げた理屈だと。

そう、人生での選択を意思や努力で正しく決定できるなら
「下級国民」への転落を回避できるだろう。
しかし、そうではないらしい。

選択の自由は、あらゆる人にあるのだが
選択にあたっては、知能が要求されるだろう。
しかし、優れた知能がすべての人に等しく備わっているのか。
皆が最良の選択をできるのだろうか・・・

「上級国民」と「下級国民」を分ける基準、つまり
「人としての価値」は何が決定するのかというと、それは「知能」。
アタマの良し悪しで人としての格が決まる。
知識社会とは「知能格差社会」のことだったのだ。

いや待ってくれ。それは単に「能力主義」のことではないか。
能力は教育や努力で向上できるものだから
絶対的な格差として固定されるはずがない。
むしろ実力がキチンと評価されるのであれば、
それは公平で歓迎すべきこと、と思うかもしれない。

しかし、ここで残念なお知らせがある。
橘玲氏は、近著「言ってはいけない」等でもこう言及している。
「ひとは幸福になるために生きているけれど、
幸福になるようにデザインされているわけではない。」
「努力は遺伝に勝てない」という受け入れがたい真実があると。

能力(や才能)は、ある人に備わっているもので
ない人に、教育学習や訓練、努力と根性で身に付くものではない。
つまり、知識社会で人生を左右する「知能」について
教育は「ない」を「ある」にするという点では無力に等しい。
遺伝的な低知能は教育で救いきれないのだと。

この知見は最近の行動遺伝学等で述べられていることで
教育や努力を真っ向から否定する(かに見える)論説なので、
(各方面からのバッシング必至なので?)あまり表出しないようだが。

遺伝の能力や才能への影響については
脳科学などと同じように研究途上であり、
今後主張や結論が変わる場合もあろう。
しかしこれが「真実」であるなら、
遺伝的なアタマの良し悪しによって、経済格差と
それによってもたらされる幸福度が決まってしまう。
知識社会とはなんと残酷な世界なのか、という指摘なのだ。

あなたは、馬鹿げた話だと思うだろう。
過去の成功者たちは、学びや努力を惜しまなかったからこそ
豊かな果実を手にしたのだ。努力が無意味なはずがない・・・

公正世界仮説。努力は必ず報われるという考え方(信念)。
それは美しいし、私もそうあって欲しいと思うが
残念ながらそれも真実ではないようだ。

発明家トーマス・エジソンは
「天才とは、1%のひらめきと99%の努力である。」と言った。
これは一般的に努力の重要性として解釈されているようだが
実は、当のエジソンの意図はそうではなかった。

「私は1%のひらめきがなければ99%の努力は無駄になると言ったのだ。
なのに世間は勝手に美談に仕立て上げ、私を努力の人と美化し、
努力の重要性だけを成功の秘訣と勘違いさせている」
http://news-act.com/archives/20749242.html

では教育は役立たずなのか。
そもそも現行の教育制度や根本思想が
望ましい工場労働者の育成に目的があったことを考えると、
もはや有害でしかないだろう。
能力の平準化を目的に全方位で努力を強いた結果
低能力となれば(おそらく大半がそうなる)、
最終的に「低学歴」というレッテルを貼られることになろう。
低学歴は下級国民への片道乗車券である。

そういう意味で、知識社会(知能格差社会)においては、
現行教育は、無能者(=下級国民)製造装置に他ならない。
そして現行教育にスポイルされず能力を開花させた
一握りの「上級国民」との格差をさらに後押しするのだ。

ホリエモンこと堀江貴文氏が、かねてから
「あんな無意味なものはないから、学校に行くな」と言っているが
それはこういった理由なのかと思う。
(現行教育制度下の)学校に行くとバカになる・・・
正確に言うなら「バカ(=工業化社会不適者)という
烙印を押される」のだ。

また穿った見方をすれば、現行教育は
「上級国民」様にとって自分の権益基盤を強化
(搾取対象の供給を)してくれる
ありがたいシステムと解釈できる。
教育改革がなかなか進まない理由は
まさかそんなことではないよな・・・

なお、ここでの教育とは、
「工業化社会適合者の育成システム」という意味であって
全ての教育を否定するものではないので、誤解なきよう。

知識社会とは、高い知能を持つ者が優位な社会。
ただその知能とは「論理・数学的能力」「言語運用能力」と極めて限定的であり、
さらにはそれは生得的(遺伝子)であるがために
勝ち上がる「上級国民」は一部の人間となる。
そしてその他多数は「下級国民」として惨めに生き、
捨てられるように老いて死んでゆくしかない。
これは人類が一番してはいけない「優生思想」ではないのか。
勝者が決まっている競争(出来レース)を強いられる
差別社会ということだ。

橘氏によると、こういった社会分断が招いた現象が
世界各国(先進国)で起きているポピュリズムであるという。
ポピュリズムとは、「下級国民による知識社会抵抗運動」と説明できる。
トランプ現象や英国のEU離脱問題は、まさにそれだと。

これは私の憶測になるが、
川崎市殺傷事件や京都の放火事件も
被害者と容疑者像に着目すると
いずれも知識社会の差別構造から生じた
上級国民へのルサンチマン(憎悪)が動機ではないか。
とすれば、今後も同様の事件が起きうると思え
知識社会のアッパー(個人や組織・団体)には
こういった襲撃行為対策(セキュリティ強化)が必須になるだろう。

しかしそれは見えなかった分断を可視化するようなものだ。
セキュリティ強化は、社会に息苦しい雰囲気を増し
それが排除された者の憎悪をさらに強化するという悪循環になるだろう。
これはまるっきりアパルトヘイトである。

「タイムマシン」という古いSF小説がある。発表は1895年。
作者は、イギリスのH・G・ウェルズ。過去2回映画化もされている。
主人公である科学者は、時間移動装置によって
紀元802701年の未来世界へと行く。
そこは、エロイと呼ぶ単一の人種が幸福に暮らす、平和な桃源郷であった。
しかし、やがてそれは見せかけの楽園であることがわかる。
その世界は、現代(彼自身の時代)の階級制度の結果、
地上で暮らすエロイと、労働階級として地下に追いやられ
まるで野人と化したモーロックの2種に分岐していたのだ。

子供の頃、この小説を読んだが
モーロックの描写が恐ろしかった。
実はモーロックは食人種族となっており
闇夜に紛れてエロイを襲い捕食するのだ・・・(まるで進撃の巨人)。
知識社会の行く末が、この小説のようであれば
まさにディストピアだ。

なお橘氏は「知識社会の終わり」についても触れ、こう書いてる。
知識社会の終わりとは、知識に価値がなくなる時。
テクノロジ(AI)が人間の知能をはるかに超えたとき、
人の知能は価値を失い、知識社会は終りを迎えることになるだろうと。
それは「技術と魔術が区別できない世界」だと。

となると、その時期はもうすでに示されている。
2045年。人工知能が人間を超えるとされるシンギュラリティ。
逆に言うと、それまでの間は知識社会化が進むということで
それがもたらす様々な問題事象の根本解決は
原因がなくならないが故に困難ということになろう。

その困難度は、知識社会化の象徴である
GAFAのような巨大テック企業の解体を想像するとわかりやすい。
例えばそれは「スマホがない世界」である。
スマホがない生活をあなたは想像できるだろうか?
あと30年、世界はこんな感じでヨロヨロと進むらしい。
やれやれ・・・

さて、ここで話を終わってしまうと
絶望感や厭世観だけしか残らないので、
最後に、この知識社会を個人として生き抜くヒントを。

橘氏は二つの例をあとがきに記している。
(1)知識社会へ最適化するための人的資本の形成
(2)評判経済に乗るための評判資本の形成

(1)は、早期に能力を見出して、アスリートの英才教育のような形で
クリエーター、エンジニアやデータサイエンティストを目指すこと。
ある意味正攻法、王道である。
(2)は、テクノロジーのプラットフォームを利用して
商品の目利きや知識翻訳者(例えば先端技術を平易に説明する)になり
その評判をマネタイズすることで経済的自立を成すこと。
その典型例が、SNSのインフルエンサーやユーチューバーである。

(1)は資質の問題があり、(2)には心理的抵抗感(堅気仕事じゃない)もあって
どちらも選べないという人が大半だろうか。
しかし、そうなると残るは下級国民にあてがわれる労働である。
だがそれもいずれAIやロボットに奪われる可能性が高い。

もしくは、知識経済と隔絶された世界に生きる。
アーティストやトップアスリートを目指すのは今後も有効だろう。
幸せ!ボンビーガールというテレビ番組があるが
そこで紹介されるような清貧、「ロハスな生き方」を選ぶ。
または出家、仏道に入るなど・・・いずれもハードルが高そうだ。

かといって、ごまかして逃げ切るには30年はあまりに長く
その先の社会の姿がどうなるかもわからない。
やはり憂鬱なまま話を終わるしかないようである。
やれやれ・・・

執筆者: 藤川

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